マッカーサーと連合国とのズレ?の原因1

私はGHQと本国政府プラス連合国は一体であると思っていましたが、実は本国政府との間で日本の天皇制維持に関して亀裂または方向性に微妙なズレが生じていた印象です。
マッカーサーと本国・連合国との間にどのようなズレがあったのでしょうか?
まずは経過から見ていきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html

概説
第3章 GHQ草案と日本政府の対応
極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。
1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。

以下は資料集からです。

3-2 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228) 1946年1月7日
1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達された。のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。

概説に戻ります。

GHQ草案の作成
GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された
GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成
2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。
日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了した。
日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。
憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立
3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

以下は資料集からの引用です

1-19近衛をめぐるアチソン政治顧問の動き
米国務省派遣の最高司令官政治顧問であるジョージ・アチソンが、憲法改正にとりかかった近衛について国務省に報告した文書類。
・・・一方、マッカーサーは、本国政府に直結しているアチソンを憲法改正問題から除外し始めた。
11月7日付けの国務次官宛てアチソンの書簡は、マッカーサーが憲法改正問題から国務省を除外しようとしていることを報告している。アチソンはこの書簡を、GHQに読まれる可能性のある電報を避け、わざわざ航空郵便で送った。この時期からマッカーサーは、憲法問題をGHQ内で扱う方向へと向かった。

ただし、この資料だけではマッカーサーが本国政府と別行動をするようになっていたことは分かりますが、何故そうなったか・本国や極東委員会と意見相違があったからでしょうが、何故意見相違が起きたか、マッカーサーが権限逸脱の危険・解任リスクを冒してまで頑張ったかは不明です。
明日から極東委員会と米本国(国政政治力学の変化の萌芽?)とマッカーサーの関係を見ておきましょう。

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