国(くに)とは?4(日米和親条約)

現在人はいわゆる華夷秩序が意識の前提にあるので、自分の支配地域を国というと中国王朝の属国・・半独立国のイメージになるような固定観念が邪魔するのですが、華夷秩序は超古代から存在するものではなく国の上に君臨する秩序を宣言したのは秦の始皇帝が最初です。
それ以前には他地域支配者相互に国と表現していたのではないでしょうか?
相手が帝国というなら帝国でもいいし合衆国というならそれでもいいという日本の態度であり、華夷秩序外の欧米同様の態度ではないでしょうか?
実際に日米和親条約時の米国の態度はそういういうものでした。
日米和親条約をウイキペデイアで見てみました。

英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」であり、前述のように「Treaty of Kanagawa」と通称される。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ratification_of_the_Japan_USA_Treaty_of_Peace_and_Amity_21_February_1855.jpg?uselang=ja
これによると第一条に
「日本と合衆国とは、其の人民は永世不朽の和親を取結び・・・」

「安政3年(1854年)の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[31]。しかし日本の政治体制が知られるようになった安政5年(1858年)以降、徳川将軍が称していた外交上の称号「日本国大君」から「タイクン(Tycoon)」と表記するようになった[32][33]。一方で天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」[34]、「テンノー(Tenno)」などと表記されていた[35]」

国際社会では、誰が日本を代表するのかを気にしていますが、日本が帝国か、皇帝か国王かなど気にしていないのです。
双方署名欄部分のコピーが見られないので日本をどのように表現して署名していたか不明ですが、日本は第一条ではアメリカを国と表現しています。
ステートを国と習いますので、United States というのはまさに日本が三河国や尾張国などいくつかの国等で成り立っているという表現と同じです。
岩倉使節団のビクトリア女王宛の全権大使委任状を見ると大日本帝国と書かずに日本国天皇としています。
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/Iwakura-mission/photo/ininjou/index.html
公文附属の図・国書御委任状・第五号 大不列顛愛倫皇帝ウィクトリア陛下
請求番号:附A00302106 国立公文書館所蔵

日本の朝廷が大王(おおきみ)から天子、天皇の称号を唱えるようになるのは、聖徳太子の頃のようですが、正式公文書で決められたのは大宝律令(701年)以降のようです。
皇帝に関するウイキペデイアの説明によると以下の通りです。

「天皇」号の使用は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。
701年の大宝律令の儀制令と公式令において、「天子」および「天皇」の称号とともに、「華夷」に対する称号として「皇帝」という称号も規定されている[27]。

以上によると聖徳太子の頃から中国の王朝に冊封された王とは違うという意味で強がって天子と名乗ったことがわかりますが、だからといって帝「国」と主張した訳ではありません。
自国は帝国ではないので「国」であるが、華夷秩序に入って属国として「冊封された国ではない」という意味で天子と名乗ったのでしょう。
日本は中国歴代王朝に冊封されず、独立国の立場でやってきたというのが一般的理解ですが、聖徳太子以前の紀元前からの歴史がよくわからない教育をされ、それを鵜呑みにして迂闊にも私はその前時代を考えたことがありませんでした。
しかし近年考古学の大発見が続き日本の古代史が大きく変わってきました。
三内丸山遺跡発掘でわかってきたように、実は紀元前の縄文時代から大規模な集落を営み、かつ広域の交易をしてきたことがわかってきました。
聖徳太子から始める歴史(上記ウイキペでイア説明を含め)は無理が出て来ました。

三内丸山遺跡とは

三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

しかも、これだけの規模の集落が営まれてきたことから大規模な交易が行われてきたことも分かってきています。
ここから分かることは、聖徳太子以前の4〜5千年も前から日本列島外の諸集団と国際交流が行われていたことになります。

国(くに)とは?3(帝国)

日本の律令体制は、郡県制でも郡国制でもなく、地方を全て国にしたのは、直轄化するには力不足だったからではないでしょうか?
「こおり」の漢字表記として郡の漢字を当てていたことにより、旧国地域より小さいはずの郡を旧来の国を数カ国集めた大きさの郡にできなかったからと思われます。
郡に戻しますと、大和朝廷成立前・・前漢時代の倭国100余国というのは、まさに山脈に隔てられた流域を基本とした地域勢力・豪族勢力範囲と一致したでしょうから、中央集権制の中国の真似をして豪族4〜5部族の領域をまとめて国にすることにして、皆喧嘩しないように朝廷からその地域のまとめ役として「国司」を派遣するから・・・「みんな仲良く補佐してね!ということで中世の国人層(武士団)に当たる地方豪族を郡司を任命したのでしょうか。
実証研究に基づかない私のことば遊びの範疇ですが、ちなみに国司や郡司の司とは相撲の行司の「司」であって、アンパイヤーの役割であって下知する支配者ではなかったともいえます。
現在用語で言えば司会者でもあります。
国司はよそ者ですし、サラリーマンですので身の回りに仕える供のものが少しいるだけで自前の兵力もない・・ので地元豪族間の利害調整機能しか果たせません。
平将門の乱が起きたのは、古代豪族が荘園領主に入れ替わっていく過程で武士が勃興し中央から派遣される国司の調整能力が衰えたということでしょう。
鎌倉時代に朝廷任命の国司(守)の他に地元武士代表の守護が設置されたのは、この最終的解決策でした。
律令体制によって各地の・・現在の郡程度の小規模な支配をしている豪族支配地を60豫州の国に編成替えしたことによって、中国の冊封体制を日本列島に当て嵌めて、聖徳太子が「日出処の天子」と名乗った天子の地位を制度的に確立したことになりそうです。
列島内の全域・諸国を天下として、これを束ねる朝廷が中国の皇帝に当たる、中国皇帝が冊封する諸侯にあたる国に当たるのが列島内の邪馬台国や狗奴国等々の国々という縮小版です。
日本はまだ台湾島の植民地を持たない段階の明治憲法が「大日本帝国」憲法と称したのは理にかなっています。
明治維新・王政復古当時、封建体制に決別し中央集権化した明治政体は、広大な中国の縮小版として考えれば、被支配国を抱える帝国といい、天皇(皇帝)と称するのは一貫しているようですが、その後廃藩に止まらず地方制度から国をなくし各地に県令を配置するようになると、朝廷の支配下諸国がなくなります。
(列島内の諸国のトップを皇帝(天皇)が冊封する場合、皇帝は諸国の王に君臨するだけで、地方政治を国主・守に委ねる仕組みですが、県制度=地方の独立性を否定して、県令・中央派遣の官僚が中央政府の下部機関として治める仕組みへの変更ですから、この時点で(全部直轄地)天皇は皇帝でなくなっているはずです。
日清戦争後の台湾領有までの間は、天皇家は統一国家の王であって君臨すべき冊封国・地域がなかったのに明治憲法では大日本帝国と言っていたのが不思議です。
もしかして、王と皇帝の違いや帝国と國の違いは、明治維新当時は異民族支配しているかどうかではなく独立国かどうかの指標として「帝国」「皇帝」という名称を利用していたように思われます。
異民族を支配下に置く場合を帝国といい、その支配者を(王政の場合)皇帝というようになったのは、レーニンの帝国主義論以降のことではないでしょうか?
日清戦争後の下関条約第1条で清朝からの独立を果たした李氏朝鮮政府は、直ちに大韓帝国を自称しているのもこの傍証でしょう。
下関条約は以下の通りです。
https://ja.wikisource.org/wiki/

通称: 日清講和条約、下関条約、馬関条約

調印: 1895年(明治28年)4月17日
場所: 下関
日本側全権: 伊藤博文、陸奥宗光
清側全権: 李鴻章、李経方
第一條[編集]
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

大韓帝国に関するウイキペデイアの記述です。

冊封体制からの離脱[編集]
朝鮮国王高宗は1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。
国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。その後、清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。大韓帝国の皇帝位はかつて宗主国であった明朝皇帝の位を継承したものとされた。

上記の通り、李氏朝鮮は独立と同時に帝国自称ですから「帝国」とは属国の有無ではなく独立國と言う程度の意味だったと解釈すべきでしょう。

「さと」(郷と里)4

法人実在説論争に深入りしましたが、地方単位・・20年2月19日「江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2」の続きです。
「おさとが知れる」という時は(家風の文化水準)同族集団的古代集落単位を指し、「おさとはどちら?」という時・・故郷・・どちらかといえば江戸時代までの旧国名を主に指します。
お上から強制的な漢字の当てはめが通達されるとみな従うので文献上一挙に借り物の漢字「評」は完全抹殺されますが、発音としての和語がいわゆるオーバーラップして残るので、元の「こおり」と新たな郡とは少し範囲がズレるのでそっくり同じではありません。
国の造(みやつこ)に関するウイキペデイアによれば、国造が廃止されて国になったときの国と評の関係が表になって出ています。
大和の国に元3名の国造、山城国に元2名などの表が出ていますが、制度変更には領域や権限に変更を伴うことが多いことがわかります。
名称が変わるにはそれなりの理由があります。
我々の仕事分野・法の改正・禁治産制度が被後見制度に変わっても一見元の後見業務と似ていますが、制度目的が変わったので、運用の方向性が変わった・・資産保護の目的から被後見人の人間保護(資産保護はその1部)に変わったのと同じです。
郷里制に戻しますと、自己紹介で長野県出身というより木曽ですという方がイメージが伝わりやすいでしょう。
都道府県単位になってまだ約100年あまりでしかないので、民族的な一体性・特徴の紹介では旧国名の方がわかり良いからです。
今は大都市住民の多くが地方から出てきた2〜3世の時代ですので、東京ですというより多くの人が親の出身地をいうのも聞いている方の気持ちに応じる結果でしょう。
日本の「むら」がいくつか集まった「さと」やこれがさらに大きな単位になった「こおり」を朝鮮半島では評というらしいのでこれにするか!となって日本では「評の」漢字をあてていた可能性があります。
そもそも、朝鮮では原始集落に「評」の漢字を何故当てていたか不明ですが、ネット上でその原義まで書いたものが見当たりません。
朝鮮語の発音が漢字の「評」の発音と似ていたから?というの普通の推測ですが、私の素人憶測です。
「こおり」と言い習わしていたものを漢字導入初期に朝鮮では「評」と表記されていたものを借用していたものの、大宝律令制定を機に郡に変わったのではないでしょうか。
もともと借り物の漢字表記なので中央の命令で「今後こおりの表記を郡とする」と指示があればこれに従うのに何の抵抗もなかったでしょう。
律令制導入時に各地のいくつかの「こおり」=権力単位を集めて一つの国に編成し直したときに地域実力者数人が?郡司に任命され、中央から派遣国司との両立体制になったのだと思われます。
ちなみに日本では明治維新まで中国の地方制度・郡県制を導入しながら、県だけ採用しなかったのは、中国のような末端まで行き渡る中央集権体制・・社会が明治まで成立しなかったからです。
千年以上にわたって地方体制がいろいろ変わっても、もしかして縄文の昔・・紀元前何千年前から庶民は雑草のごとく踏まれても踏まれても、庶民・原始集落はその場にしがみついて縄文時あぢのDNAのまま変わることなく生き抜いてきたように見えます。
戦国時代から見れば、足腰になる地元国人層が(古代豪族から武家層に入れ替わって)戦国時代に信長や秀吉〜家康に攻められて支配トップが追い払われても、地元民はしぶとく生き残りますし、地元武士団.国人層の多くも本領安堵が原則でした。
武田家が滅んでも配下武将・・真田昌幸はその機に自立しましたし・叡山焼き討ちや根来攻めがあったと習っても、現在まで延暦寺や根来寺が残っています。
古くは、各地の神々(氏神様)がそのまま残っているのもその一態様です。
中国古代の郡県制はウイキペデイアによれば以下の通りです。

先秦の郡県制[編集]
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦代の郡県制
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
漢代以降[編集]
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。

中国での郡県制の内容はしょっちゅう変わっていますが、共通項は中央政府の官僚が派遣されて地方を直接統治する仕組みだったことになります。
明治維新以降日本の歴史始まって以来の郡県制採用ですが、日本の場合県が上位で郡がその下部機構になっています。
現在の県域は、大方の場合旧国名を数カ国(千葉の場合下総、上総、安房の3国)まとめた大きさになっていますが、律令体制下での国は、その前にあった国造を数名集めて1カ国にしていたことを冒頭紹介しました。
国造の支配地域と「こおり」の範囲の関係がはっきりしませんが、もしかするとほぼ同一だった可能性があります。
古代の地域単位としての「こおり」をいくつか合わせて律令制下の旧国名となっていたのですが、前漢の郡国制を見ると直轄地は秦同様の郡県制であり、遠隔地で直接支配困難地域を国として王として半独立的支配をさせていました。
郡国制に関するウイキペデイアの記事です。

帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したためこれを郡国制と称した。

法人実在説の有用性?

日本では判例上法人実在説が確立しているので、学者は別として、我々実務家では、遠い過去の「終わった」議論になっているはずですが・・・?
20年2月28日現在の法人本質論に関するウイキペデイアの記事です。

法人本質論とは、法人の制度について、その根本の理由を明らかにしようとするものである。
考え方によって、法人に対する法律の運用に大きな影響を与える。法人の本質には、法人擬制説、法人否認説、法人実在説の対立がある。
なお、法人擬制説と法人実在説の論争は法人税をめぐる議論にも存在するが民法におけるそれぞれの立場と同じものではない[1]。
法人擬制説は、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーの提唱した考え方で、自然人の平等な権利能力を前提とする民法において、法が特に人格を擬制したのが法人であるというもの。いかなる実体が法人として認められるかは法の裁量によることになる。
結果として、この理論は、二つの異なる論点を含むことになる。
法によって認められない実体は法人ではない
フランス革命モデルからも明らかなように、近代法の草創期においては、団体というのは個人の自由を阻害するものであると考えられた(ギルドなど)。
近代法は、自然人から構成される平等な市民社会を構想したから、このような団体は敵視され、たとえ団体たる実体を備えた社会的存在であっても、法が人格を認めなければ法人ではない、という思想が適合的であったわけである(樋口陽一の「法人の人権」否認論を想起せよ)。
この思想は、法人について特許主義を採用したい当時の国家の思惑とも合致したために、広汎に支持された。日本民法も33条で法人法定主義を採用しているが、これは、法人擬制説の表れと見ることができる。要するに、法人に対して謙抑的な法政策が採用される場合には、「法によって認められない実体は、法人ではない」という論理が強調されることになる。この学説の当初の思惑は、こちらである。
法によって認められた実体は法人である
これに対して、法人に対して拡張的な法政策が採用される場合には、「法によって認められた実体は法人である」というまったく正反対の方向のモメントが強調されることになる。例えば、現在の日本商法は一人会社を認めているが、一人の個人には社団性はない。しかしながら、法がそれを法人と認めるのであれば、仮令社団性がなくとも、それを法人と認めよう、という姿勢も論理的に演繹できるのである。
また、法人というのは、権利義務の帰属点を提供するための擬制に過ぎないのであるから、権利能力さえ認めれば十分で、行為能力まで認める必要はない(代理人の法律行為の効果が法人に帰属するという構成をとれば十分である)、という考え方と(必ずしも論理必然ではないが)結びつく。民法44条が「理事其他ノ代理人」として、理事を代理人と観念していたことは、起草者が法人擬制説を採用していた一つの根拠であるとされることがある。
法人否認説[編集]
法人否認説は、ルドルフ・フォン・イェーリングなどにより主張された考え方で、法人擬制説を発展させたもの。法人という擬制の背後にいかなる実体(真の法的主体)があるのかを解明しようとする。その解明の結論により、法人の財産が実体であるとする説(目的財産説)、法人の財産を管理する者が実体であるとする説(管理者主体説)、法人の財産によって利益を受ける者が実体であるとする説(受益者主体説)がある。
法人実在説[編集]
下記の法人有機体説・法人組織体説・法人社会的作用説をまとめて、「法人実在説」と呼ぶ。法人擬制説に対するアンチテーゼとして、このようにまとめて扱われることが多い。
日本の判例・学説においては法人実在説がやがて主流となった。この結果、法人擬制説に傾倒している日本民法を、法人実在説的に解釈していくということになった。このことも、次の二つの異なるモメントを包蔵する(但し、法人擬制説の二つのモメントとは異なり、同方向のヴェクトルを指している)
たとい法が法人と認めていない社会的存在であっても、それに相当する実体を備えている場合には、(組合ではなく)法人に準じた法的処理をしようということになる(法人擬制説を採るならば、このような法関係は一律に組合契約として処理することになる)。これが、いわゆる「権利能力なき社団」や「権利能力なき財団」であり、いずれも判例・通説の認めるところとなっている。
たとい法が法人と認めている社会的存在であっても、それに相当する実体を備えていない場合には、法人格を否定しようということになる。これが、いわゆる法人格否認の法理である。法人格否認の法理は、判例の認めるところとなっている。

民法44条の削除はhttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law/44/によれば以下の通りです

本条は2008年12月1日の法人整備法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」)、法人法(正式名称「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」)、公益認定法(正式名称「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」)の施行により、削除されました。
旧民法44条の規定は、次のとおりです。
旧民法第44条第2項(法人の不法行為能力等)
1 法人は、理事その他の代理人がその職務を行うについて他人に加えた損害を賠償する責任を負う。
2 法人の目的の範囲を超える行為によって他人に損害を加えたときは、その行為に係る事項の決議に賛成した社員及び理事並びにその決議を履行した理事その他の代理人は、連帯してその損害を賠償する責任を負う。
昨日見たttps://www.minnpou-sousoku.com/commentary-on-civil-law44の引用続きです。
2008年の民法改正以降の本条に対応する新規定は、法人法第78条・第117条・第118条です。
また、法人の不法行為能力に関しては、法人法に多くの関連規定があります。
とありますので、略称法人法を見ておきます。
七十八条 一般社団法人は、代表理事その他の代表者がその職務を行うについて第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
(役員等の一般社団法人に対する損害賠償責任)
第百十一条 理事、監事又は会計監査人(以下この款及び第三百一条第二項第十一号において「役員等」という。)は、その任務を怠ったときは、一般社団法人に対し、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民法旧規定の「役員その他代理人は」という民法旧規定の「代理人」をなくして、「代表者が」と変更しています。
商法では早くから代表者代表取締役という名称が採用されていたのに対して民法の改正が遅れていただけのことでしょう。
ちなみに現行商法は明治32年法律第48号最終改正:平成30年5月25日法律第29号
ですが、平成17年に会社法部門が独立法になって削除されるまで、商法中に会社法がありました。
私が法学部に入った頃には、すでに代表取締役の文言があったのでいつからそうなっていたかでしょう。
旧商法に関するhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945296/8・・(官報. 1890年04月26日)を見るとロエスレル商法全文が記載されているので、これの186条を見ると「取締役代理権」という文言になっているので、当時は民法同様に代理権という考え方だったようです。
旧商法の施行期間はhttp://www.i-design-lab.jp/companyvalue/corporate-governance/によれば、以下の通りです。

この法律は明治23年に施行されて8ヶ月で施行延期?されたもので、日本で本格的に施行された商法は現行商法(1899年明治32年)になります。
ロエスレル商法草案が脱稿したのが明治17年ですが、旧商法が公布されたのは明治23年、それも8ヶ月で施行延期となり、会社法・手形法・破産法など一部が施行されたのが明治26年、新商法として施行されるのは明治32年と完全施行までなんと15年の月日を要している・・・。
http://www.waseda.jp/hiken/jp/public/sousho/pdf/41/ronbun/A79233322-00-0410175.pdfはロエスレル商法の研究論文ですが、(取締役3名以以上との規定があるが取締訳解の規定が欠けているという流れの中で明治32年の新商法169条、170条で、「取締役各自執行、各自代表」になっているとの紹介があります。
ということは明治32年段階で既に代理ではなく「代表」とする法制度が始まっていることになります。
以上によれば民法の旧条文に代理と書いていることを理由にする(だけではないですが)部分は、法人擬制説は揚げ足取り的主張としてついにで行った程度でしかないので基本法である民法を改正するまでもないと長年放置されていたのではないでしょうか?
必要な議論は、一定の組織集団には独自の経済主体性がある・・だからこそ社会的有用性があって議論しているのですから、・・のでその集団にその名で一定の権利を享受する資格・当事者適格を与えるべきかどうかの問題でしょう。
誰でも集団を名乗ればそういう資格を得られるのでは、社会が混乱するのでどういう資格をどういう集団に与えるべきか→それにはどういう要件がいるか?その基準・要件を国家が決めてその要件・基準を満たしている限り一定の資格を与えるという制度です。
それを法人と言うかどうかは別として、一定の活動能力を与え、活動させる以上は、それに必要な資金や資産の保有者でないと契約も何もできません。

法人本質論

ウイキペデイアによる解説です。

法人格否認の法理とは、法人格が形骸にすぎない場合や法人格が濫用されている場合に、紛争解決に必要な範囲で、法人とその背後の者との分離を否定する法理。
アメリカの判例理論に由来する法理である。日本の法律に明文の規定はなく、1969年(昭和44年)の最高裁判所第一小法廷判決[1] 、最高裁によってその法理としての採用が初めて認められた。以降、裁判例での採用が相次ぎ、学会での研究も進んだが[2]、実定法上の根拠は商法・会社法上には存在せず、民法1条3項などの一般条項に求められる[3]

私が法律の勉強を始めた頃の基本書には法人は法の擬制によるのか?法人ってほんとに人なのか?
まだ、法人擬制説と実在説の両論があってその優劣が論じられるのが勉強の始まりでした。
いまどきそんな議論をする人はいるのでしょうか?
日本では判例上法人実在説が確立しているので、学者は別として、我々実務家では、遠い過去の「終わった」議論になっているはずですが・・・?
20年2月28日現在の法人本質論に関するウイキペデイアの記事です。

法人本質論とは、法人の制度について、その根本の理由を明らかにしようとするものである。
考え方によって、法人に対する法律の運用に大きな影響を与える。法人の本質には、法人擬制説、法人否認説、法人実在説の対立がある。
なお、法人擬制説と法人実在説の論争は法人税をめぐる議論にも存在するが民法におけるそれぞれの立場と同じものではない[1]。
法人擬制説は、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーの提唱した考え方で、自然人の平等な権利能力を前提とする民法において、法が特に人格を擬制したのが法人であるというもの。いかなる実体が法人として認められるかは法の裁量によることになる。
結果として、この理論は、二つの異なる論点を含むことになる。
法によって認められない実体は法人ではない
フランス革命モデルからも明らかなように、近代法の草創期においては、団体というのは個人の自由を阻害するものであると考えられた(ギルドなど)。
近代法は、自然人から構成される平等な市民社会を構想したから、このような団体は敵視され、たとえ団体たる実体を備えた社会的存在であっても、法が人格を認めなければ法人ではない、という思想が適合的であったわけである(樋口陽一の「法人の人権」否認論を想起せよ)。
この思想は、法人について特許主義を採用したい当時の国家の思惑とも合致したために、広汎に支持された。日本民法も33条で法人法定主義を採用しているが、これは、法人擬制説の表れと見ることができる。要するに、法人に対して謙抑的な法政策が採用される場合には、「法によって認められない実体は、法人ではない」という論理が強調されることになる。この学説の当初の思惑は、こちらである。
法によって認められた実体は法人である
これに対して、法人に対して拡張的な法政策が採用される場合には、「法によって認められた実体は法人である」というまったく正反対の方向のモメントが強調されることになる。例えば、現在の日本商法は一人会社を認めているが、一人の個人には社団性はない。しかしながら、法がそれを法人と認めるのであれば、仮令社団性がなくとも、それを法人と認めよう、という姿勢も論理的に演繹できるのである。
また、法人というのは、権利義務の帰属点を提供するための擬制に過ぎないのであるから、権利能力さえ認めれば十分で、行為能力まで認める必要はない(代理人の法律行為の効果が法人に帰属するという構成をとれば十分である)、という考え方と(必ずしも論理必然ではないが)結びつく。民法44条が「理事其他ノ代理人」として、理事を代理人と観念していたことは、起草者が法人擬制説を採用していた一つの根拠であるとされることがある。
法人否認説[編集]
法人否認説は、ルドルフ・フォン・イェーリングなどにより主張された考え方で、法人擬制説を発展させたもの。法人という擬制の背後にいかなる実体(真の法的主体)があるのかを解明しようとする。その解明の結論により、法人の財産が実体であるとする説(目的財産説)、法人の財産を管理する者が実体であるとする説(管理者主体説)、法人の財産によって利益を受ける者が実体であるとする説(受益者主体説)がある。
法人実在説[編集]
下記の法人有機体説・法人組織体説・法人社会的作用説をまとめて、「法人実在説」と呼ぶ。法人擬制説に対するアンチテーゼとして、このようにまとめて扱われることが多い。
日本の判例・学説においては法人実在説がやがて主流となった。この結果、法人擬制説に傾倒している日本民法を、法人実在説的に解釈していくということになった。このことも、次の二つの異なるモメントを包蔵する(但し、法人擬制説の二つのモメントとは異なり、同方向のヴェクトルを指している)
たとい法が法人と認めていない社会的存在であっても、それに相当する実体を備えている場合には、(組合ではなく)法人に準じた法的処理をしようということになる(法人擬制説を採るならば、このような法関係は一律に組合契約として処理することになる)。これが、いわゆる「権利能力なき社団」や「権利能力なき財団」であり、いずれも判例・通説の認めるところとなっている。
たとい法が法人と認めている社会的存在であっても、それに相当する実体を備えていない場合には、法人格を否定しようということになる。これが、いわゆる法人格否認の法理である。法人格否認の法理は、判例の認めるところとなっている。