法人の成立要件

法による定義が普及したのは、人によって単語の意味が違うと困るからです。
自然人の場合、外見だけで子供か大人かわかりますが、法人はちょっとした外見からでは一人前の集団かどうか不明ですので、内部組織や資本などの内部がしっかりしたものしか法人格を認めないということで信用を確保するようになっています。
人間の場合、子供か大人くらいはわかるがその人の人格や能力は不明なので大雑把に知るには学歴が大きな指標になりますし、どこそこの従業員といえばその信用になるのですが、どこの所属しているかではなく、個々人の具体的能力を公に示すには運転免許その他各種技能資格が発達していきます。
医師や弁護士のようにその資格だけで生きていければ、どの集団に所属しているかにこだわる必要が低くなります。
今や、法人の場合も全て法で決められた基準に合致したものだけが、証券会社や銀行などの特定の名称を名乗れる時代です。
「人」は生まれながらにして・・生まれたこと自体で直ちに平等に権利主体になれるのですが、人と同じように何かの権利主体になれるのは、法で決められた基準に合致する組織にしたうえで設立手続(登記)した集団だけと宣言したのが民法です。
人は能力や家柄身分に関わらず等しく権利能力の主体ですが、法人の場合、公益法人や医療法人あるいは財団法人等々法人の仕組みによって多種多様ですし、登記して初めて法人として生まれる・成立するのですが、人は生まれたこと自体で人の資格がある・・出生届しなくとも人です。
財産法では登記手続きを了していることは一般的に対抗要件ですが、法人に関しては成立要件です。
会社法の会社は昔から登記が成立要件でしたが、民法の公益法人は主務官庁の許可によって成立する方法でした。
公益法人3法という法律成立・施行後は一般社団〜一般財団は許可制でなくなったので会社法同様に登記によって成立することになりました。

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律

(平成十八年法律第四十八号)
第五款 一般社団法人の成立
第二十二条 一般社団法人は、その主たる事務所の所在地において設立の登記をすることによって成立する。

公益法人は、この一般社団・財団が一定の後継事業の基準に合致した場合に公益法人としての特典が得られる仕組みですので、結局は特別法によって設立される法人以外の一般的民間団体は、登記が成立要件になっていると見るべきでしょう。
基本的理解として言えることは政府の許可を得て成立する法人は、政府や国会の厳格な審査によって法人格が認められたものであるが、法人の有益性が強調された商業分野では設立自由化論が盛んになって、会社設立が盛んになったのですが、民間が一定の基準さえクリアーすれば自由に法人を作れるようになると、一般には基準をクリアーした法人かどうか不明なので登記した時点で法人と認めることにしたということだったのでしょう。
公益目的の場合許可主義・がちがちの監督を緩めてもっと自由化しようとなったので、公益法人も許可主義をやめて(何が公益かの基準が不明朗だったのを詳細なガイダンス等で透明化した?)いわゆる準則主義に変えたようです。
その代わり登記が成立要件になったということでしょうか。
ロボット同様の人造人間?なので法・国民合意の範囲内でどのような種類・能力(性能?)のある法人を作るのも勝手ということでしょうか?
ロボットが勝手に動き回ると困るので?法人は設立目的の範囲内でしか行為能力がないという議論もあります。
人間の場合、家業を継がせる目的で子供を産んで育てても子供は親が産んでくれた目的に従う義務がありませんが・・。
法人は法によって権利能力を与えられているので、法によってその権利能力を制限することも可能です(民法34条)。
八幡製鐵所最高裁判例があります。
八幡製鐵所事件のウイキペデイアの記事からです。

(最高裁判所大法廷判決昭和45年6月24日 民集24巻6号625頁/判時596号3頁)
政治献金は会社の権利能力の範囲内である。
会社は定款所定の目的の範囲内において権利能力を有する、との前提に立ち、目的の範囲内の行為とは定款に明示された目的に限らず、その目的遂行のために直接または間接に必要な行為すべてを含む。
会社も自然人同様、社会の構成単位であり、社会的作用を負担せざるを得ない。その負担は企業の円滑な発展に効果があり、間接的ではあるが、(定款所定の)目的遂行上必要といえる。
政治献金も同様で、政党政治の健全な発展に協力することは社会的実在たる会社にとっては当然の行為として期待される。
会社の政治献金は参政権違反ではない
会社は自然人同様、納税者たる立場において政治的意見を表明することを禁止する理由はない。
憲法第三章「国民の権利及び義務」は性質上可能な限り内国の法人にも適用すべきであり、政治的行為の自由もまた同様である。

内部規律・組織が法人となるにふさわしい内実を持っていても、設立登記をしていない集団は、権利能力なき社団とされていますし、逆に形式的に法人となる設立基準に合致した書類を揃えて登記したとしても、実質的に個人組織と変わりがないときには、法人格が否認されることがあります。
これが法人格否認の法理です。

法人の成立と事業目的の必須性

法人実在説等の紹介から、だいぶ話題が逸れてましたが、March 2, 2020 「法人3(自然村と法律村)」の続きになります。
法人の場合、人間のように生まれたことだけで権利能力があるというのではなく、法が特に認めてある集団に人格を認めるには、社会的有用性があるからそういう制度の必要性があり、法人格を認めようとなったものです。
ですから無目的な法人の設立はない(社会的有用な仕事をする目的もないのに法人格を認めない)ので、法人の設立に際して法人の目的を決めるのが必須要件です。
人間のように生まれてから「俺、何のために生まれてきたのか?」と自問する余地(悩みがなくて良い?)がありません。
法人は無目的に成立することがないので、いわば行為能力と権利能力は合体しています。
法人という抽象的なものはなく、10数年ほど前までは大きく分ければ公益法人と営利法人の二種類でしたが、公益法人3法ができて以来営利系の株式会社とその他の会社があり、株式会社の中でも証券や金融系、製造系サービス系の会社などに別れていきます。
公益法人というジャンルとの中間に一般社団・財団法人があり今は3分類時代というべきでしょうか?
何れにせよ法人になるには当初lから何々法人という法人としてやるべき目的別ジャンルが決まっている仕組みです。
人の場合には、歌舞伎役者の後継と決まっているような人もいますが、それは事実上そうなることが多いというだけであって、本人が別のことをしたければ何をしようと勝手です。
目的が決まるだけではなく目的に応じた運営規則も決まっています。
会社法という法規制に合致して設立されると会社といい、株式会社と言うためにはその方式に従った内部組織や設立手続きを経て株式会社と言えるのですが、その設立目的を定めないと法人設立ができません。
法人設立の場合「法人の目的」が必要的記載事項になっています。

http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.htmlによれば、公益法人3法成立前の民法旧規定(法人設立の基本法)は以下の通りでした。

(定款)
第三十七条 社団法人を設立しようとする者は、定款を作成し、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  目的
二  名称
三  事務所の所在地
四  資産に関する規定
五  理事の任免に関する規定
六  社員の資格の得喪に関する規定

これが各法人ごとの法律に基本的に承継されています。
例えば以下の通りです。

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律
(定款の作成)
第十条 一般社団法人を設立するには、その社員になろうとする者(以下「設立時社員」という。)が、共同して定款を作成し、その全員がこれに署名し、又は記名押印しなければならない。
第十一条 一般社団法人の定款には、次に掲げる事項を記載し、又は記録しなければならない。
一 目的
二 名称
三 主たる事務所の所在地
四 設立時社員の氏名又は名称及び住所
五 社員の資格の得喪に関する規定
六 公告方法
七 事業年度

すなわち無目的の法人設立は認められない点が、無目的に生まれてきても良い人間(自然人)との違いです。
法人は成立前にやるべき仕事や名称を決める必要がありますが、人間は生まれてから親が名前をつけるし、いつになったらどんな仕事するかもわかりません。
その中でも銀行業を営むには銀行に特化した規則に則った規則を作りその法律による業法の免許を得て初めて銀行業を行えるのであって、「法人」という抽象的なモノを設立すれば銀行業を行えるものではありません。
証券会社、日本航空なども皆同じです。
人といえば誰でもわかるような気がする人が多いでしょうが、人の終始・出生により始まり死亡によって終わるのですが、何をもって出生というかは実は微妙なので判例学説で細かく決まっています。(一部露出説、全部露出説)
それでも人情に反する場合に対応するために相続限定ですが、のちに生まれた場合に限り、胎児の段階で「生まれたものとみなす」規定が置かれています。
このみなし規定も解釈が分かれて、停止条件説と解除条件説があります。
この辺については、どういう実務上の違いが起きるかは大分前に解説したことがあります。
コラム内検索してみると1/20/02「胎児の権利能力(民法11)3」前後で7〜8回連載していることが分かりました。
初めの頃は一回のコラムが短かったので番号順に通して読んでもらう必要がありそうです。
住所とか家といってもどういう要件があると家というかも住所というかも民法で決まって行きました。
人によって単語の意味が違うと困るからです。
ただし、いろんな資格ができてくるとそれぞれの法目的に応じた住所や建物や言葉の定義ができてきます。
そこで最近では法律ごとに「この法律ではこれこれを〇〇という」という定義規定を設ける法律が増えてきました。
住所の場合も、選挙人名簿を作るとか国民健康保険や税金等の法技術上の必要から、住民票記載の住所をさしあたり基準にしますが、最終的には民法の定める住所であるか否かで決めることになっています。
訴訟などでは、登記上の住所とか住民票上の住所と本当の住所とを併記して書くことがしょっちゅうあります。(離婚事件ではしょっちゅうです)
10年以上前かな?起きた有名な事例では当時の長野県知事が、木曽地方に住民票を移していた点が問題になり、訴訟結果そこには住所がないという結果になり耳目を騒がしましたし、武富士事件では香港だったかに移転していた住所が正しいかで争って、武富士側(正式には創業者の息子個人)が勝って2000億円前後の税の還付を受けた事件がありました。
建物も建築基準法で規制すべき建物と民法でいう建物とは違うので、(一定規模以下の建物は基準法の規制外です)少しズレがあります。
ですから建築準法で建物扱いしないからとか、違法に建てたものだから建物でないということはできません。
土地明け渡し事件では、敷地内にある小屋類が建物かどうかをいつも判断して訴訟しています。
建物であれば、「土地明け渡し」だけの主文で建物収去の主文がない場合、取り壊しの執行できず、もう一度判決の取り直しになってしまうからです。
昨年秋に終わった事件では昭和40年頃に建てた10数坪の貸家に隣接して借家人が建てた鉄骨2階建ての建物が、元の古家に付合したもので2つ合わせて一個の建物かどうかで悩んだ事件でした。
独立の建物とすれば土地明け渡し判決だけでなく、建物収去を認める判決主文プラス収去命令がないと建物収去の間接強制できませんが、単純な建て増しでなくお互い外壁もあるが、屋根だけ繋いであって鉄骨新築にはトイレや台所もない水も出ないし建物の効用から見て独立性がないので一個の建物とすれば、大家所有ですから自分のものを相手に壊せと主張できません。
相手は自分のものとして固定資産税を払ってきたとしても、この際の基準にはなりません。

豪華クルーズ船対応批判11

検査結果判明後、陽性陰性別の客室変更は、空(から)の別の船に移動するならば簡単ですが、同じ船内移動の場合、例えば、仮に3分の1しか客室は利用されておらず3分の2は空室であった場合、陽性陰性が半々であったとすれば、陽性用の部屋と陰性用の部屋(多分フロワー別?)各3分の1ずつ用意すれば簡単そうですが、実はビルで言えば4階だけ全室空き部屋というものでなく飛び飛びに部屋が空いているのが普通でしょうし、豪華客船=高齢夫婦での乗船が多い特性があって、夫婦で陽性陰性が分かれると単純計算通り行きません。
(乗員を含めた数とすれば、乗員は、各人個室ではないのが普通ですので、これを陽性と陰性に2分すると部屋数2倍必要になります。
もともと3750名→ほぼ満室だったとすれば、以上は机上の空論でしかなく、検査室確保受付の机や検査器具置場、作業机部屋確保からして大変な作業でしょうから、検疫のために乗り込んだ大量職員の休憩場所も必要で、検査後結果出るまで別室隔離する部屋をすぐに用意できないことは想定していたのではないでしょうか?
検体採取後検査機関の施設へ検体輸送しその結果が出るまでの5〜6時間(1検体ごと発送できないので一定数まとめて運ぶのでしょう)あるいは翌日まで、乗客は検査するまでいた船室に戻って待機する仕組みだったと思われます。
検査の番が来るまでもともと同室者は相部屋の人(他人と同室は滅多にないでしょうが)が陽性か陰性か知らないで同室のままで検査順番待ちしていたのですから、
検査後5〜6時間あるいは翌日まで元の部屋で夫婦で待機しても、検査順番が翌日になった場合と差がなく、違和感ない人がほとんどでしょう。
むしろ検体採取と同時に夫婦引き離される方が(夫婦一緒の荷物を2分割するのは難しいし)無理があるように思えます。
この程度の時間誤差は、米国で1ヶ月経過後同じ問題が起きた時に米国では入港させるかどうかさえ決定できず、2〜3日沖合停泊させていたことを考えると検査した結果待ち時間程度は誤差の問題でしょう。
日本でも陽性判明すると(強制入院可能ですぐに下船=入国させて)専用バスで指定病院に搬送していたようです。
そうとすればゾーン分けがないというのは、結果判明前の残留者のゾーン分けの事だったのでしょう。
政府は当然分離努力をしてきたと思いますが、約4000人の食事の供給作業や清掃を休めない・・食事準備と片付け・清掃等の船内要員自体感染者か不明の状況で限られた空間と人材活用の中で短期間の作業工程がどうであったか、手際よかったかどうかでしょう。
米国の場合どのように手際よく分離されていたかの紹介記事が一切出ません。
数少ない専門家で交代要員として派遣されたとすれば、日本全員が未経験作業であるから少しでも多くの参加を得て経験してもらい有益な情報・知見を得る期待で参加を募ったのでしょう。
午前中に乗船して午後には下船しているのですから作業戦力としてどの程度役に立ったか不明ですから・若手に経験させるのは有益・・後日意見を求める予定があったのでしょう。
国家緊急事態下の緊急作業に参加して実務経験をすれば、人材が育って良いのですが、現場で気付いた事を内部提言しないで外部に先に批判意見を発表するのは招待うけた参加者としてのルール違反の印象が強くなります。
批判を受けたからか?日本語の動画を即削除して外国人向け英語での記者会見をしてしまう神経が不思議です。

日本外国特派員協会主催 岩田健太郎氏(神戸大学教授)記者会見 ―「ダイヤモンド・プリンセス号に乗船して」

日本外国特派員協会主催 岩田健太郎氏(神戸大学教授)記者会見 ―「ダイヤモンド・プリンセス号に乗船して」 2020.2.20
全編動画 ※会見は英語で行われました。(55分45秒以降に一部日本語)

記事では記者会見の要旨が出ていません。
朝日新聞が慰安婦騒動では、日本版では訂正記事をしたが海外向けに停止記事だったか謝罪文だったかを出さないと報じらていましたが、岩田氏も日本語のツイッターは削除したが海外向けに記者会見で日本人の多くに理解できない英語で発表していたようです。
現場経験すれば勉強になり色んな意見を思いつく点は彼に限らないと思いますが、自分が気がついたらそれをのちの検討会などで意見発表するのが普通です。
こういうチャンスを与えてくれた一緒に仕事をした仲間内での意見交換をする事もなく、下船直後にツイッターで批判意見を流し、20日に外国人特派員記者会見でほぼ英語で意見を述べた・外国人相手だから当然という主張でしょうが・・結局ツイッターの削除は英語に堪能でない日本人にとっては何を言ってるのか不明になったままということでしょうか?
内容が文字では出ていないのですが、多分削除されたツイッターと同意見だったのでしょう。
NHKその他報道が、日本のクルーズ船対応が海外で評判が悪いというだけで内容のない記事が多いのは、この特派員が打電した受け売り・キャッチボールではないかの疑いで書いています。
事態が落ち着いてから緊急時の緊急政策の点検検証するのは合理的ですが、今まさに緊急処理に着手している時に日本メデイアがどういう批判があるかすら書けない・根拠なく外国で批判があるというキャンペインを張る必要があるのでしょうか?
緊急処理は即時やるべきことで議論している場合ではなく、その瞬間は現場処理部門の実行に一任し実行妨害すべきではありません。
まして国外批判あるいは専門家批判というもののこれといった対案がなくて合理的批判にさえなっていないとすればなおさらです。
大手メデイアが「国外でどういう意見がある」と言えば根拠不要というのでは困ります。
国内で支持されない主張を通すために日本のNGOが国際委員会で日本批判をして置いて、国連委員会でもこんな問題になっている式の政府批判運動のあり方をこのコラムで批判したことがありますが、今回はたまたま同じ企業所属のクルーズ船(規模もほぼ同じかな?)内での感染が起きたことによって米国で特に日本と違った優れた対応をしたわけでないことから、国際世論というものの正体が直ちに暴かれたようです。
日本大手メデイアが提携しているニューヨークタイムズなどに「日本でこういう批判がある」と通報すると同社は日本情報については提携している日本大手メデイアのいう通り信用してそのまま流す運用になっていたような関係が、朝日新聞慰安婦報道が問題になった頃に何かの報道で見た記憶です。
(正確な記憶ないので何で見たかも不明、内容自体も記憶違いかも不明ですので、正確には検証委員会報告書等当時の報道に直接当たってください)
その伝で言えば今回もそうだったのかもしれません。
自社の言いたいことを提携している国外メデイアとキャッチボールして国外でこう言っていると言う式の日本批判は実は自分が言っているというのと同じです。
事件等の説明で「皆が言っている」というのをよく聞くことがありますが、自分が皆に言いふらしていると、聞かされた方はあえて「あんた間違っているよ!」と言わないのが普通で、「そうなの大変ね」とか「ひどい人ね!合い槌を打つと、あの人もこの人もこう言ってたという人がいます。
こういう人とうっかり付き合うと、自分がAの悪口を言っていたのに、よそではあの人も言ってたとすり替えられる危険があって怖い人です。

政治家と専門家の役割相違2

サンフランシスコ等の入港拒否の住民運動の理由として、入港後乗客が港湾周辺を自由に歩き回るのでは住民が不安を感じるのが当然ですが、非合理な運動だと一蹴して入港→下船を強行するか、住民不安に応えて下船と同時にチャーターしたバスで医療機関や隔離施設一括搬送するなどの手順を示して港周辺の人が心配するような事態が起きないとの説明を丁寧にするか、地元住民の運動を恐れて入港拒否するかは政治家の判断分野dです。
サンフランシスコでは地元州政府が、地元民の声に押されて入港拒否したものの「よそへ行ってくれ」というのではなく、4〜5日経過で漸くすぐ近くの反対の少ない港への寄港を実現できたようです。
感染拡大放置による死者より、不景気拡大による死者の方が多くなるかの判断(ブラジル大統領やトランプ氏はその種の意見のようです)・・その中間のロックダウン方式をとるにしてもどの時点で行うか?どの地域に限定するかどの程度厳しくするかなども政治家の判断領域です。
判断ミスか否かは結果で見るべきで、政治家が政治責任をとることです。
今回の日本政府に対する批判論の基本は専門家(と言っても米国CDCルールに反しているという形式論中心だったように思われます)の立場から現場対応を批判するものだったように見えます。
政治家は結果で評価すべきです。
(これまで書いてきたように例えばNHKニュースはどういう批判かを書かずに「外国で批判が大きい」といい、外国報道機関の方は「日本国内で感染症専門家から批判の声が上がっている」というキャッチボール形式で波紋を広げる方法で、何が批判されているのか?素人には分かりにくい報道の仕方でした。
結局具体的に紹介されていたのは岩田健太郎氏のツイッターと東洋経済のインタビュー記事が基本・・感染症の専門外の官僚が・・これが世界を駆け巡る批判論の根拠になっているらしいということです。
クルーズ船批判論が火を噴いた頃には、「専門知を大切にすべきだ素人集団が決めているのはおかしい」という専門家重視論のイメージでの政権批判報道が多かったような印象でした。
このメデイアの論調に火をつけた?のが岩田氏のツイッターだったように思われます。
直後の3月12日には米国式 統括機関創設を求める学会有志?の共同声明が発表されていたことを6月20日に紹介しました。
世の中専門家の言う通りで良いなら経済政策は経済学者の言う通りで良い筈ですが、そんな主張をする意見は皆無でしょう。
社会運営は一定の論理に支えられながらも利害対立の調整にあるのですから、「実験室の結果で良い」政治など、どの分野にもありません。
新型コロナにかかっているかの判定やその場合の治療方法は専門家に委ねる分野であって政治家は「あいつは嫌いだから、治療するな」と言うことは許されません。
緊急事態宣言の前提事実として、感染がどのくらい進んでいるか、ICUに入った患者の生還率はどのくらいかなどの具体的問題点などは専門家の意見を聞くべきでしょうが、一定の事態が間近に迫っているとしてもロックダウンすべきか日本のように自粛要請で足りるか・・自粛要請にどの程度応じる国民性かの判断は政治家が決める領分です。
自粛を求める産業分野とその効果も専門家が詳しいでしょうが、国民意識のありように合わせて、総合的に見てどの業界を優先するべきかなどは政治家が責任を持って決めていくべきでしょう。
原子力発電やリニアモーターカーの必要性等は科学者が最終決定すべきではなく、政治責任を取れる政治が決めるべきものです。
6月26日リニアモーターカーの工事着工に対して静岡県知事とJR東海とのトップ会談で知事側が工事に必要な準備工事にさえ同意しなかったので、2027年の開通は不可能という報道が出ていました。
問題はトンネル工事によって地下水の流れが変わることに対する反対らしいのですが、その決着は専門家の分析を待つことになったらしいです。
以上を見ると専門家が決めるかのように見えますが、政治家が争点を専門家の決める専門的意見次第と論争の場を限定したことによるものです。
例えば宇宙物理学等では巨大な実験設備があったほうがいいでしょうが、国の経済力から総合して日本が保有する必要があるかは、政治家が決めることです。
PCRの大量検査能力維持、ICUあるいは体外人工呼吸器(クオモ)などの備蓄が多いほうが良いとしてもコロナのような伝染病のために毎年大量のICU設備や訓練された運営要員をどの程度抱え込んでおくのが合理的かは政治が考えることです。
当たり前のことを無視して、メデイアが政権批判していた・・この結果政治妥協の経験のない研究者が決定の矢面に立つような変な結果になって研究者を苦しめていたようです。
神戸大学岩田健太郎教授に関する3月8日現在のウイキペデイアです。

2008年 – 神戸大学大学院医学研究科教授(微生物感染症学講座感染治療学分野)、同大学医学部附属病院感染症内科診療科長[1][2][
2020年2月18日 – 2019新型コロナウイルスの集団感染が発生しているクルーズ客船 ダイヤモンドプリンセスに乗船[4]。自身のYou tubeサイト上にて、「ダイヤモンド・プリンセスはCOVID-19製造機。感染対策は悲惨な状態で、アフリカのそれより悪く、感染対策のプロは意思決定に全く参与できず、素人の厚労省官僚が意思決定をしており、船内から感染者が大量に発生するのは当然と発言したものの、翌20日には乗船に関し助言した医師に事実誤認を指摘され、削除した[5][6

6月16日現在のウイキペデイアでは、箇条書きの経歴部分のみで上記部分は以下の通り変更されています。https://mainichi.jp/articles/20200219/k00/00m/010/097000cには(削除前のツイッターかな?)具体的指摘事実が出ていますので引用しておきます。

岩田氏の説明によると、厚生労働省の協力を得て、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として18日に乗船した。18日夕方に下船後、動画投稿サイトで「ウイルスが全くない安全なグリーンゾーンと、ウイルスがいるかもしれない危ないレッドゾーンが、ぐちゃぐちゃになっていて、どこが危なくて、どこが危なくないのか全く区別がつかない」「熱のある方が自分の部屋から出て、歩いて医務室に行っている」「感染症のプロだったら、あんな環境に行ったら、ものすごく怖くてしょうがない」などと訴えた。

この事実指摘自体は当然で元々客船には感染者と何日か前に感染しているがまだ陽性にならない潜伏中の患者などが入り乱れているから、そういう仕分けのために検疫官が乗り込んでいく過程では、誰が感染者かすらまだ区分けできていない状態です。
そもそも気の利いた企業であれば、香港から横浜に着くまでの間に発症者が出たのであれば、日本の係官が乗船する前に隔離くらいしておくべきだったでしょうが、前夜までパーテイをしていたというのですから多分何もしないで従来通りビュッフェなどで大勢一緒に食事をしていたのでしょうか?
3711人にも及ぶ人数の検査・・検体摂取だけでも瞬時に終わるわけでなく、検体採取を経て順次検査機関へ搬送先では1検体ごとに手作業による培養作業が行われ一定の培養時間経過後プロによる読みとり作業を経て判定していくので(最近ではこのプロセスが自動化されていると言う意見もありますが、当時の説明)その間の未判定期間があります。
検体採取後即時に陽性陰性が判別するわけでなく、その間誰が陽性かも不明です。
しかも結果が一斉に出るわけでなく、陽性者が数人〜10人づつ順次結果が出るつど船内の空室に移動してもらうとしても、最初のうちは未検査の人の方が多いのですからどこの船室の前の廊下が安全かなどの区分けできている訳がないと素人としては思いますが・・。

報道機関の役割(政治家と専門家の役割相違)1

以下に紹介するフロリダの入港拒否の内容を見ると受け入れるとしても、フロリダ州民以外の下船・治療を認めないという自分勝手なものでした。
日本のクルーズ船対応ではそういうことを言わず、世界中の人たちの治療を最後まで見ていました。
日本では、強力指導力発揮する余地がない社会なのに、強力な司令塔設置要求・・低レベル社会で必要な米国基準を持ち込んでその通りやらないと批判すること自体がおかしいのです。
米国内で発生している多くのクルーズ船の結末を、日本メデイア(都合が悪くなったから?)は一切報道していません。
NHKをはじめとして日本メデイアが米国で日本政府が批判されているとして、鬼の首でも取ったように日本政府対応批判キャンペインを張っていたのを6月21日頃のコラムで引用しましたが、メデイアが客観状況の報道でなく政府批判という特定目的をまず設定しその方向でしか報道しない傾向があるように見えるのは問題です。
NHKに言わせれば、批判内容が不明だが、ともかく米国で批判報道が広がっているという客観事実のみを報道しているという言い訳が成り立ちそうです。
この論法は、朝日の慰安婦報道が世界に広まり、それが事実確認無しに既定事実になっていったのと同じ方式です。
報道機関が報道している場合は、それは事実であるかのようなすり替えがある・報道内容の吟味を経ないで大手が一旦流すとそれが事実のように国外メデイアもそのまま報道するあんちょこな姿勢があり、日本メデイアはそれは日本発の報道転載でしかないこと報道せずに「海外で日本やり方が批判されている」と抽象的報道する・・キャッチボールされる仕組みになっている恐ろしさです。
今回は1ヶ月後にほぼ同じ事例が米国で起きたので必然的に比較対照報道された結果、日本に対する誹謗中傷が止みました。
日本国内での安倍政権批判も根拠を失い静かになり続いて検察官定年延長問題に移りました。
その後のクルーズ船の動きや感染結果等が不明なので日付で新しそうな日付のネット記事を探して見るとせいぜい以下のような報道しかありません。
https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200402-00171007/

まだあったクルーズ船問題!4人死亡、感染者多数?の米ザーンダム号 フロリダから受け入れ拒否
安部かすみ
ニューヨーク在住ジャーナリスト、編集者

上記によると(転載禁止と書いてあるので引用できませんが)米国籍・米国企業運営のクルーズ船なのに入港反対ということらしいです。
CDCが如何に強力な権限を持っていても、船の入港下船が地元政府反対で洋上漂流になるとどうにもなりません。
この点は6月29日に書いた通り中央政府が強力な権限をCDCに与えてもどうにもならないのが現在の民主主義国家です。
クルーズ船入港を認めるか下船させるか、緊急事態宣言するか、どの程度の外出規制するか等々の決定は専門家が決める領域でなく政治判断であると書いてきましたが、
日本のコロナ対応も専門家と政治家の役割分担の理念そのものの議論が、この1週間で表面化してきました。
https://www.asahi.com/articles/ASN6S7JGBN6SULZU004.html

専門家会議「純粋科学と違う」 自らの役割に苦悩の日々
2020年6月25日 8時00分

新型コロナウイルス対策についての政府の専門家会議のメンバーが24日、組織の見直しを求めた。
権限や責任があいまいなまま、対策や市民の行動変容など積極的な発信をしてきたことに、批判も出ていた。自らを省みた会見のさなか、政府は新たな会議体の立ち上げを発表した。政治と科学の関係はどうあるべきか。他国も模索している。
「感染症対策というのは、実験室の学問や純粋科学とは違う」。24日夕。日本記者クラブ(東京)で会見した専門家会議の尾身茂副座長はそう述べ、新型コロナ対策の難しさの背景を語った。
感染の拡大防止には人々の行動を変えることが必要になる。誰がどうお願いするか。元々医学的見地から助言するのが目的だった専門家会議は、権限と責任に法的根拠はなかったが、積極的な発信を続けた。迅速に対策を伝えないと、国内で感染が爆発的に広まるとの危機感が、メンバーに高まったためだ。
会見で、脇田隆字座長は前のめりになった理由を「(政府の)諮問に答えるだけでなく、対策をとる必要があると考えた」と語った。

専門家はこれまで学問上判明している限度の説明をすれば良いのであって、(諮問に答えるだけ)それを踏まえてどのような対策を取るかは政治家の分野です。
まして日本の場合、国立感染症研究所の所長・文字通りウイルスなどを顕微鏡で覗く実験が本業の人たちであり、行政機関ではありませんので、利害調節的判断=政治決断するのは畑違いすぎて苦悩の日々だったということでしょうか?

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