政治判断と司法審査6

民主党の政権獲得時には、あれもこれもの要求実現には政府の無駄な支出を抑えれば財源ができるというあんちょこ主張でしたが、結果的に将来の競争力を育成する研究資金等を削ること?とは言い切れないまでもその程度しかできませんでした。
いわゆる事業仕分け作業時に蓮舫氏の有名な発言「一位でなく、二位で何故いけないか!」のスローガン政治でバサバサと研究費等を削ったのかな?象徴的でしたが、これではパイを大きくして分配を増やすどころかパイが減って分配が減ってしまう方向に進んでしまいました。
政権を取ってみると批判経験しかなく前向きの経済力底上げ政策が何もなかったという評価を受けてしまい、以降野党は批判政党に特化しています。
蓮舫氏の事業仕分けでの正確なやり取りや結果は覚えていませんので、以上はおぼろげな記憶によるものです。
こういう批判勢力が政権を取っても基本的な社会運営能力がないので国家が無茶苦茶になります。
日経平均株価の長期推移で民主党政権時と安倍政権時の経済活力差を見ておきます。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/5075.html

上記グラフ13年1月の点線付近が、安倍政権・アベノミクス開始でその前が民主党政権です。
株価変動要因はいろいろあるでしょうが、株価が民主党政権時に1000円前後から2300円台に約二倍以上になっている現実が長期政権を支えていると見るのが普通でしょう。
戦後の片山〜芦田内閣、リーマンショック後の民主党政権の実務能力不足に国民が呆れてしまったのはこのような歴史によります。
片山哲に関するウイキペデイアの記事引用です。

政権としては、国家公務員法の制定、内務省の解体、警察制度の改革労働省の設置、失業保険の創設、封建的家族制度の廃止を目標とした改正民法の制定、刑法改正などを実現した。その一方で、社会主義理論を鵜呑みにして国有化・国家管理政策にこだわり、公社 公団を乱発し、いい加減な財源調達による公的融資を拡大したと評されたこれが内の首相からの離反を招き、短期間で首相を辞任せざるを得なかった。

社会党らしく理念先行で法制度改正には熱心でしたが、経済政策はからっきしダメというイメージです。
政策批判・対案の優劣で勝負することと、その実行力で勝負するのが政党の存在意義です。
経済学者や経営学者が自分で経営して成功する例が内容に、政治評論家が自分で政治をできないし策謀家も参謀としていくら役にたっても自分が表にたって政治をできないのが原則です。
いまの韓国大統領の文氏は学生運動家上がりの闘士らしいですが、運動家がそのまま自分で政治をできるわけがない・・格差縮小には最低賃金をあげれば良い」と言う子供じみた短絡的政治で結果的に賃上げ強制によって経営が成り立たなくなった零細事業の倒産続出で国家経済をボロボロにしつつあります。
運動家としては単純論理の方が国民に対するインパクトがあるでしょうが、社会は単純論理で動いていませんので、こう言う人が政権を握ると社会は無茶苦茶になります。
日本で市民運動家上がりの菅直人氏が総理の時に原発事故が起きて、右往左往したので国民が愛想を尽かしたのは記憶に新しいところです。
運動家やメデイア界は実務経験ない人の集まりですから、現実政治無視のゴシップ的政治批判ばかり報道するので国民は困っています。
こう言う繰り返しの結果、既存大手メデイアの影響力が急速に低下してきました。
以下にグラフなどで詳しい分析が出ています。https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20191001-00144754/
新聞の販売部数などの推移をさぐる(2018年後期まで版)

・・朝日新聞は2010年前後から、毎日新聞は2007年後半から漸次減少が起きている。特に朝日新聞は2014年以降の下げ幅の大きさが確認できる。

プロの判断と司法審査5

従来X病としかわからなくて、X病の中である人にはAの薬が効き、ある人にはBの薬が効気ある人にはCの薬が効くのは不思議なものだという時代にはX病向きのいろんな薬の中から、経験と勘の直感で薬を選んでれば、過失がない・・プロに任せるしかないのですが、
病態解明が進んでABC型に分類できるようになれば、X病と判断して終わりにしないでさらにABCのどの類型の病気かの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによってプロに委ねるべきレベルがさらに細かくなっていきます。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がわかっていない場合に限って、鍛え抜かれた(同じ肝臓病でもこういうタイプの人にこれまでよく効いた・・一定率で悪化するのを防げた人が多いなどの相応根拠があるが学問的主張まで行かない程度のものです)高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。
プロに委ねるしかない日常的分野で、しかもそのレベルが日進月歩でない分野は政治の世界でしょうか?
政治というのは「あちら立てればこちら立たず」の利害対立を調整して最終決断していくものであり、変数が無数にあるので、このデータがあればこういう判断をすべきというルールが構築できていません。
その先は鍛え抜かれた専門家・政治家の直感力に頼るしかない現状です。
そこで最終決定者を誰にするかを決めるのは昔は天命により、革命=天命あらたまるという思想や西欧の王権神授説でしたし、日本でも古代から天皇家は御稜威を宣り給う唯一人として敬われ、明治以降の日本ではこれを現人神の思想でした。
政府の高度政治判断はその道のプロである政治家の判断ですが、その代わり政治家はどういう想定外のことがあっても言い訳が許されない結果責任を負うことになっています。
どういう予定外のことがあろうとも、景気が悪くなれば人心が離れる運命を受け入れるしかないのが政権担当者の運命です。
合理的判断の及ばない時の決断能力は、古代社会では神の憑依する特殊能力のある巫女の専業でしたが、実務に足場を持つ武家政権になってからは、その役割りを終えましたが、それでもいざとなれば信長は桶狭間の決戦に臨んで熱田神宮で必勝祈願(のフリをして)配下武将の集結を待ち士気高揚してから出陣したものでした。
戦後は神託に変わる総意であり、総意を感得する権限の付託は民意・民選によるのが国民主権国家です。
民意に直接依拠しない司法権は、立法府の判断通りに政府が実行しているかのチェック権はありますが、立法自体憲法違反でない以上は現場が立法の基準を守っているかどうかのチェック権しかありませんので、立法府の定立した基準に介入するのは許されません。
これを現行法的に言えば違憲行為ですが、その実質はプロに委ねるべき分野だからです。
例えば生存権・・健康で文化的生活保障は憲法で決めた責務ですが、これは責務・・宣言であって法的義務ではないと解釈されています。
健康で文化的生活は国力相応の生活水準であり、現在日本の文化水準といわゆる後進国とは大きな違いがあることは公知と言っても良いでしょうが、結局はその国の国力によって平均が決まるのであって他国を基準にしても意味がないし文化的という意味自体その国、その当時平均的生活水準を意味しているはずです。
例えば大飢饉や戦乱(日本の敗戦時)で国民の多くが飢えているときに、戦争・大災害前の基準で憲法違反という判決をした場合、非常識すぎるでしょう。
憲法は大まかな精神規定であるから政府批判派にとっては何でも憲法問題といえば言えますが、その精神を具体化するのは立法府・政権党の役割であり、国家運営の実務を担当しない司法の役割ではありません。
民意によらないばかりか実務経験もない評論家やメデイアが洪水のように垂れ流す報道は民意でも何でもありません。
国家予算トータルに責任を持つ政治主張を出来ない政党は民主主義政党と言えるのでしょうか?
貧しい人の救済が必要だという理念は正しいですが、総論賛成各論反対という言葉があるように、総予算の中で配分をどうするかの問題です。
貧困とは相対的概念ですから、私の子供の頃の生活水準を思い起こせば、お金持ちの部類に入る家でも火鉢に潤沢に火を熾している程度で家庭にはストーブなど滅多にありませんでした。
私が生まれた池袋の家は空襲で焼けてしまい地方に引っ越していたので都会とはだいぶ違うでしょうが、物心ついた頃にはまだランプのホヤを磨く仕事がありました。
もちろん洗濯機等の三種の神器が出てきたのは高校時代からで、」冷房など見たこともない時代です。
今では、冷暖房もない家は最貧困家庭と言うのでしょうが、時間軸をいつにするか?同時期の諸外国に求めるか自国内に求めるか?平均水準をどこに持ってくるかの問題です。
現時点の自国内平均からどの程度低いと健康で文化的水準でないと言うべきか?
北朝鮮のように等しく?極貧生活に落とし込みたい人はいないとすれば、国力維持向上がまず最優先課題で、その上で分配に気をつけようというのが現在社会の総意というべきでしょう。
現状維持で良いと気を緩めればたちまち競争相手に抜き去られて現状維持どころか、落伍してしまう国際競争熾烈な時代です。

プロの判断と司法審査3

決定理由を不明にしたままですと、専門家の意見があれば「それで決まり!」と思う方が多いし、地震や火山噴火の素人の裁判官が、専門家集団の規制委の判断を覆せるのか?という素人向けの政治論が幅を効かせます。
紹介した産経の批判論も同根です。
産経引用続きです。

阿蘇山からの火砕流については、ゼロリスクを理由に伊方原発を立地不適とするのは社会通念に反する、と良識を示したものの、火山灰などの降下量に関して規制委にかみついた。
四国電力の想定は過小で、それを認めた「規制委の判断も不合理である」としたのだ。
高度に専門的な理学、工学知識が求められる原発訴訟での大胆極まる「決定」だ。審尋は、たったの1回だったからである。

ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
本案訴訟と異なり、口頭弁論手続きがないので民事訴訟法の準用がないのですが、民訴では複雑事件では準備手続きが先行するのが原則で、準備手続き終結後新たな主張が原則として許されない運用です。

民事訴訟法(書面による準備手続終結後の攻撃防御方法の提出)
第百七十八条 書面による準備手続を終結した事件について、口頭弁論の期日において、第百七十六条第四項において準用する第百六十五条第二項の書面に記載した事項の陳述がされ、又は前条の規定による確認がされた後に攻撃又は防御の方法を提出した当事者は、相手方の求めがあるときは、相手方に対し、その陳述又は確認前にこれを提出することができなかった理由を説明しなければならない。
民事保全法
第三十一条 裁判所は、審理を終結するには、相当の猶予期間を置いて、審理を終結する日を決定しなければならない。ただし、口頭弁論又は当事者双方が立ち会うことができる審尋の期日においては、直ちに審理を終結する旨を宣言することができる。

最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
昨日比喩的に想定される具体的危険判定の分類例を書きましたが、その例で境界値の場合で画一区分け困難な時に主査委員が問題点を整理して委員会にかけて委員会議決で決めることがあります。
主査委員の整理や意見は基本的に委員会承認事項ですが、承認事項として議題に上がるのとたたき台段階でみんなの議論を求めて具体的に甲論乙駁して結果が決まるのとでは議論の深みが違います。
形式論理で決めようがない最後のギリギリのところのプロ集団の総合判断を門外漢である司法権が覆すのは問題ですが、客観的当てはめが学会の通説に反していた場合、司法が不合理な決定として否定したのであれば、プロの判断を無視したのではなく逆にプロの総合値を尊重した判断となります。
つい最近の弁護士経験で言えばある関係者の「過失で死亡したかどうか」が問題になっている事件で死亡診断書には単純な「〇〇病で死亡」としか書いていないので当社に責任がないのではないか(専門家の判断なので、鬼の首を取ったかのように意気揚々とと保険会社が言っている)と相談されたことがあります。
チェックしてみると、その病名が現在の争点と両立しない概念でない・・その病名の場合なりやすい危険としてABCD等が列挙されていて、その事件は上記Bの事故があったかどうかが争点になっていたので、医師の診断はその可能性を排除するものでないことがすぐにわかったことがあります。
(その病気中でなければC事故があっても大事に至らないのが普通なのでその病気がなければ死亡しなかった=死亡とその病気との条件的因果関係があったことが明らかで医師の診断としてセーフの範囲でしょうか?)
例えば交通事故の結果、骨折→寝たきり→肺炎→死亡の場合、何を死因と書くかの問題と同じで、死亡原因を肺炎と書いていることと交通事故の有無とは直接の関係がありません。
条件的因果系列の中で、医師が死因としてどの部分を書いたかの偶然にすぎず、途中の事故を書いていなくとも途中の因果行為がなかった証拠にはなりません。
交通事故のように事故があったこと自体争いがない場合と違い、途中の事故の有無を当事者が争っていて救急車で運ばれた時点で既に死亡していると、生存中の処置は何もしていないので、付き添ってきた家族から病気中であったことと介護者に対する不満を聞いただけでは、医師はその不満が事実かどうか不明のためにかかっていた医師に紹介して、既往歴に間違いなければ客観性のある病名のみを死因と書いたと推定されました。
専門家の判断の場合でもその判断が争点に関係ある部分を直接チェックして論じた意見かどうかの吟味が必要です・上記例では死亡前の経緯を詳しく聞いた上なのか、既往症をカルテで見てあんちょこに?(状況不明のまま)この病気で死亡したという診断書を書いたのか不明なので、医師の状況把握時資料次第だからその点を詰めないうちに主張できないと説明をしたことがあります。
専門家意見の尊重とは、医療で言えば、その当時の学問レベルである事実(情報)しかわからない時にはそれ以上の精密検査技術が開発されておらずそれ以上正確な病態把握が不可能な場合、ABCの施術、投薬のうちどれが必要か不明という場合には経験豊富な医師の直感でどの選択をしたかで責任を問われないにすぎません。
病態解明が進んで、従来肝臓病としかわからなかったのがABC型に分類できるようになれば、肝臓病と判断して終わりにしないでさらにABCのどれかの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによって、救急外来でその時点では肝臓病までしかわからず翌朝にならないと精密検査できないような状態であれば、その時点での応急処置として何をすべきだったかの次のテーマに移りますが、その時点でたまたま薬が切れていたら、あるいは救急治療室できる範囲の手術しかできない場合、次善の投薬や治療するしかないでしょう。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がない場合に限って、高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。

プロの判断と司法審査(伊方原発)2

NHKニュースに戻りますと、ニュースの関連資料として、ワンクリックで見られる原発運転基準を決めているルールを資料としてつけてくれると分かり良いので、こういうサービスが欲しいものです。
その上で、

この規則第○条○項に「具体的危険があれば停止すべし」という規制基準が設定されていて、具体的危険に当たるかどうかの規定に・・
(1)①〜⑤の場合は即該当
(2)⑥〜⑩の場合は多数意見で決める
などの要件があるなどの類型的説明があって、本件では、(1)③にあたるかどうかが争点であった。
(1)③とは、半径Xキロ以内に活断層がある場合のことであり、本決定ではX㎞内にあると認定され、規制委員会がXキロ以上距離があるとした測定がABCDEの各データと矛盾することを理由に否定されました。

という論理構造であればスッキリします。
そうすれば、その次のレベル・・活断層の定義分類規則がどうなっているか、活断層にはABCDEの〜の10種類があり、その種類に応じて原発までの距離が決まっている場合、数十のデータの組み合わせでABCD〜の種類を決めるのが、学会の通説となっていればそのデータの正確性・当てはめが合理的に説明されているか次第となり、そこに関心のある人だけさらにそのデータを読み込めば良いことです。
例えばAB分類境界値付近の場合には、プロ集団の委員会の決議による場合があるでしょう。
規則詳細やデータは公開されているとしても、一般人には容易にアクセスできないのでこういう報道の際にはその報道に関連している関連規則や事前公開されていたデータをワンクリックで見たい人は見られるサービスをすべきでしょう。
ところで、関連法令や規則はワンクリックで閲覧できるようなサービスが可能でしょうが、科学関連事件(医療関連事件でも)はデータの信用性や読み方で勝敗が分かれるのが普通ですので、報道機関がデータそのものを閲覧可能にしない限り事件当事者以外は厳密な理解は不可能です。
裁判手続きはIT化に向けて準備中(千葉県弁護士会でも2月7日総会前の研修?でIT化訴訟手続きの実演してくれる段階)ですが、今はまだ紙媒体なので決定要旨が配布されても各種科学的な検査や実験の生データは配布されません。
(そもそも決定書あるいは本案判決書全文を入手しても証拠の配布はありません)
訴訟手続きはまだIT化されていないとしても科学者段階のデータはほぼIT化されているはずですので、双方弁護団の手元資料はほぼ全て電子化されたもののはずです。
私の現在進行形の事件で、経理事務所から約17年に及ぶ膨大データを元にした表をもらっていますが、この表が事態正しくを把握できるよう表になっているか、自分で生の会計資料を拾い出して検証作業するための試行錯誤で色々な表に作り直すには、データそのものをネットでもらわないと作業ができませんので、会計事務所の作ってくれた表自体を紙媒体だけでなくデータでもらっています。その表で説明するのが妥当としても、(訴訟では原証拠提出が原則必要です)生の会計資料から間違いなく作成したという説明だけで訴訟提起するのは心許ないので、この引当用の表を作るなど色々な作業が必要です。
このように訴訟外の準備段階では私のような高齢者でさえもIT化作業が進んでいますので、報道機関はやる気があれば、予告された決定前に入手した実験データをもとに決定と同時に双方提出証拠(本当に訴訟提出済み証拠かの確認は相手方に確認すれば簡単にできます)のネット配信可能です。
このように予めの準備があれば、裁判所の手続き進行指揮等からどの点に焦点が当たっていたかの予測がついているので、決定要旨入手直後の検討でどの実験記録や過去データがどのデータと矛盾するとして採用されなかったかも短時間で解説可能です。
原発訴訟は個人が原告になっているものの争点の多くは個人情報を除けば(活断層かの判定に必要なデータや火山噴火データ)客観的データの解析である以上、これを国民に秘匿する必要性がほとんどないはずです。
訴訟当事者双方に提出済み証拠の提供を求めれば、双方がこれを拒否する必要もない・自陣営の主張を理解してもらうために積極的に協力してくれるし、懇切に説明もしてくれるので簡単作業です。
こういうサービスなしに裁判の結果「具体的危険があると認定されました」という報道は、停止決定があった以上裁判所が具体的危険を認定したに決まっているイコールの関係であり、同義反復・・実は根拠説明になっていません。
国民が知りたいのは、規制委員会が具体的危険がないとしていたのが、裁判所がどういう根拠で具体的危険があると覆したかの説明でしょう。
NHKは根拠の結論を書いているかのようですが、実際には結果として同義反復に過ぎず「当面原発は停止になるらしい」としかわかりません。
庶民は「結果だけ知れば良い」と言うならば見出しだけで十分です。

「また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。」

とも書いていますが、過小評価しているという結論だけの記載でどちらが正しいのか、さっぱり分からない報道です。
規制委と裁判所の判断が違った前提事実のどこが違っているのかの説明がないので、どちらが合理的判断なのか、司法の政治的偏りなのかそれぞれの立場で憶測に基づく非難合戦をすることになります。
https://www.sankei.com/column/news/200118/clm2001180003-n1.html

【主張】伊方原発停止 高裁の迷走が止まらない
2020.1.18 05:00コラム主張

引用省略しますが、上記主張は否定的批判論ですが、NHK以上の決定理由の掘り下げがないままのイメージ主張です。
報道機関であれば、決定書要旨が手に入っているはずですし大手新聞の掲載する批判論である以上は、決定論理のどこに問題があるかの具体的指摘が欲しいものです。
担当裁判官はこの春だったかに定年退官というニュースも断片的に駆け巡り、「良心に従った公正な判断が定年前でないと書けない」あるいは「定年前で政治的立場を露骨に出した」かのような憶測も広がります。
こういう次元の低い議論が広がるのは後進国みたいで恥ずかしいことですが、決定内容要旨自体の報道がないから根拠不要の言いたい放題の応酬になります。

プロの判断と司法審査(伊方原発)1

昨日から書いてきたように一定の危険・可能性がある前提での漸次縮小が国民総意とすれば、可能性があるだけで停止を命じたとすれば司法権の乱用になります。
NHKニュースのまとめ方が正しいとすれば専門家で構成される委員会審査結果を素人の司法権が否定するもののようですが、その否定根拠がどうなっているのか具体的記述次第です。
まとめ方によっては誤報道の恐れがあるので、NHKが独自にまとめるのでなく、ニュースの方法としては、「停止仮処分が出た」程度の客観的事実報道にとどめ、解釈にわたる部分は解説・・NHKの意見として分けて書くべきでしょう。
裁判所の重要判断の場合決定要旨など文書配布が行われるのが一般的ですから、・・要旨が仮に10pあってもPDF等でそのまま配信公開が簡単ですので、NHKの解説・決定の読み方が正しいかどうかは読者の判断に委ねるべきではないでしょうか?
決定書が公開されていないのですが、昨日紹介したニュース記事では、NHKが鉤括弧付きで出している部分は決定書自体の引用でしょうから、この限度で推論が可能です。
「地震を引き起こす活断層がある可能性を否定できない」という文言を見ると可能性が否定できないだけで停止を命じることが許されるかの議論となります。
危険性には抽象的県と具体的危険の二種類がありますが、決定では「具体的な危険があるとして、」と具体的危険があると認定したとも紹介しています。
この紹介によれば、原発事故以降にできた新ルールは具体的危険があるかないかで停止するか否かの結論が決まることになっているように理解できます。
そうとすれば、具体的危険が認定されたので停止決定されたというニュースは、一見決定理由を紹介しているように見えて結論の言い換え・同義反復に過ぎないことになります。
新ルールは「具体的危険があれば運転を認めない」となっていたとすれば、規制委員会の運転開始判定は具体的危険がないとしていたはずですから、国民が知りたい点は、なぜ今回結論が変わったかの点でしょうから、具体的危険があると判定したというだけでは決定理由の紹介になっていないことになります。
新ルールで、「活断層から何キロ以内は具体的危険があることにする」と、画一的に決まっている場合そのルールを紹介し「活断層からの距離測定方法にこういうミスがあった」と指摘すれば済むことです。
2〜3キロの幅の誤差範囲は慎重審査という場合には、プロの経験的裁量の幅が広がり、プロの直感的判断を否定するのは司法権の行き過ぎとなります。
どういう場合に具体的危険があると言えるかの認定ルールが定まっていると仮定した場合・・例えば「活断層から何キロ以内」というルールが設定されていてそれに該当するのに〇〇の計測ミスで3キロあるとしていたのが2キロしかなかったというならそのルールと計測ミスの内容を紹介すればスッキリしますが、これらの説明がないので上記決定がどういう理由で規制委員会と結論が違ったの不明のままです。
ただし、続けて決定理由として「四国電力は十分な調査をせず、原子力規制委員会が問題ないと判断した過程には誤りや欠落があったと言わざるをえない」と指摘しました。
と引用しています。
ここで根拠を具体的に書いたつもりでしょうが、「十分な調査をしない」というだけでは、何をすれば「十分」なのか水掛け論的紹介にとどまっています。
一見決定根拠を書いているように見えるものの論証過程を省略しているので「結果」部分の引用に過ぎず、どういう論証がおこなわれた結果「十分な調査していない」と判断したのか、どういう「判断過程に誤りや欠落があった」かの事実紹介・掘り下げがありません。
「十分な調査していない」という根拠説明も、規制委調査が十分でなく裁判所決定の方が正しいという自己撞着の説明にすぎず、国民が知りたいのはどちらが十分でない調査をしたかの具体的根拠です。
いわゆる説明責任の問題ですが、一人二人のプロでなくプロ集団の決めた調査方法が、十分でないというにはそれを主張する方が言いっ放しでなくどこがおかしいかの説明責任があるというべきでしょう。
裁判所はその説明を書いていると思われますが、論証過程の短文要約は無理があるのでNHKはそのままの引用にとどめたのでしょうが、それでは決定根拠不明のままです。
決定には当然図面等利用の詳細検証過程が書かれているでしょうが、 NHKはこれの要約報道は要約ミス等のリスクがあると謙虚に考えて抑制したのであれば、ネット配信の場合紙幅制限がないので裁判所配布の決定要旨をそのままPDFで添付し、関心のある読者に直接読むチャンスを与えて自由な解釈に委ねるべきでしょう。
従来国民は難しいことは理解できないからと言う尊大な立場で事実そのものを報道しないで報道機関の解釈を事実のように報道する傾向が強すぎたのを、意見部分を抑制するようになっただけでも一歩前進です。
従来法律専門家しか判決や決定書書にあたれない状態でメデイアが一方的解説をする・素人は黙ってついてくれば良いというイメージでしたが、数ヶ月〜6ヶ月後に専門雑誌に印刷されて見られるよになって専門家が見れば約半年以上前の報道機関報道は判決内容を正確に伝えていなかったとしても、(日付や氏名などはすぐ訂正されますが)要約トーンが微妙にズレている程度では「人の噂も75日」でそのままでしたので世論に与える影響は甚大でした。
結論あるいは結論とほぼ同レベルの「言い換え根拠」紹介だけでは消化不良の感じを受けるひとが増えてきます。
例えば日経新聞朝刊最終裏面に何年か前から連載されている美術〇〇10選かな?例えばこの約1週間の連載は装束面からの、国宝級絵画の紹介ですが、聖徳太子像や伝頼朝像などを装束面からの掘り下げがあって面白く楽しみにしています。
このようにいろんな説のあることはすでに知っている読者にとってはその次の段階・どういう根拠でどういう違いがあるのかというところまで知りたい読者が増えています。
土曜の文化欄の連載これまでいろんな人が登場しましたが、本郷新氏や今は出久根氏かな?違った角度の堀下げが面白いのでこれも大いに楽しみにしています。
報道系の人も、読者レベルに合わせてもう一歩掘り下げた報道すべき時代が来ているし、PDF等でこれに応じられるようになっているのですから、適応すべきでしょう。

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