憲法改正4(国民投票の非現実性)

ところで各種分野の改革で言えば、全部が全部どころかすべての分野で国民過半の賛成で行なっているものではありません。
いろんな分野で新たなことに挑戦する場合、
例えば石原都知事の都内だけの排ガス規制あるいは、京大の山中教授の再生細胞の研究など一々国民や都民過半の同意がいるとしたら何事も出来ない相談になります。
元々何事でも過半数の国民支持で政治を行うというのは、民主主義者のフィクションです。
正確には複数選択制(実行して良い政策を2〜30個あげて下さい」という程度)の相対多数ということでしょうか?
もっと正確に言えば、信頼できる人を選んでその人に将来像の決定を委ねる「代議制民主主義」であって、選ばれた人は自己責任でまず実行し、代議士 →政党や企業トップは結果責任を取る仕組みです。
民主主義とは「結果責任」を問う仕組みというべきでしょう。
直接決定権など言い出したら、ほとんど何事も決められません。
これから必要な方向性を敏感に察知したリーダーが真っ先に方向を決めて研究開発等の先行投資などを推進していくことで企業や政治が成り立っているのです。
ユニクロがフリーズで急拡大したのは、誰も気付かないことを企画したら大成功したのです。
社会の大方が認めるトレンドの後追いするだけの企業は失敗がなくて手難いようですが、2番煎じばかりでは出遅れるばかりで長期的にはジリ貧ですし、その程度のことをするだけならばトップ不要です。
学問もみんながこの研究が必要認めていない・トレンドでもないことに着眼して、それが何十年後に花開くのが研究の醍醐味でしょう。
政治もみんながこれが良いと定評の決まったことをするばかりでは国家が持ちません・・。
それは指示待ち人間のすることであり、国政を委ねられる代議士等の役割ではありません。
将来の目を持つ人が6割も7割もいるとしたら、(メデイアのいう通りの受け売りする人が大方ですが)それは将来の目ではなく過去の目でしょう。
多くの人(顧客自身が)がまだ気付かないうちに、市場の潜在的ニーズにいち早く気づいて商品を企画生産して供給すると飛ぶように売れる・・政治の場でも先読み能力のある人が社会のリーダー・代議士になれるのです。
政治リーダーであれ、日銀の金融政策、企業トップであれ、(みんなの意見を聞いてからでなく)まず率先して方向性を示すことであって、その結果責任を負う者のことです。
憲法は、衣服の流行や金融政策等と違い超長期に国家の方向性を決めるものであって、そんな長期スパーンで将来の方向性を見通せる人はなおさら少なくなります。
これを国民投票・多数意見・.多くはその時のメデイアの煽るトレンド・・で決めるのは、無理が出ます。
世界の憲法思考の基礎になっているイギリスの2度の革命やフランスの大革命で、国民意思をどうやって確認したでしょうか?
日本も明治憲法や日本国憲法の制定は、社会のあり方の大変革でしたが、(選挙こそしていませんが・・)国民代表たる多くの識者の意見を吸収して成案に至っているのです。
アメリカ連邦憲法は平時に制定されたにも関わらず、国民投票を実施していません。
そもそも国民投票によって憲法を制定した国があるのでしょうか?
明治憲法制定過程と自由民権運動を12月29日に紹介しましたが、自由民権運動は明治憲法成立と同時に消滅してしまいました。
もともと征韓論自体、国内の失業対策・新時代に適応できない不平士族対策を基礎にするものですが、本来は殖産興業・職業教育で対応すべきところ、維新功労者の中で旧弊な人材が、対症療法・対外冒険主義に活路を見出そうとする安易な政策にこだわったものでした。
これに対して、当時の国際情勢を土台に「安易な対外武力行使より内政充実が先である」として反対する洋行帰りの重鎮を中心とする勢力に負けて下野したものです。
「自由民権運動」という名称だけ立派ですが、内容は、士族の特権保護・既得権擁護救済団体でした。
戦後革新系諸団体文化人も自由民権運動の系譜を引くわけではないものの、名称は革新政党ですが、内容は真逆で社会の変化についていけない人・弱者救済・格差反対を主要テーマ・支持母体とするものです。
だから何か新しいことをするのに対して、まずは批判的スタンス・・結果的に何でも反対になるのです。
戦後教育では明治政府を貶すことがトレンドでしたから、西南の役その他を美化するメデイアの大宣伝や教育下で我々世代が育ちましたが、今になって内容を見ると国内政治的には近代化についていけない人のはけ口として、対外武力行使を安易に主張していた勢力をメデイアがしきりに応援宣伝してきたことになります。
不平士族をバックにした反政府運動(いわば時代に取り残され組みの反動勢力)が西南戦争の終了で完全に時代が変わったことを満天下に知らしめる結果になりました。
(士族中心の西郷軍に対して農民兵を中心とする官軍の勝利が象徴するように士族の依って立つ基礎能力を正面から叩き潰した戦争でした・・関ヶ原の合戦のようでした)
西南の役が源平合戦以来の武士を中心とする社会構造がガラッと変わっていることが、白日のもとに晒された事件でした。
不平士族を足場にする反政府の自由民権運動はこれによって事実上消滅状態でしたが、これによって明治維新体制が固まるにつれて政府内で憲法制定準備が始まると当然政府内で時期方法・条文等に関する意見相違が出てきます。
明治14年に早期制定論の大隈重信が 意見相違で下野したことに勢いを得て、自由民権運動が「早期制定運動」に活路を見出して息を吹き返しましたが、(昨日紹介したように独自意見らしきものがなく「早期制定」というだけの運動でした)憲法が成立すると目標を失って消滅してしまいました。
長期の国家方針を決めるには、諸外国の実情調査・・諸外国の歴史と日本の歴史の違いを比較し、幅広く国内識者意見の吸収などに一定の期間が必須であったことは歴史が証明しているところです。
「外国には憲法があるらしい」程度の情報で早期制定運動をする浅薄な議論を国民も受け入れなかったのでしょう。
ところで、憲法改正論で気になるは憲法とは何か?
当たり前のことですが「憲法」という名称があっても内容が国家の基本に関係ないものは憲法ではないし憲法という名称がなくとも内容的に国家の基本をなすルールは憲法であるというのが一般的考え方です。
いわゆる形式的意味の憲法と実質的意味の憲法の分類です。
例えば、https://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。
(1) 形式的意味の憲法
 これは、憲法という名称をもつ特定の成文法典(=憲法典)として定義される。実際には、その法典の表題が憲法であり、内容が国家の根本法であり、形式的効力が国法秩序におてい頂点にあるなどの点から、憲法と位置づけられる法典であることをも含意する。
日本国憲法、アメリカ合衆国憲法、かつての大日本帝国憲法などは形式的意味の憲法である。
* ドイツ連邦共和国基本法は、表題こそ憲法ではないが、形式的意味の憲法として扱われている。聖徳太子の十七条憲法はその内容は道徳的規範であり、形式的意味の憲法には含まれない。

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