融通むげ3(外国文物導入と大和心1)

本居宣長の大和心とは何かです。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これだけでは宣長の著作をじっくり読み込んだ人にしか意味不明・・理解困難です。
美の本質は
「もののあはれ」
とも言うようですが、ここまで来れば私のような並みの日本人にもある程度理解可能です。
しかし「もののあはれ」と日本の心のあり方とはどういう関係があるのでしょうか?
文学表現としては何となく分かりそうですが、私の関心は人が守るべき法・道徳のあり方です。
そこで国学と何か?江戸時代中期頃になってなぜ興ったかの疑問から入っていきます。
思いつき的私の意見ですが、明治の欧米文化が入って反動的に日本画が興ったのと同じ視点です。
縄文時代から日本列島には太平洋諸島沿いあるいは現中国の沿海部や朝鮮半島から少しづつ渡来人が入ってもその都度包摂同化してきました・そもそも日本人とは長期間かけてアジアの多様な人種が同化融合して出来上がった民族でしょう。
縄文時代が1万数千年前から始まり、キリスト紀元後数世紀の古墳時代に至るまでの長い時間軸を経て日本列島に住む人たちの共通的基本思考・・・結局は遠い先祖の出身地が違っても1万年前後もその地に住めば、その地の気候風土にあった同じ生き方価値観が形成されていったように思われます。
文字利用が徐々に入り、続いて仏教や儒教が入ってもその都度断片的であったために(律令制が制度として入ってもなし崩し的に融解しています)時間をかけていわゆる大和心に包摂消化して取り込んできたように思われます。
東大寺2月堂行事をこの後で見るように、仏教の教理に関係なく日本列島に住む人にとって重要な行事が東大寺にとって最も重要有名行事として残っているのです。
仏教の力で日本土着信仰を廃止するのではなく、仏教が逆に日本列島人の要求を取り込むことによって生き残って来たと言えるでしょう。
蘇我versus 物部の最終決戦を宗教戦争のごとく習いましたが、蘇我氏が仏教というより大陸文化導入に積極的だったというだけのことなのに、結果からあたかも(西洋的一神教の型にはめて?)宗教戦争であったかのようにイメージづけている可能性があります。
これは一神教的宗教意識に基づき・仏教と古代信仰が両立できないものとして後付けイメージによる解説ではないでしょうか?
古代の蘇我V物部の決戦を宗教戦争的に理解する解釈が朱子学による思想統一に反発した江戸時代の国学誕生前から行われてきたのかを知りたいものです。
それまでいろんな文物が入って来てもそれに強制されることなく、禅宗であれ水墨画であれ良い面があれば吸収すれば程度の意識できたので、(武士が 禅宗に帰依したからと言ってもその前からある各宗派を禁止しません)ある宗教を入れるかどうかで国を挙げての戦争したという歴史教育がおかしいと思います。
平安時代に真言や天台宗が入っても、その前からある南都仏教宗派に強制することもありませんでした。
飛鳥〜奈良時代の仏教導入が進んだのは文字文化や絵画彫刻音楽等々の総合文化導入に効率が良いからそうしただけであって、諸外国のように統治の手段として民衆の心を掴むための宗教導入ではありませんでした。
権力者はいつも政権維持に心を砕いているので、統治利用の意図皆無ということはあり得ませんが、それを主目的にしたとは言い切れないという意味です。
政権にはそういう仏教利用の意図があったかもしれませんが、実態は国分寺全国配置は列島人全般の文化レベルアップが主目的で古代からの土着信仰を否定するものではなかったはずです。
あるいはそういう意図があったので地元に根付くことができず、各地国分寺が自然消滅したのかもれません。
政権側としては、わざわざ土着信仰を否定して各地で悶着を起こす必要性がない・・マイナスでしょうから、各地信仰 (非征服部族の氏神)を尊重してきた大和朝廷が、わざわざ外来宗教を地方に押し付ける必要がなかったでしょうから、逆に宗教性を希薄化させる宣伝・地方民も文字を学べるようにするなどの宣伝をしてきたはずです。
明治維新でキリスト教文化を導入しても、日本古来信仰・各地の鎮守様信仰否定と関係がなかったように、仏教は日本列島古代からの信仰(自然への畏敬心)と並存したからこそ各地に浸透できたのでしょう。
葬式仏教言われようと厄除けであろうと、死者の霊魂や先祖を大事にする土着信仰を取り入れるしかなかったのです。
国宝重文級の仏像展が次々とあるので、しょっちゅう東博等に見に行きますが、元はといえば、12神将に代表されるようなおっかない仏像中心だったのでしょうが、気の小さな私などは足元に踏みつけられている邪鬼の方が気になって仕方ないので柔和な大日如来など如来系に目が行きます。
こういう日本人が多いからか、日本に来ると時間の経過で修行途中であるはずの菩薩でも観音菩薩・ほとんどが女性美の極致を競うかのように秀麗な佇まいに変わっていく感じです。
教科書の挿絵でしか見たことのなかった狩野芳崖の悲母観音の実物を簡単に見られるようになったのがありがたい時代ですが、実物を見ると観音さまにヒゲが生えているのに驚きますが、菩薩とは厳しい修行に耐えられるごつい人が本来だったのでしょう。
その目で古仏像など見ると観音様にはヒゲがありますが、日本人の多くは観音様といえば母親のように何をしても許してくれる優しさの極致のイメージを抱いているのでないでしょうか?
その願望の結果、不空羂索観音とか千手観音や千眼観音とか救いの方法が無限にあるかのようなイメージの・・しかもいかに優しく美しいかを競う観音像が続々と作られてきたのです。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都(法華宗・華厳宗など)諸宗派というものの勉強する学科名称・・法律で言えば民法専門家商法専門家程度の違いでした。

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