政治家は発言を抑制すべきか?3(石垣議員発言)

そもそも、許可権を持つ県知事が許可を受ける申請者側・主催者組織のトップを務める組織構造自体がおかしな方式です。
公然たる組織で利益相反の関係など普通はあり得ないのですが、今回は異例すぎて一般の外野では受けとめるのに混乱した面があるでしょう。
私は県知事が実行員会委員長と紹介されていたので、県直営行事の実行委員会かと誤解していたのですが、県主催ではなさそう・独立の主催団体のようですので、代表者が同一の場合利害相反関係が問題になるのが普通ですが、そこは公務員ですので、相応のクリアーをしているのでしょう。
ウイキペデイアに19年の予算が出ていませんが、10年の第1回目の予算は以下の通りです。

第1回トリエンナーレは、2010年開催に向けて準備が進められていたが、2008年秋ごろからのトヨタショックなどにともなう県内の景気後退を受けて、2009年度予算編成では3億1800万円の予算要求のうち4割がカットされる事態となった[7]。2009年3月6日、愛知県議会は総事業費を従来から3割削減した13億8000万円とし、愛知県が8億5000万円、名古屋市が2億8000万円、残りを事業収入で賄うとする議案を可決した[8]。

これだけ巨額予算→公費を出す相手代表者が知事と兼任とはおかしなものではないでしょうか?
仮に不許可処分に対する不服申し立てや、処分取消訴訟をすることになると双方代表者が同じという奇妙な訴訟になるのでしょうか?
実際名古屋市の分担金未払いに対して実行委員会名(原告という意味?)で訴訟提起したと報道されています。
アイチトリエンナーレに対するウイキペデイアの一部引用です。

あいちトリエンナーレ芸術祭実行委員会は5月21日、名古屋市を相手取り3,380万円の支払いを求めて名古屋地裁に提訴した[226]

これが愛知県が不払いであれば、大村知事を相手の大村委員長が訴えることになるのか?というおかしさ?です。
このような不透明な関係があって外野の私などちょっとした合間にちらっとニュースを見ている程度では、知事が不自由展を中止したニュースを見ると権力行使としての中止か主催者の自粛か曖昧なままなんとなく見ていたものでした。
ウイキペデイアでみると実行委員会会長としての中止ですので、主催者側の自発的中止という解釈になるのでしょうか?
名古屋市長に今回の不自由展に対するどのような権力があったのか不明ですが(市の施設を貸しているのかな?)トリエンナーレ全体では、市美術館も会場になっているようですが、トリエンナーレ自体は大規模なイベントで「不自由展」はその一部らしいので市美術館はその会場ではなさそうですが、これもぱっと見た目あるいはニュース程度でははっきりしません。
津田氏が、「権力行使できる立場の政治家」と正確に発言せずに「政治家は表現の自由に対して権力行使できる立場にあり」と逆転した複雑表現をしたのは、河村市長には不自由展会場になっている県施設許可権限がないのを知っていたからあえて如何にも権力行使出来そうなイメージの主張にしたのではないのでしょうか?
政治家には総理大臣も愛知県知事も含まれるから間違いでないと言いだしたら、国民には総理大臣も含まれるから国民は権力行使者に含まれることになり、国民は全て発言抑制すべきことになります。
「総理や知事は政治家だ、だから政治家は権力がある」というのは「逆は真ならず」の典型的まやかし表現です。
政治家には市町村議とその落選中や新規立候補準備中も含めれば膨大な裾野を持っていますが、権力行使できるような職についている政治家は限定されていて「行使する権限のない政治家」の方が多いので、「政治家」というだけで発言を抑制しろというのは論理飛躍があります。
政治家は言論によって政治を動かし、次の選挙での支持を増やしていくのが職業であり、その発言によるマイナス効果もあるが、リスクを恐れず自己責任で発言すべき職業であって、政治家だから発言抑制せよという主張は政治家と権力の違いをすり替える一種のごまかし論法ではないでしょうか?
8月28日の安倍総理の辞任発表に対して、立憲民主党の石垣議員が、ツイッターで難病を抱えているものが総理にする自民党の責任だと批判したことで大問題になり立憲民主党自体が謝罪する事態になりました。
石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
国民の負託を受けて政治活動する以上は、政治意見を必要に応じて発信すべきであって責任を取るのが嫌だからと発言を抑制するくらいなら政治家をやめるべきでしょう。
発言に責任が伴うので責任を負えるように覚悟して発言すべきというだけで、政治家も個人も発言には責任をとなう原則は同じ・・自己責任をとる覚悟で発言すべきと点では同じです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200829/k10012589761000.html

2020年8月29日 0時58分安倍首相 辞任へ
安倍総理大臣の辞任表明をめぐって、宮城選挙区選出で、立憲民主党の石垣のりこ参議院議員は、みずからのツイッターに、「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の選任責任は厳しく問われるべきです」と投稿しました。
その後、SNS上には「病気と闘っている人への侮辱だ」などという批判の書き込みが相次ぎました。
これを受けて、枝野代表が、自身のツイッターで、「申し訳ありません。執行部として不適切であるという認識を伝え、しかるべき対応を求めました」と陳謝し、福山幹事長が石垣氏を呼んで注意したということです。
その後、石垣氏は、同じツイッターで「疾病やそのリスクを抱え、仕事をする人々に対する配慮が足りなかったと反省し、おわびします」と謝罪しました.

石垣議員は発言を抑制すべきだったのでしょうか?
抑制の問題ではなく発言には責任がついて回るから自分の主張していることと党の方針と合致しているかの整合性チェックすべきだったという当然の帰結でしょう。
謝罪しようとしまいと、石垣議員は難病等で困っている人をそのような目で日頃見ている人格がわかってしまった事実は消えません。
日頃から何か攻撃材料があったらその機会に攻撃する目標を探しているような鬱屈した気持ちというか、冷ややかな目というものを感じた人が多かったのではないでしょうか?
いわゆる「とんがった」意見を言えば、とんがっている分不快に感じる人が増えます。
津田氏のようなジャーナリストは、全般的支持不要なので、とんがった発言で国民の0、何%の支持層に訴求できる点では熱烈支持層獲得に便利です。
そういう「とんがった」意見の宣伝のために一般的支持のある作品(多分学芸員が選定したのはそういう無難な作品だったのでしょう)を排除して公費投入すべきかは民主国家の大きなテーマです。
少数意見芸術作品排斥されるべきでないということと、「自由市場ではこういう隘路があって生き残れないので国費等で補助すべき」かは別問題です。

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