児童虐待と高齢親の虐待(尊属殺重罰規定違憲判決)

高齢者に対する成人子供世代の虐待問題は、封建道徳の遺物と言われ、戦後憲法違反判決になって刑法から削除された尊属殺人罪などの特別規定は実は恒例化した場合における家庭内の力関係逆転を見通した制度だったことになるのでしょうか。
因みに私が司法修習した時に所属した(指導を受けた)刑事部長〇〇さんがその一審判決を書いた裁判長でした。
尊属殺重罰規定違憲判決に関するウイキペデイアを引用します。

尊属殺重罰規定違憲判決(そんぞくさつじゅうばつきていいけんはんけつ)とは、1973年(昭和48年)4月4日に日本の最高裁判所が刑法第200条(尊属殺)を憲法14条(法の下の平等)に反し無効とした判決である。最高裁判所が法律を「違憲」と判断した最初の判例(法令違憲判決)である。
この裁判の対象となった事件は、1968年に栃木県矢板市で当時29歳の女性が、自身に対して近親姦を強いた当時53歳の実父を殺害した事件で、「栃木実父殺し事件[4]」「栃木実父殺害事件」などと呼ばれる。
一審の宇都宮地方裁判所は、刑法200条を違憲とし、刑法199条(殺人罪)を適用した上で、情状を考慮し過剰防衛であったとして刑罰を免除した。
二審の東京高等裁判所は、同条は合憲とし、その上で最大限の減刑を行い、かつ未決勾留期間の全てを算入して、懲役3年6月の実刑を言い渡した。
終審の最高裁判所大法廷は、従来の判例を変更し同条を違憲と判断した上で、刑法199条を適用し懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡した。

被告人の弁護人を務めた大貫大八は、国選ではなく、無報酬(金銭の代わりにジャガイモを差し出した)の私選弁護人であった[5]。これは、国選では各審の度に弁護人が選任しなおされるため、弁護方針が一貫できないことを危惧したためであった。後に控訴審で大八が健康を害したため、[要検証ノート]息子の大貫正一に交代した[5]

上記によると昭和48年最判ですので、私の宇都宮地裁での実務修習時期と重なります。
大貫正一先生は前年7月からの弁護修習中に地元の中堅働き盛りの弁護士としてお世話になった人格の立派な先生でした。
時の人!敢然と違憲判決を書いた刑事部長判事は、当時まだ宇都宮地裁在席中でしたので、狭い(と言っても20坪前後?)裁判官室(部長と左右陪席2名の合計3名の部屋に修習生4名配属)で終日(刑事4ヶ月民事4ヶ月で部屋が変わりますが、隣室であり修習生同士の行き来があるし、当時地裁には裁判官が6人プラス所長の7しかいなかったのでお互い気楽に日常的に行き来がありました。)一緒にいたわけですが、もの静かで温厚な人柄だったくらいの記憶で何を習ったかとなると不肖の弟子で何も思い出せません。
ただ、思い出して見ると梅棹氏の「知的生産の技術」の読書を勧められた記憶があります。
以来無意識の内に梅棹氏の主張・業績には親近感を抱くようになっていたらしく、数十年後に機会があって大阪万博会場跡地にできている国立民族学博物館博に見学に行った動機の元にもなっていたことに今になって気がつきました。
それ以外に学恩の記憶ははっきりしないのですが、部長は登山愛好家でしたので、修習期間中の10月8日出発の1泊2日の奥日光(鬼怒沼)へのハイキングに連れて行っていただいた記憶は鮮明です。
メンバーは民刑6人の裁判官と修習生全員8名で、行きは裁判所の車で奥日光の金精峠まで送ってもらい、下車して奥日光の山に分け入り、夕方4時頃にはカニ湯とかいう山奥(今調べると奥鬼怒温泉郷)のランプしかない温泉のある山小屋風の温泉旅館に入り、野天風呂・今風の露天風呂の先祖みたいな温泉で・お月様だけ煌々と照らす温泉に浸かりました。
何しろ寒いので(午後4時頃宿に着いた時に温度計を見ると4度でしたが歩いているときは良かったのですが囲炉裏端は別としてジッとしているとどんどん寒くなるので温泉から出るとすぐせんべい布団にくるまり寒さに震えながら眠りました。
山は上の方から順番に紅葉していて、山裾にかけてグラデユエーション・・豪華な着物の裾模様のようで錦ってこういうものを言うのかな?と感嘆したものでしたし、鬼怒沼に登ると一面の草原が一面紅葉していて赤トンボのように焦げ茶から真っ赤になっている一面の景色には感激しました。
今になると謎ですが、帰りは裁判所主催旅行なのに何故か検察庁所有の?マイクロバスが上記温泉町に迎えに来てくれていて、五十里湖の方をぐるっと回って宇都宮に帰りました。
公共輸送機関を利用すると、2泊でもどうか?なという奥地の行程でしたが、奥地のギリギリまで車送迎があって効率が良かったことが今になるとわかります。
修習生相手の行事については、当時3庁(裁判検察弁護士会)共同作業という運用だったのかもしれません。
今から50年近くも前の記憶ですが、今になると日本国憲法下で初めての違憲判決が出て思想界で騒然としているちょっとした歴史の端っこに偶然立ち会っていたことになります。
話題を戻しますと直接の暴力だけでなく、高齢化が進み、親世代が介護・・要支援等で次第に弱い立場になっていく力関係変化に社会が意を用いない・対応遅れがこれからの問題です。
社会の支援がないままですと元農水次官のように自分が元気な内に家庭内が将来の地獄図絵になる芽を摘もうとしたくなる人が一定数出るでしょう。
江戸時代の武家の自裁精神に戻って元農水次官のように世間に迷惑かけないうちに自から手がけるか、金属バット事件やボーガンに利用事件だけで結構顕在化している各事例のように息子に殺傷され被害顕在化を待つか?中間をとって、精神病院での隔離を求めるか?戸塚ヨットスクールのようなグレーの合宿制度?に頼るかになります。
成人した子供世代の親世代虐待防止を図るという正面からの施策ではないですが、介護の社会化(密室化防止)が一般化され後見制度が充実透明化し、高齢者に対する虐待が、外部に漏れやすくなったのが一つのガス抜きですが、介護など頼まない家庭では(同居の娘が自分で面倒見ると称して)密室化・・悲惨化しますので、その前段階からの社会関与システム構築が重要でしょう。
社会システム整備を待ってられない期間においては、不肖の次世代を抱える親の自衛のためには、元気なうちに任意後見を決めておくのは一つの予防法です。
後見制度のチェック機能やコストについては明日簡略に説明します。

最高裁非嫡出子差別違憲決定の理由(実態重視1)

最高裁の非嫡出子相続分規定違憲決定がどういう理由によったかを、原文の一部引用で見ておきます。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

非嫡出子相続分規定違憲決定
特別抗告審決定
遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
最高裁判所 平成24年(ク)第984号,平成24年(ク)第985号
平成25年9月4日 大法廷 決定
しかし,昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会,経済状況の変動に伴い,婚姻や家族の実態が変化し,その在り方に対する国民の意識の変化も指摘されている。すなわち,地域や職業の種類によって差異のあるところであるが,要約すれば,戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり,子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引上げられるなどしたのは,このような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み,これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに,離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増加するなどしている。これらのことから,婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・中略
以上を総合すれば,遅くともgの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
[25] したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。
4 先例としての事実上の拘束性について
[26] 本決定は,本件規定が遅くとも平成13年7月当時において憲法14条1項に違反していたと判断するものであり,平成7年大法廷決定並びに前記3(3)キの小法廷判決及び小法廷決定が,それより前に相続が開始した事件についてその相続開始時点での本件規定の合憲性を肯定した判断を変更するものではない。

最高裁の違憲決定は原理論?空論原理によるのではなく、社会や意識(国際的意識変化を含めて)などの変化を踏まえると平成13年8月以降は社会の実態から見て不公平すぎて違憲であるという判旨です。
私が表現の自由と判例というものに関心を持った青少年期の事件・・チャタレー事件の判例も同様の解決方法でした。
記憶によれば、絶対的基準でいう猥褻というものではなく、日本でも社会意識が変われば、この程度の表現を猥褻とは言わない時代が来るかもしれないが、現時点ではまだ許されないという判旨だった記憶です。
国際基準という超越的基準ではなくその社会ごとの価値観がありそれは時間軸で移動していくものだという意味でもあったでしょう。
マスコミや学者の多くは絶対的基準がある前提での批判的解説や意見があふれていました。
本日現在のウイキペデイアによるチャタレー事件の紹介です。

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され[2]、7月8日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。
論点
わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。
表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。
最高裁判決
最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。
わいせつの三要素
徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
通常人の正常な性的羞恥心を害し
善良な性的道義観念に反するものをいう
(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)
わいせつの判断
わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」
事件の意義
わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった

レッテル貼りと教条主義1

格差反対とかLGPT・・等の欧米のスローガンをそのまま輸入・主張する政治ではなく、実態に応じてきめ細かく処遇していくのが政治の要諦です。
メデイアでは、政治分野で極右・レイシスト、歴史修正主義者、あるいはオモチュニストなどなどレッテル貼りが横行しています。
レッテル貼りに限らず格差反対その他のキーワードで内容空疎な報道に走るのは日本のメデイア界だけの特徴かもしれませんが、国際メデイア界はキリスト教系が牛耳ってるので、日本のメデイア界でも知らずのうちにキリスト教系思考の影響を受けているのではないでしょうか?
レッテル貼りというか、キーワードで席巻していくやり方はその先の思考停止させ、ある問題を画一処理しようとする傾向があるように思えます。
もともと原理主義的教条論的思想工作の限界がきたので、これを今風にソフト化しただけのようにも見えます。
原理主義というか教条的主張はどうやって始まったものでしょうか?
教条主義や画一主義あるいはレッテル貼りの横行は、ソ連型共産主義が現世権力を握ったことにより思想=学問世界の独占物だったのを一般化したものと言えます。
ファミレスが高級レストランに行けないホワイトカラー層の受け皿になったようなものです。
その後工場生産化・食品や衣料の工場生産・・画一的大量に拡販する仕組みが一般化してきたように、思想を画一化する過程で異論を許さなくなった先進的システムだったというべきでしょうか?
思想は異論を戦わせる過程で相互の主張を止揚することでレベルアップが期待されるのですが、ソ連が始めた思想工作は、論争によって、思考論理を磨くプロの土俵を離れて、党中央の指令貫徹手段・・支配道具として思想を利用するようになって始まったように思われます。
ファミレスやコンビニ店員、あるいは工場労働者同様にソ連党中央の提供する思想・・ファミレスで言えば、食材の温め方?工場では機械操作程度の学習さえきちんとすればいいというのが特徴です。
共産系では学習会が重視され、学習を済ませた人を前衛とか細胞というのは言い得て妙です。
学習といっても党中央の指令伝達手段としての思想教育ですから、例えば中国では毛沢東語録や習近平講和内容の「学習会が基本であり、「こうすればいいのではないか?」などの改良意見を表明する場ではありません。
中国でウイグル族を100万人単位で収容所に入れて中国政府統治の正当性の学習を強制したり北朝鮮で失脚した政治犯が学習強要される仕組みも皆同じです。
共産圏では思想がいろんな工夫を生み出す有意義な道具としての位置付けよりは、支配道具ですから、教条主義や画一思考になるのは当然の結果でしょう。
ソ連が思想教育を世界に共産主義(と言う名のソ連による世界支配・・コミンテルン)を拡散する道具として以降、教条主義・原理主義論が一般化してきたように見えます。
フランス革命以降重視される思想信条の自由論は、表現の自由を核にしたもので、このため憲法学では表現の自由こそが基本的人権の中核という位置付けになっています。
ところがソ連で創始し現在の中国や北朝鮮で行われている思想強制は、表現を規制する線を超えてその前に、そのような思想を持たないように働きかけ強制する・・積極的に人の脳内支配を企図している点がおそるべきところです。
どうしてこう言うことに結びついたのかを考えると、もともとキリスト教徒というか一神教の場合、余計なことを言わねば処罰されないというだけでなく、一神教=唯一者の存在が前提です。
唯一者の意思に反しないかどうか生活の隅々まで、戒律あるいは教義の網がかぶる傾向があります。
このために監視者?古くは律法者・中世には神学者が教義の解釈を行なっていたが必要だったのでしょう。
神学者というジャンルが学問の先駆けという不思議な社会のようですし、ジャンヌダルクの処刑やガリレオの地動説に対する圧迫・異端審判制度の教具支配が有名です。
このように背教者をあぶり出す仕組みは長い歴史を持っていてスターリンの粛清政治は、世俗権力と宗教権力が一致した結果これを恣意的に乱用したものです。異端審問とスターリンの粛清政治の関連についてはDecember 22, 2016「シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)」で書いたことがあります。
こうした思想統一の歴史の土台の歴史の上にキリスト教に変わって、共産主義という新興宗教と国家が国教として結びついたと見るべきでしょう。
イランで聖職者が世俗権力の上にある点は、共産党が国家の上にある中国の現体制と同じ構図です。
共産主義は唯物論だから宗教禁止と習いますが、旧ソ連や中国にとっては共産主義自体が新宗教だから対立宗教を排除しているにすぎません。
ソ連や中国の支配下にある以上は国教である宗教教育を強制する・まだ理解していないものには強制的に教えてやる→学習会とは国民の思想を強制改造するのが目的の学習強制システムです。
ソ連はこれを自国国民に対して行うのみならず他国にまで浸透工作(カトリック布教活動と同じです)を行うための世界戦略として、コミンフォルムだったかコミンテルンだったか?結成して世界中にその工作をかけていました。
結果的にソ連は制度として崩壊しましたが、今なお(内容から見て共産党と言えるかどうか不明ですが)独裁を信奉している中国ではソ連の自由主義諸国に対する浸透工作をそのまま引き継いでいる様子です。
言論の自由を隠れ蓑にしたソ連工作員の浸透を許したメデイア界ではその後中韓や北朝鮮が「思想の自由・民主主義を守れ」と表向きいいながら、実は原理主義的(枝葉末節の)批判を繰り返して自由主義諸国の政権転覆を狙うのが普通です。
日本メデイアではこの種の枝葉末節的批判の垂れ流し報道や、チャンスをみては爆発的に政府批判を煽る報道が逆効果になる例が増えてきましたが、森かけ報道や日本死ね!の洪水的報道とこれに便乗していた野党のジリ貧を招いている結果を見れば、日本では賢明な国民が多いので根拠のない煽り系報道をすればするほどメデイアの信用が落ちていく傾向が明らかです。
自由主義国でもようやく盛んになったいきすぎたPC批判が起きてきたように見えるのが、その表れです。
日本死ね!というようなスローガンで国民が踊る民度ではないのにメデイア界だけが有頂天になっていた印象です。
メデイア界が国民意識となぜ遊離するようになったのか?
メデイア界という抽象的なものはなくそこで働く人々の意識の問題ですが、日本の国民意識と遊離しているようになっているのが、ネット発達前には見えないようになっていたということでしょう。
国民意識の縮図的構成ではではなく意図的な人材偏向が仕組まれていたのでしょう。
例えば韓国や中国に都合の良いことしか報道しないメデイアの場合、韓国や中国自身が日本世論を読み違えるリスクがあり、かえって韓国や中国のためになりません。

悪いことはできないものです。

非嫡出子差別違憲決定の基礎3

高度成長に伴う社会構造の変化に合わせて昭和56年頃に、昭和22年改正法では3分の1だった配偶者の相続分を2分の1に改正しました。
http://www.moj.go.jp/content/001143587.pdf

5 昭和55年改正昭和46年から相続法改正についての審議が開始され,昭和54年の改正要綱試案の公表,昭和55年の改正要綱の法務大臣への答申を経て,同年に「民法及び家事審判法の一部を改正する法律」(昭和55年法律第51号)が成立した。改正内容は,次のとおりである。(1) 配偶者の法定相続分の引上げ従前は,配偶者の法定相続分について,子と相続する場合は3分の1,直系尊属と相続する場合は2分の1,兄弟姉妹と相続する場合は3分の2とされていたところ,それぞれ2分の1,3分の2,4分の3に引き上げられた(民法第900条第1号から第3号まで)。

上記の通り、相続法全般の改正でない相続割合の変更をするだけの改正でも夫婦のあり方がどうあるべきかなど社会の根幹にかかわるので、約10年間もかかっています。
今でも例外的に先祖代々の継承資産が大部分を占めるひとがいるでしょうが(鳩山元首相やトヨタのオーナーなど)標準型を基準にするのが法の原理です。
例外的不都合に当たる人は遺言等で自由に修正すればいいという制度設計は婚外子が例外である間は正当性を持ちますが、標準型が変わってくると正当性を失います。
現在身分とは何かのテーマのシリーズの一環として、生まれつき決まっている親子や親族関係の得喪変更・・その始まりである婚姻離婚制度を見ているところです。
身分法の特質として何らかの強制力が担保されている・・個人間の契約で内容変更できる範囲の外枠が決まっている点を問題にしています。
婚姻開始は当事者の自由意思・合意によってのみ始まると憲法に書いてあっても、一定年齢の制限や親子・兄弟間の婚姻を認めないなどの外枠は法で決まっています。
(これを憲法違反だという意見を聞いたことがありません)
婚姻関係に入っても夫婦のあり方を合意でなんでも決められる・・100%自由ではなく「同居協力の義務」など色々法律で決まっています。
夫婦間でその義務免除の契約をしても法的には限界がある・・長年夫婦関係がないとなれば被告側で「特約があるから、義務違反していない」と抗弁しても夫婦の実態がない・破綻していると認定されてしまうでしょう。
破綻主義については、こののち水野氏と瀬木氏の対談引用で紹介します。
子供の面倒を見ない約束があるとしても、妻の緊急入院中に子供を放置して餓死させたりすれば刑事処罰されますし、子供の父に対する生活費請求権がなくなりません。
上記の通り一般の商業活動と違い相続制度・・身分制度は強制力が背景にあって、遺留分制度で担保され、各人が修正できる限界が決まっています。
現行法では、遺留分は原則2分の1ですから、遺言や生前贈与で修正できるのは半分までの自由しかない仕組みです。
(相続分を修正しようとすると生前贈与には贈与税もかかるなど網の目のような不利益が用意されていて自由処分が事実上抑制されています。)
このような強制力が背景にあるので、民法の相続分の規定が標準型と齟齬がある場合の修正が働きにくいのでその害が大きくなってきます。
今の社会実態では婚外子差別を許容すべき合理性があるか・・何が標準型かの判断が、違憲かどうかの判断を分ける基準の一つ(国民意識の変化や国際環境の変化など)でしょう。
現在の世帯単位の変化・・未婚独身が増えているだけではなく高齢化による独身世帯も増える1方です)独身世帯の激増など目覚ましいものがあります。
重婚的婚外子でもそれぞれの家計管理・資産形成が別になっているのが普通(先祖代々の継承資産に頼る人はごく少数)です。
今ではいろんな統計データも世帯単位が普通になっているなど、(死亡退職金は支給規定次第ですが、原則として「生計を一にするもの」が受領権者です)どんどん基礎になる生活単位が変わっています。
死亡退職金については何十年も前から相続の強制力を排除する・福祉運用にシフトして生活実態によって支給する柔軟運用が続いています。
死亡退職金は企業の労働契約によることから契約書の書き方次第で、相続財産にもなれば生活補償給付にもなる・・身分法の硬直性・・強制力を受けない点を利用したものです。
例えば、労働対価の後払いという意味の書き方であれば相続財産になるでしょうが、一般に行われている例・遺族の生活保証目的→会社の指定する遺族に支給するとなっているときとか、労働基準法施行規則の42条〜45条の規定に従うという雛形的記載の場合には、以下のようになります。

労働基準法施行規則
第四十二条 遺族補償を受けるべき者は、労働者の配偶者(婚姻の届出をしなくとも事実上婚姻と同様の関係にある者を含む。以下同じ。)とする。
○2 配偶者がない場合には、遺族補償を受けるべき者は、労働者の子、父母、孫及び祖父母で、労働者の死亡当時その収入によつて生計を維持していた者又は労働者の死亡当時これと生計を一にしていた者とし、その順位は、前段に掲げる順序による。この場合において、父母については、養父母を先にし実父母を後にする。

43条以下は省略

上記配偶者限定の書き方も企業によっては変わって行くでしょうが、相続となれば身分法なので民間の柔軟対応によっては変更できない限界が起きてきます。
そのうち同性の同居者も(内縁とは男女のみに限る印象ですが)死亡退職金受領権利者に入っていくでしょう。
受給者を同性愛に限る必要もない・・近所で女性同士でアパートをシェアーしているらしい人がいますが、同性愛者などの定義規定を設けて審査する必要を認めない・同性愛者であろうとなかろうとありのままで妥当な対応を工夫すればいいことです。

民法改正に要する期間

GHQによる農業国家化の強制→都市住民復活に対する疑問もあった?上に、短期間での大改正でしたので時間をかけて多くの意見を聞く必要性を感じず?嫡出非嫡出子の差別が合理的という判断になったのでしょうか?
1年余りの期間が如何に短かったかについて、以下民法制定過程や最近の改正に要した期間と比較しておきます。
17年成立した民法中債権法改正案審議は、以下のとおり審議会で公式テーマになって(そこまで行くにはその前に学会や実務界での議論を経ています)からでさえ、約10年もの歳月を要しています。
http://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201903_14.pdf

明治政府が民法を制定するに当たって参考にしたドイツ・フランス・イギリスを含むヨーロッパなどの先進国では、近年、民法改正の検討が進められています。例えば、ドイツは2000年に民法を改正しています。こうした状況のなかで、日本でも2009年10月から、法務省法制審議会において民法(債権法)の改正について検討が進められました。審議結果を踏まえて2015年3月に民法の一部を改正する法律が閣議決定され、2017年5月に成立したという事情があります。

しかも実際に施行されるのは19年からです。
もっと前の元々の民法を作るのにどれだけの期間がかかったかを見ておきましょう。
このコラムで06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)」や刑事法制制定過程のシリーズで明治維新以降の法制定過程を紹介しましたが、民放制定に要した期間だけ見るにはあちこちの引用が必要なので、他人様の文章の引用です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

日本政府法制顧問のフランス人法学家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらが、1879年から1886年ごろまでに起草した日本の民法草案のひとつ。1890年に公布された旧民法(明治23年法律第28号及び第98号、財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編・人事編全1762条)のうち、「財産編」と「財産取得編」の原案
現行の民法(明治29年4月27日法律第89号、明治31年法律第9号)が施行された。

明治23年民法・・ボワソナード民法(これが旧民法と言われるものです)は約11年かかってようやく成立にこぎつけたものですが、一回も施行されないまま現行民法が約10年かかかって明治29〜31年に成立しその後施行されます。
以上見てきた通り、国民生活の根幹をなす民法の成案作りには約10年はかかるのが普通でしょう。
これを戦後混乱期にわずか1年余りで法律になったにしては内容がよくできているのではないでしょうか?
先に書いたようにもともとこのように改革すべきという意見の積み重ねが実務界であったからだと思います。
この種の意見は、戦後農地改革のシリーズでも(戦前から耕地整理の必要性や地主による搾取構造改革案が先行していた)書いたことがあります。
敗戦前の家督相続の場合、非嫡出子どころか長男以外ゼロ相続でしたから、これを半分でももらえるようにしたのはかなりの前進だったという意見もあったのでしょうか。
明治の民法がなぜ家の制度を骨格にしたかといえば、当時の産業構造がなお勤労収入による人がごく少なかったことによるでしょう。
明治2〜30年頃の民法制定当時の関係者は、武士の時代〜徳川時代だけでも約260年間も続いた家を基準した収入構造・大名や武士層は家禄収入基本で生きてきた時代の人が多かったでしょう。
明治維新から2〜30年経っても八幡製鐵などの近代工場で働く人は人口全体の例外だったでしょうし、明治30年で30歳の人は明治元年生まれ、その人たちの多くは、幕藩体制下の生き方しか知らない親に教育されて育った人たちです。
まして親世代が4〜50歳の人であれば家庭内の会話・・幕藩体制下の価値観そのものだったでしょう。
家に縛られている時代の名残の強い意識・生活習慣が色濃く残っていたから家の制度を骨格に据えたものと思われます。
小説の描写なので事実かどうか不明ですが、日経新聞小説でサントリー創業者の伝記風物語の連載を愛読しましたが、そこには当時の家族・親族関係が描写されています。
ウイキペデイアで見ると鳥井信治郎氏は明治12年生まれですから、同氏の青少年期の描写はちょうど民法制定作業開始から明治31年制定までと歩調を合わせた当時の社会状況を描写していたことになります。
戦後民法改正時(昭和22年)の社会状況と言えるかどうか不明ですが、私が育って物心ついた頃(昭和24〜5年前後頃)生活していた地方(地方の意識変化が1〜2世代程度ズレている?)の原風景と小説の描写はそれほど変わっていません。
その頃(昭和20年代中葉?私の小学生1〜2年?)の記憶ですが、明治20年頃(小学校制度が全国に行き渡った程度?)とは違い一定率の高校進学があったでしょうが(私には高校大学の区別もわからない年令でした)進学しない人もいます。
私の10歳くらい上の世代(農家次男坊以下)は新制中学卒業後小僧さんとして都会の商家などに住み込み奉公に出る習慣・盆暮れに農村地帯に帰ってくるのを見て育ちました。
就職と言わずに「奉公に出る」という表現が耳に残っているので、地方ではまだそういう意識だったのでしょう。
ちなみに明治30年生まれの人が昭和22年にようやく50歳ですから、その当時の周りの意識はそんなものでした。
鳥井氏の育った頃とは進学率・・当時は小学校普及段階?・・が大幅に違いますので小僧に出る比率が低くなっていたが、(進学率上昇が遅れる地方では)まだそう言うライフスタイルが残っていたというべきでしょうか?
未成年婚姻の場合に同意を要する父母として、戦前民法では「家にある父母」と限定していたように、明治30年代の民法制定時には核家族が例外であったから判断基準が家の内外(今の言葉で言えば生計の同一性)が重要指標でしたが、戦後高度成長後の我が国では核家族化が急速に進み、且つ相続財産の大部分が、先祖伝来の継承資産ではなく、夫婦恊働働によって形成した資産が中心になっています。
2019年7月7日の日経朝刊1ページには、農業票のテーマで「1960年には1175万人いた農業人口が、80年には3分の1の412万人、2018年には145万人」と出ています。
しかも担い手は65歳以上中心です。

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