皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

高齢化と食への欲求

高齢化するとどこへ行っても休憩時間が多くなり、ひいては食事時間が長くなります。
しかも量を食べられない分、美味しい良い食材を楽しみたいし、老い先も短いので京都などの遠距離では毎年行かないことから、同じお寺にはあと何回来られるかな?となります。
どうせならば、その時その時(一期一会と言いますが)に最高に美味しいものを楽しみたいと思うようになって久しい感じです。
「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな」と古来言われ、鉄等の廃止や老舗店舗廃業で多くの人が集まるように、余命を知ると命が惜しくなるようです。
今後あまり食べられないと分かると食べものにこだわるようになるのでしょうか?
食事には環境も重要です。
若い頃には新幹線食堂車で飛び去っていく景色を横目で見ながらの食事が楽しみでしたし、船旅では遠ざかりつつある神戸港の夜景を見ながら、食事したのも記憶に残る風景です。
もっとも楽しかった記憶では35年近く前におさな子らと鹿児島の錦江湾を航行中の船(サンフラワー号)のレストランで昼食中にふと眼下海面を見るとイルカの群れが船の作る波に乗って並走しているの見た時の感動です。
10年ほど前には、信州清里のホテルレストランで夕食中に野生のタヌキがガラス張りのキワまで目をキラキラ光らせて寄ってきたのには感激しました。
写真に撮ったのを見ると目のキラキラがそのまま写っています。
レストランのマダム?看板娘らしい女性の説明によると、パン屑などやって「餌付け?」しているらしいです。
近隣日常的コースでは、自然林の散歩コースが整備されているなど総合力で気に入っているのは、佐倉市にある川村美術館のレストランです。
川村美術館は常設のレンブラントの絵など良いものもいっぱいありますが、現代アートは素人の私にはイマイチですが、食事環境につられて行く場所です。
三宅坂の国立劇場のレストランは設立時の昭和40年代の思想そのままで(一人前の値段で冷たいご飯が出るなど)で困っていますが、お箸を見ると公営の食堂でなくあちこちに出店しているらしい民間チェーン店の名を印刷しているのには驚きます。
幕間の限られた時間内に提供する難しさもあるでしょうが、閉鎖施設に入ると競争がないので百年一日のような運営になってしまうようです。
孝夫、玉三郎や、猿之助歌舞伎などの大フィーバー時代も遠い過去になり、大スターが出ないようになると食事等の周辺サービス次第で客足も変わるのではないでしょうか?
そういえば、幸四郎が白鵬を襲名したと正月記事に出ていましたが・・。
「いまどき裸像彫刻は時代遅れ」と昨日書きましたが、歌舞伎やお芝居には豪華な衣装が必要なように、食事環境等の付加価値も重要です。
ただし、歌舞伎・ミュージカルその他の劇場系は、(夜の部は翌日の仕事に触る・体力的にきついので)東京地裁午前の弁論後に妻と行くことが多いので、ちょうど休演日だったり演し物に合う時間帯がなくてこの数年ご無沙汰ですからもしかしてこの数年で変わっているかもしれません。
演し物・時間帯が合えば、特に日劇や宝塚の場合、日比谷松本楼3fで食事してから出かけるのがお気に入りコースです。
松本楼は3階窓ぎわまで立派な樹木が迫っていて都心の静寂を楽しめますし、お値段と内容も手頃です。
上野の場合、東京都美術館1階奥のレストランや東博東洋館1fのレストランはまあまあ気に入っています。
美術館では歩いてみるのに疲れるようになったので、例えば東博でいえば4〜5時間の滞在中、約1時間半かける食事時間のウエートは大きいのです。
この点歌舞伎座が新装したので食事がまともになるか?と(歌舞伎そのものは器が変わっても役者は同じなのは当然)期待していたのですが、新築後行ってみて当てが外れました。
昨年の運慶展でわかったことは、整理券方式にしてくれない限りあまり人気のある特別展は高齢者には無理がありそうです。
この点では千葉市美術館は割に良い企画が多いのですが、地方都市の良さで並ぶようなことがなく、地元(私の事務所から数10メートルの距離)でもありレストランも私の胃袋に適正で気に入っています。
話題を東博詣での報告に戻します。
3日朝から東博に行き、まずは戌年にちなんだ展示室から入りました。
応挙が杉戸に描いた子犬の絵がとても可愛く良かったし、その影響を受けたのか?家庭で大事にされている可愛い絵が多い中に風俗を描いた名画のなかに野良犬らしく自由に歩きまわっている犬の日常が書き込まれている絵が多いのに驚きました。
イギリスの映画などで見た限りでは、主人が帰ると立派な館から犬の群れが出迎えるシーンがありますが、どれも奴隷のような行動・狩猟用に訓練されているからでしょうか?日本では犬を使役する習慣がないのでどの絵も愛らしい姿や犬の自然な姿が多いのが特徴です。
犬の仕草が絵の端っこにちょっと書き込まれっている程度のシリーズ展示で菱川師宣などが出てくるのですから、東博はさすがです。
何を見ても品質の高さにはいつも感心していますが、贅沢な悩みですが(駄作のない高レベルの)展示の多さにはいつの間にか時間が過ぎてしまい疲れます。
東博では、今年正月明けには、仁和寺展がありますのでこれも楽しみにしていますが、多分並ぶほどのことはないでしょう。
約30年前に妙心寺に一泊したことがあって、翌朝地図をみると仁和寺が近いことに気が付いて、仁和寺まで歩いていくことなりましたが、徒然草の話題によく出るお寺ですので、細い路地を子供らと歩きながら、「あの辺が兼好法師のいた双ヶ丘方向」と説明しながら歩いて行って、仁和寺にたどり着いた良き思い出のお寺です。
(ただし、当時木造家屋中心でしたので住宅街の屋根の向こうに小山・衣笠山らしいもの?を見ながら歩いたか?記憶がはっきりしませんが・・)
京都の旅では、いく先々で1キロ前後何でもない住宅街を歩くのが楽しみです。
貴船神社からの帰りに岩倉駅で降りて実相院まで歩いた道筋、苔寺から松尾大社まで丘の裾野沿いに歩いた記憶、等持院から京福電車の駅までの道、南海電鉄の駅から、住吉大社裏口への道筋、それぞれ歩いた記憶は濃厚です。
生け花といっても身近な人が習っていた(当時同世代女性が習うしきたりでしたので)「古流」「草月」「池坊」など有名大手しか知らなかったので、仁和寺に行った時に初めて「御室の桜」「御室流」の存在を知ったことです。
仁和寺では立派なお座敷など巡っただけで、当然のことながら秘蔵の仏像など宝物類は拝観できていません。
今回は、仁和寺の秘仏その他お宝拝観すれば、神仏との結縁・チャンスが増えるのかな?が楽しみです。
日本人の信仰の基礎は、空気中に満ち満ちている「八百万の神」相手ですから、どこの御仏と(不空羂索観音)の糸(当時電磁波がなかったので糸に喩えただけ)がいくつ繋がっても、もつれてしまう心配はいりません。
結縁(今でいえばメーリングリスト?)は多ければ多いほど良い社会です。
人間関係も目前にいない人の悪口を言う関係はほぼ皆無の社会ですから「多々ますます弁ず」の関係です。
ただ人間関係は神仏のように一方的に都合の良い時に参拝すれば良いのではなく、メールが来ればすぐに返信するなど付き合いの義務が生じる・これを怠ると不義理になりますので高齢化すると付き合いをできるだけ減らしていくしかありません。
「来年から失礼します」と言う賀状が増えてきました。
年賀状というのは日頃疎遠になっている人に対する自分の近況報告を兼ねているので返事がなくともいいのですが・・。
生(現し身)の人間関係を減らしていく代わりに、動き回れる程度に元気なうちはこちらの一方的都合・気持ちだけで間に合う神仏との結縁を広げて行くことになりそうです。
耳が遠くなり視力も衰えた分、空気中に満ちている神威を聞く能力が増すとすれば、それも新たな楽しみですが・・・。
もしかしたら疎遠になっていた間に、いつの間にかあの世に旅立っていった人々の声が聞こえてくるようになるのかな?
あの世とこの世の交信をしているうちに、あの世の方が通じやすくなるときがくるのでしょうか?

ギリシャ彫刻と日本彫刻(高村光太郎の苦しみ)

日本の絵画の場合、美しい女性も皆着物を着ている・上村松園の描く女性も浮世絵の女性も源氏物語絵巻の女性、飛鳥の高松塚古墳の女性像も当時の理想的装いで描かれている・・時代・社会性を持っています。
高僧や偉人の絵画や彫刻の場合なおさらです。
ミケランジェロのダビデの像(1504年公開)に先立つ運慶の仁王様(1200年代)はほぼ裸ですが、仁王様を金剛力士像というように、ダビデ像よりも社会的宗教的役割がはっきりしています。
古代ギリシャでは時代を超越した理想の人間像を求めたと言えばそれまですが、なぜ古代ギリシャ(ミロのヴィーナスは最後のヘレニズム様式と言われているらしいですが)でそこまで突き抜けられたのかが不思議です。
日本でも真似して?(これはすごいことだと発奮したのでしょうか?)明治以降裸体彫刻や洋画では裸体画が行われていますが、今ひとつ国民意識に定着しない様子です。
今も国民・民族意識は「綺麗に装うものであって・・」その競争に明け暮れています・・頭でギリシャ彫刻を理解したくらいで変わりません。
この結果、明治維新以降彫刻家にとっては、大変な時代が来ています。
それまでのように仏師は仏像を彫っていれば良かった時代ではなくなったので、高村光太郎は、江戸時代からの仏師である父光雲に反抗して見たのでしょうが、高村光太郎展を見た記憶では、結局は十和田湖畔に智恵子像を完成した(大したものですが・・)程度で、その他は(千葉市美術館の企画展では良いものが出品されなかっただけか?)手首や小鳥の彫刻などに逃げていた(素人の乱暴な感想ですが・・)印象を受けました。
以下は光太郎の詩集「道程」です。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る  ああ、自然よ父よ僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため  この遠い道程のため

高村光太郎の苦悩は、日本彫刻界の苦悩でもあったでしょう。
あらたな彫刻へ踏み出すのは大変だったと思いますし、素人が口幅ったいことを言っては失礼ですが、今の日本彫刻界もまだまだどうして良いか分からない状態でしょうか。
明治に入って西洋列強に期していくためには、文化でも負けられない・・従来の花鳥風月では芸術と言えないと言う運動が起こり、絵画界でも同じく「洋画」に取り組んだもののすぐにフェノロサと岡倉天心のおかげで「日本画」と言うジャンルが生まれたので、画家の多くが日本画に回帰できて精神世界では大いに助かっているように見えます。
http://artscape.jp/artword/index.php/によると以下の通りです。

日本美術院は、1898年、東京美術学校を辞職した岡倉天心(覚三)を中心に、同じく美校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山ら26名によって、在野の美術団体として結成された。
後に経営難となって、1906年に茨城県の五浦に日本画の研究所を移し、対外的な活動をほぼ休止した。天心はアメリカと行き来しながら、この地で海を臨む場所に六角堂を建て、大観、春草らは貧しさに耐えながら研鑽したといわれる。13年の天心の死去を機に、翌14年に大観、観山が中心となって再興日本美術院を結成した。再興院展では、洋画部(20年まで)、彫刻部(61年まで)も設けられた。

この産みの苦しみが東博で今展覧されている横山大観の「無我」でしょうし、同時に展示されていた洋画の青木繁の日本武尊でしょう。
再興美術院では、日本画部門では大観や観山・春草などの英才が多数が出たのでいち早く国民の支持を受けましたが、その他部門ではイマイチで現在に至っています。
大観の今に至る影響力の大きさは明治維新当時の日本を覆った・漱石の神経衰弱に象徴される明治日本の精神界の葛藤を救った功績です。
古代に仏教導入・律令制導入後、和風文化・政治風土との軋轢に苦しんだ時代が終わり、平安時代には空海によって和風文化に適した日本的仏教が創始され、大陸文化.政治制度を吸収した上での各種和風文化が花開いて源氏物語や大和絵が起こり彫刻界では鎌倉時代に運慶のような傑物が出たように、彫刻界でも、欧米の精神を取り込んだ和風の彫刻様式を確立してほしいものです。
ただし我が国では、彫刻はもともと塑像や木造が主流であって金属や石を削る彫刻に馴染みがない・・せいぜい路傍のお地蔵様や狛犬→忠犬ハチ公が対象になる程度です。
絵画のように自宅に飾る習慣がない(書院造が発達したのちも・・・・生活空間の置物は彫刻でなく陶磁器でした(この陶磁器も今風の生活にそぐわなくなくなっています)ことが、大衆(市場での買い手が育たない)支持を得難い大きな違いでしょうか?
お寺の代わりに大きなビルが増えても、・・ホテルやデパート等正面には生花系の華やかなオブジェが食い込んでいますが、彫刻には目が行かない様子です。
この数十年の流れを見ると公園や広場のオブジェとしての意味しか(実用性?が)ないように思うのですが?
北村西望や平櫛田中の作品(例えば鏡獅子は古典題材・「意味」に戻って傑作を残しましたが、国立劇場にあるのでしょっちゅう見られます)は大好きですが、やはり意味があってこそ良いように見えるし家庭向きではありませんし一般ビル向きでもありません。
私の好みから一般化できるとはおもえませんが、私の場合意味(由緒来歴)を重視する傾向があるように思われます。
歴史建造物や歌枕を多くの人が愛するのは、そこに「意味」を見るからです。
各地の美術館で企画展が大流行しているのもその一環ですが、もしも日本人の多くが意味を求めているとしたら、意味不明の裸像を見てもピントこないし、需要に結びつかないでしょう。
高尚な芸術であっても評論家が褒めれてくれたり、美術館お買い上げだけでいいのではなく、市場の支持がないと健全な発達ができません。
裸体彫刻の時代は西欧や地中海世界でもギリシャ〜ローマで終わって以降は「意味の時代」に入っているのであって、ルネッサンス運動で一時的に(過去の遺物が)息を吹き返しただけ・「過去は過去」・だったのかもしれません。
せっかくルーブルで名品多数を鑑賞したのですが、記憶に残るのは、花より団子・・食べ物のことです。
いつも食べ物の思い出ですが、(オルセー美術館ではレストランがあって久しぶりにまともな食事ができて感激した記憶ですが・・・)ルーブルの思い出は、食事環境が(パンくらいしかなく)粗末だったことです。
隣に居合わせた若くてごつい人の太い腕と肩口しか見えなかったので、男の人と思って気楽にちょっと話しかけて見ると、ドイツから来た女性と知って驚いた記憶です。
ドイツ人にとっては気にならない食事内容でしょうが・・・。
食事といえば、ロンドンでも食事はひどいものでしたが、若かったこともあり気になりませんでした。
逆に大英博物館では美味しいオレンジジュースを毎日飲めたのが良い思い出に残っています。
まずい固いパンが紅茶に合うのも知りました。
パリでは高級レストランを探す能力もなく、街中のレストラン(飛び入り)で半端にいろんな食事をしたので、却って不味かった記憶・レベルの低さばかりが記憶に残っている感じです。
しかし大衆向けレストランのレベルが低いのでは、文化の底が知れています。
貧窮の極みである北朝鮮でさえも、最高級レストランでは日本同様のレベルを維持できているのでしょう。
文化度とは大衆レベル・表通りだけではなく、裏道の整備レベルこそ民度の基礎です。
日本は万葉の昔から大衆が文化を支えてきた強みがあります。
大衆を家畜のように支配する律令制が上滑りで終わって、これを利用した我が国古来の民族一体関係を生かした政治が鎌倉以来始まったように、洋風そのままの彫刻〜洋画には日本の心・大衆の支持がないので無理があります。
この数年近代立憲主義の主張が盛んですが、明治以降導入した欧米の皮相な思想は150年経過で次第に日本文化思想に融合(和魂洋才の完成)されてきた結果に対する焦りでしょうか?

東博詣で(結縁2)

今日は上野の東京博物館に行って、国宝その他の名品を楽しんでくる予定です。
今年は横山大観の「無我」と青木繁のヤマトタケルが出るようです。
「無我」については、2014年の再興100年記念の院展で見て以来です。
昨年は、お正月の等伯展に続いて2〜3月頃に春日大社展を見た他、何回行ったか忘れましたが、その中でも記憶に残るのは秋の運慶展でした。
大変良かったので、2回目に行くと列が1回目よりも長かったので中に入れるころには疲れ切ってしまいそうで特別展を敬遠して常設展だけで帰ってきました。
https://www.asahi.com/articles/ASKCT45G2KCTPLZU001.html

写真・図版

東京・上野の東京国立博物館で開かれていた特別展「運慶」(東京国立博物館、興福寺、朝日新聞社、テレビ朝日主催)が26日、閉幕した。現存31体とされる天才仏師・運慶の作品のうち22体が集結し、9月26日から55日間の入場者は60万439人を数えた。

整理券を配ってくれれば、1時間待ちでも2時間待ちでもその間に常設展を見たり食事したりして体力温存して予定10数分前に行けばいいので便利ですが、今の所そういう簡単なサービスをする気持ちがないらしいのが残念です。
昔ミロのビーナスが、西洋美術館に来た時に何時間か並んでみた記憶がありますが、当時は疲れた記憶は全くなく、5月のきらめく直射日光の下で長時間立っていて暑かった記憶だけです。
あれは昭和30年代のことですから、50年以上も前のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9によると以下の通りです。

ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタス(Yorgos Kentrotas)によってオスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。
フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後にルイ18世に献上された。ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
・・ルーヴルを出て海外へ渡ったことはただ1度、1964年4月~6月、日本の東京都(国立西洋美術館)および京都府(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。この際、日本への輸送時に一部破損が生じ、展示までに急遽修復されている。

いつのことか忘れていたので検索してみると、すぐにデータが出てくるのでありがたいことです・これによると今から約54年前に並んだことになります。
仏のルーブル美術館には2〜30年前に家族で行って(広すぎて疲れましたが)ヴィーナスと再会しました。
ヴィーナス像を見ると日本の彫刻や焼き物(土偶など)とは対象がまるで違います。
多島海の古代ギリシャも多神教の社会と聞いていますが、日本の「やおよろずの神々」の意味は、動物は言うに及ばず一木一草にも神宿る意味ですが、ギリシャ神話の場合擬人化した神々のストーリーからなっている点が違います。
ギリシャ彫刻は神々の彫刻から始まったと言われ、それが人間像になるのは自然だとしても、なぜ社会性を捨象した具象的な人間美を追求するようになっていったのか?の疑問です。

結縁〜御縁1

今日は朝から家族で上野までお出かけ、初詣ならぬ東博詣での予定でしたが、急遽明日以降に変更して自宅で箱根駅伝を見ることになりました。
昨年は母校が残念ながら出場できなかったのですが、今年は予選通過で出場できることになりました。
ようやくの出場ですから、上位の成績が期待できずシードを確保できるかどうかの心配ばかりが先に立ち、ストレスの多い駅伝観戦ですが、想定外の良い結果が出るのを祈るしかありません。
母校といっても50年以上も前に4年間在籍しただけですが、たまたま法曹の道に進んだので周囲に同窓生・勉強仲間が多い結果、知らぬ間に母校関係者の御縁を受けて今までつつがなく(失敗だらけの人生ですが、自己評価では大過ないつもりで)やって来られた面もあります。
来し方を振り返ると、自分ではおもいがけない御縁であちこちで世話になり今に至っていることに想いが行くようになりました。
「結縁」という言葉がありますが、私の方は難しい修行などできませんが、自分勝手な解釈では、菩薩さまが一方的に救いの手を差し伸べてくださるような自分勝手なイメージを抱いています。
あり難いことでしかも社会の隅にうずくまっていてもちゃんと見逃さず救ってくれるというならば、神社仏閣にお参りする必要もないのですが、それでも少しでも目に止まりお耳に入るようにお参りしては、合図の鈴を鳴らし、柏手(かしわ手)を打ち何かをお祈りしています。
神様の場合には特定の偉い菩薩や如来様に頼らずとも、自然界・空気の中に神が満ち満ちていて、気配だけで包み込んでくれるありがたい仕組みです。
いわば大気中に満ちている電気(いま風にいえば電磁波?)のようなものですから、感度のいい人・主に女性に簡単に憑依して神様のお告げを告(の)らせることになります。
神の意思とは、今風に言えば「大方の民意のありか」のことでしょうし、これを神の「意」として教えてくださるありがたい仕組みです。
中国では亀の甲羅で「卜」していましたが、これは大気中に電磁波の少ない乾燥地域方式・空気中に神威が満ち満ちていない空疎・・まばらな地域向きです。
「空気」など読めない空疎な自然界を前提にしています。
日本列島は雷が多いことからしても大気中に満ち満ちている電磁波?に頼る方式が合理的だったのでしょう。
民意を知る・たみの「声にならない空気」を知るには、大気中の神威を聞く方式が、現在型民主主義の精神にも適しているように思えますし、民意を知る方法としては投票箱方式よりも優れているように思えます。
今でもK(空気を読む能力)が重視される社会です。
会議を開いても大きな声に従うのではなく、その場の空気を読んで議長が「この方向でいいですね」と方向性を決めていく方式です。
わが国では古来から神弥(神わたる)荘厳な雰囲気・電磁波の通りやすい雑念のない中で「神意」(御稜威・みいつ・結局は民意)の発現によるのが原則です。
我が国は古代からボトムアップ型社会であった原型がここにもあります。
この辺は、「民意とは何か」どうやって民意を汲上げていくかのテーマ・・日本の国憲がどうやって形成されてきたかのテーマでこの後に書いていく予定です。
仏教は外来宗教ですので、超越的な如来様や菩薩さまという偉い人がいますので、「日本教」とは基本が違いますが、我が国向けに改変されて「慈悲」を基本とする大慈大悲の観世音菩薩が信仰の中心になっています。
十一面観音や千手観音あるいは不空羂索観世音のお姿はこれを具象化したものでしょう。
どちらかといえば、超越的能力・男性的な支配服従の関係ですが、私にとっての観音様といえば慈愛に満ちた母親のイメージでしたが、狩野芳崖の悲母観音を見るとごつい顔立ちに驚いたものでした。
それでも「結縁」するには、お取次の役目が必要ということらしく、お寺の場合には、鐘をつきお経を唱えるのは修行を積んだお坊さまだけで、衆生は線香をあげる程度で気持ちが伝わる仕組みらしいです。
時々のご開帳時にご本尊を拝すると、より大きな効果・ご利益があるように思えて信者を集めています。
国立博物館等で各地名刹のありがたいご本尊や侍仏の展覧会があると、押すな押すなの大盛況の背景・・内心・無意識下では、連綿と続いてきた「ありがたい」意識が背景にあるからでしょう。
主催者側では格好をつけるため?美術的・歴史的価値があるという学問的な解説が多いので、それはそれで理解しやすく助かりますが、それは時間潰しのようなもので拝観者の多くは、普段お参りしてもご本尊にはお目にかかれないので、この機会に直接目にかかれる喜びに浸っているのです。
今春東博では正月明けから仁和寺展がはじまりすが、我が家族は2〜30年ほど前仁和寺を参観したことがありますがご本尊を拝観したことがありません。
これが楽しみで仁和寺展には行く予定です。
美術的価値もさることながら「ありがたい」という周辺意識が、幾多の戦火を潜ってもご本尊が守り継がれてきた実力というべきです。
最近興福寺その他のご本尊が工事中の避難?名目で上野の国立博物館に次々と来るようになり、しかも大盛況の理由はこの辺にもあるでしょう。
神社系は目に見えるご本尊がない・周辺の清浄な空気が自慢ですので、博物館展示・出開帳時代のお披露目には不利になります。
この挽回を期したのが、昨年春先に東博で開催された春日大社展でしょうか?
目に見えるものとしては奉納された金色の太刀や宝物程度ですから、興福寺や運慶展のような目玉に欠ける点が見劣りします。
神社系は清浄な「空気」が売り物ですから、現地に誘う触媒的役割に徹するしかないのでしょう。
そうは言ってもあまり多くの人が訪れると、(30年ほど前に家族で行った頃は、まだ旅行時代ではなかったのでどこへ行っても我がな家族の他はちらほらでしたが、ここ数年の伊勢神宮や春日大社など有名どころは)都会の雑踏と区別がつかなくなって「清浄の気」が失われてしまっているのが難点です。
やはり、古代を感じる森の中で人間の方がまばらな雰囲気でこそ「神の存在」を体感できそうで・古き良き時代が懐かしくなると高齢者の仲間入りです。
神社仏閣の多くが、小さいながらも参道経由でお参りする形態になっているのはこのせいでしょう。
今年の元旦には自宅近くの神社にお参りしてきましたが、20年ほど前に午前零時直前にお参りしてほんの10分前後並んで午前零時の到来を待つ程度・ちらほらで、知り合いに出会う程度で牧歌的でしたが、この10数年来マンションブームで大混雑化して鳥居の外から並ぶようになってきました。
何年か前から午前0時を期しての参拝を(長時間並ぶと冷えるので)敬遠して昼間に切り替えたのですが、それでも昨日は30分あまりも並ぶ行列でした。
15年ほど前の初夏に女川港から船に乗って金華山を訪れたときには、参詣者は私たち夫婦2人だけ・・5月すえ〜6月初め頃だったので新緑の草むらには可愛い子鹿ばかり・親は遠くの草むらや林から見守っていました・・清浄そのものの空気を吸う時間も満喫できたありがたさを今もって、忘れられない経験です。
清浄な空気といえば、30年ほど前に家族5人で真夏に訪れた山口のザビエル教会も(私たち家族の他参拝者はいません)爽やかな雰囲気でした。
キリスト教も「神」として日本で根付くには、日本的清浄な空気に包まれることが必須になるのでしょうか?
残念ながらザビエル教会はその後火事で焼け落ちたと報道されていましたが・・・。
結縁から話題が逸れましたが、今年も多くの清らかなご縁に囲まれて1年を平和に過ごしたいと思っています。
「内平らかに外成る」という平成の御世も来年4月で終わりです。
平成天皇退位後の元号がどうなるか楽しみです。

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