都市国家(天守閣復元と地域密着度)2

四国各地は、秀吉の四国征伐後に入封した大名(蜂須賀家や)関ヶ原で敗軍の将となった長宗我部氏の支配地であり、主に関ヶ原後に各地に徳川家の論功行賞によって大名家が入ってきて支配した・・地元民信条としては徳川体制下での反徳川機運の強い地域だったことになります。
特に高松城は、全国的に知られた大規模な天守閣が自慢のようですが、自慢の天守閣なのになぜ今だに復興できないかをネットで見ると、もともと地元に保存意欲がなかったようで、明治に入って解体されてもともとなくなっていたもので、米軍空襲によって無くなったものではないようです。
入封した大名家は、四国の抑えとして徳川一門松平氏の入封によるもので、もともと敵地占領支配の象徴的役割を担っていたので現地民に威容を示す必要から天守閣もご大層なものにしたように見えます。
山内一豊の場合、掛川から土佐への移封後長宗我部遺臣のいわゆる一領具足が怖くて、何年も領地入りできなかった故事が有名ですが、山内家だけでなく四国中の大名家全部が占領軍の気分そのままで地元民敵視・警戒のままで、幕末まできたような印象です。
そういう目で見れば、徳島の蜂須賀家も秀吉の四国征伐の恩賞でもらったもので地元自然発生的武士団ではない・・徳島に行っても城跡があるのみで、天守閣が復元されていません。
よそ者支配といえば、和歌山城も徳川御三家でよそ者ですが、現地地生え大名を滅ぼしての入封ではない点の違いでしょうか?
徳川家家臣団が付いてきたでしょうから、支配層上部は地元代表の武士団でないものの、紀ノ川平野は根来寺や高野山領など宗教系支配地が入り組んだ地域で(雑賀衆、根来衆という戦闘プロ集団が有名ですが・・)地生えの戦国大名=一円支配大名が育たなかった?結果、国規模の支配層がいなかった空白地に入り込んだので平和裡に入れ替われたのかもしれません。
地元小豪族の乱立状態のお国入りの場合、佐々成政の肥後国支配の失敗の例にあるように、地元小豪族・国人層との折り合い能力にかかってきます。
上記のように紀伊家の領地は複雑な地域を包含した特異地域でしたが、(穀倉地帯の紀の川沿いだけでなく、紀伊半島全体で見るとほぼ海外線中心ですから、産業的には九鬼水軍を筆頭にした漁業専門地域で、陸戦向けに特化している三河武士団にとって最も不得手な産業構造の地域です。
にも関わらず現地融和が進んでいたのは、多分紀伊家初代以降の政治力が高く地元融和に成功したのでしょう。
「てんてん手毬の手がそれて・・紀州の殿様お国入り・・・・」の童謡が知られるように、敵意に囲まれてのお国入りではなかったのでしょうか。
子供の頃になんとなく耳に残っている童謡を思い出してここに書きましたが、念のためネット検索して見ると意外に新しいようです。
毬と殿さま   作詞 西條八十  作曲 中山晋平
とわかりました。
昭和4年の作品らしいですが、戦後全盛期だった作詞家ですから、子供の頃から耳に残っているわけで、江戸時代からの地元民の気持ちを表すとは言い切れませんが、東京生まれの西條八十が、紀州の殿様と手毬唄をどういう時代考証あるいは直感で?結びつけたか不明ですが、人口に膾炙するような童謡の詩にしたのは、紀州の殿様に対するなんらかの好感度があったのでしょうか。(全く根拠ありません)
日本では異民族支配を受けたことがないので、上は天皇から下は路上生活者まで同胞としての一体感は古代からのものですが、西洋では民族国家概念はナポレン戦争に始まる新しい概念にすぎません。
日本書記の仁徳天皇の「民の竈」を気にかけた故事は事実かどうかが問題ではなく、その時代の書物にこのようなことを気にかけた人徳のある方であったと書いていることが、こういう人こそ「帝王の鑑みである」とする価値観で編纂されている・民族的価値観の基礎が古代からあるという事実です。
これが平成天皇が重視した同胞意識・・絆重視の姿勢につながっているのでしょう。
明治憲法前文も似たような趣旨・・・祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民・・で貫徹しています。
大日本帝国憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・

ナポレオン戦争以降は近代植民地(市場獲得)戦争に勝ち抜くための総力戦には支配対象であった土民の協力が必要なので、単なる支配対象ではない・民族一緒にがなバルという掛け声が必要になり、民族意識を便宜上持ち出し利用してきたに過ぎないので未だピンと来ない人が多い・・希薄なのでしょう。
この代表格で、まだ民族国家より地元中心意識が強いのがイタリアというイメージです。
現在のEU設立は過剰民族国家意識緩和のための揺り戻しではないでしょうか?
この視点で見れば、13日英国の総選挙で保守党大勝→ブレグジット・EU離脱条件取り決めないままの離脱が現実化してきましたが、ナポレン戦争以前から島国の関係で大陸諸国より早く民族性が形成されていたイングランド(同じキリスト教社会に入っても国教会をローマ法皇から独立させるなど)では、もともと民族意識強固なのでこれに我慢して付き合ってきたが、我慢の限界がきたということでしょう。
離脱するための事前交渉がまとまるかどうかに関わらず早く縁を切りたいのが、保守党支持者中心であり、EU残留に色気があるのが労働党というのは、世界市民意識の強い革新との違いがはっきりした選挙結果です。

市民・・都市国家から地球市民へ1

都市国家成立の場合、商人の進出先現地との文化・治安水準の隔絶的格差を前提にしています。
日本の「市」は、同一民族間の地域特産品物の交換・不足品交換前提の市場から始まっているので「市」が常設されるようになっても、市内外の文化格差がないので市の内外を仕切る必要がありません。
千葉県の八日市場市(平成の大合併で匝瑳市になりJRの駅名が残っています)も内外を仕切る城壁はありません。
千葉県の勝浦その他全国に残る「朝市」を見ても同じです。
商品販路先での駐屯地で一定の日常生活を居住人口でまかなえる程度の規模になると英語の場合CITYというようになったのではないでしょうか。
(都市国家成立時の表現に、英語を語源であるかのように使うのはおかしいですが、今では英語が西洋標準語的言語になっているので西洋の代表言語として英語を利用しているだけです)
日本では飛鳥時代に三輪山の麓に開かれた海柘榴市が有名ですが、市場が常設化して大規模集落に発展する前に首都機能が先に発達したのでみやこを意味する「都市」と言いますが、CITYを「都市」と翻訳するのは、「人が多いところ」という結果をいう意味では正しいですが、成り立ちをいう言葉としては同じではありません。
本来は「市」の漢字1つが正しいのでしょうが、日本語は二音ないと落ち着かないところがあるので、商品交換の場を「市場」と言い、都市そのものの表現と言い分けるのは、人の集まりからの発展には「市場」からの始まりと「都」からの始まりの2系列があり、結果的に融合していったからでしょう。
中韓では漢字一つが市の表現ですが、日本に来ると金さんが金田とか金本のように二字に変えるのが普通です。
単に「市」=「し」と発音するのでは意味不明なので、接頭辞でも良いから何かくっつけて二文字にしたいのが日本人です。
京だけでは落ち着かないので京の都とか京師とか言うのが普通です。
みやこ以外の市街地・・日本では城下町(城の外の街)に対し中国的意味では要塞で囲まれた場所を前提とするので城市となるのでしょう。
都市国家社会では城壁に囲まれた状態になっているのが普通で、日がくれれば城門を閉ざし、夜明けと共に城門を開けるのが一般化していたので、中国の鶏鳴狗盗の故事になるのです。
市街を守る城壁は周辺住民を敵視し、内外を画する目に見える線引きだったのです。
市の内外境界を目に見える頑丈な隔壁で仕切る社会の場合、入城鑑札取得できるフリーパスの地位獲得どころか、市民の仲間入りが認められることが、この上ない特権獲得になります。
日本で言えば、取引先企業本社にフリーパスで入館できるどころか、そのビル内に一室を与えられるような待遇です。
欧米かぶれの文化人が何かというと「市民権」「市民感情が許さない」など市民代表的主張をする所以です。
定役で囲まれた市の外側にいるのが人民となるのでしょうか?
市民と人民の違いについてはこの後で書いていきます。
我が国でも左翼系教養人が何かあるごとに「市民が・・」と表現するのは欧米系熟語を使うことが教養人を示す「しるし」になるからでしょう。
日本の都市は農業集団間の産物・情報交換の場・市(古代の海石榴市・・ツバイチなど)から始まり、市の立つところに街ができたのではなく、人の集住する場に市をたてた方が効率が良いという逆方向の発展を遂げたように思われます。
今でも、欧米流アウトレットモールとか郊外立地の大規模モールの運営用法は、何もない空き地に「市」を立てそこに客を呼び込む方法ですが、日本の場合、もともとは門前町や城下町、戦後は駅前商店街などから始まるのが原則です。
都周辺〜門前町〜各地城下町〜工業化が進むと企業城下町〜港湾都市等の成り立ちですので、周辺住民の習俗行事等の凝集地域・・地域住民習俗の表現の場であり地域の気風を表す象徴ですらあり、商人と購買層は対立関係ではありません。
お城はその地域社会繁栄の象徴であり支配の象徴ではないので、空襲で各地のお城のほとんどが消失してしまったのですが、戦後復興が軌道にのると各地お城の天守閣復興の動きが優先的に?始まったのはその象徴です。
例えば和歌山城天守で見れば以下の通りです。
http://www.wakayamakanko.com/sightseeing/history1.html

和歌山城天守閣
白亜の三層の大天守閣。虎伏山の頂上に位置し、市街地を四方に見下ろすことができ、大パノラマが広がります。
現在の天守閣は、戦災後の昭和33年(1958)に再建された

国全体が焦土化した大被害のわずか13年後にどこからの援助もなく?地元民の力で復元したものです。
東北大震災の場合、東北だけの被害なので国を挙げての資金投入・人材の応援体制ですが、戦後日本列島全域で食うや食わずから始まった状態で、先ずは収入源となる産業復興に資源を集中していた約10年間の間に、地元民の熱意があってこそ優先課題として復興工事の計画が進み実行されたものでしょう。
対照的な動きとして香川県高松城の天守閣復興運動が今だに地元で盛り上がらないという理由でうやむやのままらしいです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit
引用省略

上記城割の絵図面を見ると驚いたことに地元民からの攻撃を恐れたわけではないでしょうが?
お堀の中に侍屋敷が配置されて、地元民と生活空間がはっきり仕切られている状態ですから、これでは地元民との交流が希薄だったように見えます。
文字通り占領支配体制が露骨に見えます。
地中海や中国で発展した都市国家そのものの姿です。
これでは徳川300年の間、地元との一体感が育っていなかったから天守閣復元機運が盛り上がらないのではないでしょうか?

香港とドイツ繁栄の相似

現在の香港人の殆どはイギリス領香港になってから移住してきた人たちの子孫です。
中国に関係ない遠隔地のシンガポールにイギリス領になってから移り住んだ人たちと同じ境遇です。
シンガポールがいきなり中国に占領されてあるいは割譲されて中国支配下に入るのと同じような関係と見れば香港人が本土との一体化に嫌悪感を抱いている気持ちはわかる気がします。
元は同じ地域出身であっても、違った成長を遂げて違った価値観を持つようになった一団の人々が出来上がっているのですから、外部の力関係で元の団体と合併しろと言われても無理があるでしょう。
西欧で言えば元は同じ人種的ルーツが同じ?でも、長い間に民族ができ上がって別の国に分かれてきたように今の中国人民と、ベトナム人、シンガポール人は元は中国大陸から流れてきた人が多くても今更中国と合体したいと思う民族はほとんどないでしょう。
香港が中国本土と切り離されて、まだ200年経ちませんが、その間に価値観で言えば一方は共産主義から独裁主義=不自由主義で他方は自由市場主義の権化みたいに変貌してまさに180度逆方向を向いてきました。
価値観において水と油のような関係になっている香港の中国一体化は、香港住民の祖国復帰の願望によったものではなく住民意思と無関係に決められたものです。
例えば、リトアニアがドイツ支配下にあったとした場合、ソ連とドイツの取引によって今後はソ連領になったと言われたようなものといえば言い過ぎでしょうが、英国領と中国領のどちらがいいかについて住民意思を無視したまま決められた点に大きな問題があるようです。
先進地域の高度な生活に慣れた香港人やシンガポール人が、後進国中国人民と同じ待遇を強制されるのは喜ぶどころか嫌でしょう。
戦時中空襲等の危険から避けるために東京の子供が田舎に疎開して地元の子供と同じ生活をするのが大変だったことが知られていますが、命がけなので仕方なかったのですが、(受け入れる方も大変だったでしょうが)これです。
進んだ都会で田舎の子供を預かると田舎の子供は大変な思いをしても、進んだ都会の生活・都市文化を身につける進歩の喜びがありますが、豊かな生活から数十年以上遅れた非衛生な生活習慣を強いられる方はたまりません。
目に見えないものですが、自由の雰囲気あるなしも重要指標です。
農村の嫁不足が一時期大きな話題になったことがありますが、その一因として田舎の生活は窮屈だというものがありました。
窮屈とは何かですが、田舎の人はうるさすぎる・・着ているもの一つでもあんな格好してとかケチをつける?これがイヤだというのですが、結局は不自由ということでしょう。
11月末頃に環境等の数値を含めた社会価値の向上力でいうと中国の過去のGDP上昇率は、何分の1になり日本上昇率は何倍かに変わったと紹介されていましたが、その中に自由な表現のできる国かどうかの指標はなかったでしょうが、生活豊かさ指数であれば大きく影響がある項目でしょう。
同じ生活水準ならば、表現自由度が高い方が、気持ちが良いものです。
1000万円の年収入が800万円に減る程度で済むなら人に使われるより独立したいのが人情と言われる所以です。
リストラ→M&Aによる企業や営業譲渡契約では雇用維持を決めるのが普通ですが、労働条件というものは経営環境に応じた変更は避けられません。
老舗企業がジリ貧で買収される場合は概ねぬるま湯的好条件職場が多く、買収する方はハングリー精神で脇目も振らずに猛烈型で頑張ってきた企業が多いと、契約で雇用維持を決めても買収された方の従業員にとっては労働環境が厳しすぎるので歯が抜けるように出て行く傾向があります。
香港のように地域丸ごと・施政権譲渡の場合、50年間経過措置があるとしても香港と大陸の生活・文化・自由度等々の格差が縮まらない限り、完全統合した場合かなり厳しい結果にならざるを得ないでしょう。
ここで11月17日「都市国家2」の続き・都市国家と周辺地域住民関係に戻ります。
都市国家そのものではないですが、ドイツと西欧内の経済的関係では、香港と中国本土、シンガポールとマレー半島の関係に似ています。
ドイツは欧州内で日本の東京や大阪、名古屋のような地位を占めているのに他国(日本で言えば地方)へ所得再分配しないママ・・経済的な矛盾放置がEUの弱体化(不満)につながっていることをEU関連コラムで書いてきました。
西洋社会は古代都市国家形式の地中海・ギリシャ・ローマの歴史をモデルとしているので、都市を囲繞する城壁外の土着民との一体感がない支配被支配の対立構造が基本です。
(イギリスの場合ノルマンコンクエラーを歴史で習うので多くの人が知っていますが、西欧全体が支配者と現地人とは民族が違う社会です)
ドイツと南欧諸国とは都市国家と周辺住民関係そのものではないですが、異民族対応・異民族の面倒まで見る必要があるか?という意識の点で類似です。
地中海で発達した都市国家(正確には国家とは言えないでしょうが、利害共同体の単位のことをここでは書いています)では土着民は城壁内の市民とは明確に区別されている野蛮人・未開人扱いでした。
現地土着民は城内・市場取引を取り仕切るボス=中国では「王」発行鑑札を持っているいわゆる出入り許可のある者だけが出入できる仕組みでした。
市民とは「市場取引参加資格のあるもの」というのが語源だと思いますが、日本と違い異民族地域に商人が進出した当初は、船から降りない船上取引だったようです。
(車での行商がほぼ決まった日時に特定場所を巡回するようなもの)
そのうち、現地小屋掛に似た拠点が固定されるようになると襲撃を避けるための柵と城戸(木戸)が発達します。
臨時駐屯所が、年中所在する常設になると単なる砦から市場取引に参加する商人の日常生活に必要な食事準備や衣類等々の世話する者や、倉庫等々の関連人員が住み着くようになりその時代に必要な自給自足的生活を賄うに必要な程度の人口集落になります。
こうなると本格的な城壁が必要となり城門ができてきます。
この段階に至れば、いわゆる都市国家の原型でしょう。

人民と棄民の親和性(香港騒動と米国人権法)

中韓思想大事の影響を受けた日本人権活動家は、30年ほど前、改革開放後残留孤児大量帰還が始まった時に頻りに「棄民政策」という用語を使っていました。
聞きなれない熟語に当時ピンと来ませんでしたが、今になるとこれは中国〜韓国の人民思想を日本に当てはめた借り物概念だったように見えます。
文化大革命当時メデイアを通じて「造反有理」などのスローガンを氾濫させた再現のつもりだったかもしれません。
中国や朝鮮では古代から歴史では、支配被支配の2項対立社会ですから、被支配者は支配・政治の対象でしかない・牧畜業の家畜や企業で言えば商品みたいな対象です。
不要な商品を廃棄するような社会では人口が多過ぎれば口減らしのために国外に吐き出す・・棄民がぴったりの表現でしょうが、日本は満州へ同胞をゴミのように捨てたわけではないでしょう。
満州へ開拓団として赴いた青年らは、お国のために出かけたものですし、送り出した方も、満蒙開拓団員として出ていった子供を心配しない親兄弟はいなかったでしょう。
棄民政策とはあまりにも先祖を卑しめる表現です。
ゴミのように国民・同胞を海外に捨てる思想は我が国の現実に合わない・・中国社会の説明を鵜呑みにする主張が多すぎるので左翼系は信用をなくすのではないでしょうか。
日本政府は棄民したのではなく不可侵条約破棄によるソ連軍の突然の侵攻によって在留日本人家族が逃げ遅れたし、兵隊さんは無条件降伏→武装解除するとシベリアに連行されて文字通り奴隷労働を強いられたソ連の蛮行を覆い隠す便利なスローガンだったのでしょう。
敗戦後日系米人等の移民が日本本国人より豊かにしていてもやっかむような話を聞きませんでしたが、中国や韓国では政府の人民圧迫が強く苦しい毎日を送っているから、幸福そうな人を見ると妬み等に苛まれる・政府も人民の政府に対する不満をそらすために自害同胞に対する妬み心をそそるので余計そうなる面があるのでしょう。
韓国では世界一自殺率が高いほか、国外脱出願望の高さや国外売春婦輸出の多さなどなど、不幸指数というものがあれば世界ダントツというべき国ではないでしょうか。
19年11月23日まで中韓国民の不幸度を書いてきましたが、以下はその続きになります。
今回のノージャパン運動で困っているのは韓国人観光客特化によって潤ってきた韓国系資本のホテルや在日の経営する土産物店、韓国経営航空会社中心(対馬の現状を紹介してきました)が実態です。
(韓国客が減ってもトータル観光客が増えているので日本人経営のホテルや日本の航空会社も観光関連業界・対馬のように韓国客に偏った地域が部分的に困っているものの日本全体では増加傾向です)
にも拘らず韓国側では、ボイコットジャパンで成功していると思っているような強がりを言っているのは、日本人に対するより在日や対日投資で儲かっている本国企業に対するやっかみの方が強い・・歪んだ心理が本音にあるからかもしれません。
香港の誇る自由がなくなりそうな危機に際して、「香港でさえ言論の自由がなくなれば明日は我が身にもっと厳しく及ぶかも?」と本土人は香港人と懸念を共有する気がない・・応援する気になれない報道(メデイアによる情報操作でないとすれば)は、韓国人の在日に対するのと似たようなゆがんだ心情があるからでしょう。
中国政府は、中国本土での人民監視や締め付けを厳しくすればなるほど、中国領土として自由に往来できる香港でも自由を締め付けないと本土人との格差が大きくなりすぎて本土人民に示しがつかないから、香港に対しても締め付けが厳しくせざるを得なくなってきたようにも見えます。
本土では表現行動の自由の締め付けが日々強化される中で本土の人民にとっても香港の自由がなくなるのは重要な利害がある筈ですが、連帯の心さえ持てないほど、本土人民と香港人には相互反感の歴史があるのかもしれません。
中国は国際社会で香港書店主の拉致事件報道があっても無視・・問題にしないフリでしたが、やはり香港でも合法的身柄拘束できた方が良いので、本土への拉致合法制度化・犯罪人引渡し条例の立法を公然要求するに及び、さすがに香港市民の危機感が募ったのでしょう。
中国政府の気に入らない発言・思想表明すれば好きなように拉致されていたのが、今後合法化されてしまうのでは、言論の自由の形骸化どころではすみません。
身近に思想統制の網が広がってきた危機感で一般市民も怖くなって黙ってられなくなったようです。
ウイグル族が百万人近くも収容され、思想改造教育を受けていると知っても遠くの事件だったでしょうが、今度は自分たちの番になって、思想改造収容所にいれられたのでは、叶いません。
香港市民が最後の踏ん張りを見せたのは、今回に限りちょうど米中対決下で米国の応援が期待できる国際環境にあったことも影響しています。
米国としては、対中対決の材料として遠慮なく中国批判し、関税攻撃だけでなく人道批判攻撃(だけでなく、自由市場としての香港の経済価値を死滅させる脅迫)手段も手に入れたことになります。
11月28日のニュースでは米国で香港関連のいわゆる人権法が大統領署名により成立したと報道されています。
香港人は本土の同胞?の連帯表明よりは、米国や国際社会の連帯の方が重要と見ているいるようです。
本土と香港人は同族の連帯感などあてにできない、異民族関係同様の心情になっていると見るべきでしょうか?
中国では人民の抵抗など幾百万あろうとも戦車で簡単に蹂躙できるので気にしない政治体制・・抑止力は国際政治圧力しかないと冷厳な事実を知っているようです。
香港の場合本土と隣接しているので誤解しますが、元々の住民がほとんどいないところに華僑流入でなり立っている点ではシンガポールと成り立ちが同じです。
香港が英国から中国に返還されたと言っても、香港人は清朝時代から香港に住んでいた人たちの子孫ではありません。

本国人の在日嫉妬心2(中韓の棄民思想1)

韓国本国人の在日に対する視線の現状(と言っても18年のことらしいです)紹介です。
https://matome.naver.jp/odai/2146272915783454301

更新日: 2018年10月28日
この記事は私がまとめました  makaizouさん
在日朝鮮人が資産を処分して次々と帰国!?
不況に苦しむ韓国の若者に在日は「特権」を持っていると映る
慰安婦問題を巡る昨年末の日韓合意以降、朴槿恵政権は公式の場での「反日」を封じ、今年1月の国民向け年頭談話や、日本からの独立記念日である8月の「光復節」でも歴史認識問題や慰安婦問題に触れることはなかった。
朴政権の反日がトーンダウンしたことで、韓国国民は不満の捌け口を失い、その矛先が在日コリアンに向かっている。ネットでは日本批判にかわって、在日を厳しく糾弾する書き込みが目立ち始めた
「2012年に兵役法が改正されるまで、在日韓国人男性のほとんどが『在外国民2世制度(*)』によって実質的に兵役を免除されていました。韓国での滞在期間や就業にも制限がないから、韓国と日本を往来して大金を稼いでいた者も多い
私たちが在日を韓国人と認めないのは、彼らがまったく祖国に貢献せず、与えられた“特権”に胡坐をかいているからです」(30代・韓国人男性)
朴政権の反日封印でネットでは日本批判にかわって在日糾弾
韓国社会には「在日1世は強制徴用で日本に連行された可哀相な人々」との共通認識がある。歴史認識の是非はともあれ、海外に暮らす同胞に特別な心情を抱くのは、同じ民族として当然のことだろう。
一方で、韓国が在日に対する差別意識を抱き続けていることもまた事実である。特に、日本生まれの在日2世以降に対する風当たりは強い。
裏金疑惑で目下、世論とマスコミの袋叩きに遭っているロッテグループの一連の騒動でも、韓国社会における在日差別が露呈した。
在韓ジャーナリストの藤原修平氏は、「在日への差別意識が高まった背景には韓国社会に充満する嫉妬心がある」と分析する。
「当時は日韓の経済格差がまだまだ大きく、韓国人は裕福で身なりが洗練された在日に接するたびにショックを受けていたそうです。それはやがて嫉妬心に変わっていきました。さらに、日本から来た在日が起業やビジネスで成功すると、『自分たちの生活を脅かす目障りな存在』と疎むようになったのです」
その後、韓国はアジア有数の経済大国になるまでに発展した。
しかし、未だ「在日への警戒心は拭えない」と、韓国の大手企業に勤める20代男性が本音を漏らす。
「在日出身者には優秀な人材も多く、韓国人社員を差し置いて重要な役職に登用される者もいます。
韓国人はこれが許せない。在日は、私たちにとって“よそ者”であり、自分たちの仕事を奪われるという危機感もある」
韓国のネット掲示板には、「日本の嫌韓感情の悪化は在日が原因。ヤクザ、パチンコ、売春産業の多くに在日が携わっている」「在日どもは韓国籍を捨てないことで吸える蜜が多いので日本に帰化しない」などと、根拠のない理由で攻撃している。
これまでの日本批判に代わって在日を厳しく糾弾する書き込みが目立ち始めた。韓国社会の鬱屈した暗い情念が噴出した形だ。

反日運動できなくなった代償として在日批判しているかのような書き方ですが、内容実態を見ると在日に対する相応の不満が溜まっているように見えます。
韓国人の反日感情の基本は欧米の風下に立つのは気にならないが、同じアジア人の日本の風下に立つのだけはイヤっという変な妬みを基本としたものです。
韓国経済が勃興して外資(主として日本)が進出すると、せっかくの高レベル職場が彼ら在日Uターン組みに奪われてしまう不満があるようですが、これは雇用環境の良い本土に進出した外資や民族系先端企業が香港出身者大卒優先雇用するのと似た構図です。
日本の場合、ブラジル等移民2〜3世が就労目的で帰国しても現場労働中心ですが、韓国や中国に進出する外資にとっては日本人ばかりで現地企業運営するよりは、現地事情や人脈のある中韓からの留学生や在日を現地企業幹部として派遣する方向になるからです。
中国と香港の関係も同様で、香港大卒の就職先として北京、上海等が人気のようです。
外資の場合、例えば米国系企業で米系人が企業幹部として赴任してくるのは気にならないが、香港人や在日に顎で使われるのは気になるし、せっかく外資のいい職を奪われているような気持ちになるのでしょう。
中韓本国政府も、国外で苦労する同胞を慈しむよりも、国内政治不満はけ口に利用しようとする点は同じです。
12月8日歴博で、ハワイ移民歴史展示を見てきましたが、下層労動者として移民し、苦労の末にその地でようやく生きていく根を下ろしたのですが、せっかく築いた生活基盤を日米戦争によって奪われ艱難辛苦の生活に陥った状況をツブサに見てきました。
本国の後ろ盾を失って現地政府と母国が戦うようになると、外地在住者は本当に弱い立場です。
日韓、日中で争うようになるとそれぞれの国に在住する在日、在中韓日本人それぞれが苦しい立場に追い込まれます。
黙っていても苦しい彼らを積極的にいたわる度量が必要で、逆に弱いものいじめをするような(風説?を流布して)追い込むようなことをしないように心すべきことです。
敵性人として白眼視されていた立場の苦しいハワイ在住日系人が敗戦直前の沖縄戦等々で米軍捕虜になった日本兵がハワイに移送された時に、日本兵捕虜収容所への慰問や差し入れを行なって異国の地に送られた日本兵捕虜が心慰められた状況が紹介されていました。
以前書いたことがありますが、戦後食糧難の時に大量配布された粉ミルクで多くの生命救われたのですが、子供の頃には豊かな米国のおかげと感謝していましたが、着の身着のままで収容所に入れられて無一文になっていたアメリカ本土日系人が収容所から解放後に母国のために基金を集めて粉ミルクを買い集めて日本へ送ってくれたものでした。
日本人同胞意識はいつも強固ですし、敗戦時日系米国人に世話になったからではなく、もともと内地の人も外地にいる日本人を見捨てるような民族ではありません。

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