皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

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