臣民と人民の違い2

臣民概念では、民から臣になる人もいるし臣が退官して民に戻る人もいます。
今で言えば官僚になる前は民ですし、官僚が退官するとまた民に戻ります。
これに対して人民という単語は、社会構成のなかで支配されている人々のことで、上記臣民で言えば「民」にあたる人を言うのですが、上記のような相互交流の余地がない階級区別を前提にしている観念です。
支配される存在だから人民というのであって、リンカーンのゲチスバーグ演説は支配者と被支配者の地位が交換される余地がなく支配されっぱなしだった人民・・・この仕組みが一般的だった時代に、リンカーンが

これまで支配されるだけのものと考えられてきた人民が政治も今後政治の主人公になれるしそうなるべき

という趣旨で演説したので、多くの期待を集めて歴史に残る名演説になったのでしょう。
これを一言で表現する熟語として人民主権.国民主権という標語が行き渡ったのですが、男女平等とか標語さえ唱えれば男女平等になるわけでないのが現実です。
個々人でいえば、東大合格とか甲子園優勝とかの標語を自室の壁に貼り付けてもその通りになるとは限りません。
多くはその実現が難しいからこその標語であることが多いのです。
ところで、企業が「工場労働者誰もが社長になる資格がある」と標語を工場に掲げて、幸いその通りに現場労働者から社長になった場合、その人はもはや労働者ではありません。
人民が現実に主権者になって支配されるばかりではなくなったのであれば「人民」という単語は今や過去の表現になっていることになります。
人民が主権者になったらもはや人民ではないので(青虫が羽化すれば青虫と言わないと同様)それに変わる新たな用語が必要なのに欧米ではまだそれが理念に止まり実現できていないので実現したのちの表現が生まれていないのでしょう。
日本の場合、朝廷は儀式等を主催する権威が残っていたものの藤原良房が自分の娘所生の道康親王を皇太子にするために恒貞皇太子の廃太子に成功した承和の変(842年)から良房を継いだ藤原基康による阿衡の紛議(887〜888年)・・これは即位した宇多天皇が前天皇の摂政であった基康に対して就任と同時に関白に任ずる詔勅を発したところその文言が気に入らないと職務放棄して朝廷を困らせたという(前代未聞)文字通りの紛議(今でいうサボタージュ)でした。
百官は藤原氏の権勢に恐れをなして、皆朝廷に参内できない状態だったのかな?
詔勅起案した官僚に責任を取らせるなど、権勢を見せつけたうえで事態収拾になったのですが、これによって天皇は藤原氏の言うがままにするしかない権勢を百官に広く見せつけたと言われます。
なんとなく始皇帝後を継いだ2代皇帝胡亥に対して、趙高が皇帝に優先する自己の権勢を誇示するために?あるいは自己に従わない高官をあぶり出すために、皇帝の眼前に鹿を引き出して、皇帝に向かって「珍しい馬を献上する・・」 といったので、皇帝が「鹿でないのか?」と聞き返すと趙高が「いやあれは馬です。そうだな!」と居並ぶ群臣に同意を求めて皇帝に恥をかかせるとともに、誰が自分の意見に反対するかをテストした故事・・バカの語源の一つの説として知られていますが・・。
皇帝の意見を支持した高官はその後全員処刑されたと言われます。
権勢を誇った君側の奸の代表として平家物語冒頭に出てくる第一人者ですから、尾ひれがつくのが普通・「この人ならこの程度のことをやりかねない」というのが事実に昇格している可能性の方が高いですが・・.
方広寺に秀頼が奉納した鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖つけたのは、家康(金地院崇伝?)の発案でなくこの阿衡の紛議の故事に倣ったのでしょうか?
家康の場合、文字を分割してのこじつけですので、文字通りの難癖ですが、阿衡事件は古典の解釈論争によるので一応平安貴族らしい高度なテクニックを利用したものです。
日本での天皇家は君主と言っても、上記の通り800年代末から始まった摂関政治から保元平治の乱を経て武家政権に移っていき政治主導権を完全に失ってからでも800年以上経過しているので、天皇家だけ権力を握る仕組みが摂関家に移り、武家政権になると政権を握れるのが公卿(朝臣)だけでもなくなりました。
武士とはもともと農民層から戦闘専門家に分化してきたグループのことで、江戸時代でも戦国大名系家臣団の多くは半農半士・一朝事あれば一族郎党引き連れて駆けつける仕組みが普通でしたので、日常生活は庶民そのものでしたし、民情に通じている・・実務能力の高い集団でした。
ただし徳川家旗本限定では、知行地が遠くしかも細分化されていたので、(例えば千石の旗本でも、50石〜70石等々(例外でしょうが 一つの集落の農地が数名の旗本の数石何升単位の小さな知行地に分かれていた例が文献にでています。)バラバラに房総半島に知行地がある場合代変わりに一回行くのも大変)ですので、結果的に今の都民同様になっていたので幕末戦闘力はほとんどなくなっていた実態をSep 11, 2016 12:00 am欧米覇権終焉の開始2と、12/28/04(2004年)「兵農分離4(兵の強弱と日常生活)(コサック騎兵)」前後で連載したことがあります。
日本社会はこのように庶民・現場力の高い集団内での権力交代が可能になってからでも約800年経過です。
庶民も能力さえあれば政権担当できる社会・互換性のある社会になっていたので日本社会は観念論に走らず時代即応した着実な進展変化を遂げてこられたことになります。
明治新政府は、王政復古を旗印にして成立した政権である関係上表面上だけ古色蒼然たる主張をしてきたものの、政権掌握後は時間をおかず現実的政策を果敢に打ち出して後醍醐天皇のような天皇親政を採用せず実務官僚機構を整備して、古色蒼然たる平安朝以来の公卿堂上人を華族として棚上げし、実務は江戸時代の下級武士層・実務官僚が実権を握る体制を築き上げました。
廃藩置県で藩知事に横滑りした元の大名は短期間に罷免されて、中央から派遣される実務官僚が知事に入れ替えられた経緯も08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介しました。
こういう大変革途上にあって制定した明治憲法では、表向き天皇大権とか臣民とはいうものの(神棚に棚上げした一君と(明治初期から逐次始まった士族等の階級名称廃止政策・・四民平等の徹底化で)万民思想が徹底してきたのですから、内実は戦後の国民主権体制と変わりません。