融通むげ2(道とは?1)

東海道中膝栗毛で知られるように違う習慣を不便だと否定するのでなく、これを知って楽しむ余裕のある社会でした。
東西南北に長い列島でしかも山が多く高低差もある外、概ね温暖湿潤で四季(北海道を除けば)がある結果、多様な植生が可能となり、ひいてはこれを餌にする多様な生物の生息可能な点が共通項です。
日本列島(南西諸島を含め)は東西南北に長い列島ですが、この2週間ほどほぼ毎日雨模様であるように概ね温暖湿潤ですが、(奄美で梅雨明けと13日に出ていましたが・・)四季がある点が共通項です。
この結果多様な生物がすぐに生まれ出てくる・・生物の宝庫ですから、ちょっとした低い山を越えれば日照の違いや高度差あるいは湿潤の違いを反映して違った植生がある・・「生きとし生くるもの・・」を慈しむ・・山道を歩きながらも知らない植生があればなんだろう?と、気にかける好奇心・・多様性尊重の共通項があり、結果的に自然への畏敬の念が顕著です。
登山といっても西洋人のようにエベレスト征服!などという大それた目的ではなく、平地では見かけない高山植物を登山道で発見し、雲海に感激し、雲海からの日の出を拝み神の存在を感じる喜びなどが主目的です。
日本の高山の多くは霊峰扱いで崇める対象ではあっても征服の対象どころではありません。
当時私はニュースに関心を持ち始めた頃でしたが「征服!」の文字が踊っていました。
たとえば以下の紹介記事です
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120828/321054/?P=4

第28回 エベレスト初登頂の手記で腰が引ける
ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。
「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」
『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

題名は今風に「初登頂」となっていますが、内容は当時征服と報道されていたことを表しているどころか、エベレストのことを「こん畜生」と表現しているのが現実・西洋人の意識です。
https://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Tenzin_Norgay_Dec24_2000.htmlの題名は以下の通りです。

エベレスト初制覇した男の隠された過去

欧米人にとっては高い山は征服し、制覇すべき対象なのでしょう。
光太郎の詩に「道程」がありますが、道程とは道すがらの意味でしょうし、「僕も前に道はない」というのは、「道を自分で切り開くしかない」がそのヒントは自然にあるという決意であるでしょう。
そして「ああ、自然よ父よ!と続くのです。
日本人にとっては自然(が風水害や大地震の大元でありますが、ただ敵視するのではなく)から学ぶ姿勢が顕著です。
http://www.midnightpress.co.jp/poem/2008/06/post_45.html

道程  高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

道程に関するhttps://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%A8%8B-103924の解説からです。

高村光太郎(こうたろう)の第一詩集。1914年(大正3)10月、抒情詩(じょじょうし)社刊。
・・・後半部には「道程」や「五月の土壌」などがあって、転生の祈念と自然理法への賛嘆に特色がある。

日本人が考える道とは、自然に対する畏敬の念でしょう。
西洋(継承する中国や北朝鮮)では、特別なエリートがスローガン的結論をドン・ピシャリ宣言して下々は示された結論に一も二もなく従うべし」と言う価値観があり、その結果生活の隅々までスローガン的結論と矛盾しないように?はみ出したものに対しては、共産主義国家では反党分子として収容所に入れられて学習・研修が行われます。
日本では逆に結論に至る経過が重要なので集落では寄り合いで決めていくし、朝廷においても合議制が基本でした。
しかもその議論は変転常なき環境変化に合わせて考えるべきというものになりそうです。
出エジプト記に示されるように、(イスラエルの民が疑心暗鬼で種々疑問を呈するのものの結果的に)「神の啓示を受けたリーダーの示す方向へ盲目的に進めば良かったのだ」と言う欧米的価値観とは違うということでしょう。
以上今まで見てきた融通むげとか道行きでだけでは、成り行きまかせで原理原則がないのは無責任だという批判にどう答えるかです。
素人の思いつきでは手に負えないのでネット検索してみました。
日本人の心はどうあるべきか、融通無碍で大丈夫なのか?
江戸時代には哲学者や法学者という分類がありませんでしたが、国学者と言われる思想家が出て、日本人の心・・ひいては守るべき「道」を研究していたようです。

融通むげ(道)1

最高裁決定・もっと前のチャタレー事件判決を見ると、原理論的理解とは程遠い現実的な思考方式が示されています。
こういう理解の基礎になる日本人の思考の原型を語っている穂積重遠氏の思考の源流を訪ねておきましょう。
穂積という氏は古代から出ている由緒正しい?氏の記憶ですがどうでしょうか?
穂積氏に関するウイキペデイアの記事です。

穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)は、「穂積」を氏(ウジ)の名とする氏族。姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。
大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる神別氏族。物部氏族の正統とされ[1]、熊野国造家や末羅国造家とは同祖とされる。子孫の一部は「鈴木」を称し、藤白鈴木氏として続いた

神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つ。
平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。
穂積陳重氏の系譜関係をウイキペデイアで見ると以下の通りです。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) – 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]。東京帝国大学法学部長[2]。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。
穂積家は宇和島藩伊達家が仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[3]。兄の重頴は第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行は大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。
穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。
進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[6]
死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。

顕彰碑を建てたいという地元の申し入れに対して、踏みつけられる橋として顕彰されるのを希望するなんて立派な人(遺族)ですね!
遺族といってものちに紹介するように長男穂積重遠氏は最高裁判事等を歴任した人物です。
このように見ていくと、日本人の心は中国の儒教や仏教徒とも違うのではないか?
歌道、茶道、華道、武士道、芸の道その他各分野で日本で基本的価値を表す「道」を求めるのは個別の条文をこねくりまわす法匪(中国古典の白馬非馬論で知られる詭弁家やキリスト教関連で言われるパリサイ人とも通じる?)とは違います。
道とは何でしょうか?
剣道や相撲道と言うときの「道」とは、単なる技術・テクニックでは足りないことは確かでしょう。
嘉納治五郎は従来からの柔「術」を柔「道」と改称して現在の柔道という用語を一般化しました。
子供の頃に柔術と柔道の対決・・姿三四郎の映画が流行っていて似たような映画を繰り返し見たのですが、映画では大きなお寺の建物のような道場でしたが、たまたま道場を鉄筋ビルで新設する工事中の姿を見たことがあります。
あれが映画でよくみる講道館か!という記憶が残っています。
講道館の歴史を見ると「1958昭和33年3月25日講道館、春日町(現在地)に移転。落成式挙行」とありますからこの工事中の状況を見たのでしょう。
医術と医道の違いも同じです。
多くの人が「術」を超えた道=精神性を求めてきたのです。
千葉県弁護士会会則の冒頭に「弁護士道・・・」という単語が入っていた記憶ですが、ネットで見ようとすると公開されていないようです。
道とは何か?ですが哲学から入らず一般的な利用例で考えると、歌舞伎などで重視されている「道行き」の重要性でしょうか?
神社仏閣に詣でても長い参道をたどって行く道中がありがたい・・到達した神社建物の壮麗・豪華さなど気にしない人が多いのではないでしょうか?
この点明治なってできた橿原神宮や平安神宮は欧米の影響が強すぎたのか、壮麗すぎてしっくりしないものです。
簡素な伊勢神宮や明治神宮のあり方を見れば、日本人の心が分かるでしょう。
イギリスでダイアナ妃の結婚式場になったセントポール寺院で写真を取ろうとしても、狭い歩道にギリギリに建物が立っていて反対側道路に渡らないと建物の壁の一部くらいしかカメラに収まらないのは驚いたものです。
最近大火災のあったノートルダム寺院には、横の方に少し芝生の空き地があった記憶ですが、ほぼむき出し・立派な建物の威容・威風堂々を誇るのが目的のような印象です。
日本列島は細かい山々・すなわち山と山の間には曲がりくねった水流があり寸断されている日本列島では、「道行き」といっても多種多様で「郷に入りては鄕に従え」というように、一山越えれば方言も習慣も違うのが普通でした。
大陸の単調な道路とは違い、日本の道路は曲がりくねり高低差がある・個性があるのが原則です。

チャタレー事件最高裁判決(実態重視2)

チャタレー事件について昨日ウイキペデイアで紹介しましたが、公共の福祉論等の抽象的論争の意義を書いているばかりで、社会意識の具体的認定による画期的意義を紹介していません。
私の記憶違いか?
最高裁のデータに入ってみました。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

昭和28(あ)1713事件名 猥褻文書販売
裁判年月日昭和32年3月13日 法廷名最高裁判所大法廷判決
裁判要旨
一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。
二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、一般社会において行われている良識、すなわち、社会通念に従つて判断すべきものである。
四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
五 Aの翻訳にかかる、昭和二五年四月二日株式会社小山書店発行の「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(ロレンス選集1・2)は、刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書に当る。六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的意図によつて影響されるものではない。

上記判旨によれば第三項に私の理解していた通り、社会通念による旨が書かれています。
社会通念によるとなれば、これが日々変化して行くことが自明ですから、画一的原理論や観念論によるのではなく社会実態の具体的認定が必須になります。
ウイキペデイアではこの重要な判旨をなぜ紹介しないか?
インテリ集団は観念論抽象的理解が好きで社会常識など無視したい・「自分が社会意識より進んでいるという自負こそが生き甲斐」ですからこういう判旨は不都合なので無視して判例の紹介自体が歪んでしまうのでしょうか。
今風に言えばフェイクニュースです。
判旨部分の原文をさらに見ておきましょう。

・・・一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。
また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、・・・

とあって意識変化を具体的に説明しながらも、チャタレー夫人の恋人の翻訳の描写がどぎつすぎるという評価に至っていることが説明されています。
裁判所が現時点でわいせつかどうかを決める権限があるというウイキペデイアの整理も正しいかもしれませんが、わいせつかどうかは当時のその社会通念による点では、今回の非嫡出子差別許容性判断と同じ枠組みであったということです。
昨日今日と非嫡出子差別違憲決定とチャタレー事件判決を見てきた通り、 日本の裁判所は古くから、韓国のように今の人権意識で戦前の行為を裁くという無茶をしていません。
日本の融通無碍げとは実態に即した、正義を探るというものでしょうか?
私流の理解・・原理主義とは実態無視の教条論であるとすれば、融通無碍とは江戸時代の大岡裁きと相通じるものがありそうです。
大岡裁き的な処理の重要性については、こののちに離婚自由に関する学者と裁判官との対談記事に出てきます。
一部先行引用しておきます。
http://www.law.tohoku.ac.jp/~parenoir/taidan.html#section3

・・・・水野・・・穂積重遠は、離婚が杓子定規に許されたり許されなかったりするのはいけない、離婚が各場合に適当に許されまたは許されないことがいい、と説明しています。この説明は、大岡裁きを思わせます。

発言者の水野氏はウイキペデイアによると以下の通りです。

水野 紀子(みずの のりこ、1955年 – )は、日本の法学者。東北大学大学院法学研究科教授。専門は民法、家族法[1]。
家族法分野でも名高い大家、加藤一郎に師事。2011年、旧帝国大学としては初めての女性学部長に就任した。

大岡裁きが実際あったかどうか創作であろうとも日本人がそれを喜ぶのは、国民の法意識(やおよろずの神々信仰)を表していると見るべきでしょう。
穂積重遠や穂積陳重の名は教科書でしか知りませんでしたが、名の残る人はそれなりに深い思索をしていたものだと改めて感服します。

最高裁非嫡出子差別違憲決定の理由(実態重視1)

最高裁の非嫡出子相続分規定違憲決定がどういう理由によったかを、原文の一部引用で見ておきます。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

非嫡出子相続分規定違憲決定
特別抗告審決定
遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
最高裁判所 平成24年(ク)第984号,平成24年(ク)第985号
平成25年9月4日 大法廷 決定
しかし,昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会,経済状況の変動に伴い,婚姻や家族の実態が変化し,その在り方に対する国民の意識の変化も指摘されている。すなわち,地域や職業の種類によって差異のあるところであるが,要約すれば,戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり,子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引上げられるなどしたのは,このような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み,これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに,離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増加するなどしている。これらのことから,婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・中略
以上を総合すれば,遅くともgの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
[25] したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。
4 先例としての事実上の拘束性について
[26] 本決定は,本件規定が遅くとも平成13年7月当時において憲法14条1項に違反していたと判断するものであり,平成7年大法廷決定並びに前記3(3)キの小法廷判決及び小法廷決定が,それより前に相続が開始した事件についてその相続開始時点での本件規定の合憲性を肯定した判断を変更するものではない。

最高裁の違憲決定は原理論?空論原理によるのではなく、社会や意識(国際的意識変化を含めて)などの変化を踏まえると平成13年8月以降は社会の実態から見て不公平すぎて違憲であるという判旨です。
私が表現の自由と判例というものに関心を持った青少年期の事件・・チャタレー事件の判例も同様の解決方法でした。
記憶によれば、絶対的基準でいう猥褻というものではなく、日本でも社会意識が変われば、この程度の表現を猥褻とは言わない時代が来るかもしれないが、現時点ではまだ許されないという判旨だった記憶です。
国際基準という超越的基準ではなくその社会ごとの価値観がありそれは時間軸で移動していくものだという意味でもあったでしょう。
マスコミや学者の多くは絶対的基準がある前提での批判的解説や意見があふれていました。
本日現在のウイキペデイアによるチャタレー事件の紹介です。

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され[2]、7月8日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。
論点
わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。
表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。
最高裁判決
最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。
わいせつの三要素
徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
通常人の正常な性的羞恥心を害し
善良な性的道義観念に反するものをいう
(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)
わいせつの判断
わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」
事件の意義
わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった

レッテル貼りと教条主義3(識字欲求の有無)

日本では漢字が伝わると特定階層が文字を独り占めにせず、万葉の時代から万葉カナを工夫して防人に駆り出された庶民に至るまで(ダンテのような特殊知識層限定ではなく)自分の言葉で和歌を作り、それを詩集化されている社会でした。
万葉集には庶民の歌も収録されているように、古代から庶民も平等に文化活動に参加していましたし、この伝統が江戸時代の徘徊や浮世絵や落語、都々逸など、民衆を基盤とした数々の文化の花が開いた基礎でしょう。
万葉集に関するウイキペデイアです。

天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][4][5][注釈 1]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。

日本では古代から自国語表記に工夫を凝らし780年ころまでには万葉集という長大な和歌集が編纂される程度に日本語表記が(万葉仮名から今のひらがなになるまで日本語表記の改良が重ねられますが)一応到達していたことになります。
そしてこれが、江戸時代になって国学発達の重要な足がかりになります。
平安時代には・・ひらがなの開発・発明が知られていますが、一方で外国文字をそのまま日本語読みする方法に成功しているのが画期的でしょう。
いま英語をそのまま発音する勉強法ですが、平安人は漢字を日本語読みする訓読を発明したのです。
こういう工夫をし、成功した国は歴史上日本だけでしょう。
漢文をそのまま訓読するだけではなく、レ点や一二三四、上中下の順をつけた読み下し文が普及していた・漢文をそのまま日本語の文法に合わせて発音できるようにする工夫がほぼ完成していました。
西欧と比較すれば1300年台になってダンテがやっと自分らの言葉で神曲を書いたのが有名・自慢?という程度ですから、西欧の庶民文化がいかに遅れていたかが明らかでしょう。
その後西洋各国で自国文字が一般人に普及するには数世紀以上かかったでしょうから、大変な文化差です。
西洋では自国語による文字教育がなく、ラテン語で勉強していたので特定エリートの独占物でしたし、外国語を学ぶにはまずは定義を覚えるのが第一歩です。
英語を習うには文法も必要ですが、まずは単語の知識が第一歩なのと同じです。
自国文字がない時代の西洋では15〜600年頃までは文字を使えるには外国語を習える一握りの階層に限られていたでしょうから、単語を知っていることが自慢程度の社会に明治以降日本は近代化するためにまずは西洋にドット留学生を送り出しました。
まして、共産政権出現後の上からの学習?強制に転じると、独自の思考を巡らせる知的好奇心によるものではない・・盲目的暗記優先になるので、スローガン的な単語へ関心が行くようになったものと思われます。
留学生のお仕事は当然のようにものごとの概念定義の輸入紹介から始まったのでしょう。
舶来帰りのエリートの間では留学して学んできた西洋の単語をひけらかせば相手は黙ってしまう・・傾向が主流を占めていたからか?人権とか日民主的。平和を守れなどのレッテルで満足する始まりです。
法律学の世界では、この種の法律学研究方法を日本で「概念法学」という批判的呼び名が定着しています。
いきなり西洋思想に接したばかりでその何分の1程度しか咀嚼できないからこそ、半可通的に理解したばかりの難解な熟語を多用して(留学していない)素人をケムに巻く方式が必要であったのでしょう。
・・こういう文化背景については漱石の「我が輩は猫である」に洋行帰りらしい迷亭先生がレストランで「あちらではこうだ」とありもしないバカ話をしてレストラン経営者を困らせてきたと苦沙味先生相手に大笑いしている場面が出ています。
このような角度から読めば漱石の文明批判は鋭いものがあります。
法学分野で概念こだわる思考方法を概念法学という批判が早くからありました。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

概念法学(がいねんほうがく)とは、制定法(特にローマ法大全)を完全なものであると考え、その解釈や運用に際しては形式論理に終始する態度のことである。ローマ法学者のイェーリングが、自由法学の立場からサヴィニーらをはじめとする従前のドイツ法学理論を批判的に述べる際に使った呼称である。
転じて、現実を無視した形式論的な考察態度、いわゆる「机上の空論」を批判していう場合に用いられる。現実の裁判における基準として機能しない、または機能させることをそもそも考えていないような法的理論に対して向けられることが多い。

https://kotobank.jp/word/概念法学-(平凡社)

欧米諸国で近代法が展開をみた19世紀に,法的解決を形式論理による推論によって抽出しうるとする潮流がかなり共通してみられる。たとえばフランスでは,その時期に注釈学派といわれる立場が主流を占め,裁判官主観を排し法典の条文の適用のみから解決を引き出そうとするなかで概念的形式論理を重視していたし,アメリカでも,判例法から抽出された法原理・法概念に重点をおいた形式主義的な法理論が優位に立っていた(ケース・メソッドはこれを講ずる方法という一面をもつ)。

上記の通り、概念法学批判はドイツで19世紀末頃にはすでに批判されるようになったものですが、日本でも明治初期の導入期は概念から入るしかなかったのですが、一息つくとイエーリングの批判を国内でも引用するようになったようです。
概念法学とは法という抽象世界を研究する場合の方法論に対する批判でしたが、ソ連成立後の教条主義拡散運動の一昔前に学問世界で問題になっていたのが、概念法学批判だったことになりそうです。
一般人が権力によってマニュアル的思想教育受けるようになる前の時代・共産政権成立前の研究方法に対する学会内の批判でした。
20世には概念で論争する時代ではなくなっていたのに遅れて近代社会の仲間入りしたロシア〜中国、すでに概念法学避難を知っていた日本でも、レベルがまだそこまで行かない人たちが少し学習会に参加してすおrーガンっぽい字フレーズを叩き込まれると前衛・・進んだ人の仲間入りできて、労組集会に行って、反戦平和や大砲かバターか?的な決まり文句でオルグさせてもらえる・・自己満足させる道具にはなったでしょう。
こういう人は、場の空気を読めない人からイレギュラーな質問されると答えられずブチ切れる?傾向があります。
彼らはどうやって平和を守るかの議論ができないで終わりです。
隣国と仲良くすればいいと言うのですが、刑事事件を起こすような隣人がいた場合、警察を呼ばないのかの質問には答えられないままです。
そのそもこう言う人の論法によれば、警察や裁判制度が不要になるはずですが、自分は強いから自分で自分を守れるから、そんな制度はいらないと言うのでしょうか?
クリミヤ併合したロシアや、南シナ海を勝手に埋めてて軍事基地を作ったり、尖閣諸島に公然と侵入を繰り返す中国のような国々・結局は図々しく既成事実を作る人や強いもの勝ちの社会を理想とするかのようです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC