大晦日

今年も無事?1年が終わる日が来ました。
日本全体では色々な変化変化があり天災もありましたが、景気が良くて大方の国民には明るい良い1年だったのではないでしょうか?
日常生活に直接関係がありませんが、見方によれば天皇陛下が生前退位する仕組みが決まった(恒久的制度ではなく特例法でしかありませんが・・)年として歴史に残る大きな出来ごとでしょう。
これが実質的意味の憲法改正にあたるかどうかの関心で昨日書き始めたところですが、このテーマは正月明けに再開します。
なにしろ「上皇」などの名称自体、源平合戦の頃に頻繁に出てきた程度で、その後実際には多くいても長年上皇・天皇家自体が政治の舞台から遠ざかっていたので、ほとんどの人が普段目にしたことのない制度です。
上皇さまのお住まいになる御所の名称をどうするのかなど興味が尽きません。
正式名称は古代からの伝統に従い仙洞御所となるらしいですが、仙という語感自体から、世俗から離れて余生を送るイメージでそれ自体問題がありません。
ところが、源平合戦の頃には、仙洞御所を「〇〇院」と称して「院の御所」として権勢を振るったことがあり、「院宣」を想起すると(今は何の効力もない時代ですが)何となく生臭くなってきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E6%B4%9E%E5%BE%A1%E6%89%80

仙洞御所には家政機関としての院庁が置かれたほか、白河上皇の時には近衛として北面武士のちに西面武士が設置された。

こうして実力を蓄えていったことが原因のようですが、政治形式的には(私の個人意見ですが・・)勢力のあるうちに引退することにより非公式な立場を利用して自由な政治力を発揮する必要があったことによると思っています。
今でも実力者が表舞台から引退することによって、公式会議に出なくてよくなることから、その分内容のある実質的会合に時間をかけられるメリットが言われます。
(出世したばかりの時には、晩餐会や高名な人との会合などに出られるのが嬉しいでしょうが、一定の経験を積むとそんな公式会合・多くは実のない手順をこなすだけの会議に時間をかけていられません)
東大からノーベル賞が出ないのは、各種の審議会等の出席が多すぎるからだと数十年前から言われています。
他方で政治力発揮の経済的裏付けのために行ったのが院周辺で率先して行った荘園確保政策でした。
政府そのものである天皇家自身が律令制を破壊する荘園を持てませんので、藤原氏の勢力拡大を指をくわえて見ているしかなかったのですが、外戚の桎梏から外れた白河院に始まって〜鳥羽上皇周辺・・八条院や待賢門院〜美福門院などが非公式地位を利用しての荘園獲得に精出していたのですのですから、余計朝廷の権威と公的収入が落ちていきます。
摂関政治がなぜ定着したかといえば、人脈的に言えば、夭逝が普通であったことが重要です。
幼児期に親が死ぬことが多いので父子相伝=家の制度が成立できなかったことから、(道長自身父兼家から、道隆、道兼兄2人からの承継です)一族内で適齢期にある多くの者から後継者を決める仕組み・・キングメーカーが必須であったところ、(道長の場合詮子の発言力→ 娘の彰子)親子関係が最重視されこれを利用したのが蘇我氏〜藤原氏の外戚利用→これの制度的利用が摂関政治でした。
白河帝の時に藤原氏が外戚でなくなった途端にキングメー カーの地位が実の父(白河天皇)に移り、彼が早期に引退して次の天皇指名権を握ったことで院政が始まったのです。
上皇の威力は天皇家・朝廷に権力があってのことであって、武士の時代になってからの上皇を誰も記憶がないほどになっているのは、上皇というだけで権力を持てるわけではないことを表しています。
政治的事件になったのは後水尾天皇の幕府に対する不満「面当て的」な突然の譲位くらいで、抗議の意思表示しかできない状態ですから権力行使どころではありません。
天皇の生前退位についてメデイアでは故実を引いて上皇になると二重権力の心配があるという意見が時折出ますが、背景が変わっているので意味のない心配です。
私個人での1年を振り返ると、若いころのように昨年できなかったことを今年やり遂げたいという抱負もなく縮小過程に入っているので、そろそろ「大過なく1年を過ごせたよろこび」程度の感慨です。
若い頃には「この1年これといって達成できたものがなかった」という反省?中心でしたが、高齢化によって達成感は卒業しているので、健康面の関心が増えてきます。
世の中がどんどん変化していくのを見ると期待が持てて楽しいものですが、(世を捨てた?)自分がこれについていけるかの心配をしなくて良いのが高齢者の特典でしょうか?
この1年自覚が乏しいですが、他から見れば私もトシ相応に見えているでしょうが、自分としては特に衰えた気持ちがしないので・自覚的には文字通り無事な1年だったことだけが喜ばしい1年でした。
来年もこれと言った大きなことがない平安を祈念しつつ、今年のコラムの最後とします。
皆様にも良きお年を!

憲法改正4(国民投票の非現実性)

ところで各種分野の改革で言えば、全部が全部どころかすべての分野で国民過半の賛成で行なっているものではありません。
いろんな分野で新たなことに挑戦する場合、
例えば石原都知事の都内だけの排ガス規制あるいは、京大の山中教授の再生細胞の研究など一々国民や都民過半の同意がいるとしたら何事も出来ない相談になります。
元々何事でも過半数の国民支持で政治を行うというのは、民主主義者のフィクションです。
正確には複数選択制(実行して良い政策を2〜30個あげて下さい」という程度)の相対多数ということでしょうか?
もっと正確に言えば、信頼できる人を選んでその人に将来像の決定を委ねる「代議制民主主義」であって、選ばれた人は自己責任でまず実行し、代議士 →政党や企業トップは結果責任を取る仕組みです。
民主主義とは「結果責任」を問う仕組みというべきでしょう。
直接決定権など言い出したら、ほとんど何事も決められません。
これから必要な方向性を敏感に察知したリーダーが真っ先に方向を決めて研究開発等の先行投資などを推進していくことで企業や政治が成り立っているのです。
ユニクロがフリーズで急拡大したのは、誰も気付かないことを企画したら大成功したのです。
社会の大方が認めるトレンドの後追いするだけの企業は失敗がなくて手難いようですが、2番煎じばかりでは出遅れるばかりで長期的にはジリ貧ですし、その程度のことをするだけならばトップ不要です。
学問もみんながこの研究が必要認めていない・トレンドでもないことに着眼して、それが何十年後に花開くのが研究の醍醐味でしょう。
政治もみんながこれが良いと定評の決まったことをするばかりでは国家が持ちません・・。
それは指示待ち人間のすることであり、国政を委ねられる代議士等の役割ではありません。
将来の目を持つ人が6割も7割もいるとしたら、(メデイアのいう通りの受け売りする人が大方ですが)それは将来の目ではなく過去の目でしょう。
多くの人(顧客自身が)がまだ気付かないうちに、市場の潜在的ニーズにいち早く気づいて商品を企画生産して供給すると飛ぶように売れる・・政治の場でも先読み能力のある人が社会のリーダー・代議士になれるのです。
政治リーダーであれ、日銀の金融政策、企業トップであれ、(みんなの意見を聞いてからでなく)まず率先して方向性を示すことであって、その結果責任を負う者のことです。
憲法は、衣服の流行や金融政策等と違い超長期に国家の方向性を決めるものであって、そんな長期スパーンで将来の方向性を見通せる人はなおさら少なくなります。
これを国民投票・多数意見・.多くはその時のメデイアの煽るトレンド・・で決めるのは、無理が出ます。
世界の憲法思考の基礎になっているイギリスの2度の革命やフランスの大革命で、国民意思をどうやって確認したでしょうか?
日本も明治憲法や日本国憲法の制定は、社会のあり方の大変革でしたが、(選挙こそしていませんが・・)国民代表たる多くの識者の意見を吸収して成案に至っているのです。
アメリカ連邦憲法は平時に制定されたにも関わらず、国民投票を実施していません。
そもそも国民投票によって憲法を制定した国があるのでしょうか?
明治憲法制定過程と自由民権運動を12月29日に紹介しましたが、自由民権運動は明治憲法成立と同時に消滅してしまいました。
もともと征韓論自体、国内の失業対策・新時代に適応できない不平士族対策を基礎にするものですが、本来は殖産興業・職業教育で対応すべきところ、維新功労者の中で旧弊な人材が、対症療法・対外冒険主義に活路を見出そうとする安易な政策にこだわったものでした。
これに対して、当時の国際情勢を土台に「安易な対外武力行使より内政充実が先である」として反対する洋行帰りの重鎮を中心とする勢力に負けて下野したものです。
「自由民権運動」という名称だけ立派ですが、内容は、士族の特権保護・既得権擁護救済団体でした。
戦後革新系諸団体文化人も自由民権運動の系譜を引くわけではないものの、名称は革新政党ですが、内容は真逆で社会の変化についていけない人・弱者救済・格差反対を主要テーマ・支持母体とするものです。
だから何か新しいことをするのに対して、まずは批判的スタンス・・結果的に何でも反対になるのです。
戦後教育では明治政府を貶すことがトレンドでしたから、西南の役その他を美化するメデイアの大宣伝や教育下で我々世代が育ちましたが、今になって内容を見ると国内政治的には近代化についていけない人のはけ口として、対外武力行使を安易に主張していた勢力をメデイアがしきりに応援宣伝してきたことになります。
不平士族をバックにした反政府運動(いわば時代に取り残され組みの反動勢力)が西南戦争の終了で完全に時代が変わったことを満天下に知らしめる結果になりました。
(士族中心の西郷軍に対して農民兵を中心とする官軍の勝利が象徴するように士族の依って立つ基礎能力を正面から叩き潰した戦争でした・・関ヶ原の合戦のようでした)
西南の役が源平合戦以来の武士を中心とする社会構造がガラッと変わっていることが、白日のもとに晒された事件でした。
不平士族を足場にする反政府の自由民権運動はこれによって事実上消滅状態でしたが、これによって明治維新体制が固まるにつれて政府内で憲法制定準備が始まると当然政府内で時期方法・条文等に関する意見相違が出てきます。
明治14年に早期制定論の大隈重信が 意見相違で下野したことに勢いを得て、自由民権運動が「早期制定運動」に活路を見出して息を吹き返しましたが、(昨日紹介したように独自意見らしきものがなく「早期制定」というだけの運動でした)憲法が成立すると目標を失って消滅してしまいました。
長期の国家方針を決めるには、諸外国の実情調査・・諸外国の歴史と日本の歴史の違いを比較し、幅広く国内識者意見の吸収などに一定の期間が必須であったことは歴史が証明しているところです。
「外国には憲法があるらしい」程度の情報で早期制定運動をする浅薄な議論を国民も受け入れなかったのでしょう。
ところで、憲法改正論で気になるは憲法とは何か?
当たり前のことですが「憲法」という名称があっても内容が国家の基本に関係ないものは憲法ではないし憲法という名称がなくとも内容的に国家の基本をなすルールは憲法であるというのが一般的考え方です。
いわゆる形式的意味の憲法と実質的意味の憲法の分類です。
例えば、https://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。
(1) 形式的意味の憲法
 これは、憲法という名称をもつ特定の成文法典(=憲法典)として定義される。実際には、その法典の表題が憲法であり、内容が国家の根本法であり、形式的効力が国法秩序におてい頂点にあるなどの点から、憲法と位置づけられる法典であることをも含意する。
日本国憲法、アメリカ合衆国憲法、かつての大日本帝国憲法などは形式的意味の憲法である。
* ドイツ連邦共和国基本法は、表題こそ憲法ではないが、形式的意味の憲法として扱われている。聖徳太子の十七条憲法はその内容は道徳的規範であり、形式的意味の憲法には含まれない。

憲法改正3(特別多数と国民投票が必要か?1)

明治憲法は在野の憲法制定運動が奏功したかのように、自由民権運動が大きく教育されてきましたが、政府が憲法の必要性に目覚めて率先して取り組むようになったので、それに触発されて便乗意見が起きた面も否定できないでしょう。
もともと自由民権運動は、征韓論に破れて下野した板垣らによって始まったものであって、西南戦争まで連続する不平氏族の反乱を煽っていた不平勢力に過ぎません。
西南戦争でケリがついて、不平を言っても仕方がない社会になって沈静化していたのですが、昨日書いた通りいろんな法制度ができてくると、法と法の関係や上位規範の必要が出てきたところで、政府がこれに取り組むようになって内部で色んな意見が出ると早速これに飛びついた印象を受けます。
(私個人の偏った印象ですが?)
政府が先に憲法秩序の必要性を検討していて、政府内の大隈重信は早期制定論でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95によると自由民権運動は以下の通りです。

1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)
経緯 自由民権運動は三つの段階に分けることができる。第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまでが、この運動の最盛期である。 第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である
[1私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
「参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免された。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
注2 ただし板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。稲田 2009などを参照。

上記の通り不平士族を支持基盤にしている結果でしょうが、国民悲願の不平等条約改正に対する反対運動が活動の中心であったなど、変化に対して何でも反対・国益などどうでもいいような動き・・今の革新系文化人思想家の先祖のようです。
秩父困民党事件(1884年明治17年)10月31日から11月9日)は不正士族・自由民権団が加担したので、過激になったと言われています。
(条約改正反対とは不思議ですが、これを実現するためには外圧・欧米の要求する近代化・法制度の導入→時代不適合の旧士族が困るので反対したのでしょうか?)
この3〜4年革新系がしきりに強調する近代法の法理とか、近代立憲主義とは、絶対君主制打倒によって生まれたばかりの革命政権では、いつまたちょっとした力関係の変化で「王政復古」するかも知れない過渡期にあって革命家がハリネズミのように緊張していた時代の思想です。
革命直後の「近代憲法」と違い、明治憲法の時でさえ、対外関係上君主が自発的に憲法を制定するしかない国際状況下にあって、もはや絶対王政が復活する余地がなかったし、憲法ができる前から天皇親政などできる能力がなかったので、親政の復活など誰も心配しなかったでしょう。
まして日本国憲法では、「現代民主主義国家」になって憲法の改正発議権が政府から国民の意見を代表する議会に移っているのに、国民が自分で選んだ議会の発議→決議に国民が抵抗するために国民の同意を要件にする必要があるという考え方自体非論理的です。
民主主義国家においては、国民代表の議会が憲法も決めるのが普通で、EU加入・離脱や国自体の合併のような最重要事項について議会の都合で自信がないときに国民投票をするのが合理的です。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0584.pdf

諸外国における国民投票制度の概要 国立国会図書館 ISSUE BRIEF N
UMBER 584(2007. 4.26.)
スペインでは、憲法の全面改正ないし特定の条項の改正の場合にのみ国民投票が義務的要件とされ、そうでないときは一院の10分の1の議員の要求により国民投票が行われる(憲法第167、168条)。
スウェーデンでは、基本法2の改正には、国会(一院制)における、総選挙を挟む2回の議決を要するが、第1回の議決の後に3分の1の議員の要求があれば、その総選挙と同時に国民投票が行われる(統治法典第8章第15条)
フランスはこれらとは異なり、国会議員が提出した憲法改正案は国民投票を要するが、政府が提出した場合は、大統領がこれを両院合同会議に付託すれば、国民投票は行われない(憲法第89条)。これまでの事例では、国民投票より両院合同会議による憲法改正の方が多い。
主要国のうち、アメリカ、オランダ、カナダ、ドイツ、ベルギーでは、住民投票は別として、憲法改正の場合も含め国レベルでの国民投票の制度は、憲法上は規定されていない。
フィンランドでは、国民投票についての規定はあるが(憲法第53条)、憲法改正は国会選挙を挟む2回の国会(一院制)の議決で成立しうる(同第73条)。

上記の通り、日本国憲法を事実上主導した米国自体が、憲法改正は国民代表の議会で行なっている(周知の通り修正◯条という付加方式です)ので日本国憲法に限って事実上不可能なほど厳しい要件にしたのは、まさに憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」半永久的従属支配下におく思想の法的表現です。
国民投票をするならば、そもそも、3分の2の国会議決の必要がないでしょう。
国民投票をするのは、重要事項なので議会だけで決めてしまうのに自信がない時・たとえば49対51の僅差の時に「国民の声を聞いてみよう」という時に限るべきではないでしょうか?
そうとすれば、圧倒的多数の場合には不要な気がします。
国会議決を厳重にして即憲法改正にするか、スペインのように10分の1の提案で足りる代わりに国民投票するかどちらかにすべきでしょう。

立憲主義5と憲法改正2

昨日紹介した通り日本国憲法は超特急審議で制定された憲法ですが、それだけに一般の法とは違って、修飾語がやたらに多いものになっています。

日本国憲法
昭和21年11月3日公布
昭和22年5月3日施行
前文
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

人権は天賦不可譲のものである・・憲法以前のものであるかのような言い方が一般的ですが、そんなことは憲法に書いていません。
11条には、「・・この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」というものであり憲法によって「与えられた」ものです。
そもそも憲法によって保証されてこそ意味があるのであって、日本憲法の及ばない場所ではこの意味を持ちません。
よその国に行って(たとえば中国などで)表現の自由その他すべての基本的人権が日本憲法で保証されていると言っても通じないことは誰にでもわかる論理です。
前文には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と書いていますが、この憲法に反する憲法を排除するとはどういう意味でしょうか?
未来永劫、これに反する憲法禁止→改正してはならないという意味でしょうか?
しかし、上記の通り憲法改正手続きが定められているのです。
およそありとらゆる決まりごとは時代の変化によって変わって行くものですが、改正手続き条項がないと硬直化してしまい革命的動乱を待たないと変えられないないのでは困るので、柔軟対応できるように改正規定を設けておく方が柔軟対応できて合理的というだけのことです。
直近の例では、皇室典範の改正論議がありました。
明治維新〜日本国憲法制定当時は、日本の歴史上・院政の弊害に鑑み、生前退位を認めない・・薨去直前の短期間の疾病中には臨時的な摂政制度で間に合う前提で天皇制度ができていました。
多くの人の寿命が90代に伸びてくると、重病にかかっていない・健康?であるが、高齢のために多様な公務に耐えられないような中間的状態が長期間予想される時代がくることは想定外であったからですが、もしも明治の初めまたは日本国憲法制定時に今後永久的に生前退位を認めないという禁止規定になっていたらどうなっていたかです。
このようにその時代に最善と思っていたことでも、想定外の事態で基本方針を変えなければならないことが起きてくるものです。
自分の制定した法の中にこれが最善であり今後「法(原則)の改正を許さない」と書き込むこと自体、「神を恐れぬ」傲慢な考え方であり、古来からの柔軟性を尊ぶ日本民族の発想と大いに違っています。
GHQは自己の支配(再軍備禁止)を永続化するために特別決議の他に国民投票という二重の縛りをかけました。
そもそも、よって立つ日本国憲法制定自体に国民投票を経ていないし、しかもわずかな期間の形式審議で制定しているのに、その改正の場合だけ3分の2の特別決議でしかも国民投票が必要というのも法理論上均衡を失しています。
ところで明治憲法にも3分の2条項がありますが、これは、憲法改正の発議権が国民代表の議会になく「勅命による発議」を前提にしていて、国民代表の議会と政府が対立関係にあることを前提にした制度で、発議権が国民代表になく君主・政府にある側面で根本から違っています。

大日本帝国憲法 明治二十二年二月十一日
第73条
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

憲法は政府・君主に対する縛り・国民による監視抑制のためにあるという近代思想・まさに近代立憲思想の産物で明治憲法ができていて、「せっかく革命的騒動を経て君主に約束させた憲法をあんちょこに変えられては困る」という西欧の革命政権的立場を色濃く反映しています。
これが「勅命」で発議しても国会の3分の2以上の特別多数の同意がいる仕組み(単純多数だと切り崩されやすいので)の基礎思想です。
ところが日本の場合、実は国民の命を張った抵抗で明治維新がなったものでもなければ、憲法が生まれたものでもありません。
明治憲法の性質は欽定憲法と称される所以です。
国民の要求に応じたというよりは、明治になって次々といろんな分野の法制度を作っていくようになると、その交通整理・・法と法の優劣関係を定める上位規範・基本法が必要になるのは当然のことであって、これに加えて国際交渉上「この程度の約束をして置かないと仕方がないだろう」という対外妥協の必要性(刑罰等の法令・権利義務の整備がないと、悲願の治外法権の撤廃が見込めません→不平等条約改正など)があって生まれたものです。
中国がWTO加盟にあたって国内経済制度上の改正約束を対外的にしたのと同じ流れでしょう。

立憲主義4(憲法と法律の違い2)

憲法のプロパガンダ性(我々の法学概念ではプログラム規定説)の例を挙げておきましょう。
現行憲法の「健康で文化的な・・生活」の条文については「個別法律がない限り個々の請求権ではない」という最高裁判例になっています。
以下は、いわゆる朝日訴訟・最高裁判決の(最高裁ホームページ)一部引用です。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54970

「憲法二五条一項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定している。この規定は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない(昭和二三年(れ)第二〇五号、同年九月二九日大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁参照)。具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。生活保護法は、「この法律の定める要件」を満たす者は、「この法律による保護」を受けることができると規定し(二条参照)、その保護は、厚生大臣の設定する基準に基づいて行なうものとしているから(八条一項参照)、右の権利は、厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するにたりると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると解すべきである。もとより、厚生大臣の定める保護基準は、法八条二項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない。しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。
したがつて、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあつても、直ちに違法の問題を生ずることはない。」

このような今でいう公約・スローガンや宣言程度の意味に過ぎない憲法条項をプラグラム規定とも言いますが、憲法13条の生命、自由及び幸福追求権なども同じです。
ヘゲモニー争いの合間に短期間に出来上がった憲法は、盤石の体制になってからじっくりと作った家訓と違いなおさら安定性の面で弱点があり、これをカモフラージュするために、修飾語が過剰になる傾向があります。
「天賦不可譲の人権であって、何人も冒すことできない」など・・過激な表現解説が多いのはこのせいと見るべきでしょう。
日本でいえば列島民族始まって以来初の敗戦ショック・・本来一時的な一億総興奮状態下で長期に国民を拘束するべき憲法を制定すること自体無茶でした。
しかも外国軍占領下での短期間での憲法制定でしたから二重に無理があります。
制定経緯を外形だけから見ても以下の通りです。
昭和20年8月15日降伏受諾宣言〜その後の降伏文書署名式(1945年9月2日)等を経て占領支配が始まったのですが、憲法の公布が翌21年11月3日という早業ですから国民の声どころか各界各層の意見を聞く暇もなかったでしょう。
各地の意見聴取もなく?政党間の議論もなく、占領軍との密室協議だけで、わずか2ヵ月あまりの審議で衆議院本会議通過です。
しかも対応すべき国会議員自体が、敗戦後の混乱の中で昭和21年4月の選挙で当選したばかりで、新規参入の多い状態・いわば・1年生議員・素人議員が多くを占めていて、わずか2ヶ月の審議で内容の議論ができたの?という状態です。
http://showa.mainichi.jp/news/1946/04/22-114e.html

新選挙法で初の総選挙(第22回総選挙)
1946年04月10日
選挙権者の年齢を25歳から20歳に引き下げ、女性参政権を認めた改正選挙法のもとで戦後初の総選挙が行われた。自由党が141議席を獲得して第1党に。投票率は男性79%、女性67%に達し、高い関心を集めた。39人の女性代議士が誕生し、モンペ姿で初登院した新人議員もいた。9月には地方議会への女性参政権も認められた。

初当選者については、上記に政党別人名記載がありますので、合計してみると(女性を含めて)466名中343名で、返り咲きが51名です。
残りの72名が、前回からの連続当選となります。
以下のとおり議会に付託されてからも、手続きで約1ヶ月かかり7月23日小委員会が作られ、7月25日から実質審議に入って8月には本会議通過ですから、ほとんどGHQの草案をどうするか程度の世間話(まともな討論を出きないので感想を述べあうこれが懇談会形式にするしかなかった背景でしょう)しか出来なかった実態が外形から見えてきます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/04gaisetsu.htmlによると憲法制定の経過は以下の通りです。

第4章 帝国議会における審議
・・1946年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、5月16日、第90回帝国議会が召集された。開会日の前日には、金森徳次郎が憲法担当の国務大臣に任命された。
6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託された。
委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設けられた。小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は委員会に報告され、修正案どおり可決された。
8月24日には、衆議院本会議において賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、同日貴族院に送られた。
貴族院における審議と憲法の公布
「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。特別委員会は9月2日から審議に入り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。
小委員会は、いわゆる「文民条項」 の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項目を修正した。10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。
その後「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月29日に2名の欠席者をのぞき全会一致で可決された。「帝国憲法改正案」は天皇の裁可を経て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。

 

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