融通むげ2(道とは?1)

東海道中膝栗毛で知られるように違う習慣を不便だと否定するのでなく、これを知って楽しむ余裕のある社会でした。
東西南北に長い列島でしかも山が多く高低差もある外、概ね温暖湿潤で四季(北海道を除けば)がある結果、多様な植生が可能となり、ひいてはこれを餌にする多様な生物の生息可能な点が共通項です。
日本列島(南西諸島を含め)は東西南北に長い列島ですが、この2週間ほどほぼ毎日雨模様であるように概ね温暖湿潤ですが、(奄美で梅雨明けと13日に出ていましたが・・)四季がある点が共通項です。
この結果多様な生物がすぐに生まれ出てくる・・生物の宝庫ですから、ちょっとした低い山を越えれば日照の違いや高度差あるいは湿潤の違いを反映して違った植生がある・・「生きとし生くるもの・・」を慈しむ・・山道を歩きながらも知らない植生があればなんだろう?と、気にかける好奇心・・多様性尊重の共通項があり、結果的に自然への畏敬の念が顕著です。
登山といっても西洋人のようにエベレスト征服!などという大それた目的ではなく、平地では見かけない高山植物を登山道で発見し、雲海に感激し、雲海からの日の出を拝み神の存在を感じる喜びなどが主目的です。
日本の高山の多くは霊峰扱いで崇める対象ではあっても征服の対象どころではありません。
当時私はニュースに関心を持ち始めた頃でしたが「征服!」の文字が踊っていました。
たとえば以下の紹介記事です
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120828/321054/?P=4

第28回 エベレスト初登頂の手記で腰が引ける
ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。
「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」
『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

題名は今風に「初登頂」となっていますが、内容は当時征服と報道されていたことを表しているどころか、エベレストのことを「こん畜生」と表現しているのが現実・西洋人の意識です。
https://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Tenzin_Norgay_Dec24_2000.htmlの題名は以下の通りです。

エベレスト初制覇した男の隠された過去

欧米人にとっては高い山は征服し、制覇すべき対象なのでしょう。
光太郎の詩に「道程」がありますが、道程とは道すがらの意味でしょうし、「僕も前に道はない」というのは、「道を自分で切り開くしかない」がそのヒントは自然にあるという決意であるでしょう。
そして「ああ、自然よ父よ!と続くのです。
日本人にとっては自然(が風水害や大地震の大元でありますが、ただ敵視するのではなく)から学ぶ姿勢が顕著です。
http://www.midnightpress.co.jp/poem/2008/06/post_45.html

道程  高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

道程に関するhttps://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%A8%8B-103924の解説からです。

高村光太郎(こうたろう)の第一詩集。1914年(大正3)10月、抒情詩(じょじょうし)社刊。
・・・後半部には「道程」や「五月の土壌」などがあって、転生の祈念と自然理法への賛嘆に特色がある。

日本人が考える道とは、自然に対する畏敬の念でしょう。
西洋(継承する中国や北朝鮮)では、特別なエリートがスローガン的結論をドン・ピシャリ宣言して下々は示された結論に一も二もなく従うべし」と言う価値観があり、その結果生活の隅々までスローガン的結論と矛盾しないように?はみ出したものに対しては、共産主義国家では反党分子として収容所に入れられて学習・研修が行われます。
日本では逆に結論に至る経過が重要なので集落では寄り合いで決めていくし、朝廷においても合議制が基本でした。
しかもその議論は変転常なき環境変化に合わせて考えるべきというものになりそうです。
出エジプト記に示されるように、(イスラエルの民が疑心暗鬼で種々疑問を呈するのものの結果的に)「神の啓示を受けたリーダーの示す方向へ盲目的に進めば良かったのだ」と言う欧米的価値観とは違うということでしょう。
以上今まで見てきた融通むげとか道行きでだけでは、成り行きまかせで原理原則がないのは無責任だという批判にどう答えるかです。
素人の思いつきでは手に負えないのでネット検索してみました。
日本人の心はどうあるべきか、融通無碍で大丈夫なのか?
江戸時代には哲学者や法学者という分類がありませんでしたが、国学者と言われる思想家が出て、日本人の心・・ひいては守るべき「道」を研究していたようです。

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