皇室典範は憲法か?2(天皇観の根本変化の有無6)

46年2月13日以降の動きは以下引用紹介の通り、最後はGHQ案で押し切られる展開です。
ポツダム宣言受諾交渉で国体護持を条件に引き延ばしていた結果、原爆投下によって最後に無条件降伏になったのとおなじ・無駄な抵抗のパターンですが、GHQがこのままだと「天皇の身体の保障ができない」と先に教えてくれたので原爆投下やソ連参戦のような悲惨な結果にならずにすみました。
結果がわかっていても国内政治力学上、(国益よりも自己保身が先に立つ?・・ポツダム宣言受諾引き伸ばしの結果、ソ連参戦と原爆の惨禍に遇いました)このようなパフオーマンス・手順が必要だったのでしょうか?
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html国会図書館資料引用の続きです。

3-15 GHQ草案 1946年2月13日
民政局内で書き上げられた憲法草案は、2月10日夜、マッカーサーのもとに提出された。マッカーサーは、局内で対立のあった、基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定の削除を指示した上で、この草案を基本的に了承した。
その後、最終的な調整作業を経て、GHQ草案は12日に完成し、マッカーサーの承認を経て、翌13日、日本政府に提示されることになった。日本政府は、22日の閣議においてGHQ草案の事実上の受け入れを決定し、26日の閣議においてGHQ草案に沿った新しい憲法草案を起草することを決定した。なお、GHQ草案全文の仮訳が閣僚に配布されたのは、25日の臨時閣議の席であった。
3-17 「ジープ・ウェイ・レター」往復書簡
1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与えたことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にするだけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。
この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡によってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。
3-18 松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日
1946(昭和21)年2月13日、外務大臣官邸においてGHQ草案を手交された後、松本烝治国務大臣は、ただちに幣原喜重郎首相に報告・協議を行った結果、再説明書を提出して、GHQの再考を促すこととなった。
再説明書は、「憲法改正案説明補充」という表題を付し、英訳され、2月18日、白洲次郎終戦連絡事務局参与によりGHQに送達された。
しかし、ホイットニー民政局長は、「松本案」については考慮の余地はなく、GHQ草案を受け入れ、その原則を盛り込んだ改正案を作成するかどうかを20日中に回答せよと述べた。
1946(昭和21)年2月19日の閣議で、初めてGHQとの交渉の経緯とGHQ草案の内容説明が行われた結果、21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーを訪問し、GHQ側の最終的な意思確認を行うこととなった。
翌22日午前の閣議で、首相から会見内容が報告され、協議の結果、GHQ草案を基本に、可能な限り日本側の意向を取り込んだものを起案することで一致し、同日午後に、松本烝治国務大臣が吉田茂外務大臣及び白洲次郎終戦連絡事務局参与とともにGHQに行き、GHQ草案のうち、GHQが日本側に対し変更してはならないとする部分の範囲について問いただすこととなった。
「会見記」は、22日午後の会見内容について松本自身が作成したメモである。また、ハッシー文書中の資料は、この会見についてのGHQ側の記録である。
松本等は、GHQ草案は一体をなすものであり、字句の変更等は可能だが、その基本原則についての変更を認めないとのGHQの返事を得た。
松本は、首相官邸に戻り、首相に報告するとともに、GHQ草案に従って日本案の作成に着手した。
3-20 日本国憲法「3月2日案」の起草と提出
1946(昭和21)年2月26日の閣議で、GHQ草案に基づいて日本政府側の案を起草し、3月11日を期限としてGHQに提出することが決定された。松本烝治国務大臣は、佐藤達夫法制局第一部長を助手に指名し、入江俊郎法制局次長にも参画を求めるとともに、自ら第1章(天皇)、第2章(戦争ノ廃止)、第4章(国会)、第5章(内閣)の「モデル案」を執筆した。
以下略
3-21 GHQとの交渉と「3月5日案」の作成
1946(昭和21)年3月4日午前10時、松本烝治国務大臣は、ホイットニーに対し、日本案(3月2日案)を提出した。GHQは、日本側の係官と手分けして、直ちに、日本案及び説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれて、GHQ側は、GHQ草案と日本案の相違点に気づき、松本とケーディスとの間で激しい口論となった。
松本は、午後になって、経済閣僚懇談会への出席を理由に、GHQを退出した。
日本案の英訳作業が一段落した夕刻、GHQは、引き続いて、確定案を作成する方針を示し、午後8時半頃から、佐藤達夫法制局第一部長ら日本側と、徹夜の逐条審議が開始された。審議済みの案文は、次々に総理官邸に届けられ、5日の閣議に付議された。同日午後4時頃、司令部での作業はすべて終了し、3月5日案が確定した。
閣議は、この案に従うことに決し、午後5時頃、幣原首相と松本国務大臣が参内して奏上した。
「3月4・5両日司令部ニ於ケル顛末」は、4日から5日にかけてのGHQにおける協議の顛末を佐藤が克明に記録したものである。上から二番目の資料は、総理官邸に逐次届けられた審議済みの案文を取りまとめたもので、閣議で配布された資料の原稿となったものである。

上記についてはそれぞれ当時の担当者のメモその他の資料原文が出ていますので関心のある方は資料を直接お読みください。
上記の通り、日本政府は白州次郎を立てて抵抗を試みたが一蹴されてGHQ案通りに日本語の法律用語に書き換えて完成したのが現憲法です。
現憲法と、2月13日のGHQ草案を読み比べれば、9条関係で芦田修正などが入りますが天皇関連骨子はほぼ同旨であることがわかります。

天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

天皇観が根本変化したか4(人間宣言と民族の心)

天皇周辺にどういう人物がいて起案したか(私には)不明ですが、仁徳天皇の「民の竈」の故事にもあるように、皇室の伝統的精神でしょうか・戦火による国民の艱難辛苦をいたわる気持ちが敗戦の詔勅にも多く書かれていますが、国民の安否を気遣う精神に貫かれた名文ですので、この機会に全文を紹介しておきます。
この詔勅を読むとこの詔勅が示した基本方針が昭和天皇以来平成天皇へと国民から敬愛されてきた全国巡行・慰霊の旅や災害に対する共感の表明などの行動規範の基礎になっていると思われますし、戦後70年の国民の精神・行動規範となってきた・・・これこそが実質的意味の憲法精神になっていたように思われます。
この詔勅は明治維新の当初に新政権の心意気として公布された「五箇条の御誓文」の引用から始まっているように、新たな戦後精神は「かくあるべし」という宣言でもあったでしょう。

(「五箇条の御誓文)は「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」

と冒頭に記し

「一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。(こいねがう」

と最後に結んでいます。
そして日本民族は天皇陛下を筆頭にして一致団結して戦後70年かけて汚名を雪ぎ現在の栄誉ある地位を築く努力をしてきました。
韓国や中国の慰安婦や南京大虐殺の主張はこの努力を無にし、事実無根のフィクションによって汚名を世界に広げようとするものであり、国内でこれに呼応して文学作品の自由・報道の自由と称して(日本を貶める国に迎合して)民族の汚名を広げようとする勢力があるのは誠に遺憾です。
同じく国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056shoshi.html

3-1 天皇「人間宣言」
1946(昭和21)年1月1日に発せられた詔書。このなかで昭和天皇は、天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定した。これは、後に、天皇の地位に根本的な変更がもたらされる布石ともなった。同日、マッカーサーはこの詔書に対する声明を発表し、天皇が日本国民の民主化に指導的役割を果たしたと高く評価した。
詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。
御名 御璽
昭和二十一年一月一日
以下省略

この詔勅は五箇条の御誓文から説き起こし、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。」
「旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。」としてこの時点ですで平和主義の宣言をしています。

「蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦・・真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。」

と国民をいたわりながら鼓舞し、

「朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(よろこびと悲しみ・稲垣注)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」
これが有名な人間宣言部分ですが、ここにも天皇の存立基盤は「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、」と国民の信頼の上にあることを天皇自身が宣言しているのです。

なぜ、政府・政府に重用されている学者が「爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ」・・意を体した憲法改正案を作れなかったのでしょうか?
終戦の詔勅の一部引用です。
国民を思い案ずる心は一貫しています。
これがマッカーサーとの会談でそのまま吐露されて彼の心を打ったのでしょう。
http://ironna.jp/article/1855

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)
・・・・
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対し遺憾ノ意ヲ表セサ(ざ)ルヲ得ス(ず) 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ(じ)非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ(ば)五(ご)内(ない)為(ため)ニ裂ク 且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫(しん)念(ねん)スル所ナリ 惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情(ちゆうじよう)モ朕善ク之ヲ知ル 然レト(ど)モ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪(た)ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ(び)難キヲ忍ヒ(び) 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
・・・朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱(みだ)リ 為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ(が)如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝へ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ(じ) 任(にん)重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサ(ざ)ラムコトヲ期スヘ(べ)シ 爾臣民其レ克ク朕カ(が)意ヲ体(たい)セヨ

御名 御璽
昭和二十年八月十四日

耐え難きを耐え忍び難きを耐え・・「我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。」
「朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。」
終戦と年頭の詔勅を合わせて読むと、概ね結束(心を一にして)して石油危機〜円高危機〜大震災その他難局に当たってきました。
これが鮮やかに出たのが東北大震災で発揮された「絆」でした。
戦後70年に及ぶ雌伏のときを経て、今まさに世界の尊敬を受けられる民族になり、昭和天皇陛下の御期待に応えられるようになったことを誇りに思う国民が多いでしょう。
国連等で日本民族が道義的に如何に劣っているかを訴えるための活動をしているかのように誤解を受けそうな組織もあります。
もちろん完全無欠の人や民族はないので、海外の良い点を取り入れる謙虚な姿勢は常に必要ですし、成績トップクラスでもなお努力して高みを目指すために「この点まだまだ改良の余地があると言う意見や努力も必要です。
しかし、それは国内で主張し自分で努力すればいいことです。
海外活動家の真意は誰にもわかりませんしわかる方法もありません。
絆で結ばれているはずの日本民族にも、もちろん一定の例外がいます。
規格外の人が生き易くするのも民族の発展のために必要なことですが、それと自民族を国外で中傷するのを目的に行動して良いかは別問題です。

天皇観が根本変化したか3(憲法草案要綱・民間案)

憲法草案要綱に関する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1の記事からです。

戦前からマルクス主義者の立場から自由民権運動を中心に憲法史研究を続けていた鈴木安蔵が起草し、それに対して憲法研究会で出された意見等により修正を重ねて3案まで作られたもので、全58条からなる[1]。小西豊治によれば、憲法研究会の中心人物は鈴木であり、第三次案を執筆したのも鈴木である[2]。
「要綱」は、
「日本国の統治権は、日本国民より発する」
「天皇は、国民の委任により専ら国家的儀礼を司る」
「国民の言論・学術・芸術・宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布することはできない」
「国民は、健康にして文化的水準の生活を営む権利を有する」
「男女は、公的並びに私的に完全に平等の権利を享有する」
など現行日本国憲法と少なからぬ点で共通する部分を有している。
このほか、詳細については以下の通りである。
議会については、二院制を採用しており(GHQ草案は一院制)、全国1区による大選挙区制による一院と職能代表による二院とで構成するかたちをとっている。また内閣については、議会に対して責任を負う議院内閣制を採用している。
司法については、大審院院長・行政裁判所長・検事総長を公選とし、冤罪に対する刑事補償規定がある。
憲法公布後10年以内に国民投票による新憲法の制定をおこなうことが規定されており、憲法の位置づけを暫定的なものとしている。
鈴木安蔵は、発表後の12月29日、毎日新聞記者の質問に対し、起草の際の参考資料に関して次のように述べている。
「明治15年に草案された植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など、日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期、真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた廿余の草案を参考にした。また外国資料としては1791年のフランス憲法、アメリカ合衆国憲法、ソ連憲法、ワイマール憲法、プロイセン憲法である。」

国民主権の宣言の歴史と「要綱」の作成経緯
1945年11月21日、憲法研究会第三回会合が開かれる。第一次案として国民主権と立憲君主国の規定を含む案が鈴木から示される[18]。 会合において、室伏は「…天皇は…儀礼的代表としてのみ残る。…」と発言し、森戸は「天皇は…君臨すれども統治せずの原則により…国家の元首として国家を代表し…」と発言する[1
1945年11月29日、鈴木が第二次案をまとめる。天皇が元首と宣言されている[1
1945年12月11日、鈴木が第三次案を作成する。元首の規定は含まれず、天皇は国家的儀礼を司る、とされる
1945年12月16日、近衛文麿が自決する[22]。
1945年12月26日、憲法草案要綱が首相秘書官に渡され、GHQにも渡された[
1946年1月11日、ラウエルはGHQに「私的グループによる憲法改正草案に対する所見」を提出する。その中で、国民主権を評価し、一方で修正する点として、憲法改正には国民投票が必要である等を挙げる[30]。
1946年2月3日、マッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。
1946年2月12日、マッカーサー草案が作成される。
1946年 春から夏、GHQと日本政府の駆け引きにおいて、GHQは、天皇が儀礼的形式的機能をもつような表現とするように要求する。
小西によれば、GHQの要求はこの草案に基づく
小西によれば、国民主権の規定は、アメリカが見逃していた、日本国憲法の核心部分である

上記は小西氏の自画自賛的でにわかに賛同できません
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

1-12 SWNCC極東小委員会「日本の統治体制の改革」 1945年10月8日
1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。これをもとに翌年1月7日付けの日本の憲法改正に関する米国政府の公式方針「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)が作成される。本文書は、日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等の9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

上記のとおり占領政策の基本はもともと国民が決めればそれで良いという「民意重視」でしたので、国民主権論は憲法要綱案作成者の手柄でも何でもありません・・。
研究会草案は、在野の気楽さでアメリカの本音をその通り成案にしてお先某担ぎ出来ただけかもしれません。
戦後すべての分野で、(昨日憲法学者を紹介しましたが)アメリカの動向先取り発表がエリートへの道でした。
商工業医薬等の実務すべての分野でアメリカが進んでいて、これを実習して帰ると日本では10数年には日本の商工業・証券や金融取引その他のルールになるのですから、やむを得ないでしょう。
上記民間発表だけではなく、46年元旦には(敗戦の詔勅につぐ初めてのお言葉でしょう。)いわゆる天皇の人間宣言が出ています。
これによれば天皇自身が天皇の地位は
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、・・」
とあって、民意によることを自ら表明しているのです。
人間宣言が歴史的に重要なのでそればかり取り上げられますが、この時点で天皇自身が自分の地位は民意による点をすでに打ち出していた点を重視すべきでしょう。
ここまで天皇が踏み込んでいるのに、周辺はそこに触れられなかったのです。
この辺は、マッカーサーとこ会談で天皇自身が「自分の命でどうでもなるならば国民の困窮を救って欲しい」と述べた肝心の部分をあまりにもおそれ多いということで公式記録から削除されてしまった経緯と同じです。

天皇観が根本変化したか2

GHQ憲法草案(・・ここでは天皇制限定)が、そのまま憲法になりえたのは強制によるのではなく、日本人の抱く歴史的・実際的天皇観にもあっていたので国民支持を受けたことによると思われます。
美濃部達吉一人がGHQ案に反対したのは、もともと天皇機関説批判論は学問でない・・実態に合わない妄想でしかないから、君側の奸である軍部狂信主義者の妄想さえとり除けばいいというのが彼の信念だったからでしょう。
この点では、戦後の憲法改正作業に関して宮沢教授が当初述べていた部分改正で良いという意見にも繋がっています。
(この辺はどこかの学説を読んでの意見ではなく私個人の思いつき意見です)
憲法改正に対する美濃部説や宮沢説を理解するには、両者がどの部分をどのように改正すれば良いとする案であったかを見ないと正確には言えませんが、そこまで読み見込んでいませんし引用して比較しているとくどくなり過ぎます。
正確に知りたい方は、以下に引用している国会図書館の資料に入ってご自分で読みくらべてください。
以下に紹介する通り憲法改正の流れでは、結果的にGHQに押し切られて言いなりになるしかなかったのは事実ですから、この外形だけを見れば、外国の強制によって憲法が制定された上に、明治憲法では前文と第一条に

「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ・・・国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ・・」
「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

とあったのが、日本国憲法では

「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

その他内閣の輔弼が助言承認となり、国会が天皇の協賛機関ではなくなるなど関連改正があった以上は、国体変更になったという解釈が確かに可能です。
宮沢教授その他当時憲法改正に関与したエリート学者の多くは、自己の主張が46年2月13日にGHQに真っ向から否定されて格好がつかなくなったことから、自己の理論は正しかったがGHQの強制要素・・8月革命説を主張したい心理もわかります。
しかし、昨日紹介した通り連合国が日本降伏前から、天皇制廃止を考えていなかったし、実際の占領政策でもマッカーサー自身が天皇制利用の占領政策を基本としていました。
その方が占領支配が円滑に行くからです・・・このような国民の天皇に対する尊崇精神利用は、現実政治としてはいつの世でもどこの世界(植民地支配でも土着権力を利用する方法)でもありうることです。
蘇我氏であれ摂関政治〜清盛であれ、尊氏〜信長であれ家康であれ、明治維新の薩長土肥政権であれ、武力背景に朝廷を圧迫しながらも天皇の権威利用価値があったので適当に妥協して利用していた点は同じです。
だからと言ってその都度天皇制の根本が変わったという歴史家はいないでしょう。
美濃部説とGHQ草案の違いは、形式上でも天皇大権が憲法上にあると、これを悪用する組織が台頭するのを防げない・錦旗を握った方が何でも出来てしまえるリスクをどう見るかにあったのではないでしょうか?
軍部がまた政権を握るリスクを連合国が非常に恐れていた実態があります。
実際にこれを防げずに美濃部氏は貴族院議員を辞めざるを得なくなりました・・を危惧していたこと・・権力(錦旗)を握れるのは民選議員の多数派=投票による確かな民意だけに限定するという方法の違いでしょう。
アメリカ型民主主義を「投票箱民主主義」と揶揄されますが、民意を知る方法を神威によるとすれば権力を握った者の恣意的操作(政敵・道鏡失脚の宇佐八幡のご神託など史上いくらでもその例があります。)に陥りやすい欠点があります。
今ではメデイアの世論調査次第・・自説に誘導すべくニュースの取捨選択で民意を操作しようとするリスクが問題になり始めました。
国内政敵どころか、仮想敵国が相手国の世論操作に絡むようになってきたのでその危険性が表面化してきたのです。
トランプ氏登場以来マスメデイア操作による民意創出が問題になっていますし、私自身も昨秋の総選挙直前ころに行われていた大手メデイア世論調査結果と、実際の選挙結果との乖離(ニコ動だけがほぼ一致)について疑問を呈してきました。
ロシア等のメデイア介入があったか、フェイクで操作されたかどうかは別として投票結果は、少なくともその時点での民意であることは間違いのない事実でしょう。
日本側政府案を作った学者は私など足元にも及ばない秀才揃いでしょうが、摂関政治の頃から変わらぬ天皇制の本質・象徴であり民の尊崇の対象であり続けてきた本質をみずに、天皇の名で(天皇大権や統帥権を利用して)統治する形式を重く見すぎていたようです。
・・だから、そこに手をつけないことが国体を守ることになる考え、姑息な改正案しか発案できなかったのに対して、連合国やGHQは第三者・岡目八目の優位性で古代から続く天皇制の実態・本質をよく見ていた違いではないでしょうか。
実は権力に気兼ねのない民間の憲法改正案では、45年12月には現憲法同様の民意による象徴天皇制に基づく改正案が発表されていたようですから、民間(といっても相応の学者ですから、要は政府に重く用いられていない・束縛のないフリー?学者)・国民の方が実態に即していたことになり・エリート学者の完敗です。
エリートもわかっていたが立場上そこまで言えなかったとすれば・・天皇を利用する「君側の奸」勢力に気を使う御用学者の方がおかしいのです。
宮澤教授の時の権力に合わせた変節ぶりを昨日紹介したばかりです。
次の芦部教授も結局は世界権力者であるアメリカの判例動向(二重の基準)をいち早く取り入れて、憲法学会の1人者になったように見えます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

2-16 憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日
憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

憲法研究会のメンバーや憲法草案要綱を明日紹介します。

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