立憲主義2と憲法改正1

12月23日の続きに戻ります。
基本的人権であれば、法で規制できないかのような刷り込みもおかしなものです。
証券取引法や独禁法の規制が自由主義経済を死滅させたでしょうか?
道路交通法や自動車の規格規制が車産業を死滅させたでしょうか?
サッカーや野球その他ルールが整備されてこそ、そのゲームが発達するのです。
表現の自由が重要であるならばこそ、本来必要な表現の自由を守りながらの規制努力が可能でありそれをすべきです。
アメリカ大統領選挙介入のロシアゲートに限らず外国政府が国内政治に簡単に介入できている現状に鑑みて言論の自由.信用を守るために、少なくともメデイアその他一定の公的機関で発言発表する前に、外国政府・機関とどういう関係があるかあるいは資金関係の開示義務その他の説明義務みたいなものから入っていくなどやる気になれば、いくらでも規制を進める方法があるはずです。
日本人が国外での日本批判を強める傾向についての問題点は(慰安婦問題でいえば、中国や韓国政府の代弁とはっきりさせるならば、「中国や韓国の意見はそうなのね!」と思って聞いているので正当な評価が可能ですが、日本人として、「慰安婦を性奴隷」であった「現実にあった」と主張すれば、中立の国の人々の受け止め方としては、「日本人でさえ認めているのだから・・」という影響力の大きさ・「客観事実の検証をするまでもない」という方向へ議論が流れてしまう・問答無用形式に流れる効果は半端ではありません。
まして政府から中立を装うメデイアや弁護士が主張すると大きな影響力があります。
これが事実検証もないまま、日本の大手新聞がいうのだから] と国連決議やアメリカ議会決議の流れを作っていった成功例?のように見えます。
「性奴隷」という主張は日弁連公式認定もなく特定弁護士グループがやっていることですが、いかにも日本の弁護士の総意であるかのようにイメージ・誤解させる効果が大きいでしょう。
誤解する方が悪いのではなく、発言者が自己の立ち位置をはっきりさせないと聞き手の多くが誤解する場合には、自己の立場をはっきりせない方に問題があります。
この場合、いわば肩書きを偽って意見表明しているのと似た効果があります。
サッカーその他のスポーツの試合で相手チームから金をもらっている選手が重要場面で失策するようなものです。
このような場合、直前あるいは継続的に大金をもらっていることが発覚すれば、本当の失策か八百長か?という問題が起きます。
所属チーム以外からのお金をもらっている場合、所属チームに届け出る義務を定めておけば問題がほとんど解決します。
メディアや弁護士が外国資金を得ているようなことは滅多にないでしょうが、いろんな意見が何故か特定国の利益に直結しそうな場合には、よほど立ち位置を慎重にする必要があるでしょう。
集団自衛権論でも憲法学者の意見と現実政策論とは次元の違いがありますが、その説明を省略.すり変えをして世論を誤導しようとしているように見えます。
憲法学をストレートに政治論にする意見は、以下に批判されるような偏りが見られます。
立憲主義とは、まずは立法府が必要な法を制定し、行政府がそれを執行した上で、それが違憲か否かの判断を最終的に最高裁判所で決めるものであって、学者が前もって決める権利ではありません。
政治評論家や経済評論家が前もって「〇〇の決断をするのが正しい」というのは自由ですが、政治家や経営者がどのような決断するかはそれぞれの分野のトップあるいは合議体構成員が決めることであり、決断者は有名学者の意見や世論調査の結果に従ったからと言って免責されるものではなく政治責任を問われます。金利政策で日銀総裁が消費税増税で多くの政治家が痛い目に遭っています。
どんな立派な学者の言う通りにしたのであろうと、景気が悪くなれば政治家はおしまいですし、憲法を守っていても外的に侵略を許して責任を免れることはできません。
以下に紹介するように戦後学問世界では自衛隊違憲論一色だったのですが今ではこれにこだわっている人は変わり者扱いですが、学者の誰が責任を取ったでしょうか?
政治家や経営者は結果責任を負うのが社会のあり方です。
実務と学問とは違うからこそ、経済運営であれ公共政策であれ教育政策であれ何であれ、各種専門家は専門分野の見地からみればどうかの意見具申するだけあって、・我々法律家も相談に際して「法的意見はこうですが、あとは経営判断です」というだけです・・最終判断は各種の意見を勘案して国民の負託を受けた政治の場で総合判断して決めるようになっています。
高校時代には学校の教えることしか知らないことから、先生が褒めちぎるプラトンやソクラテスが最高であるかのようなイメージがすり込まれた結果、その頃に習った「哲人政治」をすごい・何故そうならないのか?と単純に思ったものでしたが、大人になってくると専門家というのは、習った視野の狭い分野だけやっと理解できる・・2〜3流の人材がなるものだということが分かってきました。
ファジーな無限の可能性を総合判断する能力にかけては政治家・これもその道の専門家ですが・・に叶いません。
http://www.huffingtonpost.jp/akihisa-nagashima/right-of-collective-self-defense_b_9755976.htmlによれば以下の通りです。

「政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。
これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。
しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。
なぜでしょうか。
要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。
(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
・・・・「要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。
これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。
もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」

上記解説の通り私の勉強した当時の憲法学では、自衛隊合憲論は、「烏を鷺(サギ)というようなものだ」という意見が、(司法試験の基本書になっていた)権威ある学説でした。
このコラムは自宅で暇つぶしに書いているので(その本は事務所にあって)そのままコピペ引用ができませんが、その比喩にインパクトがあったのでよく記憶していますが・・。
自衛隊違憲判断の推移は、厳然たる歴史事実(今では「自衛隊は違憲であるから解体すべき」という意見の人はごく少数でしょう)ですが、学者の言う通り自衛隊違憲論を選択した方が正しかった・・結果が良かったとは、国民のほとんどが認めていないでしょう。
無防備の時に韓国が李承晩ラインを設定し竹島が占領したのですが、もしもそのまま無防備を続けていれば、今頃中国は尖閣諸島を簡単に占拠していたでしょう。

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