臣民と人民の違い1

民衆・大衆と国民はどこかに違いがありそうです。
国民的英雄、国民体育大会など、国民葬などどこか国民代表的イメージですが、デモをしている民衆が5〜10万人いても一億国民代表とは言えないからでしょうか?
ゲテイスバーグ演説を信奉しているはずの米国ではすでに人民は支配される対象であるばかりではなく主権者になっているはずですが、そうはいってもそれは理念上のことであって事実としてはいわゆるエスタブリッシュメントと一般大衆の格差は広がる一方です。
男女平等といってもすぐにそうはならないのが現実社会です。
主権国家内には支配する側とされる側があるとしても、現在社会の理念では相互互換性があるので、例えば米国人の中には大統領や大統領側近や官僚も野党党首・党員も無関心な一般人も皆米国人です。
このように多様な分類可能であっても、それを統合する命名が米国人と言い日本人と言うのでしょう。
ただし、歴史的に日本人、韓国人、ドイツ人、フランスという用語には、人種名称とダブる利用が強かったので、いわゆる合衆国である米国人というだけでは人種特定に不向きなのでワザワザ何系米国人という紹介が今でも多い所以でしょう。
明治維新は、そもそも開国圧力とその反作用の攘夷論によって幕末騒乱の幕を開けた結果ですので、おのずから外国人の居留が進みます。
数日前に紹介した生麦事件は、英国政府関係者の被害ではなく横浜在住の商人かな?が川崎大師観光のために繰り出した女性を含む一行でした。
どこかで読んだ記憶ではこの当時外国人は2万人前後だったようですが、4〜5千万人口のうちわずか1〜2万でもそれまでのなんとなくの常識に基づく統治と違い、画一的法を制定するとなるとまず法適用の対象を決めることが先決問題になります。
そこで憲法以前に制定作業が進んでいた旧刑法や民法の草案作りで法の対象として外国人と日本人区別が必須になってきたと思われます。
13年成立、15年施行の旧刑法で国民という単語が使用されるようになっていたことを紹介しましたが、一回も施行されずに終わったいわゆるボワソナード民法内には人事編として日本人になる要件が記載されていたようです。
ただし同法では、国籍という単語ではなく日本人としての「分限」が決まるというな文言だったようで・・内容的には明治31〜2年の旧国籍法とほぼ同様に、男系出生と帰化の二本立ての基本要件は同じですが、・・まだ国籍という文言ができていなかったようです。
江戸時代の知行状を見ると加増土地の特定が「〇〇の庄の宮前何反歩」程度の特定に過ぎなかったことを紹介したことがありますが、明治に入っても人の把握も分限や分際が基本用語で明治憲法制定後付属法令・・不動産登記制度や戸籍関連制度の整備が進むにつれて、宮下、寺田、滝田、上田、橋本、橋爪とか川上等のアバウトな地名表示だけから地方制度整備により〇〇郡○村字何番地と細かく地番を付すように合理化が進んだことを明治の法整備シリーズで紹介してきました。
このように数字的表示の整備に合わせて人間の特定も住居地番特定と合わせて戸籍簿で管理できるようになってきたことにより、国内個々人は戸籍簿で管理し、外国人と日本人の区別は国籍法でけじめをつけたということになります。
ちなみにここ数年、長男長女次男等の区別表示が不要でないか等の動きが強まっているのも、記録進化の一環で今は両親名、生年月日の正確性が高くなった(適当な届け出だけでなく医師の出生証明添付など)も影響があるでしょう。
戸籍(当時家ごとの「籍」が整備されたので「戸籍」と言いますが)の整備が進むと国民が国家に登録されている籍=国家の籍があるかどうかで区分けする方がスッキリするので戸籍に対応するものとして国籍簿概念が登場して、明治31〜2年頃の現行民法制定施行と同時に「国籍法」が施行されて日本の姿を法的に整備する大枠が決まったように思われます。
家族関係の仕組み・家の制度は民法で決めるものですから(今も家族のあり方は民法所管です)民法が基本法で、戸籍法はそれを具体化する付属法ですが、国家所属者の登録は憲法から直接くるものですから、戸籍ではなく国籍として旧民法の分限ルールから切り離されて独立法になったものと思われます。
1800年代末頃には人種定義や民族定義では、外人との区別・厳密な特定不能というのが社会科学・特に法学分野で常識になっていたと思われ、結果的に国籍法ができて、日本国籍を有するものが日本人という定義(人種を正面にすえない定義)が生まれました。

旧国籍法
朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル国籍法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁
明治三十二年三月十五日
内閣総理大臣侯爵山縣有朋 内務大臣侯爵西郷従道
法律第六十六号
国籍法
第一条 子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス其出生前ニ死亡シタル父カ死亡ノ時日本人ナリシトキ亦同シ
中略

いわゆる血統主義・これは現行国籍法もそのまま踏襲していますが、これによれば人種と同じようですが、帰化を認めざるを得なかったことから、他人種の日本人が存在することになり、国籍と人種とはほんのわずかですが一致しなくなりました。
こうして日本人の定義が決まりましたが、明治憲法下の日本人は皇族と臣民の2種類でした。
このような社会意識が定着してきて皇族以外の総称として日本国の民という「国民」概念が普及しはじめたように思われます。

人民〜臣民〜国民3(明治憲法〜日本国憲法)

12月21日の国民や人民の用語に戻ります。
日本国憲法制定時に明治憲法の「臣民」をそのまま残すのは国民主権と矛盾し不可能になったのでその代わりの表現をどうするかが、当然大議論になったと推測されます。
明治憲法草案論争時に人民を主張していた人たちにとっては臣民になってしまって言わば論争負け組にとっては、日本国憲法制定時に人民と表記すべく巻き返しのチャンスだったはずです。
現憲法はGHQによる事実上の強制・原案を示されたのは、周知の通りです。
日本語の「国民」をピープルに訳したかの順序次第ですが、もしも英語原文が先行していた場合原文のpeopleをどう翻訳するかが重要だったと思われます。
もしも日本国憲法の原文がマッカーサーに示されてそれを日本語化したものとすれば・・ゲチスバーグ演説を下敷きにしたpeopleが当時一般的に「人民」と翻訳されていた・後に紹介する日米和親条約第1条に日本語版には「その人民」」という文字がありますので、これが一般的翻訳だったのでしょう・・とすれば、これを憲法上も人民と表現すべきという主張があったと見るのが素直でしょう。
日本国憲法草案としてマッカーサーが示した原文は以下の通りであったと本日現在のゲテイスバーグ演説に関するウイキペデイアに出ています。

1946年、GHQ最高司令官として第二次世界大戦後の日本占領の指揮を執ったダグラス・マッカーサーは、GHQによる憲法草案前文に、このゲティスバーグ演説の有名な一節を織り込んだ。
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.
— GHQによる憲法草案前文。強調引用者。
この一文がそのまま和訳され、日本国憲法の前文の一部となった。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

日本側との交渉の結果、完成したのが以下現行法であり、その英訳です。
日本国憲法英文を見ると前文冒頭は以下の通りです。
http://www2.kobe-u.ac.jp/~akihos/en/grenoble_docs/07CONSJAP1946.pdf

THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity・・・.
Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people.

日本語の前文です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

従来のピープルの翻訳や国内用語論争の経緯からすれば、人民と書くのが素直な結論のようですが、日本では古代から支配対被支配の根源的対立社会でないので、もしも明治の初めから人民と翻訳していたすればそれがそもそもの間違いだったのか?
・・私の拙い翻訳能力で言えば庶民〜領民が妥当か?不明ですが、・・憲法制定交渉のおおよその流れについては、このコラムで紹介したことがありますが、文言表現交渉の逐語的議事録まで読んだことがないので経緯不明ですが、結果から見ると日本側はピープルを人民と訳さず「国民」という用語に巻き返したように見えます。
とすると「人民による人民の・・」という明治以来の翻訳が間違いという主張をしたとすればその後の翻訳が「国民による国民のための・・」と変わる筈ですが、今に至るまで変わっていないようです。
私がゲティスバーグ演説の原文を読んだのは大学に入ってから・すなわち戦後約16〜7年経過頃ですが、その当時でも日本語訳は「人民の人民による・・・」というものだった記憶です。
高校大学にかけて漢詩や和歌、短歌その他気に入ったフレーズ丸暗記の年齢でしたので今も「人民の人民による〜」と口について出ます。
以来現在まで「国民の国民による・・」という翻訳を見たことがありません。
多分憶測ですが、「虐げられている段階では人民であるが、主権を握った後は虐げられている人民ではない」二項対立を脱却した以降は主権者であるから抵抗勢力ではあり得ないので、民主主義=民の主権国家になった以降の領民は、権力機構の一員でもあり、権力者の構成員でもあり、構成員として参画して決めた法に従う関係でもある・・総合的概念である「国の民」であるべきだというものだったのではないでしょうか?
続いて臣民概念について書いていきますが、「臣と民」の合体した上位概念として国民が考案採用されたのです。
明治憲法は、領民の中には、「臣と民」がいるという程の意味しか明記せずに、「臣と民」を合わせて何というかの総合概念としての国民概念をあえて採用しなかったようです。
人民にこだわるグループも総合概念ではなく、明治政府同様の「臣と民」の内、「民」の部分を政府転覆権=抵抗権を強調する立場ですし、明治憲法の臣民概念は、民にはそこまでの権利がないという言外の意味を込めたものだったのでしょう。
デモ等の行動を見ると民衆・大衆の行動というにふさわしく、「国民行動」というとなんとなく違和感を感じるのは私だけでしょうか?

(天皇誕生日がなくなった)クリスマス・イヴ  

平成天皇の退位によって、5月1日から令和の御世になり平成時代の天皇誕生日であった12月23日が祝日でなくなりました。
平成の最初は、年末の忙しい時に祝日が1日挟まると、たまった仕事の処理が大変だと困った気分でしたが、これもいつの間にか慣れてくると年末休みの予行みたいな気分で22〜3日過ぎ頃から正月を控えた休みが早く始まるような印象で、その始まりを告げるアトラクションとしてクリスマスを楽しむようになりました。
キリスト教徒の方々には申し訳ないですが、日本人の私にとってはそんな程度の位置付けです。
今まで約30年間クリスマスイブ前日の休みを利用してイブの一晩前のイヴ?を楽しみましたが、今年は前日の休みがないので、24日が土日にかからないと調子が狂う感じです。
キリスト教徒ではないので、23日が休日になってから夕方から娘と出かけて熱気に溢れたデパ地下での買い物を楽しんでいたことがわかります。
お正月そのものよりは年末の買い出しや準備に精出すのが楽しいことだと気がつきます。
お祭りそのものよりその準備に半年以上かけて精出すことが、地元民には一体感の醸成その他で意味深いものでしょう。
消費者・観客にとってはイベントの瞬間だけ切りとって見ているだけ・文字通り時間の消費ですが、お祭りの準備、高校野球の場合甲子園に出るまでの営々たる努力・プロセスにこそが価値あるのがわかります。
諸国の巡礼・我が国のお遍路さん同様で道行きに価値があるのです。
車等で神社仏閣の入り口に着いてから深い森に囲まれた参道を歩くときの有り難さは、本来行うべき巡礼行脚の短縮版としての意味があるからでしょうか?
今日24日は、普通に仕事があるし、仕事を急いで切り上げてまで、背広を着てカバンを持ってデパ地下に行きたいわけでもない・結果的に買い物する気になれません。
休日がたった1日減っただけでクリスイブを楽しむのが億劫になるなんて!
キリスト教徒でないから誘導される何かがないとその気が無くなるのが当たり前と言えますが、見方を変えれば年をとって暇があるようでないのが人生というものか?
今年の年末は特に仕事がたて混んでいるわけでもないのに、天皇誕生日の休日が1日なくなっただけでなんとなく余裕のない気分です。
50台半ばに事務所と自宅間距離が数キロ以内に近づき電車に乗って2分の距離になって以来、朝ゆっくり新聞を読みお茶を飲んでから仕事に出かけられるのは、なんとゆったりした良い気分だ!と満喫していたものですが、この4〜5年、時間のたつのがバカに早くなったせいか、ちょっとゆっくりしているといつの間にか10時〜10時半を過ぎてしまうようになり、この1年くらいでは、気がつくと11時半頃になってしまい、事務所でお昼を食べる時間に間に合わない!っと慌てて自宅を飛び出すことが増えてきました。
この関係かしれませんが、年末が近づいたのに祝日が1日なくなっただけで今年はなんとなくせわしない感じ・・、クリスマス・イブを楽しむゆとりがない・・
平成になって5〜6年経つと、天皇誕生日のおかげで年末にヒト休みがあって良い息抜きと思ったものが、今ではこれが普通になってしまったようです。
昭和のいつのころか忘れましたが、隔週土曜休日になり平成に入った前後頃から週休2日制が定着しましたが、今ではもうこれに慣れてしまって、毎週土曜日に仕事するなど考えられないようになりました。
ちょっと楽すると、すぐにそれに慣れてしまうと言うことでしょう。
出かけるとエスカレーターに乗るのが普通・・たまにエスカレーターがないと階段が億劫になります。
この間平成天皇陛下だけでなく私の方も30年分年をとった点が大きな変化の原因でしょう。
若い頃にはお年寄りがゆったりした動作で歩いたりしているのをみると、ゆっくりした気持ちで生きているように見えたものですが、自分がいざその年になると動作(仕事)が遅くなった分時間的に忙しい・全然ゆったりしていないのです。
駅まで10分で歩ける距離を15分前に出れば余裕ですが、歩くのが遅く15分かかるようになれば15分前に出でも目一杯ですし、若い頃には発車1〜2分前に駅に駆け込めば何とかなることが多かったのですが、今では5分ほど前に着かないと落ち着きません。
と言うわけで、やることが遅くなった分時間が足りなくなってきた結果、休日のないクリスマスでは・・何となく億劫・・。
「今年はパスしようか?」
と考え始めた人が(高齢化に伴い)増えたのではないでしょうか?
そんな横着な人は私だけかな?
と思っていましたが、今年は何故かかイルミネーションもLED発達のおかげでクリスマスツリー系が減ってきらびやかな装飾系が増えましたし、街中にジングルベル系の音楽がほとんど聞こえない状態です。
今日6時半ころに電車に乗って帰りましたが、駅周辺も電車の中もクリスマスらしい雰囲気がまるでなくいつもの帰宅風景でした。
80歳前後になって仕事をやめた場合、毎日休日になりますが毎日休日が10年も続くとそのころには昔「クリスマスパーティなどあったかな?」と忘れてしまうかもしれません。
ちなみに私の誕生日は、祝日の前日なのでこれを「早くする分には、問題がない!と前日誕生祝いをしてきましたが、この祝日は多分私の生きている内になくなりそうもない祝日なので、怠惰な私でも続きそうです。
ただ、もっと高齢化が進めばこれも「生きているってめでたいの?」という疑問が起きて?億劫になってくるでしょう。
何もかも億劫になってついには、生きているのも億劫となれば・人生最後ということでしょう。
今では、百才を超えた方のほとんどが全面億劫の境地に達し・達観しているのでしょうが、私が100になるころは、まだそこまで達観できないであちらが痛い・疲れた・・出かけるのは億劫と贅沢言っているのでしょうか?

罪刑法定主義2(生麦事件)

日本人が当然知っているべきモラルを知らない外国人が来るようになった場合、日本人ならば当然知っているべきモラルの同一性がありません。
例えば、薩摩藩が幕末に起こした生麦事件が有名ですが、大名行列に乗馬で乗り入れるなど日本人から見れば「不敬」そのものでしょうが、外国人から見ればいきなり斬り殺されて大騒ぎになったものです。
乗り入れた英国人一行の方は、前方から東海道筋を道路いっぱいに進んで来る久光の行列を見て困惑したらしいですが、(通訳が随行していなかったのが事件発生の大きな原因だったでしょう)どうして良いか分からずにいると、先払いの者から身振りで道路脇によれと言われたように思って・・現在よくある光景・・山道や狭い道路で対向車に出くわすとお互い左右に避けながらゆっくり進むような感覚で脇によって進めば行列も右脇に寄ってくれるのかと思って騎馬のまま進んで行ったようです。
道が狭く久光の行列が道一杯に進んでくるので、結果的に英国人の騎馬グループと行列が衝突する形になり、先行の足軽などが馬を避ける結果、次第に行列の中程まで(すなわち久光の籠近くまで)行列をかき分けて乗り入れてしまう結果、護衛の武士団は黙って見過ごせない・・血相変えた戦闘モード満々の武士団の殺到に直面した英国人一行が馬主を巡らして引き返そうとしたが時すでに遅し!大事件に発展した瞬間だったらしいです。
日本の場合、古代から牛車や行列が行き合えば、身分格式の低い方が道を譲り脇に控えるのが礼儀でしたし、これは江戸城内の廊下で大名同士が出会っても同じルールです。
西欧でも例えば、西洋由来の軍隊組織では初見の人同士では相手の階級の見分けが付かないので肩章襟章等外見で階級が分かるようにしていて、階級の低い方が最敬礼して脇に下がって見送る仕組みです。
英国でも似たようなルールがあった・・・格上格下の礼儀ルールは洋の東西を問わず同じとしても、よそから来た英国人が島津の行列かどうか(旗印や家紋程度で分かるはずもないし)の判断もつかない上にそれが分かったからと言って、島津が何ほどの家柄か、自分と比較して自分がよけるべきかどうかの判断までは付かなかったでしょう。
ましてこの時、島津久光が700人もの軍勢を率いて江戸に出て来て、公武合体論に基づく一橋慶喜の将軍後見職任命や春嶽の政事総裁職任命等を迫って実現させて意気軒昂な帰路(は400人)でした。
こういう事情も全く知らなかったでしょう。
ただ、今でも、個人が何らかの集団とぶつかりそうになれば、言葉が通じなければ集団の通過を待つのが普通で、まして危なそうな軍の列であればなおさらではないでしょうか?
この辺に英国人側に常識論で見ても、一定の落ち度があったように見るのは、日本人としての贔屓目かも知れません。
この事件処理で幕府が英国の要求する巨額の賠償金を払ったものの、薩摩側はこれに応じなかったので薩英戦争につながるのですが、このように、大名行列と出会ったときの礼儀ルールをきちんと法令化していれば相手国からの文句に対する立場が大きく違っていた・・こんな危険な国だから、不平等条約が必要という論拠にされて明治以降の不平等条約解消が難航した下地でした。
人権擁護のためではなく国内的には権力意思貫徹には周知が前提・・対外的には国家主権確保のためにも、生類哀れみの例のような明文法が必要になります。
産業構造や社会生活が複雑化してくると、技術的規制は日常常識では判断しかねるので明文化して起き、プロでもその都度確認する必要が起きてきます。
建物建築でも「家はこういうものだ」「柱と柱の間隔は一間にきまってる」という経験による工事では間違うので、今ではいちいち図面を確認しながら作業していく必要があるのと同じです。
社会の仕組み=商品の種類が単純な時代には、いわゆる名僧知識の禅問答的御託宣で間に合ったしょうが、商品経済が複雑化してくると、具体的ルールや細則がないと現場でどうして良いか・個々人の裁量で行うと精密な機械が故障する時代になってきました。
精密部品・・普通の電化製品でも寸法は何センチ何ミリまでピタリ合っていないと不具合が起きる時代ですが、法制度もこれに比例して細かく細かくなる一方です。
世の中になぜ専門家が増えてくるかといえば、法律家でも金融商品取引ルール証券取引ルール、道路交通法、原子力安全規則などなど分野ごとに膨大精密すぎて、税務関係は税理士などそれぞれの専門家が必要な時代=それだけ法令(だけで足りずその先の規則、細則〜ガイドライン(別紙技術基準)等々分野ごとに細かくなっているからです。
これに加えて人の移動広域化・・異民族間移動の場合、元々の基準である道義意識も違ってくるので技術的規制だけでなくいわゆる自然犯でさえも明文化していないと外国人には、思いがけないことで処罰を受けるリスクが増えます。
現在では金融・証券取引や道路交通法あるいは各種環境規制や食品衛生や建築などの安全基準 のように専門化してくると、明文法に処罰すると書いていない限り処罰できないようにしてくれ・という逆転現象が起きてきます。
早くルールを明文してくれないと商品開発しても普及(ドローン利用のサービスや車自動運転、電子通貨関係など)できないという逆転現象が起きています。
罪刑法定主義が人権擁護という政治論より、産業発展によりいろんな分野でのルール化が求められるようになったことが、ルール化が進んだ基礎事情でしょう。
西洋では、絶対君主制・・恣意的処罰が横行したので絶対君主から領民の人権を守るために生まれたと習いますが、我が国の場合、支配者が慣習法や道徳律に反するルールを新たに決めた場合、特別な法令が必要な社会が到来していた・逆方向からの発達であったし、これが今の潮流と理解すべきではないでしょうか?
中国は独裁・専制・法治国家でなく人治国家と揶揄されていますが、商品経済が進み、産業構造が高度化すると政治家の思いつきで製造基準を変えられない・・精密ルール化は避けられないはずですので技術基準の法令化・ルール化が進む点は、同じではないでしょうか?
問題は(共産党幹部であろうとなかろうと、)誰もが等しく「ルールを守らねばならない」という法の下の平等ルールを守れるか次第ではないでしょうか?
そのためには司法権独立が必須ですが、中国政府は香港の覆面禁止条例無効判断をした高裁判決を否定する主張をしているようで、政府が司法権を軽視しているようでは、法を守る気がないと自己主張しているようなものでこれこそを重視すべきです。
諸葛孔明の故事に「泣いて馬謖を斬る」という故事がありますが、上に立つものは自分の決めたルールを守らないのでは、配下がルール・命令を聞かなくなるからです。

旧刑法2(罪刑法定主義1)

ちょっと話題がずれますが、皇族に対する罪というか、やってはいけないことは、日本民族にとっては法以前の自明の存在であるべきでした。
内乱・いわゆる謀反や親殺しが許されないことも同じでしょう。
内乱罪等を明記するようになった前提として考えられることは、まず西洋で発達した罪刑法定主義の思想・明文なければ処罰できない・・明文化するかしないかの論争があったはずです。
ボワソナード主導の立法作業でしたので、当然西欧の到達していた法思想を前提に行った筈ですが、法以前の存在であると思われていた皇族に対するルールを明文化=これを国会(国民の意思)で決めたときに限り初めて犯罪になることには抵抗があってもおかしくありません。
天皇の超法規的神格否定につながるものでそれ自体が明治政府にとっては大事件で大きな論争があってもおかしくなかったと思われますが、民法典のような大した政治論争ももなく?すんなり法制定されるまで行ったように見えます。
当時の国民意識では、討幕のための旗印として王政復古を掲げたものの、実際には古代からの象徴天皇程度の意識・・敗戦直前のような極端な神格化意識がなかったからではないでしょうか?
王政復古を看板にする明治維新体制は時代錯誤性が大きかったのですが、新政府は看板の建前上古代律令制に基づく二官八省制を一時採用しましたが、維新直後三治政治〜廃藩置県に始まる地方と中央関係組み替えによる地方組織整備などどんどん変えていく(司法官などの人材育成→西欧留学性派遣による世界の法常識の吸収も焦眉の急でした)中で、中央政体も二官八省制をどんどん形骸化していきます。
こうした明治初年の新政府体制再構築過程を紹介してきましたが、(旧刑法編纂や刑事法制や司法制度整備もその一環として紹介していたものです)これらを法制度として整える必要から司法卿ができ、並行して神祇官などの二官八省体制を改組して現行の各省体制の基礎を作っていくなど、実務面では着実に近代化が進んでいたので明治維新が成功したと思われます。
古代から連綿と続く天皇制の根本に関しても近代化の動きの総決算が明治憲法制定ですから、その下準備的各種法整備の一環である刑法制定作業においても政権の目指す本音の方向に動いて行くしかなかったのでしょう。
政権の要路にある人々は、政府・権力というものは民族全体の無言の賛同によって成り立っていることを知っていたし朝廷に対する尊崇の念も法で強制するものではないと心の底で知っていたでしょう。
ちなみに戦後皇族に対する罪全部がなくなったのは、天皇制存在の理由は国民の支持(といっても賛否を問う形式論ではなく、暗黙のこうあるべしという民族の価値観)によるのであるから、特別な法類型を決めなくとも良いのでないか!という意見であったように記憶していますが、あるいは尊属殺事件の憲法解釈であったかも知れません。
明治維新前の刑罰制度を大雑把に言えば、常識に属することは、明文で決めなくとも処罰できる・・「人を殺したり物を盗むな!」という御法度がなくとも、そんな道徳があると知らなかったと言わせない基本社会であったと言えるでしょう。
こういう社会の場合、法網を潜る(工夫)余地がありません。
中国の場合「天網恢々疎にして漏らさず」という古代からの名フレーズがあり、現在では、「上に政策あれば下に対策あり」「上有政策、下有対策」と言われるように法対策が盛んです。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit

中国には「上有政策、下有対策」という有名な言葉がある。元々は国に政策があれば、国の下にいる国民にはその政策に対応する策があるという意味だが、現在は「決定事項について人々が抜け道を考え出す」という意味でほとんど使われている。ここではいくつかの実例を挙げ、「上に政策あり、下に対策あり」の原因を探ってみる。
以下略

上記には4個の主張があるのですが、私に言わせれば中国人は私益あって公益意識がないというに尽きると思っています。
我が国では、公益=地域共同体→日本民族の共同利益を守るための道徳が先にあるのですから、明文法規はその例外的位置付け・・書いていないことにこそ真善美があると考える国民性です。
物事の理解には余白を重んじる・・音楽で言えば絶え間ない音の連続も綺麗ですが、お琴では「手事」と言いますが、あくまで手先の技のことです)むしろ音のない「間」を重んじ、沈黙は金といい、眼光紙背に徹するというようにすべて基礎的原理が同じです。
知識をいくら並べても限界があるデータのない先や余白から物ごとの本質を見抜く力にこそ価値があるのです。
詩で言えば余韻を重んじる点では、俳句こそがその最高形態でしょうか?
我が国では、法網をくぐる工夫をすること自体「恥ずべきこと」という意識ですから、タックスヘイブンとか法にさえ触れなければ何をしても良いという発想には驚きます。
中世以降の「非理法権天の法理」を紹介してきましたが、次第に権力が強くなってきて、道義や慣習任せにしないで権力者の定めるルールが最優先するようになると「犬を追い払ってはいけない」などの新ルールは社会常識的道徳律では気がつかないことになります。
為政者が、新たに今度これも禁止するから・・と決めた場合(禁中諸法度→紫衣事件は事前に「お達し」していたのに、従来慣習法?でやったのに何が悪い?と開き直った事件でした)知らない人が多くなるので、周知のために御法度を定めて江戸時代以降の各種御法度や生類哀れみの令・・注意を促すという仕組だったことになります。
価値観同一社会では、天皇家や徳川家に対して日本の道徳から見て許されない行為が何かの規定がなくとも、慣習を変えるとか、常識に反する新たな制定ルールだけお達し・公布すればよかったのでしょう。

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