融通むげ(道)1

最高裁決定・もっと前のチャタレー事件判決を見ると、原理論的理解とは程遠い現実的な思考方式が示されています。
こういう理解の基礎になる日本人の思考の原型を語っている穂積重遠氏の思考の源流を訪ねておきましょう。
穂積という氏は古代から出ている由緒正しい?氏の記憶ですがどうでしょうか?
穂積氏に関するウイキペデイアの記事です。

穂積氏(ほづみうじ/ほつみうじ)は、「穂積」を氏(ウジ)の名とする氏族。姓(かばね)は始め穂積臣、後に穂積朝臣。
大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる神別氏族。物部氏族の正統とされ[1]、熊野国造家や末羅国造家とは同祖とされる。子孫の一部は「鈴木」を称し、藤白鈴木氏として続いた

神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つ。
平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。
穂積陳重氏の系譜関係をウイキペデイアで見ると以下の通りです。
穂積 陳重(ほづみ のぶしげ、入江陳重、いりえ のぶしげ、1855年8月23日(安政2年7月11日) – 1926年(大正15年)4月7日)は、明治から大正期の日本の法学者。日本初の法学博士の一人[1]。東京帝国大学法学部長[2]。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。現在の愛媛県宇和島市出身。
穂積家は宇和島藩伊達家が仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は宇和島藩に思想としての国学を導入した人物であった。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ[3]。兄の重頴は第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任。妻歌子(または宇多)は、渋沢栄一の長女。孫の穂積重行は大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。
穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。
進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、後掲『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている[6]
死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。

顕彰碑を建てたいという地元の申し入れに対して、踏みつけられる橋として顕彰されるのを希望するなんて立派な人(遺族)ですね!
遺族といってものちに紹介するように長男穂積重遠氏は最高裁判事等を歴任した人物です。
このように見ていくと、日本人の心は中国の儒教や仏教徒とも違うのではないか?
歌道、茶道、華道、武士道、芸の道その他各分野で日本で基本的価値を表す「道」を求めるのは個別の条文をこねくりまわす法匪(中国古典の白馬非馬論で知られる詭弁家やキリスト教関連で言われるパリサイ人とも通じる?)とは違います。
道とは何でしょうか?
剣道や相撲道と言うときの「道」とは、単なる技術・テクニックでは足りないことは確かでしょう。
嘉納治五郎は従来からの柔「術」を柔「道」と改称して現在の柔道という用語を一般化しました。
子供の頃に柔術と柔道の対決・・姿三四郎の映画が流行っていて似たような映画を繰り返し見たのですが、映画では大きなお寺の建物のような道場でしたが、たまたま道場を鉄筋ビルで新設する工事中の姿を見たことがあります。
あれが映画でよくみる講道館か!という記憶が残っています。
講道館の歴史を見ると「1958昭和33年3月25日講道館、春日町(現在地)に移転。落成式挙行」とありますからこの工事中の状況を見たのでしょう。
医術と医道の違いも同じです。
多くの人が「術」を超えた道=精神性を求めてきたのです。
千葉県弁護士会会則の冒頭に「弁護士道・・・」という単語が入っていた記憶ですが、ネットで見ようとすると公開されていないようです。
道とは何か?ですが哲学から入らず一般的な利用例で考えると、歌舞伎などで重視されている「道行き」の重要性でしょうか?
神社仏閣に詣でても長い参道をたどって行く道中がありがたい・・到達した神社建物の壮麗・豪華さなど気にしない人が多いのではないでしょうか?
この点明治なってできた橿原神宮や平安神宮は欧米の影響が強すぎたのか、壮麗すぎてしっくりしないものです。
簡素な伊勢神宮や明治神宮のあり方を見れば、日本人の心が分かるでしょう。
イギリスでダイアナ妃の結婚式場になったセントポール寺院で写真を取ろうとしても、狭い歩道にギリギリに建物が立っていて反対側道路に渡らないと建物の壁の一部くらいしかカメラに収まらないのは驚いたものです。
最近大火災のあったノートルダム寺院には、横の方に少し芝生の空き地があった記憶ですが、ほぼむき出し・立派な建物の威容・威風堂々を誇るのが目的のような印象です。
日本列島は細かい山々・すなわち山と山の間には曲がりくねった水流があり寸断されている日本列島では、「道行き」といっても多種多様で「郷に入りては鄕に従え」というように、一山越えれば方言も習慣も違うのが普通でした。
大陸の単調な道路とは違い、日本の道路は曲がりくねり高低差がある・個性があるのが原則です。

融通むげとご都合的原理主義1

我が国・・・中絶で言えば水子供養するなど、個人のこころの領域で処理することであり、これをしないことを理由に公的不利益どころか、宗教的社会的不利益も受けません。
あちこちのお地蔵さんを大事にするかどうかもそれぞれの気持ち次第です。
これを画一的国家強制が好きな民族の場合、胎児はすでに生命体である→殺人の一種という論理構成して犯罪という方向性に持っていく流儀です。
クジラは魚類ではない→捕獲を許さないという変な論理になると欧米の考え方のご都合主義がわかると思いますが、妊娠等は神の領域であるのにこれを人為的に変更するのは許さないというのは時代遅れなので(異宗教に強制できないので)生命侵害という法論理化に成功している例です。
日本の場合、子供は「天からの授かりもの」大事にすべきという感謝の念があり、古代から子供や小さな生き物すべてをとても大事にする社会でしたが、一方で動物を食用にすることを許さないという価値観がありません。
仏教導入で不殺生の戒律が入っても、鳥類や魚類は除外でしたし、イノシシを山クジラと称して肉を食わせる店があったり、般若湯と称して僧侶が飲酒したり、自由奔放というかルールに対して柔軟でした。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9316に広重の有名な名所江戸百景 びくにはし雪中(せっちゅう)」絵の説明が出ています。

この絵でまず目に飛び込んでくるのは、左に掲げられた「山くじら」(②)の大きな看板です。山くじらは、猪(いのしし)の肉、別の名は牡丹(ぼたん)肉。この店は牡丹鍋で人気の「尾張屋」さんといわれています。当時、表向きは食べられていなかった獣肉ですが、実は「薬喰(くすりぐ)い」と称し、滋養をつけるという名目で肉を食べる人々もいました。他に鹿肉(紅葉肉)、馬肉(桜肉)も食べられていたとか。

草花も生き物ですし、毎日庭で生き物として手入れすると草花もこちらの気持ちに応じて生き生きとするものですが、季節がくればまとめて引き抜いて、次の季節の草花に植え替えるのを厭いません。
生命があるからと日々大事にしている気持ちと引き抜く気持ちが矛盾しない(とはいえ、一日延ばししたい、心情に苦しみますが・・)のが不思議です。(私だけかな?)
日々の食卓を賑わすものは肉類に限らず全て元は生命体です。
このように、一定の矛盾を融通無碍(生命尊重は例外を許さない絶対論理ではない)に受け入れていくのが日本人の特殊性と言うべきではなく、全ての摂理ではないのでしょうか?
キリスト教の神学(ドグマ・原理主義)→その流れをくむ西洋流の法論理は硬直的すぎて生き物のあるべき原理としてどこか無理があるよう思われます。
韓国では徴用工や慰安婦問題を人権侵害だから消滅時効がないといい、個人の人権侵害被害を国家間で決めるの許されないという論理を進歩系?日本学者もメデイアも全く批判しません。
しかし強制労働や慰安婦強制は重大な人権侵害であるから時効がないという論理は、もっと重大な生命侵害・殺人罪強姦罪等に時効を認める韓国を含めた世界中の法体系と矛盾しています。
要するにご都合主義的人権屋の原理主義です。
国家間約束は国家が守るべきであり、韓国裁判所も韓国国家機関の一部である以上国家間約束を守る義務があるはずです。
国家内でお互いに独立性を尊重するのは国家内部の権力分配の論理であって国外に対して国家権力として不統一権力行使をする論理ではありません。
条約精神に抵触する国内法令があれば、それを改正する義務があります。
憲法に違反するかどうかは国内統治の原理であり、これに違反すれば、国内法だけで処理できる場合は純粋な違憲無効かどうかの判断で良いでしょうが、対外効果の生じる条約の場合、関係者の政治責任の問題であって国際協定の有効性を国内最高規範である憲法違反かどうかで論じることは許されません。
対等な主権国家間の協定・条約の解釈は、国際司法裁判所その他中立国の仲裁等によるべきでしょう。
比喩的な例をあげれば、外国人に危害を食えないようにするという条約を結んでおきながら、「外国人を殺せ」という国内法を温存したままにしておいて、この法律があるので外国人殺害犯を処罰できないというのでは条約違反です。
慰安婦合意をしながら、公共空間に慰安婦像設置を許可するのは矛盾ですから、自治体の勝手ではなく自治体が条約を守るように公園等の利用関連法令改正(自治体は法令の範囲での自治があるにすぎません)するのは国家義務です。
日本自治体の権限は以下の通りです。

憲法
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

個人で言えば契約しておきながら「家内が承知しないので」と契約履行しないことが許されるか!といえば分かり良いでしょうか。
家庭内で奥さんの発言権が強い・・女性尊重で立派かどうかの問題ではなく(軍部がいうことを聞かないとか、野党が承知しないとか)発言力が強いならその承諾を得てから契約署名すべきことであって、署名した後に契約不履行の口実に使うのはルール違反です。
TPPで言えば農民等貿易協定によって不利益を受ける分野との地道な対話の上で対外交渉すべきで条約を締結してから「国内で納得を得られないから条約を守らない」というのではまともな交渉相手・一人前とみなされなくなるというべきでしょう。
政権が変われば前政権の約束不履行が許されるかの問題では、ロシア革命後新政府ソ連がこの口実を使ったままほっかむりをしてきましたが、ソ連崩壊後、後継の現ロシア共和国が旧ソ連時代の債務履行をしない限り国際社会復帰できないことから、ついにその約束を履行しました。
このように政権が革命的に変わろうと国際社会の信用を重視する限り、過去の国家間約束を守るべきが国際法理です。
https://www.afpbb.com/articles/-/3122795

ロシア、旧ソ連時代の対外債務を完済へ
2017年3月26日 18:03 発信地:モスクワ/ロシア [ ロシア・CIS ロシア ]
1991年のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行責任を負ってきた。債務の大半は「ペレストロイカ(改革)」で民主化が推進された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト(債務不履行)に陥った。ただ、2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、06年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を返済した。

身分2・婚姻離婚の自由1

明治憲法では婚姻は習俗に委ねる趣旨で何も触れていませんでしたが、現憲法では婚姻は両性の合意のみによって成立すると明記して、国家意思や神の意志を問題にしないことと・契約法の原理が色濃く入っています。
憲法

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

日本人からみれば結婚する当人たちの意思によるのは当たり前すぎて意味不明ですが、GHQの起草(特に人権部分の原案はユダヤ人女性が中心的に練り上げた記憶です)にかかる憲法ですから、国家や神・宗教の関与を明確に否定しておきたかったのではないでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/

ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 – 2012年12月30日)は、アメリカ合衆国の舞台芸術監督、フェミニスト。ウィーン生まれでユダヤ系ウクライナ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の人権条項作成に関与した。
日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。

ちなみに戦後改正される前の親族相続編旧規定(明治民法)でも男30歳、女25歳までは原則父母の同意が必要でしたが、30歳未満でも同意があれ婚姻(近親婚、重婚など婚姻禁止要件に当たらない限り)届けるだけ=許可制ではない・・婚姻の効力がありました。
いわゆる自由婚姻制度でした。(旧772条)
(ネットに旧規定が出ていないので引用できないのが、残念ですが自宅にある戦前の六法全書を見て書いています)
ですから、禁止要件(例えば親子や兄弟間婚姻届)に当たれば、今でも受け付けられませんので、新憲法の規定によって何も変わっていないのです。
いかに日本の法習慣に対する無教養な人が憲法草案に関与していたかが分かる一端です。
憲法に合わせて変更した戦後の婚姻法関係は親の同意を得る年齢が下がった程度です。
現行民法
第七百三十一条 男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。
(未成年者の婚姻についての父母の同意)
第七百三十七条 未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。

成年=20歳ですから、戦前に比べて10年早く親の同意がいらなくなったことになりますが、この変化は新憲法の精神によるというよりは、核家族化〜郷里の中高校卒業後就職列車に乗って都会に出る時代・・いつまでも親元にいる時代ではなくなった変化を反映したものでしょう。
憲法は骨格を決めるだけでこれを具体的に決めるのは法レベルですが、・・結婚、離婚等は合意を基本とするものの、婚姻や離婚養子縁組等を含む親子親族関係を決める基礎法である民法では、財産法一般の法原理である行為能力による制限・親の法定代理権などのいろんな原理が及ばない点などで別の法体系になっています。
そもそも代理権制度自体考えられない分野です。
日本では仲人が立って事実上結納の儀式日その他交渉ごとを進めますが、それは首脳会談前の官僚による事前すり合わせ同様の準備行為でしかなく、最後の決断は古来からずっと当事者が最終決断してきたものです。
ただし西洋ではオペラの知識ですので真偽不明ですが、領主に初夜権があったようで日本とは大分違う印象です。
また財産法では、合意を守らない相手に対する強制執行=国家権力行使による権利実現が用意されていますが、婚姻に関しては約束違反があっても損害賠償請求できても、婚姻関係を直接強制することはできません。
婚姻年齢は行為能力を基準とする成年年齢と関係なく、しかも男女別になっています。
離婚は、契約法の原理で言えば契約の解除に当たりますが、親族法では協議離婚を認めるものの合意できない時には一般の契約のように一方からの解除の意思表示によって解除の効力が生じません。
財産法関係では解約事由があれば一方的解除の場合相手が納得していないのですから、解除による効果・・アパートの引き渡し等の原状回復を求めるには、結局裁判するしかない点は似ていますが、財産法関係では、裁判所は過去の解除の意思表示が有効かどうかを判定するだけであって、裁判所が契約解除を命じる仕組みではありません。
離婚の場合は、一方の出した離婚宣言が有効かどうかを判定する裁判ではなく、一方からの訴えによって裁判所が離婚すべきかどうかを決める仕組みです。
結婚、離婚子供の出産等々の生命誕生に関する分野は元は神(日本では神々)の領域であり、人間が勝手に変更できない・カトリックでは離婚も中絶も認めないと日本に伝わっているのはこのせいです。
西欧の近代化とは、神が決めていた仕組みを裁判所が決めるように切り替えることであり、他方オカルト国家傾向の強いアメリカなどで、今でも中絶・同性愛反対などの運動が根強いのは、このせいです。
今日のネットニュースでもアメリカでLGBTの決起集会みたいなものがあったと出ていますが、日本でそう言う運動が少ないのは、遅れているからでなく元々差別したい人がいない・好きにしたら・・と言う社会だからでしょう。
msn ニュース
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2019/07/01 18:03
NYで15万人パレード=原点の暴動から50年-LGBT運動

日本人の気持ちでは同性愛でも中絶でも離婚でもそんなに抵抗感がないのは、(自分はそんな気がないけども)それぞれの考え・・神の領域のような気がするが、いろんな神様がいるのでそれぞれの神の意見でいいのでないかという価値観が基本にあるからです。

婚姻率の低下12(オスの役割縮小)

夫の育児参加を推進するために夫の育児休暇取得をマスコミが奨励していますが、これは女性の社会参加を容易にする意義もあるでしょうが、家庭での母子孤立化の防止に主眼を置くべきです。
育児の社会化が、高齢者介護のように訪問保育援助・赤ちゃんや幼児のショートステイまで進み、精神的ケアー制度も整備されると、夫の協力がなくとも母親一人で何とかなる時代が来るかも知れません。
育児の孤立化を防ぐためには、婚姻中の家事育児協力はいいのですが、離婚後の養育義務を別れた夫に全面的に負わせるのは(生計を一にしていれば別ですが・・・)これまで書いて来たように無理がある・・結果的にも酷なので別れた夫に負担させるのではなく、(とりわけ性格の不一致で離婚するときには・・・)社会でその多くを負担すべきです。
男の負担を現状より重くして行くよりは逆に逓減して行かないと、子供を産む場合のリスクを恐れて出産に抵抗する消極的な男性が増えてくるでしょう。
ところで、ここ20〜30年で産業構造が変わって来て男子でなければできない仕事が減ってきて、建設現場の重機でも女性が操作出来る時代になっています。
男女同一賃金化が進みますと男女ともに低賃金化が進む・・ワークシェアリングの経済的側面・・所得のシェアリングが進みます。
社会全体では国内総生産量が変わらないまま二人で働くようになる場合を想定すれば、二人で一人前の賃金にならざるを得ないので,最近の若者が多く就労している非正規雇傭では「これでは結婚出来ない」(男一人で家族を養う前提とすれば)と言われる程低賃金化して来たのは当然です。
1流企業に正規就職出来た一部を除く現在の若者の多くは、男であれ女であれ、誰かと一緒でなければまともな生活が出来ない時代が始まりつつあります。
男同士女同士あるいは異性とでも良いですが、ともかくルームシェアーの時代が来つつあることになります。
親が近くにいればそれで間に合わせられるので、今のところ独身のヒトはいつまでも親の家にいるのが普通ですから、他人同士のシェアーは親元から遠く離れて住む人達だけのことになるでしょう。
この辺は、都市住民2世と地方出身者との格差をテーマに February 5, 2011「都市住民内格差7(相続税重課)」前後で書きました。
今後は結婚していても、海外勤務や仕事で各地転々とする職業の場合、お互い専業主婦・主夫でないと相手に着いて行けませんから、(昔のように海外勤務と言っても高給取りとは限りませんので今後は共働きが必須です)転勤(国内でも)の都度共同生活関係を解消して現地妻ならぬ出て行った先々で気のあったヒト(異性に限らず)とルームシェアーの相手を取り替えて行くのが合理的な時代になるかも知れません。
学生時代に下宿屋で一緒だった程度・・同宿人程度の関係で自分の移動に合わせて相手を組み替えて行く軽い関係のルームシェアー・・結婚までしない軽い関係が合理的になって行くでしょう。
その時に別れるのが、辛いほど好きになってしまっていれば・・・そこから先は物語の世界です。
一時的な関係と割り切れば、シェアーする相手は男女の組み合わせでなくとも良い人が多く出て来るでしょう。
転勤や移動時にどうにもならない関係に追い込まれないように、出来るだけ異性とルームシェーしないように警戒するヒトが逆に増えるのではないでしょうか?
最近高収入同士の離婚事件を扱ったことがありますが、双方の高収入を前提にして6000万円前後(東京都内の新築では平均よりちょっと高い程度です)のマンションを購入していたのですが、一人では払い続けられないとして、あっさりと離婚を機会に手放しました。
どうせ誰かと一緒に住むしかないならば、(しかも男女所得格差がなくなるならば)女性同士のグループ生活の方が家事分担その他で合理的ですから、女性だけの共同借家(ルームシェアー)や共有マンション・グループホームも増えるでしょうから、その方面での女性同士の助け合いが充実してくると男女で一緒に生活する必要性がなくなります。
女性のグループホームが増えると、ガードマン・外敵向けにはマンション一棟単位の警備で足りるので、まさにライオンの雄がグループに一頭だけ雇われているような男女比率で足ります。

婚姻率の低下11(子育ての社会化)

母子一体感と父子の関係については、04/07/10「母子一体感5(父子の絆1)」前後で連載しましたが、母親自身が母子一体感を払拭しないまま、あるいはこれを手放さないままで、父親に親としての義務だけを求めているのは矛盾ですから、この無理を通すために法的強制・執行法の強化が必要とされているのでしょう。
多くの父親の意識が子供を可愛いと思うように変われば、その分母親の子供との一体感の意識も薄まって行く関係もありますから、相互にじわじわと時間をかけて子供に対する意識を変えて行くようになるかも知れません。
とは言え、男女ともに動物的本能を無視した意識形成を図るのはかなり時間がかかるでしょうし、もしかしたらどこまで行っても無理がありますから、養育に関しては(血縁を基にした父親に対する責任をあまり性急に強調せずに)社会的資源の活用・・親族共同体に代わる社会化を押し進めるのが合理的です。
現在でも幼稚園や保育園の発達、介護施設の発達、外食産業・クリーニングやの発達その他で家事がかなり外注化されていますが、資金面でも外部頼り・・すなわち、子育て費用を親だけの責任にせずに共同体全部の責任にして行けば、(公的資金で100%賄い個人負担ゼロに近づければ)オスの役割・・義務が減少して行きます。
この後に書く予定で先送りになっていますが、乳幼児・子供成人、老人の区別なく一律に基礎的生活費を政府が支給する制度にして行き、特定の人に負担させる分野を出来るだけ少なくして行くべきです。
そうすれば、子供にとっては親の経済力による生育環境の差もそれほど大きくなくなり、まさに公平な社会になります。
比喩的に言えば、100の環境のうち公的支援の占める部分が現在2〜3割として残りの7〜8割が親の財力次第とすれば、これの比率を公的環境で7割を占めるようにして、残りの3割しか親の財力による差がない社会となるように次第に公的比率を引き上げて行くのです。
この問題は労働意欲の関係で考慮すべき面がありますし、低所得者にとっては子育て名目で大きな援助を受けられるので次から次へと出産する底辺層の子ばかり増えるリスクがあります。
イギリスの例・・2007年7月26日のラバQでは次々と8人も子供産んで1億円相当の家が提供されて(一人当たり最低面積が法定されているそうです)年1100万円ほど受給しているニュースが出ていました。
アメリカでも似たような制度になっているので貧困層では次々と子を生んで18歳になると(何の援助も受けられなくなって母親にはメリットがないので)追い出しながら、60才になって年金をもらえるまで何とか子供を連続して育てて行く人生設計の人も出現しているそうです。
これらの病理現象克服のためには、究極の社会化は、自分で育てる人には一切の補助金を支給しない・・・子育てを母親に委ねず、全員一定数集めて保育所等で育てる形式でしょうか?
さしあたりこんな過激なことは出来ないので、教育費で言えば授業料無償・給食費無償化など寮費無償化など現物給付を多くして母親による流用が阻止し、出来れば、個人・家庭の負担率を極小化して行き、結婚・離婚のリスクも少なくして行けば少子化の急激な進行を防げるでしょう。
(実際には制度悪用の解決は難しいようですから、この種福祉の充実は考えものです。)
ちなみに、少子化は生活が豊かになると起きる現象であることは古今を問わず歴史が証明しているところで・富裕層に出現している現象であるから、子供手当等による出産奨励政策は少子化の進んでいない底辺層に刺激を与えることになります。
各種補助金は底辺層の人口が増えるだけなので、国の将来は真っ暗になることから、少数精鋭・少子化に賛成の意見をこれまで繰り返し書いてきました。
子育ての社会化と底辺層の増加問題をどうするかについてはまだ私の頭では解決していません。
都市労働者の出現・・核家族化進行に伴い次世代育成・種の維持のために「男子も養育に参加すべき」だと言う精神論が盛んになりましたが、それだけでは、簡単に動物的意識変化が進みませんが、その間にも出産育児の社会化がどしどし進んで来たのは正しい方向性です。
私は戦後疎開先・純農村地帯で育ったのですが、物心がついた頃既に田舎の村にも幼稚園が始まっていました。
その後徐々に働く女性のための託児所や保育所の充実が進み・・今ではゼロ歳児保育・・母子支援センターまでありますが、育児の社会化が現状程度では、まだまだ家庭内の負担が残るので、夫の育児参加が今でも(現在もっとも盛んかな?)奨励されています。

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