朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

外国文物導入と大和心2(鑑真和上とその後)

法華堂に関するhttp://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance5.htmlの解説です。

旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

2月堂の修二会に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/では以下の通りです。

古来は旧暦1月に行われる法会である。
農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。

以上の通り日本列島に伝わる古来からの祈願行事を、仏教行事に取り込んだにすぎません。
仏教が土着信仰に打ち勝って土着信仰行事が減ったのではなく、仏教が逆に土着信仰行事に浸透されているのが実態です。
仏教を文字その他文化吸収目的で導入したのは明治維新で、御雇外国人を導入して西洋法や科学知識導入に精出したのと本質が同じだったでしょう。
この普及を図るために国家機関としての・・東大寺と各地の国分寺→明治以降の東大と各地国立大学の関係の相似形を見ても分かります。
これを日本風にアレンジして日本の土着信仰にも合うように(各人の煩悩等からの解脱)に変更したのが、最澄や空海であり、この意味で日本の精神界の合理化に大きな影響を与えた大事件だったと思います。
合理化仕切れない人間の弱い部分・・今でも残る「叶わぬ時の神頼み」・・・「神も仏も無いものか!」とか「厄除け信仰」がなくならないのが現状です。
その救済には密教の秘法に頼る部分が必要だったのでしょう
真言宗、天台宗が日本の宗教意識の体系化の足場を築きますが、シュウアhである以上一定の競争がるのは当然として、他宗派排斥を目標にするような宗教ではなかったか乏しかったように思われます。
その結果、日蓮、浄土系民族宗教等に裾野を広げていき日本人の精神性が豊かになって行ったのでしょう。
日蓮系は日本の宗教には珍しい排他闘争的宗教でしたが、(中世に限らず戦後創価学会の「折伏が激しかったすが・・)今は創価学会もおとなしくなりました。
日本列島でいる限り、周囲と円満にやっていくのが知恵のある生き方と悟ったのでしょう。
政治の世界でも公明党が政権与党になって約15〜20年かな?すっかりおとなしくなっています。
明治維新以降のキリスト教解禁も古代の仏教導入と同じ程度の位置付けでしょう。
排斥しない・・隣人として付き合いましょう・・なにかいいことがあれば取り入れたらいいし・・という程度の位置付けです。
共産党も理屈一辺倒の強面では日本時に浸透できないとわかって、「歌って踊って民青」というフレーズがが昭和40年代のソフト路線でしたが今はどうなっているか知りません。
仏教が中国に入った時点では、環境の厳しい西域を通じて入ったことから、キリストや現在のイスラムのように戒律が厳しかったでしょう。
鑑真和上が戒律を伝えるために千里の波頭を超えて日本へ渡海した故事はよく知られています。
鳩摩羅什の漢訳は西暦400年頃で鑑真和上の来日は750〜60年ころ・・聖武上皇・孝謙天皇の時です。
中国に漢訳が伝わって数百年で鑑真が来日したことになります。
当時日本では私度僧が多く、戒律制度の確立が要望されていたと言われます。
鑑真に関するウイキペデイアの記事です。
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
要するに聖武天皇は東大寺筆頭に全国に国分寺を設置するためには公認僧侶資格設定を急いでいたのです。
明治政府が帝大を作っても教授になる人材がいないとどうにもならないので御雇外国人を招請したのと同じでした、
南北朝時代の戦乱に明け暮れる中国に受け入れられたのでしょうが、その中国よりも日本の方が将来性があると見極めたのでしょうか?
ところで、日本仏教の礎を築いた弘法大師は私度僧出身だったのですから、皮肉なものです。
観音信仰が奈良〜平安時代に入って隆盛を見るのは、私度僧出身で人心に通じていたからこそ、なし得たのかもしれません。
日本に来た時の険しい仏教がようやく日本化したことによるものでしょう。
観音菩薩に限らず文殊、地蔵、月光や日光その他の菩薩も皆柔和な顔貌になって行きます。
救いを求める以上はごついより、美しくて優しい方が日本人なら誰にとってもいいでしょう。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象(御神体の多くが背後の山になっている神様より救済してくれるお方が具象化されてよかったと思われます・)とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都諸宗派というものの勉強する学科名称程度の違いでした。

法学部で言えば、民法専門や、商法専門教授という程度の違いでしょう。

融通むげ3(外国文物導入と大和心1)

本居宣長の大和心とは何かです。

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

これだけでは宣長の著作をじっくり読み込んだ人にしか意味不明・・理解困難です。
美の本質は
「もののあはれ」
とも言うようですが、ここまで来れば私のような並みの日本人にもある程度理解可能です。
しかし「もののあはれ」と日本の心のあり方とはどういう関係があるのでしょうか?
文学表現としては何となく分かりそうですが、私の関心は人が守るべき法・道徳のあり方です。
そこで国学と何か?江戸時代中期頃になってなぜ興ったかの疑問から入っていきます。
思いつき的私の意見ですが、明治の欧米文化が入って反動的に日本画が興ったのと同じ視点です。
縄文時代から日本列島には太平洋諸島沿いあるいは現中国の沿海部や朝鮮半島から少しづつ渡来人が入ってもその都度包摂同化してきました・そもそも日本人とは長期間かけてアジアの多様な人種が同化融合して出来上がった民族でしょう。
縄文時代が1万数千年前から始まり、キリスト紀元後数世紀の古墳時代に至るまでの長い時間軸を経て日本列島に住む人たちの共通的基本思考・・・結局は遠い先祖の出身地が違っても1万年前後もその地に住めば、その地の気候風土にあった同じ生き方価値観が形成されていったように思われます。
文字利用が徐々に入り、続いて仏教や儒教が入ってもその都度断片的であったために(律令制が制度として入ってもなし崩し的に融解しています)時間をかけていわゆる大和心に包摂消化して取り込んできたように思われます。
東大寺2月堂行事をこの後で見るように、仏教の教理に関係なく日本列島に住む人にとって重要な行事が東大寺にとって最も重要有名行事として残っているのです。
仏教の力で日本土着信仰を廃止するのではなく、仏教が逆に日本列島人の要求を取り込むことによって生き残って来たと言えるでしょう。
蘇我versus 物部の最終決戦を宗教戦争のごとく習いましたが、蘇我氏が仏教というより大陸文化導入に積極的だったというだけのことなのに、結果からあたかも(西洋的一神教の型にはめて?)宗教戦争であったかのようにイメージづけている可能性があります。
これは一神教的宗教意識に基づき・仏教と古代信仰が両立できないものとして後付けイメージによる解説ではないでしょうか?
古代の蘇我V物部の決戦を宗教戦争的に理解する解釈が朱子学による思想統一に反発した江戸時代の国学誕生前から行われてきたのかを知りたいものです。
それまでいろんな文物が入って来てもそれに強制されることなく、禅宗であれ水墨画であれ良い面があれば吸収すれば程度の意識できたので、(武士が 禅宗に帰依したからと言ってもその前からある各宗派を禁止しません)ある宗教を入れるかどうかで国を挙げての戦争したという歴史教育がおかしいと思います。
平安時代に真言や天台宗が入っても、その前からある南都仏教宗派に強制することもありませんでした。
飛鳥〜奈良時代の仏教導入が進んだのは文字文化や絵画彫刻音楽等々の総合文化導入に効率が良いからそうしただけであって、諸外国のように統治の手段として民衆の心を掴むための宗教導入ではありませんでした。
権力者はいつも政権維持に心を砕いているので、統治利用の意図皆無ということはあり得ませんが、それを主目的にしたとは言い切れないという意味です。
政権にはそういう仏教利用の意図があったかもしれませんが、実態は国分寺全国配置は列島人全般の文化レベルアップが主目的で古代からの土着信仰を否定するものではなかったはずです。
あるいはそういう意図があったので地元に根付くことができず、各地国分寺が自然消滅したのかもれません。
政権側としては、わざわざ土着信仰を否定して各地で悶着を起こす必要性がない・・マイナスでしょうから、各地信仰 (非征服部族の氏神)を尊重してきた大和朝廷が、わざわざ外来宗教を地方に押し付ける必要がなかったでしょうから、逆に宗教性を希薄化させる宣伝・地方民も文字を学べるようにするなどの宣伝をしてきたはずです。
明治維新でキリスト教文化を導入しても、日本古来信仰・各地の鎮守様信仰否定と関係がなかったように、仏教は日本列島古代からの信仰(自然への畏敬心)と並存したからこそ各地に浸透できたのでしょう。
葬式仏教言われようと厄除けであろうと、死者の霊魂や先祖を大事にする土着信仰を取り入れるしかなかったのです。
国宝重文級の仏像展が次々とあるので、しょっちゅう東博等に見に行きますが、元はといえば、12神将に代表されるようなおっかない仏像中心だったのでしょうが、気の小さな私などは足元に踏みつけられている邪鬼の方が気になって仕方ないので柔和な大日如来など如来系に目が行きます。
こういう日本人が多いからか、日本に来ると時間の経過で修行途中であるはずの菩薩でも観音菩薩・ほとんどが女性美の極致を競うかのように秀麗な佇まいに変わっていく感じです。
教科書の挿絵でしか見たことのなかった狩野芳崖の悲母観音の実物を簡単に見られるようになったのがありがたい時代ですが、実物を見ると観音さまにヒゲが生えているのに驚きますが、菩薩とは厳しい修行に耐えられるごつい人が本来だったのでしょう。
その目で古仏像など見ると観音様にはヒゲがありますが、日本人の多くは観音様といえば母親のように何をしても許してくれる優しさの極致のイメージを抱いているのでないでしょうか?
その願望の結果、不空羂索観音とか千手観音や千眼観音とか救いの方法が無限にあるかのようなイメージの・・しかもいかに優しく美しいかを競う観音像が続々と作られてきたのです。
仏教導入直後には土着信仰と軋轢があったとしても、結果的に神仏習合してやおよろずの神々の外側にいる別格の信仰対象とされて現在にいたっているように見えます。
例えば東大寺法華堂(3月堂)というのは勉強会の場所名称ですがそこに参加できるのは10数人のエリート学僧だけです。
南都(法華宗・華厳宗など)諸宗派というものの勉強する学科名称・・法律で言えば民法専門家商法専門家程度の違いでした。

融通むげ2(道とは?1)

東海道中膝栗毛で知られるように違う習慣を不便だと否定するのでなく、これを知って楽しむ余裕のある社会でした。
東西南北に長い列島でしかも山が多く高低差もある外、概ね温暖湿潤で四季(北海道を除けば)がある結果、多様な植生が可能となり、ひいてはこれを餌にする多様な生物の生息可能な点が共通項です。
日本列島(南西諸島を含め)は東西南北に長い列島ですが、この2週間ほどほぼ毎日雨模様であるように概ね温暖湿潤ですが、(奄美で梅雨明けと13日に出ていましたが・・)四季がある点が共通項です。
この結果多様な生物がすぐに生まれ出てくる・・生物の宝庫ですから、ちょっとした低い山を越えれば日照の違いや高度差あるいは湿潤の違いを反映して違った植生がある・・「生きとし生くるもの・・」を慈しむ・・山道を歩きながらも知らない植生があればなんだろう?と、気にかける好奇心・・多様性尊重の共通項があり、結果的に自然への畏敬の念が顕著です。
登山といっても西洋人のようにエベレスト征服!などという大それた目的ではなく、平地では見かけない高山植物を登山道で発見し、雲海に感激し、雲海からの日の出を拝み神の存在を感じる喜びなどが主目的です。
日本の高山の多くは霊峰扱いで崇める対象ではあっても征服の対象どころではありません。
当時私はニュースに関心を持ち始めた頃でしたが「征服!」の文字が踊っていました。
たとえば以下の紹介記事です
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120828/321054/?P=4

第28回 エベレスト初登頂の手記で腰が引ける
ヒラリーが頂上を征服してから下山中、サウス・コルのキャンプに着く前に、迎えにきた親友のジョージ・ロウに喜びの声をあげるくだりです。
「そうだよ、俺たちはついにこいつをやっつけたんだ!(Well, we knocked the blighter off!)」
『ナショナル ジオグラフィック』ではこうなっていますが、ヒラリーが実際に発した言葉は「そうだよ、ジョージ、俺たちはついにこん畜生をやっつけたんだ!(Well, George, we knocked the bastard off!)」でした。ヒラリーは著書でも素直にこう書いていて、いまではよく知られた表現です。

題名は今風に「初登頂」となっていますが、内容は当時征服と報道されていたことを表しているどころか、エベレストのことを「こん畜生」と表現しているのが現実・西洋人の意識です。
https://www.tibethouse.jp/news_release/2000/Tenzin_Norgay_Dec24_2000.htmlの題名は以下の通りです。

エベレスト初制覇した男の隠された過去

欧米人にとっては高い山は征服し、制覇すべき対象なのでしょう。
光太郎の詩に「道程」がありますが、道程とは道すがらの意味でしょうし、「僕も前に道はない」というのは、「道を自分で切り開くしかない」がそのヒントは自然にあるという決意であるでしょう。
そして「ああ、自然よ父よ!と続くのです。
日本人にとっては自然(が風水害や大地震の大元でありますが、ただ敵視するのではなく)から学ぶ姿勢が顕著です。
http://www.midnightpress.co.jp/poem/2008/06/post_45.html

道程  高村光太郎
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

道程に関するhttps://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%A8%8B-103924の解説からです。

高村光太郎(こうたろう)の第一詩集。1914年(大正3)10月、抒情詩(じょじょうし)社刊。
・・・後半部には「道程」や「五月の土壌」などがあって、転生の祈念と自然理法への賛嘆に特色がある。

日本人が考える道とは、自然に対する畏敬の念でしょう。
西洋(継承する中国や北朝鮮)では、特別なエリートがスローガン的結論をドン・ピシャリ宣言して下々は示された結論に一も二もなく従うべし」と言う価値観があり、その結果生活の隅々までスローガン的結論と矛盾しないように?はみ出したものに対しては、共産主義国家では反党分子として収容所に入れられて学習・研修が行われます。
日本では逆に結論に至る経過が重要なので集落では寄り合いで決めていくし、朝廷においても合議制が基本でした。
しかもその議論は変転常なき環境変化に合わせて考えるべきというものになりそうです。
出エジプト記に示されるように、(イスラエルの民が疑心暗鬼で種々疑問を呈するのものの結果的に)「神の啓示を受けたリーダーの示す方向へ盲目的に進めば良かったのだ」と言う欧米的価値観とは違うということでしょう。
以上今まで見てきた融通むげとか道行きでだけでは、成り行きまかせで原理原則がないのは無責任だという批判にどう答えるかです。
素人の思いつきでは手に負えないのでネット検索してみました。
日本人の心はどうあるべきか、融通無碍で大丈夫なのか?
江戸時代には哲学者や法学者という分類がありませんでしたが、国学者と言われる思想家が出て、日本人の心・・ひいては守るべき「道」を研究していたようです。

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