フェイクニュースとは?2(事実と編集の違い?2)

従来このコラムでは、サンゴ礁事件などのヤラセ報道等に始まり、報道界の色付け傾向や欺瞞体質を常々問題にしてきましたが、こうした批判に対して「憲法で保障された表現の自由を守れ」「事実と違う」指摘を受けると編集権に逃げる傾向が続いていました。
慰安婦騒動の元を作った吉田氏自身が調書という表題や各種証言にも関わらず「著作には脚色が当たり前でしょう」という趣旨の説明をしていたことが知られています。
ウイキペデアによる紹介です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 – 2000年(平成12年)7月30日[1][2])、本名:吉田 雄兎(よしだ ゆうと)は[3]、福岡県出身とされる文筆家。朝日新聞上で従軍慰安婦問題に関する「吉田証言」を発表するが、後にその大半の証言が虚偽・創作であったと朝日新聞が認めたことで知られる。
1980年代に、大東亜戦争(太平洋戦争)の最中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(「慰安婦狩り」)し日本軍の慰安婦にしたと自著に記述。これがメディア、特に朝日新聞に長らく真実として取り上げられたことにより、国際問題化している「いわゆる従軍慰安婦問題」醸成の大きなきっかけとなった。しかし、後の追跡調査では吉田の証言の客観的な裏付けは取れず、むしろ反証が得られるなど矛盾点を指摘されるなか、1995年になって自らの証言が主張を織り交ぜた創作であることを認めた。

NHKの台湾原住民報道でも、NHKには編集権があるので撮った写真などをどの方向に編集するかに自由があるという理由で「偏向報道の主張」に関しては勝訴したと報道されていた記憶です。
検索すると判決文自体がすぐに出てこないので、ウイキペデイアによると以下の通りです。
http://specificasia.blog.jp/archives/2072451.html

2013年11月28日
高裁「NHKの台湾先住民への『人間動物園』は名誉棄損だが偏向報道ではない」
須藤典明裁判長は「『人間動物園』という言葉は当時はなく、新しく使われ始めた言葉。人格否定につながりかねない過激な言葉を、人種差別的な意味合いに配慮せずに番組で何度も言及した」と指摘。当時ロンドンに行ったパイワン族男性の遺族の「父はパイワン族を代表してロンドンに行った」との思いを踏みにじり、名誉を傷つけたとして、遺族女性1人に100万円を支払うよう命じた。
一方、「偏向した内容で知る権利を侵害された」などとする他の原告の請求は「報道として問題がないわけではないが、憲法が保障する表現の自由や報道の自由に照らして十分尊重されるべきだ」として退けた。

上記に対する上告審判決は、名誉毀損が成立しないと言う結果に終わったようです。
偏向報道かどうかは上告審の判決には出てきません(上告理由になってない?)ので原審(高裁)の判断が確定したことになります。
上記のようにウイキペデイアの表題では、「偏向報道ではない」と断定して書いていますが、内容を見ると「報道として問題がないわけではないが・‘・・」と書いていて、憲法で保障された表現の自由にてらして・・と、退けたにすぎず、積極的に公平な報道と認定したわけではありません。
表現の自由・・著作権という憲法主張が出ると名誉毀損等の違法行為にならない限り天下御免ですから、事実と違っても門前払いになる傾向・・観念論に安住してきたメデイア界が、SNSの発達で個人が模倣して極端なことをやりだしたので大騒ぎになった側面があります。
はっきりしたフェイクニュースは別として、政治的意見の表明になると、これまで事実と意見を混在させて一定方向への誘導を行ってきたメデイア界の独占に対してネットを利用した反論ができる・痛烈なパンチ力が生まれたことが明らかです。
リベラリストやグローバリストのようなこれまでのメデイア支配層に歯向かう発信者が増えてくると「表現の自由」だけでは済まない・・彼らメデイア自身が黙っていられなくなってきました。
フェイクやヘイト攻撃もその一環と見えますが、メデイア自身が偏って加工していなかったのか?という批判が跳ね返ってきます。。
新興勢力(中国もそうですが)はマナーに慣れてないので(子供がスマートな意思表示できないために直接行動に出るように)ズバリの表現や行動が行き過ぎ、フェイクになったり名誉毀損や業務妨害になりやすいですが、メデイア界としては自分たちにはフェイクを真綿で包む節度がある点で差をつけていることになります。
(在特会の京都の事件など・・抗議行動は行き過ぎたでしょうが、耳目を集めることで結果的に公園不法使用していた朝鮮人学校の積年の違法行為が白日のもとに晒されました・メデイアは本来の違法行為を報じないでヘイトの激しさばかり強調しますが)
武士の台頭時に貴族は粗暴さに眉を顰めていたものの、結果的に武士の時代になりました。
弱者は人目をひく記事にしないと注目されないからギラギラと目立ちたがり大きな声を出す点は、古代から共通です。
例えば、公道のデモ行進や公共の場での集会など・・従来秩序では交通の邪魔=違法であったことでも、手続きを踏めばデモ行進や集会を開いて人目をひく権利があるようになったのと同じで、少数者は何らかの人目をひく方法(現行法では違法でもそれなりの合理化で発言の場)が付与される必要があります。
近代法理や平和論などの観念論さえ言えば相手を圧倒出来る時代がとっくの昔に終わっている・・具体的事象に当てはめて議論しないと何事も解決出来ない現実を知る必要があるというシリーズ中のフェイクニュース問題割り込みですが、表現の自由という観念論では間に合わなくなってきた一例を書いていますので、もう少しお付き合いください。
https://wired.jp/2017/06/22/journalism-post-truth-era/

TEXT BY JASON TANZ
TRANSLATION BY TOMOAKI KANNO
WIRED(US)
この数年の間にソーシャルメディア、特にFacebookが主要なニュースソースとして出現したことで急加速した。プロのメディアが世論を方向付ける力は衰え続け、いまではほとんど失われている。ソーシャルメディア以前は、新聞の編集者が、どのネタを発表するか、それをどこに載せるかの最終決定権をもっていた。今日、その役割を手にしているのは読者である。
編集者は記事を発表できるが、それが誰にもシェアされなければ、書かれなかったも同然となる。
読者が新たなパブリッシャーだとしたら、彼らにニュースをシェアさせる最善の方法は感情に訴えることだ。主によくない感情に。『Human Communication Research』誌に最近掲載された論文によれば、Facebookで情報をシェアするかを決める「重要な媒介メカニズム」は怒りだという。特定の主義に偏り、強い怒りを感じている人ほど、政治のニュースをネット上でシェアする傾向にある。そして、そうやってシェアされる記事は、それを読む人にさらなる怒りを抱かせることになる。「マーケットシェアを獲得するにはラディカルになる必要がある」と、フェイスブックの元プロダクトマネジメント部長サム・レッシンは言う。「穏当では何も得られない」

政治のフェイクが騒がれていますが、多くの読者を呼び込めば 多くのスポンサーがついて儲けられるのが基本ですから、もともと内容が奇想天外な絵空事でも、「やらせ」でも何でもいいのが彼らの行動原理です。
常識のある人はそういうものだと理解していろんな作り話を娯楽として受信しているのですが、それを真に受ける人もいるだけなく拡散する(受信だけでなく発信する)人が増えたから厄介になってきました。

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