結縁〜御縁1

今日は朝から家族で上野までお出かけ、初詣ならぬ東博詣での予定でしたが、急遽明日以降に変更して自宅で箱根駅伝を見ることになりました。
昨年は母校が残念ながら出場できなかったのですが、今年は予選通過で出場できることになりました。
ようやくの出場ですから、上位の成績が期待できずシードを確保できるかどうかの心配ばかりが先に立ち、ストレスの多い駅伝観戦ですが、想定外の良い結果が出るのを祈るしかありません。
母校といっても50年以上も前に4年間在籍しただけですが、たまたま法曹の道に進んだので周囲に同窓生・勉強仲間が多い結果、知らぬ間に母校関係者の御縁を受けて今までつつがなく(失敗だらけの人生ですが、自己評価では大過ないつもりで)やって来られた面もあります。
来し方を振り返ると、自分ではおもいがけない御縁であちこちで世話になり今に至っていることに想いが行くようになりました。
「結縁」という言葉がありますが、私の方は難しい修行などできませんが、自分勝手な解釈では、菩薩さまが一方的に救いの手を差し伸べてくださるような自分勝手なイメージを抱いています。
あり難いことでしかも社会の隅にうずくまっていてもちゃんと見逃さず救ってくれるというならば、神社仏閣にお参りする必要もないのですが、それでも少しでも目に止まりお耳に入るようにお参りしては、合図の鈴を鳴らし、柏手(かしわ手)を打ち何かをお祈りしています。
神様の場合には特定の偉い菩薩や如来様に頼らずとも、自然界・空気の中に神が満ち満ちていて、気配だけで包み込んでくれるありがたい仕組みです。
いわば大気中に満ちている電気(いま風にいえば電磁波?)のようなものですから、感度のいい人・主に女性に簡単に憑依して神様のお告げを告(の)らせることになります。
神の意思とは、今風に言えば「大方の民意のありか」のことでしょうし、これを神の「意」として教えてくださるありがたい仕組みです。
中国では亀の甲羅で「卜」していましたが、これは大気中に電磁波の少ない乾燥地域方式・空気中に神威が満ち満ちていない空疎・・まばらな地域向きです。
「空気」など読めない空疎な自然界を前提にしています。
日本列島は雷が多いことからしても大気中に満ち満ちている電磁波?に頼る方式が合理的だったのでしょう。
民意を知る・たみの「声にならない空気」を知るには、大気中の神威を聞く方式が、現在型民主主義の精神にも適しているように思えますし、民意を知る方法としては投票箱方式よりも優れているように思えます。
今でもK(空気を読む能力)が重視される社会です。
会議を開いても大きな声に従うのではなく、その場の空気を読んで議長が「この方向でいいですね」と方向性を決めていく方式です。
わが国では古来から神弥(神わたる)荘厳な雰囲気・電磁波の通りやすい雑念のない中で「神意」(御稜威・みいつ・結局は民意)の発現によるのが原則です。
我が国は古代からボトムアップ型社会であった原型がここにもあります。
この辺は、「民意とは何か」どうやって民意を汲上げていくかのテーマ・・日本の国憲がどうやって形成されてきたかのテーマでこの後に書いていく予定です。
仏教は外来宗教ですので、超越的な如来様や菩薩さまという偉い人がいますので、「日本教」とは基本が違いますが、我が国向けに改変されて「慈悲」を基本とする大慈大悲の観世音菩薩が信仰の中心になっています。
十一面観音や千手観音あるいは不空羂索観世音のお姿はこれを具象化したものでしょう。
どちらかといえば、超越的能力・男性的な支配服従の関係ですが、私にとっての観音様といえば慈愛に満ちた母親のイメージでしたが、狩野芳崖の悲母観音を見るとごつい顔立ちに驚いたものでした。
それでも「結縁」するには、お取次の役目が必要ということらしく、お寺の場合には、鐘をつきお経を唱えるのは修行を積んだお坊さまだけで、衆生は線香をあげる程度で気持ちが伝わる仕組みらしいです。
時々のご開帳時にご本尊を拝すると、より大きな効果・ご利益があるように思えて信者を集めています。
国立博物館等で各地名刹のありがたいご本尊や侍仏の展覧会があると、押すな押すなの大盛況の背景・・内心・無意識下では、連綿と続いてきた「ありがたい」意識が背景にあるからでしょう。
主催者側では格好をつけるため?美術的・歴史的価値があるという学問的な解説が多いので、それはそれで理解しやすく助かりますが、それは時間潰しのようなもので拝観者の多くは、普段お参りしてもご本尊にはお目にかかれないので、この機会に直接目にかかれる喜びに浸っているのです。
今春東博では正月明けから仁和寺展がはじまりすが、我が家族は2〜30年ほど前仁和寺を参観したことがありますがご本尊を拝観したことがありません。
これが楽しみで仁和寺展には行く予定です。
美術的価値もさることながら「ありがたい」という周辺意識が、幾多の戦火を潜ってもご本尊が守り継がれてきた実力というべきです。
最近興福寺その他のご本尊が工事中の避難?名目で上野の国立博物館に次々と来るようになり、しかも大盛況の理由はこの辺にもあるでしょう。
神社系は目に見えるご本尊がない・周辺の清浄な空気が自慢ですので、博物館展示・出開帳時代のお披露目には不利になります。
この挽回を期したのが、昨年春先に東博で開催された春日大社展でしょうか?
目に見えるものとしては奉納された金色の太刀や宝物程度ですから、興福寺や運慶展のような目玉に欠ける点が見劣りします。
神社系は清浄な「空気」が売り物ですから、現地に誘う触媒的役割に徹するしかないのでしょう。
そうは言ってもあまり多くの人が訪れると、(30年ほど前に家族で行った頃は、まだ旅行時代ではなかったのでどこへ行っても我がな家族の他はちらほらでしたが、ここ数年の伊勢神宮や春日大社など有名どころは)都会の雑踏と区別がつかなくなって「清浄の気」が失われてしまっているのが難点です。
やはり、古代を感じる森の中で人間の方がまばらな雰囲気でこそ「神の存在」を体感できそうで・古き良き時代が懐かしくなると高齢者の仲間入りです。
神社仏閣の多くが、小さいながらも参道経由でお参りする形態になっているのはこのせいでしょう。
今年の元旦には自宅近くの神社にお参りしてきましたが、20年ほど前に午前零時直前にお参りしてほんの10分前後並んで午前零時の到来を待つ程度・ちらほらで、知り合いに出会う程度で牧歌的でしたが、この10数年来マンションブームで大混雑化して鳥居の外から並ぶようになってきました。
何年か前から午前0時を期しての参拝を(長時間並ぶと冷えるので)敬遠して昼間に切り替えたのですが、それでも昨日は30分あまりも並ぶ行列でした。
15年ほど前の初夏に女川港から船に乗って金華山を訪れたときには、参詣者は私たち夫婦2人だけ・・5月すえ〜6月初め頃だったので新緑の草むらには可愛い子鹿ばかり・親は遠くの草むらや林から見守っていました・・清浄そのものの空気を吸う時間も満喫できたありがたさを今もって、忘れられない経験です。
清浄な空気といえば、30年ほど前に家族5人で真夏に訪れた山口のザビエル教会も(私たち家族の他参拝者はいません)爽やかな雰囲気でした。
キリスト教も「神」として日本で根付くには、日本的清浄な空気に包まれることが必須になるのでしょうか?
残念ながらザビエル教会はその後火事で焼け落ちたと報道されていましたが・・・。
結縁から話題が逸れましたが、今年も多くの清らかなご縁に囲まれて1年を平和に過ごしたいと思っています。
「内平らかに外成る」という平成の御世も来年4月で終わりです。
平成天皇退位後の元号がどうなるか楽しみです。

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