立憲主義3(憲法と法律の違い1)

ここで憲法と一般の法の関係を考え直しておきましょう。
法律制定の場合には国内の多様な利害調整手続きを経るために、膨大な意見の吸い上げや年数と冷静な議論の積み上げ・・民意吸収があります。
12月7日以来借地借家法制定過程を現最高裁長間の論文で紹介しましたが、一部再引用しますと

「昭和五0年代後半からは、土地の供給促進の観点から法制度としての借地・借家法の見直しが主張されてきた・・全面的な見直しをはかることは、難しい情勢にあった。
しかし、高度成長期を経て経済規模が拡大し、都市化がすすむと、借地・借家法が画一的な規制をしていることによる弊害が一層明らかになってくるようになった。
法制審議会の民法部会(加藤一郎部会長)は、以上のような問題意識から、昭和六O年一O月に現行法制についての見直しを開始する決定をした。」

借地借家法が成立したのは平成3年10月で施行は平成4年8月ですから、必要性が言われ始めてから施行まで約10年です。
ちょっとした法律制定まで行くには、前もっての根回しを経て10年以上かかっているのがザラです。
この法律は、過去の契約に適用がない微温的改正ですが、革命的憲法制定の場合には過去に形成された身分関係に遡及的に効果を持つ(例えば家督相続できると思って養子縁組していた人の家督相続権がなくなります)のが普通です。
このように冷静な議論を経て数年〜10年前後かけて制定される普通の法律に比べて、憲法制定は革命時などに旧政権打倒スローガンそのままで短期的な激情・勢いに任せて拙速に制定される傾向があります。
憲法という名称から、家憲・国憲・家訓のようなイメージを抱くこと自体は正しいと思いますが、いわゆる国憲や家訓等は何世代にわたって後継者が守るべき基本方針を示したものですから、何世代も拘束するに足る数世代の騒乱を治めたような一代の英傑が盤石の地位を確立した後に、(のちに家康の武家諸法度の例をあげます)将来のあるべき国家民族あり方等を考察してこそよくなしうるものであって、そのような英傑でもない一時の支配者が、自己保身・威勢を示すために内容のない事柄を家訓や国憲にしても誰も見向きもしないでしょう。
革命政権〜反乱軍が、政権掌握と同時に出すスローガンや声明程度のレベルのものを、国憲と称するのは羊頭狗肉・名称のインフレ.水増しです。
王朝あるいは数世代以上に続く大事業創業者の残す家訓は、盤石の成功体験に裏打ちされた訓示を子孫に残すものですが、それでも時代の変化によって意味をなさなくなることがあります。
まして、旧政権を打倒したばかりで制定される新政権樹立時に制定される憲法は、旧政権打倒のために(便宜上争いを棚上げして)集まった反体制各派の寄り集まり・連合体である革命勢力は、旧政権打倒成功と同時に各派間のヘゲモニー争いを内包しています。
(本格的革命であるフランス革命やロシア革命では、王政崩壊後革命勢力間の勢力図が目まぐるしく変わっています)
革命の本家フランスの場合、大革命後ジャコバン対ジロンド党.王党派の政争の末に、ナポレオン帝政となり、王政復古〜第二帝政〜共和制〜ナポレオン3世等の動乱を繰り返して現在第5共和制憲法になっていますが、第5共和国と言われるように(一部条文の改正ではなく)憲法精神の抜本的入れ替えの繰り返しでした。
第5共和国憲法は革命的動乱を経ていないので、その分落ち着いて作ったらしく最長期間になっているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

フランス共和国憲法(フランスきょうわこくけんぽう、フランス語: Constitution de la République française)は、1958年10月4日に制定されたフランスの憲法典。第五共和制の時代に作られたことから、第五共和国憲法(フランス語: Constitution de la Cinquième République、第五共和制憲法、第五共和政憲法)とも呼ばれる。

もともと政体大変更の場合、旧体制(アンシャンレジーム)と「こういう点が違う」と新政権は大見得を切る必要があって、壮大なスローガンを掲げたくなるもので、いわば政治的プロパガンダ・公約みたいなものです。
フランス革命では「身分から契約へ!」と言われ、我が国で民主党政権獲得時の「コンクリートから人へ」と言ったような自分の主張を、のちに否定変更されにくいように強固な「法形式」にしたことになります。
旧体制をぶち壊しただけでその後自己権力さえどうなるかはっきりしないうちに、一般の法よりも慎重審議を経ていないプロパガンダに過ぎないものを革命体制を強固なものにするために「法」よりも改正困難な法形式の「憲法」と格上げしてきた事自体に無理があるように思えます。
無理に格上げしても実態が伴わなければ、すぐに信用をなくします。
これが、フランス革命後第5共和制に至る憲法変更の歴史です。
例えば明治維新のスローガンは王政復古であり、これを受けて維新直後にできた基本法制は、いわゆる二官八省・・古色蒼然たる太政官と神祇官をトップにしたものでしたが、もしもそれが不磨の大典扱いになっていても、多分10年も経ずして不都合に耐えられなかったでしょう。
日本人は急いで作っても実態が伴わなければ、意味がないことを知っていたのです。
明治憲法は、明治維新・大変革を得た後約20年での制定でしたし、国民生活の基本を定める民法は明治29年(1896)、刑法にいたっては明治40年になってからです。
明治憲法制定までの約20年の間に廃藩置県や司法制度等の制度枠組みを整えながらの漸次的運用・・刑事民事の欧米的運用経験・人材育成などを積み重ねた上の憲法〜民法等の制定ですから、日本の法制定は時間がかかる代わりに安定性が高いのが特徴です。
日本は民主主義などという前の古代からからボトムアップ型・民意重視社会ですから何事もみんな・・法制定に限らず裁判でも社内改革でも、関係者の意見を取り入れて行うので時間がかかりますが、その代わりみんなの納得によるので法遵守意識が高くなります。
例えば家康の禁中并公家中諸法度・武家諸法度は1615年のことで、天下を握った関ヶ原後15年も経過して満を持して発布したものです。
民法については債権法部分について今年5月頃大改正法が成立・約120年ぶりの大改正ですが、これでも骨格が変わらず概ね判例通説を明文化したもの(判例や学説の知らない素人が読んでも分かりやすくした)・・判例や学説の分かれている部分についてはどちらかになった部分がある程度・・と言われています。
以下は法務省の解説です。
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji06_001070000.html

民法の一部を改正する法律(債権法改正)について
平成29年11月2日 平成29年12月15日更新
法務省民事局
「平成29年5月26日,民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)が成立しました(同年6月2日公布)。
民法のうち債権関係の規定(契約等)は,明治29年(1896年)に民法が制定された後,約120年間ほとんど改正がされていませんでした。今回の改正は,民法のうち債権関係の規定について,取引社会を支える最も基本的な法的基礎である契約に関する規定を中心に,社会・経済の変化への対応を図るための見直しを行うとともに,民法を国民一般に分かりやすいものとする観点から実務で通用している基本的なルールを適切に明文化することとしたものです。」

今回の改正は,一部の規定を除き,平成32年(2020年)4月1日から施行されます(詳細は上記「民法の一部を改正する法律の施行期日」の項目をご覧ください。

立憲主義2と憲法改正1

12月23日の続きに戻ります。
基本的人権であれば、法で規制できないかのような刷り込みもおかしなものです。
証券取引法や独禁法の規制が自由主義経済を死滅させたでしょうか?
道路交通法や自動車の規格規制が車産業を死滅させたでしょうか?
サッカーや野球その他ルールが整備されてこそ、そのゲームが発達するのです。
表現の自由が重要であるならばこそ、本来必要な表現の自由を守りながらの規制努力が可能でありそれをすべきです。
アメリカ大統領選挙介入のロシアゲートに限らず外国政府が国内政治に簡単に介入できている現状に鑑みて言論の自由.信用を守るために、少なくともメデイアその他一定の公的機関で発言発表する前に、外国政府・機関とどういう関係があるかあるいは資金関係の開示義務その他の説明義務みたいなものから入っていくなどやる気になれば、いくらでも規制を進める方法があるはずです。
日本人が国外での日本批判を強める傾向についての問題点は(慰安婦問題でいえば、中国や韓国政府の代弁とはっきりさせるならば、「中国や韓国の意見はそうなのね!」と思って聞いているので正当な評価が可能ですが、日本人として、「慰安婦を性奴隷」であった「現実にあった」と主張すれば、中立の国の人々の受け止め方としては、「日本人でさえ認めているのだから・・」という影響力の大きさ・「客観事実の検証をするまでもない」という方向へ議論が流れてしまう・問答無用形式に流れる効果は半端ではありません。
まして政府から中立を装うメデイアや弁護士が主張すると大きな影響力があります。
これが事実検証もないまま、日本の大手新聞がいうのだから] と国連決議やアメリカ議会決議の流れを作っていった成功例?のように見えます。
「性奴隷」という主張は日弁連公式認定もなく特定弁護士グループがやっていることですが、いかにも日本の弁護士の総意であるかのようにイメージ・誤解させる効果が大きいでしょう。
誤解する方が悪いのではなく、発言者が自己の立ち位置をはっきりさせないと聞き手の多くが誤解する場合には、自己の立場をはっきりせない方に問題があります。
この場合、いわば肩書きを偽って意見表明しているのと似た効果があります。
サッカーその他のスポーツの試合で相手チームから金をもらっている選手が重要場面で失策するようなものです。
このような場合、直前あるいは継続的に大金をもらっていることが発覚すれば、本当の失策か八百長か?という問題が起きます。
所属チーム以外からのお金をもらっている場合、所属チームに届け出る義務を定めておけば問題がほとんど解決します。
メディアや弁護士が外国資金を得ているようなことは滅多にないでしょうが、いろんな意見が何故か特定国の利益に直結しそうな場合には、よほど立ち位置を慎重にする必要があるでしょう。
集団自衛権論でも憲法学者の意見と現実政策論とは次元の違いがありますが、その説明を省略.すり変えをして世論を誤導しようとしているように見えます。
憲法学をストレートに政治論にする意見は、以下に批判されるような偏りが見られます。
立憲主義とは、まずは立法府が必要な法を制定し、行政府がそれを執行した上で、それが違憲か否かの判断を最終的に最高裁判所で決めるものであって、学者が前もって決める権利ではありません。
政治評論家や経済評論家が前もって「〇〇の決断をするのが正しい」というのは自由ですが、政治家や経営者がどのような決断するかはそれぞれの分野のトップあるいは合議体構成員が決めることであり、決断者は有名学者の意見や世論調査の結果に従ったからと言って免責されるものではなく政治責任を問われます。金利政策で日銀総裁が消費税増税で多くの政治家が痛い目に遭っています。
どんな立派な学者の言う通りにしたのであろうと、景気が悪くなれば政治家はおしまいですし、憲法を守っていても外的に侵略を許して責任を免れることはできません。
以下に紹介するように戦後学問世界では自衛隊違憲論一色だったのですが今ではこれにこだわっている人は変わり者扱いですが、学者の誰が責任を取ったでしょうか?
政治家や経営者は結果責任を負うのが社会のあり方です。
実務と学問とは違うからこそ、経済運営であれ公共政策であれ教育政策であれ何であれ、各種専門家は専門分野の見地からみればどうかの意見具申するだけあって、・我々法律家も相談に際して「法的意見はこうですが、あとは経営判断です」というだけです・・最終判断は各種の意見を勘案して国民の負託を受けた政治の場で総合判断して決めるようになっています。
高校時代には学校の教えることしか知らないことから、先生が褒めちぎるプラトンやソクラテスが最高であるかのようなイメージがすり込まれた結果、その頃に習った「哲人政治」をすごい・何故そうならないのか?と単純に思ったものでしたが、大人になってくると専門家というのは、習った視野の狭い分野だけやっと理解できる・・2〜3流の人材がなるものだということが分かってきました。
ファジーな無限の可能性を総合判断する能力にかけては政治家・これもその道の専門家ですが・・に叶いません。
http://www.huffingtonpost.jp/akihisa-nagashima/right-of-collective-self-defense_b_9755976.htmlによれば以下の通りです。

「政府が従来の解釈を変更することをもって「解釈改憲だ」とする些か乱暴な議論もありますが、政府は、例えば、1954年の自衛隊発足にあたり、憲法9条2項で保有を禁じられた「戦力」の定義を大幅に変更し、自衛隊を合憲としています。
これこそ解釈改憲といえ、当時、憲法学者の殆どが自衛隊を違憲と断じました。
しかし、今日に至ってもなお自衛隊を違憲とする学者は少数といえます。
なぜでしょうか。
要は、自衛隊が、憲法の要請する法規範論理の枠内に収まるとの国民のコンセンサスが確立したからなのです。
(この現実自体を拒否する方々の議論は、そもそも本論の範疇の外にあるものといわざるを得ません。)
・・・・「要するに、最高裁において、自衛隊を合憲とした政府解釈や自衛隊法が違憲と判断されない限り、また、今回の集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更および安保法制が違憲と判断されない限り、少なくともそれらは合憲の推定を受け国家統治の上では有効だということです。
これらのプロセス全体を立憲主義というのであって、自分たちの気に入らない政府解釈の変更を捉えて「立憲主義の蹂躙だ」と叫ぶのは、法規範論理というより感情論といわざるを得ません。
もっとも、今回憲法違反あるいは立憲主義の蹂躙と主張している学者の多くは、現憲法が認める自衛権の行使は「47年見解」でギリギリ許されると解している節がありますので、それを1ミリでも超える解釈は受け入れがたいのかもしれません。しかし、この点でも、繰り返しになりますが、憲法が要請する法規範論理に基づいて検証、立論していただかねば、議論は最後まで噛み合いません。」

上記解説の通り私の勉強した当時の憲法学では、自衛隊合憲論は、「烏を鷺(サギ)というようなものだ」という意見が、(司法試験の基本書になっていた)権威ある学説でした。
このコラムは自宅で暇つぶしに書いているので(その本は事務所にあって)そのままコピペ引用ができませんが、その比喩にインパクトがあったのでよく記憶していますが・・。
自衛隊違憲判断の推移は、厳然たる歴史事実(今では「自衛隊は違憲であるから解体すべき」という意見の人はごく少数でしょう)ですが、学者の言う通り自衛隊違憲論を選択した方が正しかった・・結果が良かったとは、国民のほとんどが認めていないでしょう。
無防備の時に韓国が李承晩ラインを設定し竹島が占領したのですが、もしもそのまま無防備を続けていれば、今頃中国は尖閣諸島を簡単に占拠していたでしょう。

クリスマス・イヴと天皇誕生日

クリスマス・イヴですので、普段書いている視野の狭いタワゴトを休憩しての特番です。
このコラムを書き始めた頃には子供が小さかった頃のことを中心に書いていましたが、今になると子供が小さかったのはおよそ3〜40年前のことになってきました。
今は(自分では若いつもりですが)老夫婦のクリスマスという雰囲気ですが、これも習慣化するとそれはそれで親世代が正月を祝っていたのと同じような行事感覚になってきました。
今年は天皇陛下が退位希望を表明されてから退位日程が具体化したこともあり、クリスマス・イブと連動している(と思うのは私だけか?)天皇誕生日がどうなるかが関心事項になってきます。
私の場合交際よりは家庭第一でやってきたので、クリスマスも夕方から自分で子供らと準備して家庭で楽しむパターンですから、24日がウイークデイだったりすると困ります。
そこで、我が家では平成天皇の誕生日が23日だったことから、クリスマスパーテイ?を23日に合わせてやってしまう便宜的パターンが続いています。
私の場合にはキリスト教徒でもないのに、ただ軽薄に世相に影響を受けているだけですので、これでいいという発想でやってきました。
平成になったばかりの頃には、(私自身働き盛りであったこともあって?)年末の忙しい時に連休があるのでは仕事が間に合わないとこぼしていたものでしたが、3〜4年して慣れて来ると仕事の段取りもその前提で決まっていくし、早くから年末モードになって楽できるメリットの方が大きくなりました。
・・一方で自分自身が高齢化してあまり働きたくなくなった個人的事情も大きいでしょうか?
他方で休みが続くことで平成天皇誕生日がクリスマスにそれほど縁のなかった古風な?家庭にも広く普及するきっかけになって、年末商戦に大きな影響を与えていたことがわかります。
これが将来天皇誕生日がなくなるとどうなるか?
2019年の24日が、ウイークデイになるかどうかまで見てませんが、長期的には一大変化です。
私のような連動形式の家庭が多くなっているでしょうから、(実際に毎年のように23日にデパ地下に行っていますが、大変な盛り上がりでした)1週間以上に及ぶ年末商戦に大きな影響が起きそうです。
私個人の関心だけでは政治と無関係ですが、商売人の関心になると政治も動きます。
何らかの形で、歳末の風物詩になっているこの流れ(消費動向)を維持する試み(祝祭日化)が動き出す可能性があります。
ちなみに私個人でいえば、今後サンデー毎日のイメージ・・まだ健康なので仕事を続けるとしても、いつ休もうと勝手なので・・遅く出勤し早く帰ろうと・「もうトシなので今日は早く帰る」といえば済むことです。
個人的には、23日が休日かどうか近年中にほぼ関係がなくなるので、やはり今日もクリスマスにかこつけて天下国家のための意見を書いていることになります。
「雀百まで踊り忘れず」といいますが・・。
ところで12月22日に40年来の知り合いが訪ねてきて仕事の話が終わってから、個人的な話題になったところ、その人は定年後ある大手企業に拾われて?69歳まで働いていたということでした。
その人は、よほど有能で頼りにされていたからでしょうが、我々自由業というか経営者の場合には周りに迷惑をかけないように自分で決めるしかないので引き際が肝要です。
ただし大きな企業経営と違い、弁護士の場合大方が個人事業・人任せの仕事でなく自分でやるしかないので、高齢化に伴い能力が落ちれば市場の判断・・顧客が来なくなるので、市場淘汰されて行く点が便利・社会にそれほどの迷惑をかけないメリットがあります。
とは言え時代の動きに(法令改正の動きが早いので)ついて行けないで、ミスをすると顧客に迷惑をかける点では同じですから晩節を汚さないように気をつける必要があります。
実は気をつける能力不足が原因ですから気をつけても無理があります。
「転ばぬ先の杖」の教訓をどう活かすかが問われます。
企業も時代遅れの経営者が居座っていると市場淘汰される点は同じですが、組織全体では新陳代謝が進んでいて間接的効果になるのでマイナス効果が出にくく、長期を要する点で傷が深くなります。
多角経営している大企業では、ある事業部門の業績が悪くなっても他部門の利益で補填されるので安定性が高い反面、危機対応が緩慢になるマイナス面があります。
最近「事業の選択集中」がよく言われている所以です。
投資家から見れば、儲かる部門だけにした方が利益が鋭角的に出る・投資リターン率が高まるメリットがあります。
その代わり、儲けガシラの事業が数年〜4〜5年して陰りが出てくるので、そのサイクルに対応して新たな目玉事業を育てておかない限り企業が即倒産リスクに晒されていきます。
スマホだって、これに頼っている(部品業界)と一定の普及率達成で成長鈍化の危機に直面しています。
投資家は先よ読みして売り抜けて次に儲けそうな芽のある企業へ投資先を変えていけばいいのですが、企業は新規事業部門を立ち上げるには、研究開発成果がすぐに出る訳ではないし、設備や人材さらには得意先をそう簡単に入れ変えていけません。
自前の研究開発では間に合わないので、事業買収と売却戦略が必須になってきました。
内部留保問題のアピールもこれに関連しますが、投資家にはリターン(いわばゼロ金利)のない資金保有を目の敵にしたい立場ですが、企業は次々旧事業部門を切り離しては新規研究開発投資に忙しいので、そのための(従来型の日々の決済資金必要性とは別に)機動的対応に必要な資金準備が昔よりも必要になっています。
大手企業のM&Aだけのトレンドではありません。
ラーメン屋や居酒屋でも現状維持の場合には、日々必要な具材の仕入れ代金や人件費等の資金保有で足りたのが、出店加速段階になると新店舗展開用の資金・・時間が惜しい場合に同業他社店舗をまとめて買収して模様替えするなどの資金が、日常的決済資金のほかに必要になります。
今では、昔個人でやっていた薬局やラーメン屋・居酒屋に至るまで成長企業はこの種の高速展開が普通です。
ニーズの変化が早いので、1店舗でシコシコ稼いだお金が貯まるのを約10年待ってから一つ一つ順次出店ではなく新業態高速多数展開で短期間に儲けてしまう必要がある・・・。
新業態アイデアを競合に真似(自由ですから)される前に、果実を素早く取ってしまう必要がでてきたのです。
新事業の高速拡大時代が来ると従来型・数十年前に比べて売り上げ規模に比べて手元流動性が高まる傾向があるのは当然です。
短期利益回収目的の投資家にとっては、M&Aに失敗・新規事業取り込み失敗企業の株を売ればいいので損はないとは言うものの、現価は将来の見込みで逆算して決まる面があるので数年先の儲かる事業の芽がないと今から下がり始めます。
投資家も目先の投資計画も含めて判断するしかないので、投資家の態度は企業はどのような目的で合理的保有しているかの説明能力に帰するのでしょうか?
その結果によって株価が市場で決まっていくのですから、こうした専門家のチェックを度外して、選挙中に(素人の)メデイアが単純合計して「増えている」と宣伝するのは何らかの政治的バイアス(いわゆるシャープパワーの影響?による総選挙誘導)が疑われます。
キャンペインを張るならば、なぜ内部留保が増えるようになったか投資家の意見はどうかの分析してからでしょう。

立憲主義は何のため?

憲法は国家をよりよくするために制定しているものであって、「個人の人権さえ守れれば国が滅びても良い」という制度ではありません。
立憲主義の主張は本来国家あってのことであるべきですが、立憲主義の論旨を見ていると国家の存立はどうあるべきかの視点が欠けている傾向・・印象があるように見えます。
中国のシャープパワーが議論されるようになってその防衛のためかどうか分かりませんが「表現の自由」は個人の幸福追求権のための権利であるという主張のウエートが上がってきたように見えます。
「法曹実務にとっての近代立憲主義」の本を12月19日頃から紹介していますが、これを読んでいると「表現の自由が結果的に国家社会発展の基礎である」という私が憲法をならったころの要素が何となく背景に退き、社会のために役立つ側面よりは「個人の人権そのもの・憲法13条の幸福追求権を重視すべきである」という主張が大きくなっていきた印象です。
このような重心移動が重きをなしてきた背景は、国家社会発展のために表現の自由が重視される点をできるだけ背景に押し込んでいき、個人は所属社会・民族や組織の枠から外れた発言主張をしても不利益扱いされるのはおかしい・・・国歌斉唱起立拒否やピアノ演奏に応じないことが職務違反に問われるのは可笑しいという結論を導きたい意欲・イメージが濃厚です。
シャープパワー被害でいえば「何処から資金が出ているかどこの国のために意見を言うかも、個人の人権だ・・問題視するな」という立場の間接的な応援論でしょうか?
私には要約する能力がありませんが、第二章では、思想・良心の自由に関して、人権は何のためにあるのかという設問を通じて、ピアノ伴奏拒否事件や国歌斉唱時の起立命令違反事件を論じて公共的側面論が個人の内心の思想信条を踏みにじって良いのか?というような(私の理解不足かも知れませんが)批判をしています。
公共的側面とは何かというと、平たく言えば「公務に従事する以上は公務優先論」という意味でしょうが、素人的に読むと、企業その他組織に入った以上、組織企業人として行動する時には組織・企業の目指す方向へ協力義務があるのは当然です。
車社会反対思想を持っているからと言って車製造業務を拒否できない、あるいは結婚式場や葬儀屋に就職しながら、宗教が違うからと葬儀や結婚式の準備を拒否したり、居酒屋店員が、菜食主義だからと就業拒否したり、車の製造業務に従事するのを拒否するのは許されないのは当然・個人の思想の自由論とは次元が違うように思われます。
自衛隊に応募しておきながら非武装論者ですからと言って、兵器操作訓練を拒否するのも同じです。
思想良心の自由の重要性を説いて、業務命令を拒否できるかのような(期待を込めた)主張を読むと「前提が違うなあ!とまず驚いてしまいます。
続いて第3章47pには「表現の自由は民主主義社会の維持保全にとって必要な権利であるとし、「民主主義国家の政治的基盤をなし国民の基本的人権の中でもとりわけ重要なものである」という最高裁判決を引用して説明しているのは、従来型公共論でもあるでしょう。
「民主社会維持にとって不可欠なものである」とも書いていますが、そうであるならば、社会利益の範囲を考慮する必要があります。
「思想・良心の自由・内心でどう考えているかはいかなる権力もこれ犯せない」という大前提を論じた上で、表現の自由はこの外部表現であるから、これが侵されれば「内心の侵すべからざる自由を侵害する」ことになるという論建てで、「何を表現しようと勝手だ」と言わんばかり・・当然プロの学者がこんな乱暴な意見をはっきり書いている訳ではありません・・の全体から受けた印象です。
しかし、憲法の保障する人権は国家存立あっての権利であるにすぎません。
そもそも権利とは何か?といえば国法で保護されている利益・法益のことです。
国法の保護があって成り立っている権利が国家の存立を危うくする権利があると言うのは背理です。
何を計画しようと勝手だというのではなく、殺人計画やテロの計画の自由はないはずです。
この本の基調は、勘ぐれば中国のシャープパワー脅威論によって「日本人である以上そんな主張をして良いのか!」論を封じるための基礎刷り込み論のように思われます。
英エコノミスト誌の転載記事によるとシャープパワーの弊害があっても規制には慎重であるべきという意見がまだ先進国では基本的立場であるように見えますが、憲法13条の個人の権利を最重視するかどうかが背景的に大きな論点になって行きそうなイメージです。
今は規制がない上に規制をするにしても難しいことに中国がつけ込んで、諸外国での抱き込み活動・シャープパワーの脅威が目に余るようになってきたので12月21日紹介した新聞記事になって来たのです。
こうなると「良心のみに委ねておけない」ので、憲法との関連で難しいですが何らかの規制の必要な時代が来ています。
上記エコノミスト誌転載の日経新聞記事は、「魔女狩りのような摘発に乗り出すと法の支配が自滅する」と書いて「そういう土俵に乗ると中国に負けてしまう」と書いていますが、何もしない、できないイメージを流布する提案すること自体中国の息がかかっているのかの疑問があります。
中国の基本戦略は古代から戦わずして勝つ・相手が抵抗する意欲を喪失させるのが究極の目的です。
日清戦争時でもよく言われるように当時アジア最先端軍鑑「定遠」を日本に回航して、戦わずして日本が戦意喪失するように仕向けたのもその一端です。
定遠に関するウイキペデイアの記事からです。

「清国北洋水師の旗艦を務め、1886年(明治19年)には示威を兼ねて朝鮮、ロシア、日本を歴訪した。日本訪問の際には、その強大さと船員の乱行(長崎事件)から日本社会にとって大きな脅威として受け止められた。」

兵力が優っていると思うとあっさりと暴動.略奪事件を起こす点でも、当時から民度・兵のレベルがまるで違っています。
日本人は脅されると却って戦意高揚する民族性ですから、急いで海軍増強に励み日清戦争になると戦意にまさる日本が圧勝したのですが、中国人の国民性は古来から徴用された(自発性のない兵ですから)「兵はいかにして先に逃げるかに意を注ぐ」先陣の次に控える第二軍は逃亡兵を背後から撃つのが主たる任務になっている国民性を前提とした行動ですが、対日本では逆効果でした。
最近相次いでいる北朝鮮兵の逃亡事件では、北の軍が背後から逃亡兵を銃撃する光景が報道されていますが、これが中国や朝鮮の国民性です。
https://www.asahi.com/articles/ASKCQ34DHKCQUHBI013.html

兵士脱北時の映像を公開 追跡兵、軍事境界線越える
ソウル=牧野愛博
2017年11月22日14時30
事件発生当時、兵士が乗った小型四輪駆動車が高速で板門店に突入したが、軍事境界線から約10メートル手前の地点で脱輪し、兵士は走って韓国側に逃走した。北朝鮮軍兵士4人が計四十数発を発射し、一部の銃弾は軍事境界線を越えた。追跡した北朝鮮軍兵士の1人は数秒間、軍事境界線を越えて韓国側に入っていた。

2〜3日前にも似たような事が起きています。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9174.php

また北朝鮮兵士が亡命 軍事境界線に接近した捜索隊に韓国軍が射撃
2017年12月21日(木)13時31分

表現の自由と外国の影響(中国シャープパワー)2

西欧の大手メデイアが堂々と中国による表現の自由への介入に危機感を募らせて書き、それを日経新聞が大紙面で転載するところまできています。
(日経新聞も内部的には徐々に中国マネーやハニトラに侵蝕されているのかもしれませんが、それでもこれを出せるほどまだ中韓系人脈が弱いのでしょう)
ちなみに英エコノミスト誌の概要は以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%88

(The Economist)は、イギリスの週刊新聞で、ロンドンに所在するThe Economist Newspaper Limited から発行されている。新聞ではあるが、外見は雑誌の体裁をとっている。日本の読売新聞と提携している。
発行部数は約160万部(2009年)。その約半分を北米が占める。
主に国際政治と経済を中心に扱い、科学技術、書評、芸術も毎号取り上げる。政治・社会は地域ごとに記事を組んでおり、中国以外のアジア、中国、中東およびアフリカ、米国、米国以外のアメリカ大陸、英国以外のヨーロッパ、英国に分けている。
この雑誌は社会的地位の高い層をターゲットにしており、その中に官僚や大企業で経営に携わる人なども含まれる。発刊の歴史と、鋭い分析からなる記事が情勢に与える影響が大きく、世界でもっとも重要な政治経済紙の一つと見なされている。

その他の大手メデイアはこんな記事を載せる勇気がないどころか、「何処かの国のための報道でないのか?」という疑惑高まりに対して、「日本は報道の自由度が低い」と国際宣伝して反撃に出るほど骨の髄まで?侵蝕されてしまっているとみるべきでしょうか?
それとも日経新聞に先を越されただけでしょうか?
ただ、この転載に怒った中国筋が日経新聞内部工作を劇化させるでしょうから、この種報道を外紙の転載でお茶を濁すのではなく日経自身が日本国内の現実掘り下げ報道ができるのか?今後もいつまでできるか?です。
ところで日本メデイアである以上は、日本言論界に浸透している中韓人脈の影響力・これが日本の言論を歪めている現実があるのかどうかこそが重要ですから、これを直視した調査報道ができないのか?がバロメーターです。
中韓批判は闇世界相手ですから危険が大きいでしょうが、危険の大きい分野に挑戦してこそ勇気ある報道マン・学問の自由であり表現の自由の価値でしょうが、矢も鉄砲も飛んでこない安全な政府批判だけして、(不祥事があると居丈高に吊るし上げて)自分が偉くなったかのように英雄気取りになっているのはおかしなことです。
江戸時代には幕府関連は忠臣蔵を高師直塩谷判官の物語にしたり、鎌倉時代の物語に仕立変えていたような、「外国でこう言われている」とヒトごとのような報道しかできないことに驚きます。
欧州その他は中国にとって遠い国であるのに対し、直近に位置ししかも対立している対日ではもっと激しい標的になっていると想像するのが普通です。
日本人なら肌で感じるほどの日々の報道で変な方向に進んでいるはずの裏で蠢く中韓人脈がどうなっているのか?病根の有無・現実を抉り出すのが日本メデイアの本来の仕事です。
何もできないで、中韓の言いなりのイメージが強すぎて国民がメデイアを信用しなくなると、その反作用で国外・国連等で表現の自由が危機に瀕しているという運動をする人たちの中には、中国のトラップに引っかかっている偉い人たちのごまかしをそのまま信じている純真な人たち・・日本をより良くしたいという本音で頑張っている人もいるでしょう。
彼らが本音で日本を良くするために表現の自由拡大を必要と思い、自分の意見が正しい自信があるならば、国外で日本を批判し、国連勧告等(世界で自由度の順位を下げたと誇らしげに言うのではなく)に頼らず、国内できちっと自説論拠を説明すべきです。
「ダメなものはダメ!」とか、「窮乏を極めて」「軍靴の音がする」「戦争法案反対」「格差社会反対」など根拠ないスローガンだけ言いっ放しでなく、根拠とその効果(反対の場合どうやって国を守るのか)をきちっと説明すべきです。
革新系政党や文化人の従来の主張をそのまま実現した場合、日本にとって不利な結果になるような主張ばかり・「たまたま間違うなら分かるがいつもそう言う結果ばかりとは何なの?」という評価を生み国民の信頼を失ってしまったのです。
何かと言うと、「国民大多数の声を無視して・・」という決まり文句ですが、選挙の結果や世論調査の結果によれば実態無視ですし、そんな根拠のない主張よりは、自分の主張の方がどのように優れているかの説明すべきです。
市民・個人として表現の自由の価値をどうやって測るかといえば、所属社会との関係でいえば、敵対国・敵対競争企業から金をもらったり便宜を図ってもらっていないかの問題は、重要・表現の信頼性に関わるでしょう。
役員でも弁護士でも裁判官でも、利害関係のある人が決定から除外されるのは当然のルールです。
相手企業からお金をもらっている人が、その企業との競争でどうすれば勝てるかの意見を言っても信用できないでしょう。
ところが政党/政治団体の場合外国からの寄付受領禁止の政治資金規正法の縛りがありますが、個人や学者メデイア関係者がどこの組織に属していようと、どこから金をもらっていようとどこの異性と付き合おうとも何らの規制がありません。
自制心に委ねてきたのです。
個人(学者も含めて)は資金・給与を誰からもらってもいいし、マスメデイア・報道機関も法規制上の制限がありません。
それは意見が違ってもお互い国のために良かれと思う意見は、「思想の自由市場」で競争させればいいという市場原理を信じてきたからです。
自由主義経済といってもやりたい放題ではなく証券取引法や独禁法があるように、思想の自由市場も暗黙の合意だけではこれを堂々と破る国が出てくると明文のルールが必要な時代が来ています。
弁護士も相手方と関係がある場合の受任に関する規律があります。
日本の国の産業政策がどうあるべきか、国防に限らず、政治テーマには外国と直接間接の利害対立関係が外国からの資金受け入れを禁止されているのです。
言論の自由も政治や経済、教育文化政策が「カクあるべし」という意見は、長期的には外国との競争力を維持発展させるべきかの意見が中心ですから、その種の意見を公表するには中韓等の明白な敵対競争国との関係をはっきりさせてから意見をいうべきでしょう。
今はまだメデイアや評論家がどこの国の広告を載せて大金をもらっていようとも・・責任者や中堅が、どこ国の人と親しくしていようと問題にされていません。
これを良いことにして中国がいいように浸透工作してメデイアや学会・評論家等を支配している現実がいわゆるシャープパワーです。
これまでこの種の意見は「品のない言論」として、ネット空間だけの議論でしたが(私も遠慮がちに間接表現しか書けませんでした)、今や欧州の大手メデイアがメデイア自身の信用維持・・自己防衛のために意見表明せざるをないほどの差し迫った脅威になって来たことが、エコノミスト誌の記事から推測されます。
規制がないとはいえ、表現の自由の重要性は、「自由な発言が社会を良くするのに資する」というのが核心的利益であって、(言いたいことを言えることは個人の幸福追求権の最たるものでしょうが・・)「自国の権利を害して他国の利益を図るために憲法で保護されている」のではありません。

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