「さと」(郷と里)4

法人実在説論争に深入りしましたが、地方単位・・20年2月19日「江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2」の続きです。
「おさとが知れる」という時は(家風の文化水準)同族集団的古代集落単位を指し、「おさとはどちら?」という時・・故郷・・どちらかといえば江戸時代までの旧国名を主に指します。
お上から強制的な漢字の当てはめが通達されるとみな従うので文献上一挙に借り物の漢字「評」は完全抹殺されますが、発音としての和語がいわゆるオーバーラップして残るので、元の「こおり」と新たな郡とは少し範囲がズレるのでそっくり同じではありません。
国の造(みやつこ)に関するウイキペデイアによれば、国造が廃止されて国になったときの国と評の関係が表になって出ています。
大和の国に元3名の国造、山城国に元2名などの表が出ていますが、制度変更には領域や権限に変更を伴うことが多いことがわかります。
名称が変わるにはそれなりの理由があります。
我々の仕事分野・法の改正・禁治産制度が被後見制度に変わっても一見元の後見業務と似ていますが、制度目的が変わったので、運用の方向性が変わった・・資産保護の目的から被後見人の人間保護(資産保護はその1部)に変わったのと同じです。
郷里制に戻しますと、自己紹介で長野県出身というより木曽ですという方がイメージが伝わりやすいでしょう。
都道府県単位になってまだ約100年あまりでしかないので、民族的な一体性・特徴の紹介では旧国名の方がわかり良いからです。
今は大都市住民の多くが地方から出てきた2〜3世の時代ですので、東京ですというより多くの人が親の出身地をいうのも聞いている方の気持ちに応じる結果でしょう。
日本の「むら」がいくつか集まった「さと」やこれがさらに大きな単位になった「こおり」を朝鮮半島では評というらしいのでこれにするか!となって日本では「評の」漢字をあてていた可能性があります。
そもそも、朝鮮では原始集落に「評」の漢字を何故当てていたか不明ですが、ネット上でその原義まで書いたものが見当たりません。
朝鮮語の発音が漢字の「評」の発音と似ていたから?というの普通の推測ですが、私の素人憶測です。
「こおり」と言い習わしていたものを漢字導入初期に朝鮮では「評」と表記されていたものを借用していたものの、大宝律令制定を機に郡に変わったのではないでしょうか。
もともと借り物の漢字表記なので中央の命令で「今後こおりの表記を郡とする」と指示があればこれに従うのに何の抵抗もなかったでしょう。
律令制導入時に各地のいくつかの「こおり」=権力単位を集めて一つの国に編成し直したときに地域実力者数人が?郡司に任命され、中央から派遣国司との両立体制になったのだと思われます。
ちなみに日本では明治維新まで中国の地方制度・郡県制を導入しながら、県だけ採用しなかったのは、中国のような末端まで行き渡る中央集権体制・・社会が明治まで成立しなかったからです。
千年以上にわたって地方体制がいろいろ変わっても、もしかして縄文の昔・・紀元前何千年前から庶民は雑草のごとく踏まれても踏まれても、庶民・原始集落はその場にしがみついて縄文時あぢのDNAのまま変わることなく生き抜いてきたように見えます。
戦国時代から見れば、足腰になる地元国人層が(古代豪族から武家層に入れ替わって)戦国時代に信長や秀吉〜家康に攻められて支配トップが追い払われても、地元民はしぶとく生き残りますし、地元武士団.国人層の多くも本領安堵が原則でした。
武田家が滅んでも配下武将・・真田昌幸はその機に自立しましたし・叡山焼き討ちや根来攻めがあったと習っても、現在まで延暦寺や根来寺が残っています。
古くは、各地の神々(氏神様)がそのまま残っているのもその一態様です。
中国古代の郡県制はウイキペデイアによれば以下の通りです。

先秦の郡県制[編集]
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
漢代以降[編集]
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。

中国での郡県制の内容はしょっちゅう変わっていますが、共通項は中央政府の官僚が派遣されて地方を直接統治する仕組みだったことになります。
明治維新以降日本の歴史始まって以来の郡県制採用ですが、日本の場合県が上位で郡がその下部機構になっています。
現在の県域は、大方の場合旧国名を数カ国(千葉の場合下総、上総、安房の3国)まとめた大きさになっていますが、律令体制下での国は、その前にあった国造を数名集めて1カ国にしていたことを冒頭紹介しました。
国造の支配地域と「こおり」の範囲の関係がはっきりしませんが、もしかするとほぼ同一だった可能性があります。
古代の地域単位としての「こおり」をいくつか合わせて律令制下の旧国名となっていたのですが、前漢の郡国制を見ると直轄地は秦同様の郡県制であり、遠隔地で直接支配困難地域を国として王として半独立的支配をさせていました。
郡国制に関するウイキペデイアの記事です。

帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。

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