憲法と国家5(南原繁氏の超国家主義・普遍価値2)

南原氏の言う普遍的精神とは18日に紹介した通り、英米のプロテスタント的理想を言うのですから、(神道指令→日本民族の固有価値を否定して)キリスト教価値観を広めたい占領軍にとって願ってもない人材がいたことになります。
理想社会をプロテスタントの宗教的理想・しかもその模範は英米両国としていた点で、戦後ニッポンをキリスト教重視の米国思想に染め替えるべき最適の人材として気に入られた面があるでしょう。
ちなみに現在のアメリカ国民のプロテスタント比率は以下の通りです。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13294889582009/8/1723:36:51

http://www.census.gov/compendia/statab/tables/09s0074.pdf に情報があります。
これによれば、
カトリック教会 : 23.9%
プロテスタント諸派 : 51.3%
となっています。

GHQが東大総長人事を強制したと言うよりは、米国の気に入りそうな人事案を根回しする人がいてのことですが・・。
南原氏はもともと内務省の要注意・危険人物であった・・「国家と宗教」だったかが、なぜ発禁処分ならなかったかについて諸説あるようですが・・。
南原氏の政治哲学とは素人的理解で言えば「ローカルな国家原理の上位に普遍価値・超越する理想社会がある・・それがプロテスタント思想である」というのですから、戦国時代末期にローマンカトリックによる日本支配の匂いを嗅ぎ取って秀吉が危険思想としてキリシタン禁制に踏み切った原理そのもの・・カトリックからプロテスタントに変わっただけです。
にも関わらず、これがそのままお咎めなしで敗戦の年3月に何故かいきなり法学部長に就任し、その年の12月に総長就任ですから、なんらかの政治の動き・日本側で米英の気に入りそうな人材抜擢を図ってのことでしょう。
矢内原氏や大内兵衛などマルクス経済学者の追放など東大内の国家主義者による学内追放が続いていたにも関わらず・そもそも政治哲学研究でいわゆる傍流系学者がどういう根拠でいきなり法学部長になれたか?も疑問です。
参考までに東大歴代法学部長の表がありましたので、以下に敗戦前後をコピペしておきます。
それぞれ具体的な法律専門家が学部長についていますし、最近の数十年で見ても同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

第12代 仁井田益太郎 1919年7月 – 1921年6月 帝国大学 民法・民事訴訟法
第13代 山田三良 1921年6月 – 1924年6月 帝国大学 国際私法
第14代 美濃部達吉 1924年6月 – 1927年6月 東京帝国大学 憲法・行政法
第15代 中田薫 1927年6月 – 1930年9月 東京帝国大学 日本法制史
第16代 穂積重遠 1930年9月 – 1933年9月 東京帝国大学 民法
第17代 末弘厳太郎 1933年9月 – 1936年4月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学 第18代 穂積重遠 1936年4月 – 1937年4月 東京帝国大学 民法
第19代 田中耕太郎 1937年4月 – 1939年2月 東京帝国大学 商法・法理学
第20代 穂積重遠 1939年2月 – 1942年3月 東京帝国大学 民法
第21代 末弘厳太郎 1942年3月 – 1945年3月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学
第22代 南原繁 1945年3月 – 1945年12月 東京帝国大学 政治学・政治史
第23代 我妻栄 1945年12月 – 1948年12月 東京帝国大学 民法
第24代 横田喜三郎 1948年12月 – 1951年3月 東京帝国大学 国際法
第25代 宮沢俊義 1951年4月 – 1953年3月 東京帝国大学 憲法

私が思うには、もともと日米戦えば勝ち目がないことは国民から上層部までみんな十分知っていたからこそ戦争回避に必死になっていたし、さらにミッドウエー海戦の大敗以降敗戦必至の状況が日々進んでいたので、政府上層部では敗戦処理用の日本側人材として(鬼畜米英と国内宣伝していながらも)内々米英に受けの良い思想家や実務家の抜擢が進んでいたように見えます。
政治表面では吉田茂などがすぐに表舞台に出て活躍できた所以です。
これが上記異例の抜擢人事だったのでしょう。
南原氏は戦後東大の初代総長に就任し各種学会や思想界に大きな影響を与えただけでなく、戦後教育勅語廃止→教育改革に辣腕を振るい・以来現在の6・3・3・4制度の枠組みが今に続いている大きな影響を与えた人物です。
以下は、19日紹介した西田氏の論文の一部です。

「戦後、南原繁は東京大学の総長となり、旧教育基本法の制定にも関わるなど、 戦後改革において広範に活躍した45)。その活躍は土持ゲーリー法一の教育史での先行研究などで詳しく紹介されているように、広範にわたる。」

彼が主導した戦後教育改革では教育勅語を排除して(古今東西に通じる?)教育基本法に変えていくのですが、その前提として彼の国体・民族独自の価値観に関する以下のような意見が上記西田論文で紹介されています。
天皇の人間宣言に関する意見です。
・・西田氏の下記要約が正しいと思うので人間宣言に関する南原氏意見引用省略します・・

南原は昭和天皇の人間宣言を高く評価している。
なぜなら日本人が「民族宗教的束縛を脱し」て、「国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、他ならぬ詔書によって」得たからである。つまり、日本は外部にあった西洋世界に一体化できる内部を、象徴天皇制によって獲得したと主張するのだ。

わたし的理解では、固有の民族価値観の主張を廃棄することによって、世界市民・世界標準に参加できるようになったというように読めます。
南原氏の言う世界市民参加資格とは18日紹介した通りプロテスタント思想ですが、世界市民の一員であるためには、日本独自の価値観教育ではダメだから、教育勅語を書き換えようとなったのは当然の流れでしょう。
(ただし教育勅語の本旨を戦前右翼が拡大解釈していた牽強付会の論?を前提にすればそうなるに過ぎないことは、19日に紹介した丸山正男の「超国家主義」に対する批判論文に詳しいし面白いのですが、引用するには長すぎるので関心のある方は上記で引用していない部分をお読みください)
教育勅語廃止に関する記事です。
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html

1946年には、米国の教育使節団来日に協力する形で日本教育家委員会が発足し、南原繁東京帝国大学総長を委員長として教育改革案がまとめられるのだが、この改革案こそが戦後日本の指導者のもっていた教育に対する意識の集約されたものである。この改革案で第一にとりあげられたのが、教育勅語を新たに奏請しようという意見であった。
奏請の理由は、「従来の教育勅語は、天地の公道を示されたものとして決して謬りにはあらざるも、時勢の推移につれ国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき、更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したもふ如き詔書をたまわり度きこと」とされていた。
1947年公布された教育基本法では、教育目的を示す第一条において、「人格の完成」を掲げて、古今東西に通用するものにしたいという姿勢を示している。【直後に出された文部省訓令では、『個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力をできる限り、しかも調和的に発展せしめることである。このことは、決して国家及び社会への義務と責任を軽視するものではない』と、説明している。】
そして、1948年6月10日には、衆参両院で「教育勅語等排除に関する決議」がなされた。参議院の決議では、「日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した」と新しい教育理念を明示した。

 

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