日本で身分制度があったか?3

のちに平安朝の位階制を紹介しますが、箱根駅伝のシード権同様で、有能な人材が2〜3世代続かないとトップになれないし(信長や信玄、謙信の例を昨日書きました)無能者も一台限りで次の世代が有能であれば上級貴族にカンバックできるが、2〜3世代無能者が続くと下級貴族に落ちていく緩やかな仕組みでした。
徳川家だけでなく大名家・・島津家の場合、大久保や西郷など下級武士でも能力さえあれば重要役目に登用できるだけでなく、島津家の名門上級武士層自身も、自分より身分が低くても能力のあるものの意見には素直に従う価値観がもともとあってこそ下級武士が活躍できたのでしょう。
こういう価値意識は毛利その他の諸大名家でも同様でした。
徳川政権で言えば旗本でさえなかった勝海舟が才能によって取り立てられて幕府側最重要人物として徳川政権最後の大交渉の立役者になりました。
・・江戸城無血開城の講和会議は、官軍の事実上トップ西郷とのトップ?会談で取り決めたものでした。
江戸城攻防戦になれば、江戸が火の海になり多数被害が出るほか、今後長年にわたっての掃討戦など続けていた場合・・列強の迫る国家危急存亡の時に内戦に明け暮れていたのでは、対外交渉力の弱体化が必至だったでしょう。
無血開城であったことから徳川慶喜の処刑もなかったのですが、江戸城総攻撃となれば、新政府になっても構わないと持っていた人でも忠節を尽くすためには、徹底抗戦するしかなかったでしょう。
江戸城落城後もいろんな城の攻防戦が起きたでしょうから、長岡城や会津だけの攻防戦では済まなかったかったはずです。
戦後処理が仮に数年後に終わっても、元幕臣や抵抗した大名家からの人材登用(官僚機構の承継・活用に成功するかが新政権の成否にとって死活的重要です)ができなかったとすれば、明治維新後の日本の目覚ましい興隆が難しかったことになります。
その上長期戦になると残党狩りなどの結果、同一民族間の怨恨を残すのが普通ですから、(最近ようやく会津と長州の和解ができたというニュースを何年か前に見た記憶ですが・・これが会津のみでなく、広範囲で戦っていれば大変なことでした。
そこにチャンスとばかりに欧米が介入すれば、国家存亡の危機・瀬戸際でしたが、これを避けるために史上全く経験のない、無血開城という大胆な決着した両雄が、いずれも武士層の中では最下層出身であったことが象徴的です。
日本社会構造の柔軟性が、下級武士主導による明治維新→その後の近代化が成功した所以でしょう。
身分にとらわれない人材登用が幕末にいきなり柔軟になったのではなく、古代からの伝統によるところが大きいと思われますが・・一応幕末時点で比較してみましょう。
西郷や大久保、長州の高杉や大村益次郎その他は誰もが知っていますが、(もちろん彼らは代表選手であって、その下に続く大量の次世代層があってこそ明治藩閥政治を確立できたし、民間の近代産業興隆に成功したのです)幕府側でも同様で家柄にこだわらない人材登用が進んでいました。
科学部門では伊能忠敬のように商人が隠居してから天文学の専門家として日本地図作成したのが知られているように、いろんな分野での人材登用が進んでいた・・身分による縛りがない社会でした。
(その前提として庶民が美術、音楽を楽しみ、俳諧、蘭学その他関心あるもの全て身分に関係なく楽しみ、勉強できる下地があったことになります・和算で有名な関孝和に至っては生年月日さえはっきりしない程度の出自です)
江戸時代の身分とは、現在企業内の重役や部課長などの職制上の差程度の意識ではなかったでしょうか?
だからこれを西洋生まれの用語である「身分」と翻訳するのは誤訳でないかという気がします。
身分とは 言わば、生まれによる社会的地位・結局は職業が決まるということでしょうが、今でも中小企業の事業承継はほとんどが世襲です。
世襲だからこそ、相続税の特例が必要になっているのが現実です。
韓国の財閥世襲が知られていますが、日本の大企業でも創業後数世代では多くが世襲でやってきて一定期間経過でオーナー一族が徐々に経営から手を引いて行くのが普通の姿です。
サントリーでもトヨタでも、最近問題になった出光でもみな同じです。
奈良〜平安時代の身分制というか位階制度を見て行くと、親の功労によって次の世代にシード権がある程度・次世代が三位以上に登れないと次の子供(すなわち孫世代)はシード権を失う仕組みです。
企業オーナー一族が承継しても失敗すれば終わりになるのと同じではないでしょうか?
平安時代を王朝時代・貴族政治の時代と習ってきましたが、例えば三位以上が公卿に列せられるといいますが、最上級貴族の子弟であっても先ずは従五位下の叙爵から始まり、補職した職務遂行能力に応じて順次昇進して三位以上になるのであって、生まれた時からの三位はいません。
たまたま10月29日の日経新聞文化欄連載中の本郷和人氏の解説によれば、三位以上に昇進できた上級〜中級貴族の子供が成人して「ういこうぶり(初冠)」すると従5位下に叙爵されて官位が始まり、これに合わせた官職も付与されます。
同記事によれば「ういこうぶり」の時期は(一定しないものの)10代前半と記載されています)
この職務遂行能力・人望等によって官職が変わっていく、これに応じて必要な位階を付与するのが合理的であり、実際にそのように行われてきたようです。
菅原道眞の祖父菅原清公に関するウイキペデイアからです。

清公が右京大夫の官職にあった際、嵯峨天皇に京職大夫の相当位を問われ、正五位相当であると答えたところ、直ちに京職大夫の相当位が従四位に改められた

江戸時代にも30日に紹介したように田沼意次が役職昇進に応じて最後は大名(旗本ではイクラ有能でも側用人止まり・・老中になれなかったので)になったように職務に見合うように家禄を引きあげたりしたことが知られています。
このようにデビュー・叙爵と同時に補職されるので、与えられた官職で実際にどのように仕事ができるかの評価?によって昇進していくのですから、今の幹部候補生の就職と同じです。
われわれ法律家の世界で言えば、判事補や判事や検事の官名 がつくのと補職(「〇〇裁判所判事や〇〇検察庁検事に補する辞令」は同時です。
補職による職務実績評価によって、部総括とか支部長や地裁所長等に昇進していくのです。
実際に仕事させないとその人の職務能力や人格的総合力がわからないからです。

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