政治家は発言を抑制すべきか?4(女性プロレスラーと炎上)

政治家は国民の負託を受けて政治活動するのが職責である以上、国会や市議会外でも意見を求められれば、抑制どころか自己責任覚悟で述べるのは職責でしょう。
8月28日の安倍総理辞任表明により、自民党総裁候補が出揃ったところですが、発言抑制どころかどのような日本にしていきたいのか自己アッピールして国民理解を求めるべきが当然です。
一般人は説明責任のないことには、原則として発言を求められることはありませんが、発言する以上は責任を伴う点は同じです。
政治家と一般私人の違いは、発言の影響力の違いによって慮る利害の範囲が違うので政治家の方がより慎重にする必要があると言う効果の違いでしかないでしょう。
大声で話すときとひそひそ話とでは会話内容に違いがあるのは、多くの人に聞かれて良いことか?周囲に迷惑をかけていないか注意するのと同じ・・自己を守る知恵を働かす範囲の違いです。
女性プロレスラーの言動が炎上して自殺した事件があり、一人一人のチョットしたツイッターでも数になると巨大な影響力を持つので批判意見を遠慮すべきかのような解説を読んだことがあります。
しかし、巨大な視聴者相手に影響力を与える言動をすれば、影響を受ける数に比例したプラスマイナスの反応があるのが当たり前ではないでしょうか?
どういう言動で批判が殺到したのか関心がないので、ニュース表題しか読んでいないので内容不明ですが、世の中には不満タラタラで何かきっかけがあれば、衆を恃んで不満をぶっつけたい有象無象がひしめいているので、気をつけるべきという教訓でもあるでしょうが、多くの人に発信すれば、良い反応も悪しき反応も受信者の数に比例することになります。
内輪の会合で述べた会話が漏れたのと、初めっから数百万以上の視聴者相手に述べるのとでは反応力が違う筈です。
以下には母親の主張は記載されていませんが、大方の流れは紹介されています。
女性プロレスラーの母親?の主張は「テレビ局の振り付けどおりにしていただけなのになんで娘が批判されるのか!」という主張だった記憶です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8618e08e8dd1e2b57b67a4bf61f7c8e922ae5195
映画で悪役(強盗や詐欺師など)を務めたからと言って俳優個人が非難されたり、警察に逮捕されるとなれば、母親の意見も一理ありますが、彼女の場合俳優としての演技ではなく、個人キャラとしての発言である以上(名誉毀損発言すれば個人が被告として訴えられる)個人が責任を負うべき・火の粉の対象になるのは当然です。
軍隊前線の指揮官(突撃隊長)になれば、いやいや就任したのであろうとも、職を引き受けた以上は敵の標的にされるのは当然の報いです。
社会党が別働隊としての社青同を育成し、共産党は民青を育成したように大手メデイアは世論誘導意欲が強いものの直接批判を避けるために自社意見代弁者として火の粉をかぶる鉄砲玉役・・とんがった発言者の演技をできる若者を育てていつでも切れるようにしておく・・外注役(ジャーナリスト)として養成し、使い捨て駒を利用するようになっている現状を表しています。
不自由展の主役になったのも朝日新聞そのものではなく、独立したジャーナリスト津田氏であり朝日新聞は第三者のごとく、これの擁護意見を発表しています。
大手の振り付けの場合、一見とんがった意見のようでいて炎上しないスレスレのとんがった発言を工夫して世論反応を試すものでしょうから、事前にかなり練り込まれた発言になっているので「そこまで言って委員会」などの長寿番組が存在できているのでしょう。
専門家としてあるテーマで出演する場合でも専門家として、自分の属している会議の模様などをどこまで話して良いかの事前の心の準備が必要ですが、いろんな分野で日々生起する新たな現象に対してリアルタイム的な話題(昨日出たばかりのニュースに対する話題など)がテーマになるバラエテイ番組等の出演者にとっては、突発事態に対して以前から個人的主張(一家言)を持っていたとしても、以前から思っていたことをどのように発言するかによってその及ぶ範囲に対するリスクに思いを巡らしたことがないのが普通です。
急遽検討するには時間不足ですし、まして以前から関心を持っていなかったニュースに関して「明日の話題に出ますので準備してください」程度の情報では、ありとあらゆる話題にそつなく応答できる人は稀です。
結果的に明日朝の番組での話題・テーマにすることを決めた局のスタッフが、ABCの3方向で議論するとした場合「誰がA方向の議論で口火を切ると誰がB方向で受ける」」など配役を決めるとすぐに手分けしてその発言内容の吟味・・どこまで踏み込んで発言しても炎上しないかの綿密なチェック体制を前提にして、出演タレントとしては安心して(〇〇がこういう発言をするのでその時に)「このように発言してください」と指示される通りすることで即応性のある番組になっているので、際どいところまで言い切っているように見えても滅多に炎上しないのではないでしょうか?
ところが、映画のように一言一句までの指示がない・・(台本を読み込MUリハーサル時間がないので)骨格以外はアドリブに委ねられる余地が多いので個人的思い込みで言いすぎたりやりすぎるとリスクが大きくなります。
このアドリブの境界で名誉毀損その他の炎上が起きるのでしょう。
女子プロレスラー木村花さんのテレビでの言動が炎上したのは、テレビ局のシナリオが不適切だったのかアドリブが行き過ぎたのかも不明ですが、この協会で起きたことではないでしょうか?
普段テレビ局の振り付けどおりそつなく(アドリブ)発言していた「みのもんた氏」の発言を視聴者が同氏の個性のように誤解して?いただけでなく、みのもんた氏自身が、自分が偉くなったように錯覚したのか、熊本地震の時にテレビ局の振り付け(際どい発言に対するリスク管理)のない個人意見を書いて大恥をかいて?そのままテレビ界から姿を消した(表向きの理由はいろいろあるでしょうが)イメージです。
https://www.asagei.com/excerpt/56988
Posted on 2016年4月21日 17:58

ネットを舐めてた?みのもんたの上から目線な「熊本地震つぶやき」に批判殺到

みのもんたが4月20日に開設した公式ツイッターが大炎上している。初投稿は「早く飲みたいね!打ち上げまであと何時間?」と能天気そのもの。しかし、その後の「俺なんかの役目はね、広めること。今回の震災もね、熊本だけじゃなくて九州全体だから。支援のやり方も甘い。自衛隊きちんとして欲しいね。あと、過去の震災、阪神淡路、もっと遡れば関東大震災の教訓活かせてないでしょ?‥‥みたいにTVではちょっと言いづらいことも、ここでは言いたいね」という2度目のつぶやきで炎上。手が付けられない状況が続いている。
「みのの過去のハラスメントが不問にされたことについて揶揄したり、現地に行かず、言いたい放題の上から目線な態度、自衛隊をバカにしたような発言についても批判が殺到しています」(芸能ライター)

炎上パターンは、日頃テレビ局の言いたい本音を99%体現しながら、ギリギリ批判の手がかりを与えないように細心の注意を払っているので、テレビ発言の誘導方向に不満な視聴者に不満を言わせない・つけ込む隙を見出せない不満な視聴者がいっぱい発生している時に、ちょっと一線を超えた発言をした時にいいがかり的な炎上が起きるようです。
女性プロレスラーの場合何が炎上したのか知りませんが、普段の発言に不満を持つ人がそれだけ多かったということでしょうか。

政治家は発言を抑制すべきか?3(石垣議員発言)

そもそも、許可権を持つ県知事が許可を受ける申請者側・主催者組織のトップを務める組織構造自体がおかしな方式です。
公然たる組織で利益相反の関係など普通はあり得ないのですが、今回は異例すぎて一般の外野では受けとめるのに混乱した面があるでしょう。
私は県知事が実行員会委員長と紹介されていたので、県直営行事の実行委員会かと誤解していたのですが、県主催ではなさそう・独立の主催団体のようですので、代表者が同一の場合利害相反関係が問題になるのが普通ですが、そこは公務員ですので、相応のクリアーをしているのでしょう。
ウイキペデイアに19年の予算が出ていませんが、10年の第1回目の予算は以下の通りです。

第1回トリエンナーレは、2010年開催に向けて準備が進められていたが、2008年秋ごろからのトヨタショックなどにともなう県内の景気後退を受けて、2009年度予算編成では3億1800万円の予算要求のうち4割がカットされる事態となった[7]。2009年3月6日、愛知県議会は総事業費を従来から3割削減した13億8000万円とし、愛知県が8億5000万円、名古屋市が2億8000万円、残りを事業収入で賄うとする議案を可決した[8]。

これだけ巨額予算→公費を出す相手代表者が知事と兼任とはおかしなものではないでしょうか?
仮に不許可処分に対する不服申し立てや、処分取消訴訟をすることになると双方代表者が同じという奇妙な訴訟になるのでしょうか?
実際名古屋市の分担金未払いに対して実行委員会名(原告という意味?)で訴訟提起したと報道されています。
アイチトリエンナーレに対するウイキペデイアの一部引用です。

あいちトリエンナーレ芸術祭実行委員会は5月21日、名古屋市を相手取り3,380万円の支払いを求めて名古屋地裁に提訴した[226]

これが愛知県が不払いであれば、大村知事を相手の大村委員長が訴えることになるのか?というおかしさ?です。
このような不透明な関係があって外野の私などちょっとした合間にちらっとニュースを見ている程度では、知事が不自由展を中止したニュースを見ると権力行使としての中止か主催者の自粛か曖昧なままなんとなく見ていたものでした。
ウイキペデイアでみると実行委員会会長としての中止ですので、主催者側の自発的中止という解釈になるのでしょうか?
名古屋市長に今回の不自由展に対するどのような権力があったのか不明ですが(市の施設を貸しているのかな?)トリエンナーレ全体では、市美術館も会場になっているようですが、トリエンナーレ自体は大規模なイベントで「不自由展」はその一部らしいので市美術館はその会場ではなさそうですが、これもぱっと見た目あるいはニュース程度でははっきりしません。
津田氏が、「権力行使できる立場の政治家」と正確に発言せずに「政治家は表現の自由に対して権力行使できる立場にあり」と逆転した複雑表現をしたのは、河村市長には不自由展会場になっている県施設許可権限がないのを知っていたからあえて如何にも権力行使出来そうなイメージの主張にしたのではないのでしょうか?
政治家には総理大臣も愛知県知事も含まれるから間違いでないと言いだしたら、国民には総理大臣も含まれるから国民は権力行使者に含まれることになり、国民は全て発言抑制すべきことになります。
「総理や知事は政治家だ、だから政治家は権力がある」というのは「逆は真ならず」の典型的まやかし表現です。
政治家には市町村議とその落選中や新規立候補準備中も含めれば膨大な裾野を持っていますが、権力行使できるような職についている政治家は限定されていて「行使する権限のない政治家」の方が多いので、「政治家」というだけで発言を抑制しろというのは論理飛躍があります。
政治家は言論によって政治を動かし、次の選挙での支持を増やしていくのが職業であり、その発言によるマイナス効果もあるが、リスクを恐れず自己責任で発言すべき職業であって、政治家だから発言抑制せよという主張は政治家と権力の違いをすり替える一種のごまかし論法ではないでしょうか?
8月28日の安倍総理の辞任発表に対して、立憲民主党の石垣議員が、ツイッターで難病を抱えているものが総理にする自民党の責任だと批判したことで大問題になり立憲民主党自体が謝罪する事態になりました。
石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
国民の負託を受けて政治活動する以上は、政治意見を必要に応じて発信すべきであって責任を取るのが嫌だからと発言を抑制するくらいなら政治家をやめるべきでしょう。
発言に責任が伴うので責任を負えるように覚悟して発言すべきというだけで、政治家も個人も発言には責任をとなう原則は同じ・・自己責任をとる覚悟で発言すべきと点では同じです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200829/k10012589761000.html

2020年8月29日 0時58分安倍首相 辞任へ
安倍総理大臣の辞任表明をめぐって、宮城選挙区選出で、立憲民主党の石垣のりこ参議院議員は、みずからのツイッターに、「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の選任責任は厳しく問われるべきです」と投稿しました。
その後、SNS上には「病気と闘っている人への侮辱だ」などという批判の書き込みが相次ぎました。
これを受けて、枝野代表が、自身のツイッターで、「申し訳ありません。執行部として不適切であるという認識を伝え、しかるべき対応を求めました」と陳謝し、福山幹事長が石垣氏を呼んで注意したということです。
その後、石垣氏は、同じツイッターで「疾病やそのリスクを抱え、仕事をする人々に対する配慮が足りなかったと反省し、おわびします」と謝罪しました.

石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
抑制の問題ではなく発言には責任がついて回るから自分の主張していることと党の方針と合致しているかの整合性チェックすべきだったという当然の帰結でしょう。
謝罪しようとしまいと、石垣議員は難病等で困っている人をそのような目で日頃見ている人格がわかってしまった事実は消えません。
日頃から何か攻撃材料があったらその機会に攻撃する目標を探しているような鬱屈した気持ちというか、冷ややかな目というものを感じた人が多かったのではないでしょうか?
いわゆる「とんがった」意見を言えば、とんがっている分不快に感じる人が増えます。
津田氏のようなジャーナリストは、全般的支持不要なので、とんがった発言で国民の0、何%の支持層に訴求できる点では熱烈支持層獲得に便利です。
そういう「とんがった」意見の宣伝のために一般的支持のある作品(多分学芸員が選定したのはそういう無難な作品だったのでしょう)を排除して公費投入すべきかは民主国家の大きなテーマです。
少数意見芸術作品排斥されるべきでないということと、「自由市場ではこういう隘路があって生き残れないので国費等で補助すべき」かは別問題です。

政治家は発言を抑制すべきか?2

施設利用の展示会の場合、一般的意味の権力行使者は、施設使用許可権利者=県知事・・県施設利用の場合〜権限委譲によって下位に移転しているでしょうし、下位職員からの積み上げがないと県知事が直に権限行使できないでしょうが・下位職員に対する任命権や決裁等を通じて法的影響力行使権限が保証されていますが、市長には県施設利用許可に対して(間接的にも)なんらの法的権限もありません。
・・だからこそ河村市長は現場で座り込みするしかなかったのです。
市長が県施設に対する権力行使できる立場でないこと明白ですが、いかにも権力があるかのような表現をするには、市長が、不自由展に関する特殊関係(これが外野の人間には不明です)で何らかの「権力行使」できる特別な立場にあったと言う内情に関するイメージが膨らむような表現です。
この重要部分の説明をしない・・どういう立場で関与していたかを曖昧にしたまま・・「よくわからないが権力構造に絡んでいるのか?」というイメージだけ増幅する発言の疑いがあります。
昨年の騒動時には、私も河村氏氏が不自由展にどのような関与しているか不明であるが県の権力構造関係者のようなイメージで読んでいましたが、その気で読んでみると
報道されているのは「知事が委員長で河村氏が実行員会委員長代行」というだけで、内部的発言力は別として許認可等の外部権力行使できる人としては何の権力も有していないことに気づいた次第です。
実行委員会の仕組みの解説がないまま、

「表現の自由に対して権力行使できる立場」

と表現されているので、そもそも実行委員会が県の組織なのか県組織内でどういう権力を持っていたかすぐ理解できる人がどの程度いたかです。
内部関係の権力関係では、実行委員会がトップでしょうが、芸術監督という中間管理職をおく以上は、具体的演出等については特段の問題が生じない限り芸術監督におおむね委ねるべきはその通りでしょう。
〇〇製作委員会の映画なども、映画の具体的演出内容は映画監督に委ねて細かく口出ししないのと同じです。
しかし本件では実行員会からのクレーム・内部論争ではなく、公費で補助すべき対象か否か・・外部からの批判論争ですので、ここで内部論争の力関係を持ち出しても意味がないはずです。
河村氏が実行員会員として委員会で発言しているのではなく、(実行委員会と芸術監督との対立ではなく)外部の一般政治家として発言しているように見えます。
権力構造の視点で分解してみると、市場相場より安い施設使用許可権(補助決定)・権力行為は、施設管理者が持つものであって実行員会は、施設利用者・主催側の内部組織の頂点に位置する企画・実行委員会のようなもので、具体的実行は監督に委ね報告を聞いて承認する程度の役回りのようです。
内部権限は実行員会の実力次第でどこまで具体的関与するかは決まってくるのでしょうが、何れにせよ施設利用の許可を求める側の内部組織ですから、公的補助を決める政治権力が実行員会にあるわけではありません。
ちなみに、「権力」というコトバも社内権力闘争などいろんな組織内力学をいう場合があります。
個人的感想ですが、私が素人的に知っている感じの意味・・権力の「権」とは「仮の」という意味で理解しています。
(素人の思い込みですが、権現様・・この世に仮に姿を現した神様、権大納言、権帥、権大僧正等々は正式官位でない、仮の地位を表す・今でいえば部課長待遇の〇〇のような官名に使われてきたものと理解しています。)
近代産業革命に並行して発達した物理学の力学概念に便乗して「仮に力学の関係に例えれば」・という意味で政治学で「力」関係に応用して「仮に」表現することになったに過ぎず、どこの分野に応用しても本来間違いではありません。
しかし、津田氏の発言は、不自由展に対する河村氏の批判論に対する反論として

「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」

と反論した文脈で理解すべきです。
上記は内部発言力の意味ではなく、一見して外部からの政治権力介入を意味していることになりそうです。
しかも「政治家は・・」という無限定な表現でありながらも「表現の自由に対して権力を行使できる立場であり」という表現から、表現の自由に権力行使できる政治家限定の意味も含んでいます。
正確に言えば「・・権力行使できる政治家は・・」というべきところ「政治家であれば全員発言抑制すべき」のような逆張りの表現をしたところが味噌です。
「逆は必ずしも真ならず」と言いますので、政治家であれば権力行使できることにはならないので、訴訟での認定では、「良く読めば分かるはず」となるのでしょうが、ちらっと読む程度の大多数の人にとっては、政治家はこういう発言をしてはいけないのか?という印象を受けるのが普通でしょう。
争点は具体的な「不自由展」に対する論争なのに、「表現自由」という一般論に広げて焦点をボカし、しかも権力を持つ人だけに対する批判を政治家一般に広げた表現にして、いかにも河村氏が表現の自由に対する権力行使しているかのような印象を広める効果を狙ったように見えます。
河村氏が表現の自由展に対してどのような権力も有していないことを知っていたから「・・権力を持つ河村氏という正確な表現をしなかったのではないでしょうか?
組織内権力関係・・ついでに実行委員会な役割に戻しますと、展示方向などを決める委員会(その下に芸術監督という現場監督みたいなものがあるものの)実行委員会と名がつけば、展示会の運営実行企画組織であり許認可を受ける申請側の組織位置付けが普通でしょう。
この場合の権力行使者は施設管理者であり、施設許可権限行使→許可取り消し若しくは特定展示品に限っての使用許可取り消しというものでしょう。
これをやったのが東京都美術館の権限行使であり、今回は県知事(条例等で美術館館長等に権限委譲?)が許可権者を兼ねているので、(これの行使をすると県が許可していたこと自体が問題になるので)これをせずに借りる側の委員長として委員長専決・中断して世論の動きを見ようとしたようです。

あいちトリエンナーレ不自由展11(政治家は発言を抑制すべきか?1)

ちなみに不自由展に対するウイキペデイア記事によれば、
河村の設置する検証委員会に対して、大村は「展示の中身を検証して、けしからんから(市の負担金を)出さないというなら、検閲委員会になる」と反発した
というのであり、検証委員会設置でさえ検閲になるといっていたはずですが、日本第一党の展示に対しては、県施設許可決定に関する権力行使できる地位にある筈の大村知事が内容に立ち入って判断して公言しています。
これが権力行使者の抑制的な行動でしょうか?
右翼系に対しては遠慮なく権力行使できると言わんかのような発言です。
津田芸術監督のいう

「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」

という意見について見ておきます。
「政治家は表現の自由に対して権力を行使できる立場」とは何かですが、権力行使権を持つことと、影響力の有無とは違います。
主権在民というように、一般国民も権力があると言えば言えるのでしょうが、一般的に権力者とは言いません。
主権在民とは、国民支持が国家権力の源泉になるという程度の比喩にすぎず、一般国民を権力行使者と思う人は誰もいないでしょう。
権力という意味自体はっきりしませんが、普通は行政権力・強制力を行使できる人を「権力行使できる人」というべきでしょうから、政治家の中でも行政権力行使できる人は限定されます。
行政府の長、自治体の長がこれに当たるでしょうが、政治家一般がこういう権力行使できることはありません。
だから政治家は・・と政治家一般がこういう権力行使できる立場にあるかのような言い回しは、誤解を招く表現です。
政治家は一般国民より権力者に対する影響力が強い場合がありますが、影響力は一般国民も主権者として権力行使に影響力あるのは当然ですし、他方政治家と言っても野党も入れば地方議員もある上に落選中でも政治家ですので幅が広すぎて、政治家=権力行使できる立場とは言えません。
政治家というだけでは権力行使する立場でなく、権力に影響力のある一般国民より一定程度権力に近い程度の差です。
権力行使できる政治家であれば発言を抑制すべきと言うのでれば、その権力行使に関する発言は抑制的出るべきでしょうが、政治家であれば「発言を抑制すべき」というのでは自己に対する批判発言を封じるかのような発言です。
8月31日に紹介したウイキペデイアの記事をもう一度引用します。

津田の芸術監督就任を批判したオペラ歌手の畠山茂に対して、津田はツイッターで以下の反論を行っている[42]。
こんな僕ですが一応文化庁主催のメディア芸術祭で新人賞なるものをいただいた経験もありまして、その審査した人たちや、芸術監督を選出したあいちトリエンナーレの有識者部会(アート業界の重鎮多し)をみんな敵に回す発言になりますけど、大丈夫ですかw

批判者に対してないように対する反論でなく「そんなこと言って良いのか!」というイメージの記事です。
名古屋市長の河村氏に対するものであるから、市長としての権力行使できる人だというのでしょうが、一般論でなく、「不自由展」論争に限定しての発言とするならば不自由展限定で河村氏がどのような権力行使できる立場にあったかの具体論が必要です。
「政治家は・・・」と言う大風呂敷を広げて一般人に対する「政治家って発言が慎重なことが多いよね!「権力行為は抑制的にすべき」だよね1という常識論に引き寄せて議論の方向をすり替える効果を狙った表現です。
政治家は発言責任を問われるので影響の及ぶ範囲を見極めて、自己責任を取れる範囲内に止める慎重発言しないで言いたい思いき発言していると過去の発言と矛盾するリスクなど回避のために慎重な発言をする→リスク判断を経る作業が多いのは内部・自己保身問題であって、論争相手に要求される作業ではありません。
発言している政治家のガードが甘ければ、論争相手は発言者の隙を突いて論破すれば良いことです。
内容に反論しないで頭ごなしに「政治家がそんなこと言って良いのか!」という批判はクレーマーが、営業マンに対して「客に向かってそんなことと言って良いのか?」とクレーム内容と違った次元の攻撃をするのとどこか似ています。
ただし津田氏は
① 論争相手は河村市長であり単語的には政治家一般になっているがそこでの対象は河村氏に決まっている彼は市長であり行政権力を行使できる立場にあった
という弁解が成り立ちそうです。
しかし市長であっても論争テーマである「不自由展」にどのような権力を行使できるかの説明がありません。

②「表現の自由に対して権力行使できる立場」

と修飾語をかましているので、かなりの人が表現の自由に権力行使できるなら「抑制的であるべき」だな!と納得してしまいそうな表現方法にしています。
ところで、不自由展に関して外野から想定できる権力行使は、施設管理権に基づく使用許可権限と、文化庁の補助金交付権限くらいです。
名古屋市の施設利用がない限り名古屋市長であることと不自由展に関する権力行使とは関係ないことです。
河村氏は、市長の立場で自由展実行委員会委員長代行として参加しているだけで県施設利用許可に関わる・展覧会に対する権力行使できる立場になかったのではないでしょうか?

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離10(行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められるか?)

芸術監督津田大介氏に関するウイキペデイア記載経歴引用続きです。

2010年代
2010年 – 、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)フェロー。
2010年 – 、特定非営利活動法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパンフェロー( – 2013年)。
2010年、上智大学文学部新聞学科非常勤講師。
2010年 – 、スマイキー株式会社(旧ピーエムアール) 顧問。
2011年、武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。
2011年9月、有料メールマガジン『メディアの現場』の配信を開始。以降、毎週水曜日発行。
2012年4月、株式会社ゲンロン取締役( – 2015年3月)、関西大学総合情報学部特任教授(任期:2012年4月 – 2013年3月)に就任。「ネットジャーナリズム論」「ネットジャーナリズム実習」を担当。
以下中略
2015年 – 朝日新聞社論壇委員
2017年 – 早稲田大学文学学術院教授(任期付)[12][13]
2017年8月1日 – あいちトリエンナーレ2019の芸術監督に就任[1

10年代に入るとどういう実績によるのかメデイア関連の仕事が増えて15年に朝日新聞論壇委員になって17年にアイチトリエンナーレ芸術監督就任の経歴です。
以上によると彼が芸術家=創作の専門家ではないばかりか、芸術専門家としての評論活動等の実績もないし、作品展覧会等の主催経歴もなさそうです。
10年台に入って朝日新聞やあちこちの大学で任期付きとはいえ招聘されているのは、彼の情報発信力が評価されたからではないかと推察されますが、それにしても芸術監督になるベき経歴としては異色で、その異色性(政治的発言の方向性も十分に知られていたでしょう)を発揮してもらうはっきりした意図で芸術監督に選任したと想定されます。
津田大介氏をジャーナリストと紹介していますので、彼の基本職業はジャーナリストと理解すべきでしょうが、ジャーナリストが芸術監督になったことになりますが、これまで見た経歴では、芸術系専門を生かしてジャーナリストになったのではなく、メデイア系活躍の経歴しかなさそうです。
こういう人でも芸術監督になってさえいれば、素人は口出しするな!と言えるのでしょうか?
昨日引用した大村知事による委嘱時の記事の再引用です。
どこかの大学の名誉学位を貰った政治家が政治発言して都合が悪くなると、学問の自由を守れ!と政治発言が免責されるかのような主張です。

「実行委員会の大村秀章会長(愛知県知事)は津田に「とんがった芸術祭にしたい」と委嘱状を渡した」

というのですから、彼の政治方向性を知悉した上で「とんがった」企画を期待していたことになります。
「とんがった」企画期待とはジャーナリストとして日頃表現しているとんがった主張を遠慮なく出して下さいという意味ではないでしょうか?
政治色満々の展覧会を(政治任用?)の(芸術家でない)芸術監督がプロ学芸員の提案を作品を次ぐ継と拒否し自己の好みで捨選択し開催しておきながら、いざ政治問題になると芸術展への政治の介入を許さないかのような立場を代表するのはなんとなく(自分自身が芸術家でないのに芸術展示作品取捨選択の監督をしているのとどのように整合するのか)不思議な主張です。
ウイキペデイア記載の津田大介芸術監督の発言と朝日の主張を再引用します。

芸術監督の津田大介は「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」と批判し[71]、また、津田を論説委員として擁する朝日新聞も「行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。」と批判を行った[

芸術監督というといかにも専門家のようですが、津田氏の経歴を見たように、ジャーナリストというだけで何の専門家かも不明で、はっきりしていることは朝日新聞の政治傾向と親和性のあるジャーナリストらしいというだけです。
芸術監督として選べばその人の政治姿勢そのママで良い、外野(行政や世論)は意見を言うべきでないというかのようです。
そこまでいうと芸術監督のレベル保証はどうなっているのかが気になりませんか?
津田氏の経歴によると芸術そのものに関する経歴がなく、芸術を政治利用した発言があるかも知れない程度のイメージしか伝わってきません。
政治組織内部で部下の一人を芸術監督すれば良いのか?
早速津田芸術監督や朝日新聞の主張を逆手に取った施設利用が行われたようです。
トリエンナーレ・不自由展に関するウイキペデイアの記事内にある参考事例に飛んでみると以下の通りです。
「不」自由展に対するアンチテーマとして「自由展」を開催しています。

あいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」
2019年(令和元年)10月27日に愛知県名古屋市の愛知県女性総合センター(ウィルあいち)で開催された芸術祭である。主催は政治団体の日本第一党の愛知県本部。
経緯[編集]
主催側の主張では、「国民からの猛反発を受けて一部が展示中止され、未だに責任の所在や事実の検証、展示再開是非で迷走を続けるあいちトリエンナーレ2019に対抗する日本人のための芸術祭として企画・開催された」[1]芸術祭である。 あいちトリエンナーレが愛知県や名古屋市などからの税金、県や複数企業からの後援を受けたうえで開催されていたのに対し、こちらは全て個人個人からの資金により開催され、県や企業からの後援を一切受けていない。また、一時停止後に再開されたあいちトリエンナーレ2019では撮影などが禁止されていたが、こちらでは参加者の顔を映さない限りは撮影や中継はほぼ可能としていた。
内容[編集]
桜井誠によるライダイハンについての講演と、同氏制作の芸術作品「ベトナムの子供」の展示、「不自由」と大きく書かれたバッグ、ベトナム戦争時の韓国軍兵士の蛮行を表現する紙粘土製「ライダイハン像」[3]、「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタなどが展示された[4]。
芸術監督は長尾旭日本第一党副党首、会場責任者は谷口博史日本第一党愛知県本部長[1]
愛知県の大村知事は、「内容からしてヘイトに当たると言わざるを得ない。(内容を確認した時点で)中止を指示すべきだった」と述べた[5]。主催者側代表の桜井は「私はチマチョゴリを着てライダイハンの説明をしただけで、ヘイトなんて全くやっていない」「かるたは売っている物。それがヘイトというのは検閲じゃないですか」と主張した[9]。

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