不自由展論争→憲法学は学問か?(地域エゴ競争2)

トランプ旋風以来、〇〇ファーストが大流行りですが、沖縄でも静岡でも首長は、中央に楯突くパフォーマンスの方が票を得やすいムードです。
中央と楯突く必要のない静岡のような気風温暖な地域で、しかも川勝氏はリニアー関連の審議会委員か何かを務めていた政府寄りの人物らしいですが、知事になると豹変・・合理的理由不明な妨害行動に走り始めました。
(我田引水・公共工事が減ると)地元首長にとっては中央直結よりは、なにかと対立点を探して対決する方が、票になる時代が来ているようです。
しかし中央・・日本全体の利益を人質にしたゴリ押しがすぎると、国全体から浮き上がり、目先政府は何もできないとしても結果的に地域経済にマイナス影響がないかの視点も必要です。
沖縄の基地反対運動は先の大戦でひどい目に遭っているのに、また沖縄だけ日本列島全体の犠牲になるのか!の論建てで左翼と組んで一見うまくやっているようですが、これも行き過ぎると国民の鼻について来る時期が来るでしょう。
個人の人間関係同様で困った時に相手の足元を見た強欲な主張をすると、長期的信用を傷つけるというのが日本的価値観です。
戦国時代でいえば、地元盟主の危急存亡の時に一も二もなく応援に駆けつけるのではなく(協力を惜しみ)自分を高値で売り込むような小豪族は信用されないというのが日本の伝統的価値観です。
日本人はすぐに白黒をはっきりせる民族ではないので、これをキッカケにどう動くか数十年の経過を見るしかないのでしょう。
数十年後に大村知事や津田監督が日本全体で高評価を受けるかどうかでしょう。
大村知事のとんがったパフォーマンス戦略が、従来あやふやにきた芸術系に対する公的補助がどうあるべきかの全国的問題提起になった意義は認めるべきでしょう。
(自信がありませんが)民族国家が続く限り芸術の中でも民族伝統芸術の保護と現代アートの保護とは次元が違っても良いのでないか?と思いますが、それにしても補助金の程度問題・・国民総意・政治判断によるべきでしょう。
大阪府の文楽に対する補助金問題が憲法訴訟になっていないように、将来東博等国立博物館等で、国内芸術家優先がおかしいとか、西洋美術館や東洋美術館等への予算配分比変更問題が起きたとしても、表現の自由侵害の憲法問題ではありません。
東大等の国公立大が中国の軍事技術、ハイテク技術発展のための研究協力するのに国費補助すべきかも政治で決めるべき分野であって、憲法・・学問自由の問題ではないでしょう。
こう言う補助金交付規制論が起きると、学問の自由侵害の憲法違反だと言うのでしょうか?
平和論〜国防問題でいつも問題になりますが、無防備で良いかどうかではなく、憲法9条がある限り再軍備は憲法違反だから軍備必要性の議論自体許さないかのような主張・・「悪法でも法は守るべし?」論が圧倒的です。
「憲法とか近代法精神を守れ」などのスローガンで終始して、具体論を避けるのが、文化人や学者の基本姿勢です。
芸術文化保護予算はどうあるべきの議論で「表現の自由に介入するな」という憲法論に終始して議論をさせないのが憲法学者の仕事のような振る舞いです。
どのように日本を守るかではなく、「憲法がある以上仕方ないでしょう」というならば、・・憲法改正の必要性はどうなのか?となりますが、こういう論者の100%と言っても過言でないですが、憲法改正議論すら拒否するのが普通です。
曰く「安倍政権の改憲を許さない」論ですが、憲法というのは長期に国民の守るべき規範ですので、平均数年で交代する・・国会発議に必要な与党議員数確保したのは、前回衆議院選挙であり、まだ約3年で辞任表明です・・政権好き嫌いと憲法条文をどうするかの議論は関係ないことです。
https://www.jcp.or.jp/web_info/9no.html

安倍改憲ノー!新署名広く

「草の根」の力で必ず阻止  総がかり行動実行委員会共同代表
(「しんぶん赤旗」2020.2.6)

上記のようなビラが溢れていました。
ところで、安倍総理辞任表明後、安倍政権を毛嫌いしている朝日新聞の世論調査でも以下の通りの結果が出ています。
https://www.asahi.com/articles/ASN937F3RN92UZPS005.html

安倍政権を「評価する」が71% 朝日新聞世論調査
会員記事 自民党総裁選2020
2020年9月3日 22時30分

自民党政権毛嫌いの朝日新聞の調査でさえも71%も支持されている安倍政権だから改憲反対という主張は、支離滅裂としか言いようのない主張ではないでしょうか。
「ごく少数支持政権の改憲発議なら賛成する」とでも言うのでしょうか?
民主主義を守れ!と言うリベラル政党各派の看板が泣きませんか??
こういう議論方式が大手メデイアや憲法学会や弁護士会で主流?(声が大きい)になっているのは、おかしいのではないでしょうか?
彼らにとって憲法って何のためにあるか?
まともな議論拒否、「なんでも反対の護符」になっているように見えます。
日本の憲法学界や思想家人権グループは、我々素人から見ればオカルト集団のようで科学としての学問に基づく主張をしていると言えるのでしょうか?
真面目に学問として研究している人もいるのでしょうが、政治運動と区別のつかないような声明を出す学者が多いので、外野から見ると全部そのように見えるだけかもしれませんが・・。
集団で声明を出す学者もその道ではまともな論文を書いて認められている研究者なのでしょうが、政治運動になると素人も驚くような無理筋の主張が多くなるようです。
政治学者と政治運動のプロとは違うように、憲法学者も憲法の運用がどうあるべきかの政治論は素人に近いのですから、専門外のことに専門家の肩書きで口を出すのが間違いと言えるでしょうか?
個人意見開陳は自由ですが、専門家集団の威力を用いるのがおかしいというだけです。
今回のコロナウイルス騒動でも分かるように専門家の知見必要ですが、それを応用するの政治家の役割です。

あいちトリエンナーレ不自由展騒動の得失2(地域エゴ競争1)

米国大統領や中国国家主席の肖像写真を燃やして踏みつけるパフォーマンスに対して政府公共団体が禁止すべきか否かは憲法の問題ですが、補助金を出すか否かはその行為の芸術性の有無が基準ではなく、国際関係等考慮して行うべき政策決定というべきです。
地方自治体もその展示行動が友好都市や国際関係上とどういう結果になるか、地元交通妨害になる程度などの具体的判断すべきで、芸術活動か否かを持ち込む余地がないでしょう。
グランデール市その他の自治体が慰安婦像を公立公園に設置許可するかどうかは政治判断ですので、自治体の法的手続きに違法があるなら別ですが、適法に判断された以上自治権の範囲ですので、日本人グループが司法に訴えたのは手法の間違いです。
個人が自宅にどういう銅像を設置するのが自由なのと同じです。
ただ、銅像設置や自分の親の写真を踏みつけられる映像やパフォーマンスを芸術として補助する自治体や個人に対して不満を持つ人や相手方自治体や国がどういう報復をするかも被害感情を持つ個人や国等の政治判断です。
グランデール市は日本との関係悪化しても良いという政治判断で慰安婦像設置を決めた以上は、大阪市がグランデール市との姉妹都市関係を絶ったのは合理的行動でした。
日本大使館前の慰安婦像設置が相応の報復覚悟の政治行為ですので、日本も相応の報復すべきかも政治判断です。
そもそも芸術や政治活動であれば何をするのも自由なのではなく、名誉毀損すれば処罰を受けるし、通行妨害すればその規制を受けるのは政治活動や表現の自由・憲法論とは関係がありません。
市議会議員が、同一選挙区でしのぎを削る政敵のポスターを日頃挨拶を交わしている近所の家に掲示していれば、興ざめになるのが普通です。
また、政治主張の芸術活動をすれば反対勢力の不興を買うのを覚悟の行動であるべきでしょう。
「芸術を名乗りさえすれば何をしようと勝手だ!」と言わんかのような津田監督側の主張を国民多くが支持したのでしょうか?
不自由展からまだ約1年なので不自由展の騒動が今後の日本の芸術に対する政府公共団体関与にどのような影響が生じるか、旗振り役になった津田氏がどういう立場になるか不明ですが・・。
大村知事と河村市長の確執ではどちらに軍配があがるでしょうか?
政治家は選挙次第ですが、一方は市長選で他方は県知事選で政治次元と選挙時期の違いがあるので選挙テーマもズレる上に、共に自民党推薦?知事、市長ですので、任期満了選挙になると不自由展に対する民意がストレートに出ない選挙になりそうです。
不自由展をテーマにした大村知事に対するリコール運動があるので、リコールによる選挙であれば、テーマが絞られ愛知県民の不自由展挙行に対する賛否がはっきりする良いチャンスのようですが、その場合でも保守系支持層が対立候補の革新系候補に投票するわけに行かず自民党系知事を保守系が推すしかない選挙になって争点と選挙の結果が分かり難くなります。
自民系の知事が超革新的?主張を後押して巨額予算で応援した場合、自民党内保守系では許せないと強く思う人が、かえって、革新系知事候補に投票したくない人が多いでしょうから、選挙は複雑です。
大村氏に変わる保守系候補の準備に十分な時間がないことから、信任投票的リコール選挙はかえって大村氏に有利でしょう。
不自由展をテーマにするまでは大村知事の名前も知らなかったので、今日初めてウイキペデイアで経歴を見ると意外に複雑な行動をとる持ち主で、今回の「とんがった企画期待」発言はその延長上にあることがわかりました。
もともと農水官僚〜自民党橋本派に属した経歴程度しか知らないので保守系そのものかと思うと、橋本派ないに属しながら、対抗馬の小泉氏を応援したり、小泉政権では功労者として優遇されたようですが、小泉政権後の保守混乱時(民主党政権時?)には、愛知県連を敵に回して(当然革新系の応援を受けたのでしょう)突如立候補して県連からの訴えで自民党から除名処分を受けるなど保守系の枠を飛び出したトンガリ系行動力のある人のようです。
結果的に左右両翼の支持をて圧倒得手支持力を誇る独自勢力圏を築いているので、そのうち自民党との相乗り候補になって現在に至るようです。
(安倍総理辞任劇以前からメデイアの行う場外人気・・「総理になって欲しい人の国民人気度ではいつも石破氏ほぼ毎回がトップでしたが、肌感覚とこんなにずれた発表程メデイアの信用を落としている発表が少ないのではないでしょうか?
メデイアの基本主張・「永田町の感覚が国民感覚といかにずれているか!」という洗脳をしたいようですが、いろんな世論調査の偏り以上に、国民感覚と違った自民党内異端派を「よいしょ」する記事ばかりでは、国民感覚とずれていのは大手メデイアではないのか?と思う人の方が多いでしょう。
内閣や党支持率の場合、直後の総選挙結果とあまり違う結果が続いているので、メデイアの世論調査をどうせフェイクだろうと思う人が増えてきましたが、総裁選の場合、永田町の感覚が国民とずれていると言い張ってれば論証する方法がないのをいいことに電波独占している方が言い張っていつも終わりです。
中韓勢力得意の日本人は良いが、安倍政権だけが悪いという主張方法と同じです。
革新系は自民党との真っ向勝負では勝てないので、自民党内の異端的トンガリ系を囃しメデイアとの連携で国民人気を演出する傾向がありますので、大村氏はこれに便乗してウイングを左に広げるのに成功していて、県知事として圧倒的支持率を誇るようです。
不自由展実行はこの傾向をさらに強めたということでしょう。
トルコやイラン等々の地域大国も日本の自治体も同じですが、世界全体あるいは国全体のための政治など気にしないどころか、地域や自治体内の地位確立には全体に反する尖った主張をして地元の喝采を浴びる政治手法が成功する傾向があります。
愛知県(尾張徳川家)は徳川宗家後継争いで吉宗に負けた時から、反中央意識の強い気風が育ち現在に至っていることを総合すると(本当は尾張徳川家の個人的怨念でしかなく民族的被害を受けていないのですが、これを地元政治家は煽る材料しているのでしょうか?)大村知事の尖ったパフォーマンスを喝采する地域素地があるとも言えるでしょう。
愛知県知事としての支持層を広げるには、日本全体で総スカンを食うか否かではなく反中央姿勢をアップし(自民党本部から除名処分を受けるなど)地元支持を広げる戦略が成功しているように見えます。
彼は日本ー愛知の会代表のようです。

あいちトリエンナーレ不自由展騒動の得失1

8月29日書いたように、弱小政治集団ほど補助金制度のメリット率が高くなります。
少数数意見保護というのも民主国家において重要ですので、その程度をどうするかでしょうが。
暴力行為を繰り返す過激派集団も少数意見に違いないですが、彼らが自己主張(内ゲバの必要性など)を演劇風に仕立てれば、その公演を国公費で何億円も補助して宣伝する必要があるかも重要です。
その限界をどうするかよくわかりませんし、解散→新設立を繰り返せば過去の刑事件歴が関係なくなるのかなど規制する基準を設けるには複雑すぎて現場では運用に困るでしょう。
どういう集団か?ではなく企画テーマと運用実績(提出企画と違い実際には政治活動中心だった・あるいは〇〇展前半は作品展であるが、後半は政治主張の展示ばかりなど)でみるしかないのでしょう。
政党交付金制度も政党要件を満たした政治集団限定補助金制度ですが、これは国会議員何名以上・得票率何%以上などの数値的絞りがあり客観性があります。
国政選挙立候補者の無料政見放送枠制度も、客観的絞りがあります。
政党政派による差がなく政治活動全般=公平にどの程度まで補助金を出すかどうかは立法府の裁量であると言えるとしても、それと現場判断の単純可視化をどうするかです。
愛知の不自由展までは政治活動の自粛程度・阿吽の判断でなんとかなってきましたが、不自由展を強行したことで、(もともと委嘱状交付時に尖った企画期待発言をしていた大村知事は、世間を騒がせることは予定通りの結果だったでしょうが)パンドラの箱を意図的に開けてしまったように見えます。
自粛でなく禁止制度を明記すると境界の明確化が求められる現場は困るので、結果的に自由化するしかないのでしょうか?
左翼系少数派はこれを狙ったとも言えそうです。
この場合も政治活動のための補助金を出せない制度自体が検閲にあたらないでしょうが、政治目的かどうかの判定訴訟頻発を前提にするような制度は政策妥当性の問題です。
実際現在の制度.政党交付金制度や立候補者限定の無料放送、あるいは公職選挙期間限定の立候補者のポスター掲示の公園利用などに対する規制に対して憲法違反論を聞いたことがありません。
何でも反対→何で憲法論に持っていく運動論が大手メデイアお抱え?文化人(形式上外注ですが)では主流ですが、上記例で見ればわかるように利用基準を明確化すれば済むことです。
違法でない限りどういう商売方法を選ぶかは経営の自由判断ですし、芸術発表も同様ですが、それは市場淘汰のリスクをとるから平衡・バランスが取れています。
一部または全部公的補助の場合、補助比率に比例して市場淘汰のチェックが効かないので公的選択が必要です。
巨額公費を伴う政治選択は基本的に民意によるのが原則であるべきです。
公的施設利用・使用料低廉メリット程度の場合は、補助によるメリットが低いので利用許可基準が公平(申し込み順が一般的)である限り問題が少ないのですが、愛知県の不自由展の場合、一般申し込みにせず優先利用権を設けている(と想定されます)点で不公平ですし、制作費まで補助したようですし、公費による?大々的宣伝や街路展示許可などの便益提供など、受けるメリットが巨大だった点が特に問題でしょう。
ウイキペデイアには、第1回目の予算が出ていますが、愛知県予算だけでも巨大な資金投入です。
数字だけ再引用しますが(リーマンショックによる3割減でも)

「2009年3月6日、愛知県議会は総事業費を従来から3割削減した13億8000万円」

19年のトリエンナーレでは、その後の景気回復もあって総予算はもっと膨らんだでしょうし、文化庁の補助金も出るし、名古屋市の分担金も出ています。
思想の自由市場論→完全自由化はこの点で破綻しています。
どういう作品に補助金まで出すかの基準を芸術監督に委ねるとすれば、監督を自分の主張したい政治団体内の誰かを選べば良いことになります。
そんな身勝手なことで公費を出すのは無理があるので、施設低廉利用メリット(音楽でも落語でも早いもの順の予約制度で大したメリットでは無い)を超える補助金制度は無理が出てくるでしょう。
制度というものは、保険制度であれ生活保護であれ、全て悪用・濫用しない信用でなり立っているのですが、それでも医療必要性は専門家である第三者医師が判断するし、生活保護必要性をも自己申告が契機になるとはいえ、保護適格の有無は福祉事務所調査によっています。
革新系政党や弁護士会等では、生活保護の窓口調査制度を水際作戦と称して「弱者切捨てを許すな!」の批判が多いのは、自己申告でフリーパスすべきという主張なのでしょうか?
そこまで言わないとすれば、失業保険支給基準同様に基準がどうあるべきかは、政治が決めるべき分野です。
今回の不自由展論争ではその基準判断を芸術監督に委ねるべきという主張が目立ちました。
芸術監督自体は主催側決めた内部職であり、津田監督は芸術家でない政治色の濃いジャーナリストであることを紹介してきました。
お手盛りの監督の自由裁量内容に白紙で巨額補助すべきというのでは、生活保護を自己申告通りフリーパスにしろというのと似ています。
不自由展の全国的話題提供により、芸術監督として論壇顧問先の朝日新聞の基本姿勢かな?そのままに政治的企画をした津田大介氏の評価がその筋では上がったとも言えるし、芸術(と称して?)を政治利用したジャーナリストの(プラスマイナス両面)イメージが国民一般に定着した面があるでしょう。
昭和天皇の写真拡大したパネルに竹槍を突き刺したプラカードを掲げてデモ行進する反転連デモが一時はやりましたが、眉をひそめる人の方が圧倒的に多いらしく次第に姿を消すようになっていたのは、まさに自由市場の良いところでしょう。
自由市場で敗退したグループがこれを表現の不自由とでも言うかのような展開ですが、こういう主張を国公費補助で行うべき芸術かどうかです。

あいちトリエンナーレ不自由展11(政治家は発言を抑制すべきか?1)

ちなみに不自由展に対するウイキペデイア記事によれば、
河村の設置する検証委員会に対して、大村は「展示の中身を検証して、けしからんから(市の負担金を)出さないというなら、検閲委員会になる」と反発した
というのであり、検証委員会設置でさえ検閲になるといっていたはずですが、日本第一党の展示に対しては、県施設許可決定に関する権力行使できる地位にある筈の大村知事が内容に立ち入って判断して公言しています。
これが権力行使者の抑制的な行動でしょうか?
右翼系に対しては遠慮なく権力行使できると言わんかのような発言です。
津田芸術監督のいう

「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」

という意見について見ておきます。
「政治家は表現の自由に対して権力を行使できる立場」とは何かですが、権力行使権を持つことと、影響力の有無とは違います。
主権在民というように、一般国民も権力があると言えば言えるのでしょうが、一般的に権力者とは言いません。
主権在民とは、国民支持が国家権力の源泉になるという程度の比喩にすぎず、一般国民を権力行使者と思う人は誰もいないでしょう。
権力という意味自体はっきりしませんが、普通は行政権力・強制力を行使できる人を「権力行使できる人」というべきでしょうから、政治家の中でも行政権力行使できる人は限定されます。
行政府の長、自治体の長がこれに当たるでしょうが、政治家一般がこういう権力行使できることはありません。
だから政治家は・・と政治家一般がこういう権力行使できる立場にあるかのような言い回しは、誤解を招く表現です。
政治家は一般国民より権力者に対する影響力が強い場合がありますが、影響力は一般国民も主権者として権力行使に影響力あるのは当然ですし、他方政治家と言っても野党も入れば地方議員もある上に落選中でも政治家ですので幅が広すぎて、政治家=権力行使できる立場とは言えません。
政治家というだけでは権力行使する立場でなく、権力に影響力のある一般国民より一定程度権力に近い程度の差です。
権力行使できる政治家であれば発言を抑制すべきと言うのでれば、その権力行使に関する発言は抑制的出るべきでしょうが、政治家であれば「発言を抑制すべき」というのでは自己に対する批判発言を封じるかのような発言です。
8月31日に紹介したウイキペデイアの記事をもう一度引用します。

津田の芸術監督就任を批判したオペラ歌手の畠山茂に対して、津田はツイッターで以下の反論を行っている[42]。
こんな僕ですが一応文化庁主催のメディア芸術祭で新人賞なるものをいただいた経験もありまして、その審査した人たちや、芸術監督を選出したあいちトリエンナーレの有識者部会(アート業界の重鎮多し)をみんな敵に回す発言になりますけど、大丈夫ですかw

批判者に対してないように対する反論でなく「そんなこと言って良いのか!」というイメージの記事です。
名古屋市長の河村氏に対するものであるから、市長としての権力行使できる人だというのでしょうが、一般論でなく、「不自由展」論争に限定しての発言とするならば不自由展限定で河村氏がどのような権力行使できる立場にあったかの具体論が必要です。
「政治家は・・・」と言う大風呂敷を広げて一般人に対する「政治家って発言が慎重なことが多いよね!「権力行為は抑制的にすべき」だよね1という常識論に引き寄せて議論の方向をすり替える効果を狙った表現です。
政治家は発言責任を問われるので影響の及ぶ範囲を見極めて、自己責任を取れる範囲内に止める慎重発言しないで言いたい思いき発言していると過去の発言と矛盾するリスクなど回避のために慎重な発言をする→リスク判断を経る作業が多いのは内部・自己保身問題であって、論争相手に要求される作業ではありません。
発言している政治家のガードが甘ければ、論争相手は発言者の隙を突いて論破すれば良いことです。
内容に反論しないで頭ごなしに「政治家がそんなこと言って良いのか!」という批判はクレーマーが、営業マンに対して「客に向かってそんなことと言って良いのか?」とクレーム内容と違った次元の攻撃をするのとどこか似ています。
ただし津田氏は
① 論争相手は河村市長であり単語的には政治家一般になっているがそこでの対象は河村氏に決まっている彼は市長であり行政権力を行使できる立場にあった
という弁解が成り立ちそうです。
しかし市長であっても論争テーマである「不自由展」にどのような権力を行使できるかの説明がありません。

②「表現の自由に対して権力行使できる立場」

と修飾語をかましているので、かなりの人が表現の自由に権力行使できるなら「抑制的であるべき」だな!と納得してしまいそうな表現方法にしています。
ところで、不自由展に関して外野から想定できる権力行使は、施設管理権に基づく使用許可権限と、文化庁の補助金交付権限くらいです。
名古屋市の施設利用がない限り名古屋市長であることと不自由展に関する権力行使とは関係ないことです。
河村氏は、市長の立場で自由展実行委員会委員長代行として参加しているだけで県施設利用許可に関わる・展覧会に対する権力行使できる立場になかったのではないでしょうか?

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離10(行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められるか?)

芸術監督津田大介氏に関するウイキペデイア記載経歴引用続きです。

2010年代
2010年 – 、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)フェロー。
2010年 – 、特定非営利活動法人クリエイティブ・コモンズ・ジャパンフェロー( – 2013年)。
2010年、上智大学文学部新聞学科非常勤講師。
2010年 – 、スマイキー株式会社(旧ピーエムアール) 顧問。
2011年、武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。
2011年9月、有料メールマガジン『メディアの現場』の配信を開始。以降、毎週水曜日発行。
2012年4月、株式会社ゲンロン取締役( – 2015年3月)、関西大学総合情報学部特任教授(任期:2012年4月 – 2013年3月)に就任。「ネットジャーナリズム論」「ネットジャーナリズム実習」を担当。
以下中略
2015年 – 朝日新聞社論壇委員
2017年 – 早稲田大学文学学術院教授(任期付)[12][13]
2017年8月1日 – あいちトリエンナーレ2019の芸術監督に就任[1

10年代に入るとどういう実績によるのかメデイア関連の仕事が増えて15年に朝日新聞論壇委員になって17年にアイチトリエンナーレ芸術監督就任の経歴です。
以上によると彼が芸術家=創作の専門家ではないばかりか、芸術専門家としての評論活動等の実績もないし、作品展覧会等の主催経歴もなさそうです。
10年台に入って朝日新聞やあちこちの大学で任期付きとはいえ招聘されているのは、彼の情報発信力が評価されたからではないかと推察されますが、それにしても芸術監督になるベき経歴としては異色で、その異色性(政治的発言の方向性も十分に知られていたでしょう)を発揮してもらうはっきりした意図で芸術監督に選任したと想定されます。
津田大介氏をジャーナリストと紹介していますので、彼の基本職業はジャーナリストと理解すべきでしょうが、ジャーナリストが芸術監督になったことになりますが、これまで見た経歴では、芸術系専門を生かしてジャーナリストになったのではなく、メデイア系活躍の経歴しかなさそうです。
こういう人でも芸術監督になってさえいれば、素人は口出しするな!と言えるのでしょうか?
昨日引用した大村知事による委嘱時の記事の再引用です。
どこかの大学の名誉学位を貰った政治家が政治発言して都合が悪くなると、学問の自由を守れ!と政治発言が免責されるかのような主張です。

「実行委員会の大村秀章会長(愛知県知事)は津田に「とんがった芸術祭にしたい」と委嘱状を渡した」

というのですから、彼の政治方向性を知悉した上で「とんがった」企画を期待していたことになります。
「とんがった」企画期待とはジャーナリストとして日頃表現しているとんがった主張を遠慮なく出して下さいという意味ではないでしょうか?
政治色満々の展覧会を(政治任用?)の(芸術家でない)芸術監督がプロ学芸員の提案を作品を次ぐ継と拒否し自己の好みで捨選択し開催しておきながら、いざ政治問題になると芸術展への政治の介入を許さないかのような立場を代表するのはなんとなく(自分自身が芸術家でないのに芸術展示作品取捨選択の監督をしているのとどのように整合するのか)不思議な主張です。
ウイキペデイア記載の津田大介芸術監督の発言と朝日の主張を再引用します。

芸術監督の津田大介は「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」と批判し[71]、また、津田を論説委員として擁する朝日新聞も「行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。」と批判を行った[

芸術監督というといかにも専門家のようですが、津田氏の経歴を見たように、ジャーナリストというだけで何の専門家かも不明で、はっきりしていることは朝日新聞の政治傾向と親和性のあるジャーナリストらしいというだけです。
芸術監督として選べばその人の政治姿勢そのママで良い、外野(行政や世論)は意見を言うべきでないというかのようです。
そこまでいうと芸術監督のレベル保証はどうなっているのかが気になりませんか?
津田氏の経歴によると芸術そのものに関する経歴がなく、芸術を政治利用した発言があるかも知れない程度のイメージしか伝わってきません。
政治組織内部で部下の一人を芸術監督すれば良いのか?
早速津田芸術監督や朝日新聞の主張を逆手に取った施設利用が行われたようです。
トリエンナーレ・不自由展に関するウイキペデイアの記事内にある参考事例に飛んでみると以下の通りです。
「不」自由展に対するアンチテーマとして「自由展」を開催しています。

あいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」
2019年(令和元年)10月27日に愛知県名古屋市の愛知県女性総合センター(ウィルあいち)で開催された芸術祭である。主催は政治団体の日本第一党の愛知県本部。
経緯[編集]
主催側の主張では、「国民からの猛反発を受けて一部が展示中止され、未だに責任の所在や事実の検証、展示再開是非で迷走を続けるあいちトリエンナーレ2019に対抗する日本人のための芸術祭として企画・開催された」[1]芸術祭である。 あいちトリエンナーレが愛知県や名古屋市などからの税金、県や複数企業からの後援を受けたうえで開催されていたのに対し、こちらは全て個人個人からの資金により開催され、県や企業からの後援を一切受けていない。また、一時停止後に再開されたあいちトリエンナーレ2019では撮影などが禁止されていたが、こちらでは参加者の顔を映さない限りは撮影や中継はほぼ可能としていた。
内容[編集]
桜井誠によるライダイハンについての講演と、同氏制作の芸術作品「ベトナムの子供」の展示、「不自由」と大きく書かれたバッグ、ベトナム戦争時の韓国軍兵士の蛮行を表現する紙粘土製「ライダイハン像」[3]、「犯罪はいつも朝鮮人」と書かれたカルタなどが展示された[4]。
芸術監督は長尾旭日本第一党副党首、会場責任者は谷口博史日本第一党愛知県本部長[1]
愛知県の大村知事は、「内容からしてヘイトに当たると言わざるを得ない。(内容を確認した時点で)中止を指示すべきだった」と述べた[5]。主催者側代表の桜井は「私はチマチョゴリを着てライダイハンの説明をしただけで、ヘイトなんて全くやっていない」「かるたは売っている物。それがヘイトというのは検閲じゃないですか」と主張した[9]。

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