市民と人民〜地球市民?1(NGO)

中国も中東由来の商業都市国家から始まったことをこのコラムで書いてきましたが、その後の農業社会化の進展で城壁外の土民も支配・市場取引の相手方として始まり、支配下に入ると搾取対象になってきたので、共通項的には政治の対象として視野入っただけのことで、もともと日本のように同胞から始まっていないので国民と違った「人民」という言語にこだわっています。
ただし、ここでの人民論は旧共産圏のみで使われるようになっている現状・実態を前提にした語感を書いているものであって、歴史的には色々変遷してきた結果いまの利用例に絞られているようですからその程度の意味で書いているとご理解ください。
この辺は市民概念も同様でしょう。
共産圏以外では、「人民が〜人民がぁ」と繰り返すのがなんでも反対運動のようなイメージなって疎まれるようになったので、ソ連崩壊後は進んだ文化人?を意識するグループでは、国家の枠を超えた「市民活動」をする人?を強調する意味で自己の立ち位置を「市民活動家」行動を「市民運動」等表現するのが流行になったようです。
地球市民というキザな(進歩的?)表現もこの一種です。
地球市民とは、都市国家の上に民族国家が出来上がった現状を否定したい現存の主権国家を無用な中二階化したい・・「グローバリズム」意識が含まれているイメージです。
本来都市とは、その上の組織である民族国家が出来上がる前の小単位でしかないのですから、日本で言えば、何々の国や郡という制度ができる前の何々ムラ人と言うのと同じです。
村人と言わず「市民」といえば、なんとなく国家対立を超越した進んだ人になるようなイメージになってきたようです。
日本では、市と町村とでは、元は人口集中している程度の違いであり、今では市町村合併により山奥の方まで何々「市」になっています。
伊豆諸島や奥多摩地域住民も東京都民と言うのと同じで、みやこの人というイメージとはだいぶ違っています。
日本では行政上の区画を意味するだけなので「市民」にこだわる意図がピンときませんが、日本や東南アジア等の海洋系民族を除けば、世界的に城壁内の住民=「市民」と城壁外の土民とはまるで違うエイリアンそのもの意識があるようです。
内外での異質感が連綿とつながっている都市国家由来の社会では、人種差別や階級差別が身についているでしょうし、欧米系差別意識の好きな進んだ系の人たちには自分は「市民」だ!という特殊表現が気に入っているのでしょう。
中国では今でも法的に農民戸籍と都市戸籍で厳重に区分され、上海など都市部への出稼ぎ農民は、各種保障の埒外・・一種の外国人扱いです。
https://toyokeizai.net/articles/-/70555?page=3

中国人が逃げられない、「戸籍格差」の現実
これが「努力しても報われない」の実態だ  2015/05/26 6:00
すべての中国人の戸籍は、農村戸籍(農業戸籍)と都市戸籍(非農業戸籍)に分けられている。農村戸籍が約6割、都市戸籍が約4割で、1950年代後半に、都市住民の食糧供給を安定させ、社会保障を充実させるために導入された。
以来、中国では農村から都市への移動は厳しく制限されていて、日本人のように自分の意思で勝手に引っ越ししたりはできない(ちなみに都市で働く農民工、いわゆる出稼ぎ労働者がいるではないか、と思われるだろうが、彼らは農村戸籍のまま都市で働くので、都市では都市住民と同じ社会保障は受けられない)。

日本でも千葉県人が東京で働いても千葉の住民税を払うし、国民健康保険や生活保護、子供の学校区域など居住自治体の責任ですが、それは行政区域の関係でそうなっているだけで、都民となるのには誰の同意もなんお条件もありません。
中国の場合行政区割の関係を表すのではなく、「農民」戸籍と「都市」戸籍に画然と別れるところがすごい発想です。
古代都市国家時代から制度が続いているわけではないとしても、城壁の内外では霧別れる古代からの精神そのまま体現している社会です。
市民標榜問題に戻ります。
香港の人は日本で中国人と言われるのを嫌う・・「香港からきました」と自己紹介するのが普通・・イタリア人もイタリア人と言わず、出身地域を名乗るのが普通と言われていますが、ここまでいけば本物です。
日本人の世界市民論は「いいとこ取り」自分らは日本人であることによる国際的恩恵を受けながら、都合よく世界市民を使い分けているように見えます。
慰安婦問題に連動してNGOなどが国際機関などで日本の児童売買春を誇大宣伝していたか?の騒ぎがありましたが、いかに日本の性道徳がひどいかを世界でアッピールしてかのように(事実不明ですが)注目を浴びたことがありましたが、意図はどうであれ、こういう運動をしてれば中国や韓国等から日本の良心と持ち上げられて気持ち良かったかも知れません。
国際舞台で華やかに活動できるのは、母体になる日本の信用があってこそ出会って、母体を貶すのがかっこ良いと喝采を受けているに過ぎず、彼、彼女らがアフリカ等の小国のNGOであれば同じこと言っても注目を得られないはずです。
NGOを担っている人物像(イメージだけで根拠ありません)を見ると、もともと国際的に活躍してきた経歴で信用を得たり活動資金が国際的に幅広く集まっているのではなく、日本国内の支援による資金で国連等へ出っ張って行き日本道徳の否定的主張や日本企業の海外進出企業の環境破壊や劣悪労働条件を告発するパターンが中心のようです。
日本の経済力は巨大ですので、国民の0、0何%未満の支持でも国連に出張する程度の経費を集められるということでしょう。
このような活動は国民から信任も受けていないので自らを世界市民(ここでは逐一の文言チェックしている暇がないので、正式にそのような発言をしているというのではなくそういう表現に親和性・傾向があるように私には感じられるという程度です)と称するのが合理的なのかもしれません。

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