レッテル貼りと教条主義3(識字欲求の有無)

日本では漢字が伝わると特定階層が文字を独り占めにせず、万葉の時代から万葉カナを工夫して防人に駆り出された庶民に至るまで(ダンテのような特殊知識層限定ではなく)自分の言葉で和歌を作り、それを詩集化されている社会でした。
万葉集には庶民の歌も収録されているように、古代から庶民も平等に文化活動に参加していましたし、この伝統が江戸時代の徘徊や浮世絵や落語、都々逸など、民衆を基盤とした数々の文化の花が開いた基礎でしょう。
万葉集に関するウイキペデイアです。

天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][4][5][注釈 1]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。

日本では古代から自国語表記に工夫を凝らし780年ころまでには万葉集という長大な和歌集が編纂される程度に日本語表記が(万葉仮名から今のひらがなになるまで日本語表記の改良が重ねられますが)一応到達していたことになります。
そしてこれが、江戸時代になって国学発達の重要な足がかりになります。
平安時代には・・ひらがなの開発・発明が知られていますが、一方で外国文字をそのまま日本語読みする方法に成功しているのが画期的でしょう。
いま英語をそのまま発音する勉強法ですが、平安人は漢字を日本語読みする訓読を発明したのです。
こういう工夫をし、成功した国は歴史上日本だけでしょう。
漢文をそのまま訓読するだけではなく、レ点や一二三四、上中下の順をつけた読み下し文が普及していた・漢文をそのまま日本語の文法に合わせて発音できるようにする工夫がほぼ完成していました。
西欧と比較すれば1300年台になってダンテがやっと自分らの言葉で神曲を書いたのが有名・自慢?という程度ですから、西欧の庶民文化がいかに遅れていたかが明らかでしょう。
その後西洋各国で自国文字が一般人に普及するには数世紀以上かかったでしょうから、大変な文化差です。
西洋では自国語による文字教育がなく、ラテン語で勉強していたので特定エリートの独占物でしたし、外国語を学ぶにはまずは定義を覚えるのが第一歩です。
英語を習うには文法も必要ですが、まずは単語の知識が第一歩なのと同じです。
自国文字がない時代の西洋では15〜600年頃までは文字を使えるには外国語を習える一握りの階層に限られていたでしょうから、単語を知っていることが自慢程度の社会に明治以降日本は近代化するためにまずは西洋にドット留学生を送り出しました。
まして、共産政権出現後の上からの学習?強制に転じると、独自の思考を巡らせる知的好奇心によるものではない・・盲目的暗記優先になるので、スローガン的な単語へ関心が行くようになったものと思われます。
留学生のお仕事は当然のようにものごとの概念定義の輸入紹介から始まったのでしょう。
舶来帰りのエリートの間では留学して学んできた西洋の単語をひけらかせば相手は黙ってしまう・・傾向が主流を占めていたからか?人権とか日民主的。平和を守れなどのレッテルで満足する始まりです。
法律学の世界では、この種の法律学研究方法を日本で「概念法学」という批判的呼び名が定着しています。
いきなり西洋思想に接したばかりでその何分の1程度しか咀嚼できないからこそ、半可通的に理解したばかりの難解な熟語を多用して(留学していない)素人をケムに巻く方式が必要であったのでしょう。
・・こういう文化背景については漱石の「我が輩は猫である」に洋行帰りらしい迷亭先生がレストランで「あちらではこうだ」とありもしないバカ話をしてレストラン経営者を困らせてきたと苦沙味先生相手に大笑いしている場面が出ています。
このような角度から読めば漱石の文明批判は鋭いものがあります。
法学分野で概念こだわる思考方法を概念法学という批判が早くからありました。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

概念法学(がいねんほうがく)とは、制定法(特にローマ法大全)を完全なものであると考え、その解釈や運用に際しては形式論理に終始する態度のことである。ローマ法学者のイェーリングが、自由法学の立場からサヴィニーらをはじめとする従前のドイツ法学理論を批判的に述べる際に使った呼称である。
転じて、現実を無視した形式論的な考察態度、いわゆる「机上の空論」を批判していう場合に用いられる。現実の裁判における基準として機能しない、または機能させることをそもそも考えていないような法的理論に対して向けられることが多い。

https://kotobank.jp/word/概念法学-(平凡社)

欧米諸国で近代法が展開をみた19世紀に,法的解決を形式論理による推論によって抽出しうるとする潮流がかなり共通してみられる。たとえばフランスでは,その時期に注釈学派といわれる立場が主流を占め,裁判官主観を排し法典の条文の適用のみから解決を引き出そうとするなかで概念的形式論理を重視していたし,アメリカでも,判例法から抽出された法原理・法概念に重点をおいた形式主義的な法理論が優位に立っていた(ケース・メソッドはこれを講ずる方法という一面をもつ)。

上記の通り、概念法学批判はドイツで19世紀末頃にはすでに批判されるようになったものですが、日本でも明治初期の導入期は概念から入るしかなかったのですが、一息つくとイエーリングの批判を国内でも引用するようになったようです。
概念法学とは法という抽象世界を研究する場合の方法論に対する批判でしたが、ソ連成立後の教条主義拡散運動の一昔前に学問世界で問題になっていたのが、概念法学批判だったことになりそうです。
一般人が権力によってマニュアル的思想教育受けるようになる前の時代・共産政権成立前の研究方法に対する学会内の批判でした。
20世には概念で論争する時代ではなくなっていたのに遅れて近代社会の仲間入りしたロシア〜中国、すでに概念法学避難を知っていた日本でも、レベルがまだそこまで行かない人たちが少し学習会に参加してすおrーガンっぽい字フレーズを叩き込まれると前衛・・進んだ人の仲間入りできて、労組集会に行って、反戦平和や大砲かバターか?的な決まり文句でオルグさせてもらえる・・自己満足させる道具にはなったでしょう。
こういう人は、場の空気を読めない人からイレギュラーな質問されると答えられずブチ切れる?傾向があります。
彼らはどうやって平和を守るかの議論ができないで終わりです。
隣国と仲良くすればいいと言うのですが、刑事事件を起こすような隣人がいた場合、警察を呼ばないのかの質問には答えられないままです。
そのそもこう言う人の論法によれば、警察や裁判制度が不要になるはずですが、自分は強いから自分で自分を守れるから、そんな制度はいらないと言うのでしょうか?
クリミヤ併合したロシアや、南シナ海を勝手に埋めてて軍事基地を作ったり、尖閣諸島に公然と侵入を繰り返す中国のような国々・結局は図々しく既成事実を作る人や強いもの勝ちの社会を理想とするかのようです。

高齢化と食への欲求

高齢化するとどこへ行っても休憩時間が多くなり、ひいては食事時間が長くなります。
しかも量を食べられない分、美味しい良い食材を楽しみたいし、老い先も短いので京都などの遠距離では毎年行かないことから、同じお寺にはあと何回来られるかな?となります。
どうせならば、その時その時(一期一会と言いますが)に最高に美味しいものを楽しみたいと思うようになって久しい感じです。
「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしき君かな」と古来言われ、鉄等の廃止や老舗店舗廃業で多くの人が集まるように、余命を知ると命が惜しくなるようです。
今後あまり食べられないと分かると食べものにこだわるようになるのでしょうか?
食事には環境も重要です。
若い頃には新幹線食堂車で飛び去っていく景色を横目で見ながらの食事が楽しみでしたし、船旅では遠ざかりつつある神戸港の夜景を見ながら、食事したのも記憶に残る風景です。
もっとも楽しかった記憶では35年近く前におさな子らと鹿児島の錦江湾を航行中の船(サンフラワー号)のレストランで昼食中にふと眼下海面を見るとイルカの群れが船の作る波に乗って並走しているの見た時の感動です。
10年ほど前には、信州清里のホテルレストランで夕食中に野生のタヌキがガラス張りのキワまで目をキラキラ光らせて寄ってきたのには感激しました。
写真に撮ったのを見ると目のキラキラがそのまま写っています。
レストランのマダム?看板娘らしい女性の説明によると、パン屑などやって「餌付け?」しているらしいです。
近隣日常的コースでは、自然林の散歩コースが整備されているなど総合力で気に入っているのは、佐倉市にある川村美術館のレストランです。
川村美術館は常設のレンブラントの絵など良いものもいっぱいありますが、現代アートは素人の私にはイマイチですが、食事環境につられて行く場所です。
三宅坂の国立劇場のレストランは設立時の昭和40年代の思想そのままで(一人前の値段で冷たいご飯が出るなど)で困っていますが、お箸を見ると公営の食堂でなくあちこちに出店しているらしい民間チェーン店の名を印刷しているのには驚きます。
幕間の限られた時間内に提供する難しさもあるでしょうが、閉鎖施設に入ると競争がないので百年一日のような運営になってしまうようです。
孝夫、玉三郎や、猿之助歌舞伎などの大フィーバー時代も遠い過去になり、大スターが出ないようになると食事等の周辺サービス次第で客足も変わるのではないでしょうか?
そういえば、幸四郎が白鵬を襲名したと正月記事に出ていましたが・・。
「いまどき裸像彫刻は時代遅れ」と昨日書きましたが、歌舞伎やお芝居には豪華な衣装が必要なように、食事環境等の付加価値も重要です。
ただし、歌舞伎・ミュージカルその他の劇場系は、(夜の部は翌日の仕事に触る・体力的にきついので)東京地裁午前の弁論後に妻と行くことが多いので、ちょうど休演日だったり演し物に合う時間帯がなくてこの数年ご無沙汰ですからもしかしてこの数年で変わっているかもしれません。
演し物・時間帯が合えば、特に日劇や宝塚の場合、日比谷松本楼3fで食事してから出かけるのがお気に入りコースです。
松本楼は3階窓ぎわまで立派な樹木が迫っていて都心の静寂を楽しめますし、お値段と内容も手頃です。
上野の場合、東京都美術館1階奥のレストランや東博東洋館1fのレストランはまあまあ気に入っています。
美術館では歩いてみるのに疲れるようになったので、例えば東博でいえば4〜5時間の滞在中、約1時間半かける食事時間のウエートは大きいのです。
この点歌舞伎座が新装したので食事がまともになるか?と(歌舞伎そのものは器が変わっても役者は同じなのは当然)期待していたのですが、新築後行ってみて当てが外れました。
昨年の運慶展でわかったことは、整理券方式にしてくれない限りあまり人気のある特別展は高齢者には無理がありそうです。
この点では千葉市美術館は割に良い企画が多いのですが、地方都市の良さで並ぶようなことがなく、地元(私の事務所から数10メートルの距離)でもありレストランも私の胃袋に適正で気に入っています。
話題を東博詣での報告に戻します。
3日朝から東博に行き、まずは戌年にちなんだ展示室から入りました。
応挙が杉戸に描いた子犬の絵がとても可愛く良かったし、その影響を受けたのか?家庭で大事にされている可愛い絵が多い中に風俗を描いた名画のなかに野良犬らしく自由に歩きまわっている犬の日常が書き込まれている絵が多いのに驚きました。
イギリスの映画などで見た限りでは、主人が帰ると立派な館から犬の群れが出迎えるシーンがありますが、どれも奴隷のような行動・狩猟用に訓練されているからでしょうか?日本では犬を使役する習慣がないのでどの絵も愛らしい姿や犬の自然な姿が多いのが特徴です。
犬の仕草が絵の端っこにちょっと書き込まれっている程度のシリーズ展示で菱川師宣などが出てくるのですから、東博はさすがです。
何を見ても品質の高さにはいつも感心していますが、贅沢な悩みですが(駄作のない高レベルの)展示の多さにはいつの間にか時間が過ぎてしまい疲れます。
東博では、今年正月明けには、仁和寺展がありますのでこれも楽しみにしていますが、多分並ぶほどのことはないでしょう。
約30年前に妙心寺に一泊したことがあって、翌朝地図をみると仁和寺が近いことに気が付いて、仁和寺まで歩いていくことなりましたが、徒然草の話題によく出るお寺ですので、細い路地を子供らと歩きながら、「あの辺が兼好法師のいた双ヶ丘方向」と説明しながら歩いて行って、仁和寺にたどり着いた良き思い出のお寺です。
(ただし、当時木造家屋中心でしたので住宅街の屋根の向こうに小山・衣笠山らしいもの?を見ながら歩いたか?記憶がはっきりしませんが・・)
京都の旅では、いく先々で1キロ前後何でもない住宅街を歩くのが楽しみです。
貴船神社からの帰りに岩倉駅で降りて実相院まで歩いた道筋、苔寺から松尾大社まで丘の裾野沿いに歩いた記憶、等持院から京福電車の駅までの道、南海電鉄の駅から、住吉大社裏口への道筋、それぞれ歩いた記憶は濃厚です。
生け花といっても身近な人が習っていた(当時同世代女性が習うしきたりでしたので)「古流」「草月」「池坊」など有名大手しか知らなかったので、仁和寺に行った時に初めて「御室の桜」「御室流」の存在を知ったことです。
仁和寺では立派なお座敷など巡っただけで、当然のことながら秘蔵の仏像など宝物類は拝観できていません。
今回は、仁和寺の秘仏その他お宝拝観すれば、神仏との結縁・チャンスが増えるのかな?が楽しみです。
日本人の信仰の基礎は、空気中に満ち満ちている「八百万の神」相手ですから、どこの御仏と(不空羂索観音)の糸(当時電磁波がなかったので糸に喩えただけ)がいくつ繋がっても、もつれてしまう心配はいりません。
結縁(今でいえばメーリングリスト?)は多ければ多いほど良い社会です。
人間関係も目前にいない人の悪口を言う関係はほぼ皆無の社会ですから「多々ますます弁ず」の関係です。
ただ人間関係は神仏のように一方的に都合の良い時に参拝すれば良いのではなく、メールが来ればすぐに返信するなど付き合いの義務が生じる・これを怠ると不義理になりますので高齢化すると付き合いをできるだけ減らしていくしかありません。
「来年から失礼します」と言う賀状が増えてきました。
年賀状というのは日頃疎遠になっている人に対する自分の近況報告を兼ねているので返事がなくともいいのですが・・。
生(現し身)の人間関係を減らしていく代わりに、動き回れる程度に元気なうちはこちらの一方的都合・気持ちだけで間に合う神仏との結縁を広げて行くことになりそうです。
耳が遠くなり視力も衰えた分、空気中に満ちている神威を聞く能力が増すとすれば、それも新たな楽しみですが・・・。
もしかしたら疎遠になっていた間に、いつの間にかあの世に旅立っていった人々の声が聞こえてくるようになるのかな?
あの世とこの世の交信をしているうちに、あの世の方が通じやすくなるときがくるのでしょうか?

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