チャタレー事件最高裁判決(実態重視2)

チャタレー事件について昨日ウイキペデイアで紹介しましたが、公共の福祉論等の抽象的論争の意義を書いているばかりで、社会意識の具体的認定による画期的意義を紹介していません。
私の記憶違いか?
最高裁のデータに入ってみました。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

昭和28(あ)1713事件名 猥褻文書販売
裁判年月日昭和32年3月13日 法廷名最高裁判所大法廷判決
裁判要旨
一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。
二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、一般社会において行われている良識、すなわち、社会通念に従つて判断すべきものである。
四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
五 Aの翻訳にかかる、昭和二五年四月二日株式会社小山書店発行の「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(ロレンス選集1・2)は、刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書に当る。六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的意図によつて影響されるものではない。

上記判旨によれば第三項に私の理解していた通り、社会通念による旨が書かれています。
社会通念によるとなれば、これが日々変化して行くことが自明ですから、画一的原理論や観念論によるのではなく社会実態の具体的認定が必須になります。
ウイキペデイアではこの重要な判旨をなぜ紹介しないか?
インテリ集団は観念論抽象的理解が好きで社会常識など無視したい・「自分が社会意識より進んでいるという自負こそが生き甲斐」ですからこういう判旨は不都合なので無視して判例の紹介自体が歪んでしまうのでしょうか。
今風に言えばフェイクニュースです。
判旨部分の原文をさらに見ておきましょう。

・・・一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。
また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、・・・

とあって意識変化を具体的に説明しながらも、チャタレー夫人の恋人の翻訳の描写がどぎつすぎるという評価に至っていることが説明されています。
裁判所が現時点でわいせつかどうかを決める権限があるというウイキペデイアの整理も正しいかもしれませんが、わいせつかどうかは当時のその社会通念による点では、今回の非嫡出子差別許容性判断と同じ枠組みであったということです。
昨日今日と非嫡出子差別違憲決定とチャタレー事件判決を見てきた通り、 日本の裁判所は古くから、韓国のように今の人権意識で戦前の行為を裁くという無茶をしていません。
日本の融通無碍げとは実態に即した、正義を探るというものでしょうか?
私流の理解・・原理主義とは実態無視の教条論であるとすれば、融通無碍とは江戸時代の大岡裁きと相通じるものがありそうです。
大岡裁き的な処理の重要性については、こののちに離婚自由に関する学者と裁判官との対談記事に出てきます。
一部先行引用しておきます。
http://www.law.tohoku.ac.jp/~parenoir/taidan.html#section3

・・・・水野・・・穂積重遠は、離婚が杓子定規に許されたり許されなかったりするのはいけない、離婚が各場合に適当に許されまたは許されないことがいい、と説明しています。この説明は、大岡裁きを思わせます。

発言者の水野氏はウイキペデイアによると以下の通りです。

水野 紀子(みずの のりこ、1955年 – )は、日本の法学者。東北大学大学院法学研究科教授。専門は民法、家族法[1]。
家族法分野でも名高い大家、加藤一郎に師事。2011年、旧帝国大学としては初めての女性学部長に就任した。

大岡裁きが実際あったかどうか創作であろうとも日本人がそれを喜ぶのは、国民の法意識(やおよろずの神々信仰)を表していると見るべきでしょう。
穂積重遠や穂積陳重の名は教科書でしか知りませんでしたが、名の残る人はそれなりに深い思索をしていたものだと改めて感服します。

最高裁非嫡出子差別違憲決定の理由(実態重視1)

最高裁の非嫡出子相続分規定違憲決定がどういう理由によったかを、原文の一部引用で見ておきます。
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

非嫡出子相続分規定違憲決定
特別抗告審決定
遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
最高裁判所 平成24年(ク)第984号,平成24年(ク)第985号
平成25年9月4日 大法廷 決定
しかし,昭和22年民法改正以降,我が国においては,社会,経済状況の変動に伴い,婚姻や家族の実態が変化し,その在り方に対する国民の意識の変化も指摘されている。すなわち,地域や職業の種類によって差異のあるところであるが,要約すれば,戦後の経済の急速な発展の中で,職業生活を支える最小単位として,夫婦と一定年齢までの子どもを中心とする形態の家族が増加するとともに,高齢化の進展に伴って生存配偶者の生活の保障の必要性が高まり,子孫の生活手段としての意義が大きかった相続財産の持つ意味にも大きな変化が生じた。昭和55年法律第51号による民法の一部改正により配偶者の法定相続分が引上げられるなどしたのは,このような変化を受けたものである。さらに,昭和50年代前半頃までは減少傾向にあった嫡出でない子の出生数は,その後現在に至るまで増加傾向が続いているほか,平成期に入った後においては,いわゆる晩婚化,非婚化,少子化が進み,これに伴って中高年の未婚の子どもがその親と同居する世帯や単独世帯が増加しているとともに,離婚件数,特に未成年の子を持つ夫婦の離婚件数及び再婚件数も増加するなどしている。これらのことから,婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。
・中略
以上を総合すれば,遅くともgの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。
[25] したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。
4 先例としての事実上の拘束性について
[26] 本決定は,本件規定が遅くとも平成13年7月当時において憲法14条1項に違反していたと判断するものであり,平成7年大法廷決定並びに前記3(3)キの小法廷判決及び小法廷決定が,それより前に相続が開始した事件についてその相続開始時点での本件規定の合憲性を肯定した判断を変更するものではない。

最高裁の違憲決定は原理論?空論原理によるのではなく、社会や意識(国際的意識変化を含めて)などの変化を踏まえると平成13年8月以降は社会の実態から見て不公平すぎて違憲であるという判旨です。
私が表現の自由と判例というものに関心を持った青少年期の事件・・チャタレー事件の判例も同様の解決方法でした。
記憶によれば、絶対的基準でいう猥褻というものではなく、日本でも社会意識が変われば、この程度の表現を猥褻とは言わない時代が来るかもしれないが、現時点ではまだ許されないという判旨だった記憶です。
国際基準という超越的基準ではなくその社会ごとの価値観がありそれは時間軸で移動していくものだという意味でもあったでしょう。
マスコミや学者の多くは絶対的基準がある前提での批判的解説や意見があふれていました。
本日現在のウイキペデイアによるチャタレー事件の紹介です。

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され[2]、7月8日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。
論点
わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。
表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。
最高裁判決
最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。
わいせつの三要素
徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
通常人の正常な性的羞恥心を害し
善良な性的道義観念に反するものをいう
(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)
わいせつの判断
わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」
事件の意義
わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった

レッテル貼りと教条主義1

格差反対とかLGPT・・等の欧米のスローガンをそのまま輸入・主張する政治ではなく、実態に応じてきめ細かく処遇していくのが政治の要諦です。
メデイアでは、政治分野で極右・レイシスト、歴史修正主義者、あるいはオモチュニストなどなどレッテル貼りが横行しています。
レッテル貼りに限らず格差反対その他のキーワードで内容空疎な報道に走るのは日本のメデイア界だけの特徴かもしれませんが、国際メデイア界はキリスト教系が牛耳ってるので、日本のメデイア界でも知らずのうちにキリスト教系思考の影響を受けているのではないでしょうか?
レッテル貼りというか、キーワードで席巻していくやり方はその先の思考停止させ、ある問題を画一処理しようとする傾向があるように思えます。
もともと原理主義的教条論的思想工作の限界がきたので、これを今風にソフト化しただけのようにも見えます。
原理主義というか教条的主張はどうやって始まったものでしょうか?
教条主義や画一主義あるいはレッテル貼りの横行は、ソ連型共産主義が現世権力を握ったことにより思想=学問世界の独占物だったのを一般化したものと言えます。
ファミレスが高級レストランに行けないホワイトカラー層の受け皿になったようなものです。
その後工場生産化・食品や衣料の工場生産・・画一的大量に拡販する仕組みが一般化してきたように、思想を画一化する過程で異論を許さなくなった先進的システムだったというべきでしょうか?
思想は異論を戦わせる過程で相互の主張を止揚することでレベルアップが期待されるのですが、ソ連が始めた思想工作は、論争によって、思考論理を磨くプロの土俵を離れて、党中央の指令貫徹手段・・支配道具として思想を利用するようになって始まったように思われます。
ファミレスやコンビニ店員、あるいは工場労働者同様にソ連党中央の提供する思想・・ファミレスで言えば、食材の温め方?工場では機械操作程度の学習さえきちんとすればいいというのが特徴です。
共産系では学習会が重視され、学習を済ませた人を前衛とか細胞というのは言い得て妙です。
学習といっても党中央の指令伝達手段としての思想教育ですから、例えば中国では毛沢東語録や習近平講和内容の「学習会が基本であり、「こうすればいいのではないか?」などの改良意見を表明する場ではありません。
中国でウイグル族を100万人単位で収容所に入れて中国政府統治の正当性の学習を強制したり北朝鮮で失脚した政治犯が学習強要される仕組みも皆同じです。
共産圏では思想がいろんな工夫を生み出す有意義な道具としての位置付けよりは、支配道具ですから、教条主義や画一思考になるのは当然の結果でしょう。
ソ連が思想教育を世界に共産主義(と言う名のソ連による世界支配・・コミンテルン)を拡散する道具として以降、教条主義・原理主義論が一般化してきたように見えます。
フランス革命以降重視される思想信条の自由論は、表現の自由を核にしたもので、このため憲法学では表現の自由こそが基本的人権の中核という位置付けになっています。
ところがソ連で創始し現在の中国や北朝鮮で行われている思想強制は、表現を規制する線を超えてその前に、そのような思想を持たないように働きかけ強制する・・積極的に人の脳内支配を企図している点がおそるべきところです。
どうしてこう言うことに結びついたのかを考えると、もともとキリスト教徒というか一神教の場合、余計なことを言わねば処罰されないというだけでなく、一神教=唯一者の存在が前提です。
唯一者の意思に反しないかどうか生活の隅々まで、戒律あるいは教義の網がかぶる傾向があります。
このために監視者?古くは律法者・中世には神学者が教義の解釈を行なっていたが必要だったのでしょう。
神学者というジャンルが学問の先駆けという不思議な社会のようですし、ジャンヌダルクの処刑やガリレオの地動説に対する圧迫・異端審判制度の教具支配が有名です。
このように背教者をあぶり出す仕組みは長い歴史を持っていてスターリンの粛清政治は、世俗権力と宗教権力が一致した結果これを恣意的に乱用したものです。異端審問とスターリンの粛清政治の関連についてはDecember 22, 2016「シビリアンと信教の自由3(共産主義とシビリアン)」で書いたことがあります。
こうした思想統一の歴史の土台の歴史の上にキリスト教に変わって、共産主義という新興宗教と国家が国教として結びついたと見るべきでしょう。
イランで聖職者が世俗権力の上にある点は、共産党が国家の上にある中国の現体制と同じ構図です。
共産主義は唯物論だから宗教禁止と習いますが、旧ソ連や中国にとっては共産主義自体が新宗教だから対立宗教を排除しているにすぎません。
ソ連や中国の支配下にある以上は国教である宗教教育を強制する・まだ理解していないものには強制的に教えてやる→学習会とは国民の思想を強制改造するのが目的の学習強制システムです。
ソ連はこれを自国国民に対して行うのみならず他国にまで浸透工作(カトリック布教活動と同じです)を行うための世界戦略として、コミンフォルムだったかコミンテルンだったか?結成して世界中にその工作をかけていました。
結果的にソ連は制度として崩壊しましたが、今なお(内容から見て共産党と言えるかどうか不明ですが)独裁を信奉している中国ではソ連の自由主義諸国に対する浸透工作をそのまま引き継いでいる様子です。
言論の自由を隠れ蓑にしたソ連工作員の浸透を許したメデイア界ではその後中韓や北朝鮮が「思想の自由・民主主義を守れ」と表向きいいながら、実は原理主義的(枝葉末節の)批判を繰り返して自由主義諸国の政権転覆を狙うのが普通です。
日本メデイアではこの種の枝葉末節的批判の垂れ流し報道や、チャンスをみては爆発的に政府批判を煽る報道が逆効果になる例が増えてきましたが、森かけ報道や日本死ね!の洪水的報道とこれに便乗していた野党のジリ貧を招いている結果を見れば、日本では賢明な国民が多いので根拠のない煽り系報道をすればするほどメデイアの信用が落ちていく傾向が明らかです。
自由主義国でもようやく盛んになったいきすぎたPC批判が起きてきたように見えるのが、その表れです。
日本死ね!というようなスローガンで国民が踊る民度ではないのにメデイア界だけが有頂天になっていた印象です。
メデイア界が国民意識となぜ遊離するようになったのか?
メデイア界という抽象的なものはなくそこで働く人々の意識の問題ですが、日本の国民意識と遊離しているようになっているのが、ネット発達前には見えないようになっていたということでしょう。
国民意識の縮図的構成ではではなく意図的な人材偏向が仕組まれていたのでしょう。
例えば韓国や中国に都合の良いことしか報道しないメデイアの場合、韓国や中国自身が日本世論を読み違えるリスクがあり、かえって韓国や中国のためになりません。

悪いことはできないものです。

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