都市国家(天守閣復元と地域密着度)2

四国各地は、秀吉の四国征伐後に入封した大名(蜂須賀家や)関ヶ原で敗軍の将となった長宗我部氏の支配地であり、主に関ヶ原後に各地に徳川家の論功行賞によって大名家が入ってきて支配した・・地元民信条としては徳川体制下での反徳川機運の強い地域だったことになります。
特に高松城は、全国的に知られた大規模な天守閣が自慢のようですが、自慢の天守閣なのになぜ今だに復興できないかをネットで見ると、もともと地元に保存意欲がなかったようで、明治に入って解体されてもともとなくなっていたもので、米軍空襲によって無くなったものではないようです。
入封した大名家は、四国の抑えとして徳川一門松平氏の入封によるもので、もともと敵地占領支配の象徴的役割を担っていたので現地民に威容を示す必要から天守閣もご大層なものにしたように見えます。
山内一豊の場合、掛川から土佐への移封後長宗我部遺臣のいわゆる一領具足が怖くて、何年も領地入りできなかった故事が有名ですが、山内家だけでなく四国中の大名家全部が占領軍の気分そのままで地元民敵視・警戒のままで、幕末まできたような印象です。
そういう目で見れば、徳島の蜂須賀家も秀吉の四国征伐の恩賞でもらったもので地元自然発生的武士団ではない・・徳島に行っても城跡があるのみで、天守閣が復元されていません。
よそ者支配といえば、和歌山城も徳川御三家でよそ者ですが、現地地生え大名を滅ぼしての入封ではない点の違いでしょうか?
徳川家家臣団が付いてきたでしょうから、支配層上部は地元代表の武士団でないものの、紀ノ川平野は根来寺や高野山領など宗教系支配地が入り組んだ地域で(雑賀衆、根来衆という戦闘プロ集団が有名ですが・・)地生えの戦国大名=一円支配大名が育たなかった?結果、国規模の支配層がいなかった空白地に入り込んだので平和裡に入れ替われたのかもしれません。
地元小豪族の乱立状態のお国入りの場合、佐々成政の肥後国支配の失敗の例にあるように、地元小豪族・国人層との折り合い能力にかかってきます。
上記のように紀伊家の領地は複雑な地域を包含した特異地域でしたが、(穀倉地帯の紀の川沿いだけでなく、紀伊半島全体で見るとほぼ海外線中心ですから、産業的には九鬼水軍を筆頭にした漁業専門地域で、陸戦向けに特化している三河武士団にとって最も不得手な産業構造の地域です。
にも関わらず現地融和が進んでいたのは、多分紀伊家初代以降の政治力が高く地元融和に成功したのでしょう。
「てんてん手毬の手がそれて・・紀州の殿様お国入り・・・・」の童謡が知られるように、敵意に囲まれてのお国入りではなかったのでしょうか。
子供の頃になんとなく耳に残っている童謡を思い出してここに書きましたが、念のためネット検索して見ると意外に新しいようです。
毬と殿さま   作詞 西條八十  作曲 中山晋平
とわかりました。
昭和4年の作品らしいですが、戦後全盛期だった作詞家ですから、子供の頃から耳に残っているわけで、江戸時代からの地元民の気持ちを表すとは言い切れませんが、東京生まれの西條八十が、紀州の殿様と手毬唄をどういう時代考証あるいは直感で?結びつけたか不明ですが、人口に膾炙するような童謡の詩にしたのは、紀州の殿様に対するなんらかの好感度があったのでしょうか。(全く根拠ありません)
日本では異民族支配を受けたことがないので、上は天皇から下は路上生活者まで同胞としての一体感は古代からのものですが、西洋では民族国家概念はナポレン戦争に始まる新しい概念にすぎません。
日本書記の仁徳天皇の「民の竈」を気にかけた故事は事実かどうかが問題ではなく、その時代の書物にこのようなことを気にかけた人徳のある方であったと書いていることが、こういう人こそ「帝王の鑑みである」とする価値観で編纂されている・民族的価値観の基礎が古代からあるという事実です。
これが平成天皇が重視した同胞意識・・絆重視の姿勢につながっているのでしょう。
明治憲法前文も似たような趣旨・・・祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民・・で貫徹しています。
大日本帝国憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ・・・

ナポレオン戦争以降は近代植民地(市場獲得)戦争に勝ち抜くための総力戦には支配対象であった土民の協力が必要なので、単なる支配対象ではない・民族一緒にがなバルという掛け声が必要になり、民族意識を便宜上持ち出し利用してきたに過ぎないので未だピンと来ない人が多い・・希薄なのでしょう。
この代表格で、まだ民族国家より地元中心意識が強いのがイタリアというイメージです。
現在のEU設立は過剰民族国家意識緩和のための揺り戻しではないでしょうか?
この視点で見れば、13日英国の総選挙で保守党大勝→ブレグジット・EU離脱条件取り決めないままの離脱が現実化してきましたが、ナポレン戦争以前から島国の関係で大陸諸国より早く民族性が形成されていたイングランド(同じキリスト教社会に入っても国教会をローマ法皇から独立させるなど)では、もともと民族意識強固なのでこれに我慢して付き合ってきたが、我慢の限界がきたということでしょう。
離脱するための事前交渉がまとまるかどうかに関わらず早く縁を切りたいのが、保守党支持者中心であり、EU残留に色気があるのが労働党というのは、世界市民意識の強い革新との違いがはっきりした選挙結果です。

戸籍簿の焼失と復元2

5〜6年前から本人確認がうるさくなるまでは、相続でも手続きがやかましかったのは不動産相続登記だけで、相続が開始してもそれ以外の資産の場合、親の親まで戸籍謄本等が要求されていませんでした。
最近では共働き夫婦の増加でマンション購入時に夫婦共有にすることが多いですが、20年くらい前までは殆どすべてが夫名義での購入が普通でした。
(この世代は今のところ離婚事件で法の世界に登場するくらいで相続開始ははまだまだ先です)
相続分は配偶者が2分の1であり、相続税も相続財産が如何に巨額でも半分まで非課税扱いになっていますし、生前贈与でも、婚姻後20年超の場合、居住用資産に限って2000万円までの無税扱いもあります。
これらはすべて、夫名義不動産が中心である実態・・妻名義不動産が皆無に近いことを前提にした法制度です。
車で最近まではも夫名義で購入するのが普通でしたので、女性が亡くなっても、これと言った資産がないので相続手続き・・名義変更手続きなどは滅多に必要がない時代が続きました。
本人確認がうるさくなるまでは夫名義の預金を妻が自由に出し入れしていましたし、その逆もある外に一定の高齢者になると、同居の親族・息子らが管理しているのが普通でしたから、死亡後も(死亡したと言わない限り)預貯金解約には戸籍謄本など用意しなくとも自由に解約出来ました。
預貯金もつい5〜6年前から本人確認が必要になったので、(カード利用による払い戻しは今でも事実上出来ますが・・・)死亡後の解約は出来なくなりました。
最近の相続開始の中心年齢帯は大正期から昭和初期の人ですが、その世代では女性名義の不動産が滅多になかったので女性が夫より先に死亡した場合、多くの場合死亡届を出すだけで足りて、それ以上に親の親の何十年も前に閉鎖されてしまった戸籍謄本まで必要としていませんでした。
たとえば、夫死亡時に相続手続きを先延ばししていてもその後に妻がなくなると、夫の親の戸籍謄本から必要になります。
夫の親の本籍が何回も転籍している場合、転籍前の戸籍まで必要なことが多いのですが、いくつか前の戸籍がなくなったままになっていることが多いようです。
農家と言うとみんな農地(不動産)を持っていると思う方が多いでしょうが、戦前には地主小作関係が多く自作農が原則になったのは自作農創設特別措置法による農地買収と小作人への売り渡し以降のことです。
ご存知のように自作農創設措置法による買収と小作人への売り渡しは、昭和20年代後半までかかっていましたが、売り渡しを受ける小作人の方は均分相続になったことと相続税の関係があって、(5〜10年で死にそうな)高齢者名では売り渡しを受けずに跡取りの長男が成人していれば長男名義で売り渡しを受けるのが普通でした。
小作地の売り渡しを受ける頃に50代になっていた人がその後に死亡しても、既に長男名義にしてあったので相続すべき不動産がないのでその後3〜40年間は農家の相続問題はそれほど多くは起きなかったのです。
そして都市住民は(いまになると不思議に思うでしょうが・・)一般的には借家や借地住まいが普通の時代でしたので、持ち家政策・住宅ローン制度が浸透するまで、都会地では相続が開始しても特段の手続きを必要としていませんでした。
明治村にある夏目漱石の家も借家だった筈です・・森鴎外が借り、漱石も借りた借家がいまも東京に残っているようです。
江戸時代には、大名や旗本屋敷さえ将軍家からの借り物でした・・このために吉良上野介が屋敷替えさせられたことをDecember 2, 2010「婚姻費用分担と財産分与2」で紹介したことがあります。
農家などでは相続で兄弟ともめたくないので親が死亡しても、長男が従来どおり親の家に住み先祖伝来の農地を耕してる分には相続登記してもしなくとも同じですから、登記しないで放置している例も多く見られました。
勿論2〜3世代借家暮らしの場合、(5〜6年前まで本人確認がうるさくなかったので)相続手続きなどまるで無縁の家系がたくさんありました。
上記の通りいろんな分野で親の親の戸籍まで調査する必要性がないまま長期間経過した家系(県住や都営住宅市営住宅に住む人は勿論関係がありません)があちこちに出来ていたのです。
最近、本人確認がうるさくなって来たので僅か100万円の預金を下ろすのさえ、親世代からの戸籍謄本が必要になってきました。
たとえば10年前に明治40年生まれの母親がなくなると、母が(例えば昭和5年婚姻とすれば)婚姻により父親の戸籍に入る前の戸籍・・母の父親ないし・その属していた戸主の戸籍謄本が必要になります。
母の出た家の戸籍簿が戦災でなくなっていても、その戸籍に残っていた誰かがその直後頃に自分と親子兄弟の戸籍簿復元の外に既に閉鎖されていた親が戸主であった閉鎖戸籍を復元していれば良いのですが、母の兄弟が自分の戸籍だけ復元していて当時死亡していた閉鎖していた親の戸籍まで復元していないと今になるとどうにもなりません。
あるいは母が一人娘であって父母共にたとえば昭和15年頃までに死亡して戸籍が閉鎖されていた場合、母が自分の家族の戸籍復元までは済ませても死亡している父母の戸籍の復元まで必要がないので思いつかなかった場合もあります。

戸籍簿の焼失と復元1

ここでちょっと戸籍簿の焼失と復元作業に横入りしておきます。
最近でもときには「空襲による焼失により、当該戸籍は存在しません」と言う事例に出くわすことがあります。
被相続人に関する戦中戦後の戸籍はきちんとしているのに、(現在相続が多いのは大正から昭和始め頃に生まれた人が中心です)その前の明治大正頃の(被相続人の親またはその親の)古い戸籍だけが復元されていないことがあります。
敗戦直後に戸籍簿を回復する作業は政府が主体的に回復して行く作業ではなく、生きている人が婚姻したり、子を産んで出生届、死亡届を出したりする時に必要になり、生きている人の都合で役場に行って見ると自分の戸籍簿が燃えてしまって存在しないことが分ります。
そこで、当時まで(空襲で焼け死んだばかりの人も含めて)戸籍上生きている人については、焼け残った米穀通帳や学校関係の文書などを持ち寄って先ず自分の氏名など明らかにし、その人が自分の兄弟や親の氏名生年月日などを届けて記録して行く方法のようでした。
客観文書がいくつもあればそれに越したことがないのですが、客観文書にも誤記があるので1つ2つしかない場合や、数十年前に亡くなっている父や母・場合によっては祖父母や伯父叔母など死亡者の生年月日や氏名については、(その妻子など)関係者連署などで正確性を証明して復元してもらう方式から始まったようです。
不動産登記の関係は、政府のイニシアチブで地番順に復元して行けます・・その番地に行けば、実際その土地があるし、住んでいる人や耕している人がいるのでそれなりの手がかりがあります。
それに地権者は権利証を大事に保管していたものですから、その提出を求めれば直ぐに復元出来たでしょう。
戸籍の場合、地番順に編成していない・・・戸主や筆頭者人別に編成しているので、10番地の次の11番地を誰が本籍にしているかを逆から検索して行くことができません。
そもそも本籍と住所とは別ですから、その番地に人が住んでいるとは限らないないのです。
そのうえ10番地に誰かの本籍があってもその隣の11番地も誰かの本籍になっているとは限りません。
その点土地は順番に番号を振ったものですから、欠番(合筆によって発生しますがそれは例外ですし、その所有者がその経過文書・分筆合筆の権利証も大事に持っています)がないので順にチェックして行けば復元出来ます。
戸籍簿の場合、政府の方から復元する方法がないものですから、当時生きている人が何らかの必要があって届けて来た順に先ず復元作業が始まったものと思われます。
ところで、現在では均分相続のために被相続人(死亡者)が生まれたとき(正確には生殖能力を持ったとき以降)の連続した戸籍がないと被相続人の子供全員が何人いるのか誰と誰なのかが特定出来ません。
父母の戸籍だけではなく、父または母が戸主になったとき以前に属していた戸籍・・すなわち父の父(前戸主)の戸籍謄本が必須です。
今で言えば、婚姻により新戸籍を作るのですが、この新戸籍編成前の戸籍がないとその人が初婚かどうか(再婚前に子供をもうけているか・婚外子がいたのか)も分らないと言えば理解が簡単でしょう。
ところが、戦後間もなくのころにはまだ家督相続制でしたので、相続編が改正されて施行された昭和23年1月1日前(その前日)までは、親が死亡して相続が開始しても親のすべての子供を捜す必要性がありませんでした。
(子供が何人いても長男が単独相続出来たので、自分が長男であることさえ証明出来れば良かったので、自分の親や兄弟の氏名生年月日や何時結婚したかなど書き出して現役の戸籍簿さえ復元すれば足り・・閉鎖した戸籍復元までは不要でした)
こうした事情もあって、今では親が結婚する前の生まれたときからの戸籍・・当時では親が戸主になる前の前戸主の戸籍謄本が必要ですが、昭和22年暮れまでは、その必要性がなかったので、昭和22年頃までに戸主が亡くなって閉鎖されていた戸籍簿が復元されないままになっていることが今になって出て来るのです。
では、この間の死亡事例の場合だけ明治大正の戸籍がなくなっただけかと言うとそうでもありません。
昭和23年1月1日以降に相続が開始すると均分相続のために被相続人の親の戸籍まで復元する必要が出てきましたが、この場合も原則として不動産の相続登記が必要な場合だけ戸籍謄本が必要になっただけでした。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC