立憲主義は何のため?

憲法は国家をよりよくするために制定しているものであって、「個人の人権さえ守れれば国が滅びても良い」という制度ではありません。
立憲主義の主張は本来国家あってのことであるべきですが、立憲主義の論旨を見ていると国家の存立はどうあるべきかの視点が欠けている傾向・・印象があるように見えます。
中国のシャープパワーが議論されるようになってその防衛のためかどうか分かりませんが「表現の自由」は個人の幸福追求権のための権利であるという主張のウエートが上がってきたように見えます。
「法曹実務にとっての近代立憲主義」の本を12月19日頃から紹介していますが、これを読んでいると「表現の自由が結果的に国家社会発展の基礎である」という私が憲法をならったころの要素が何となく背景に退き、社会のために役立つ側面よりは「個人の人権そのもの・憲法13条の幸福追求権を重視すべきである」という主張が大きくなっていきた印象です。
このような重心移動が重きをなしてきた背景は、国家社会発展のために表現の自由が重視される点をできるだけ背景に押し込んでいき、個人は所属社会・民族や組織の枠から外れた発言主張をしても不利益扱いされるのはおかしい・・・国歌斉唱起立拒否やピアノ演奏に応じないことが職務違反に問われるのは可笑しいという結論を導きたい意欲・イメージが濃厚です。
シャープパワー被害でいえば「何処から資金が出ているかどこの国のために意見を言うかも、個人の人権だ・・問題視するな」という立場の間接的な応援論でしょうか?
私には要約する能力がありませんが、第二章では、思想・良心の自由に関して、人権は何のためにあるのかという設問を通じて、ピアノ伴奏拒否事件や国歌斉唱時の起立命令違反事件を論じて公共的側面論が個人の内心の思想信条を踏みにじって良いのか?というような(私の理解不足かも知れませんが)批判をしています。
公共的側面とは何かというと、平たく言えば「公務に従事する以上は公務優先論」という意味でしょうが、素人的に読むと、企業その他組織に入った以上、組織企業人として行動する時には組織・企業の目指す方向へ協力義務があるのは当然です。
車社会反対思想を持っているからと言って車製造業務を拒否できない、あるいは結婚式場や葬儀屋に就職しながら、宗教が違うからと葬儀や結婚式の準備を拒否したり、居酒屋店員が、菜食主義だからと就業拒否したり、車の製造業務に従事するのを拒否するのは許されないのは当然・個人の思想の自由論とは次元が違うように思われます。
自衛隊に応募しておきながら非武装論者ですからと言って、兵器操作訓練を拒否するのも同じです。
思想良心の自由の重要性を説いて、業務命令を拒否できるかのような(期待を込めた)主張を読むと「前提が違うなあ!とまず驚いてしまいます。
続いて第3章47pには「表現の自由は民主主義社会の維持保全にとって必要な権利であるとし、「民主主義国家の政治的基盤をなし国民の基本的人権の中でもとりわけ重要なものである」という最高裁判決を引用して説明しているのは、従来型公共論でもあるでしょう。
「民主社会維持にとって不可欠なものである」とも書いていますが、そうであるならば、社会利益の範囲を考慮する必要があります。
「思想・良心の自由・内心でどう考えているかはいかなる権力もこれ犯せない」という大前提を論じた上で、表現の自由はこの外部表現であるから、これが侵されれば「内心の侵すべからざる自由を侵害する」ことになるという論建てで、「何を表現しようと勝手だ」と言わんばかり・・当然プロの学者がこんな乱暴な意見をはっきり書いている訳ではありません・・の全体から受けた印象です。
しかし、憲法の保障する人権は国家存立あっての権利であるにすぎません。
そもそも権利とは何か?といえば国法で保護されている利益・法益のことです。
国法の保護があって成り立っている権利が国家の存立を危うくする権利があると言うのは背理です。
何を計画しようと勝手だというのではなく、殺人計画やテロの計画の自由はないはずです。
この本の基調は、勘ぐれば中国のシャープパワー脅威論によって「日本人である以上そんな主張をして良いのか!」論を封じるための基礎刷り込み論のように思われます。
英エコノミスト誌の転載記事によるとシャープパワーの弊害があっても規制には慎重であるべきという意見がまだ先進国では基本的立場であるように見えますが、憲法13条の個人の権利を最重視するかどうかが背景的に大きな論点になって行きそうなイメージです。
今は規制がない上に規制をするにしても難しいことに中国がつけ込んで、諸外国での抱き込み活動・シャープパワーの脅威が目に余るようになってきたので12月21日紹介した新聞記事になって来たのです。
こうなると「良心のみに委ねておけない」ので、憲法との関連で難しいですが何らかの規制の必要な時代が来ています。
上記エコノミスト誌転載の日経新聞記事は、「魔女狩りのような摘発に乗り出すと法の支配が自滅する」と書いて「そういう土俵に乗ると中国に負けてしまう」と書いていますが、何もしない、できないイメージを流布する提案すること自体中国の息がかかっているのかの疑問があります。
中国の基本戦略は古代から戦わずして勝つ・相手が抵抗する意欲を喪失させるのが究極の目的です。
日清戦争時でもよく言われるように当時アジア最先端軍鑑「定遠」を日本に回航して、戦わずして日本が戦意喪失するように仕向けたのもその一端です。
定遠に関するウイキペデイアの記事からです。

「清国北洋水師の旗艦を務め、1886年(明治19年)には示威を兼ねて朝鮮、ロシア、日本を歴訪した。日本訪問の際には、その強大さと船員の乱行(長崎事件)から日本社会にとって大きな脅威として受け止められた。」

兵力が優っていると思うとあっさりと暴動.略奪事件を起こす点でも、当時から民度・兵のレベルがまるで違っています。
日本人は脅されると却って戦意高揚する民族性ですから、急いで海軍増強に励み日清戦争になると戦意にまさる日本が圧勝したのですが、中国人の国民性は古来から徴用された(自発性のない兵ですから)「兵はいかにして先に逃げるかに意を注ぐ」先陣の次に控える第二軍は逃亡兵を背後から撃つのが主たる任務になっている国民性を前提とした行動ですが、対日本では逆効果でした。
最近相次いでいる北朝鮮兵の逃亡事件では、北の軍が背後から逃亡兵を銃撃する光景が報道されていますが、これが中国や朝鮮の国民性です。
https://www.asahi.com/articles/ASKCQ34DHKCQUHBI013.html

兵士脱北時の映像を公開 追跡兵、軍事境界線越える
ソウル=牧野愛博
2017年11月22日14時30
事件発生当時、兵士が乗った小型四輪駆動車が高速で板門店に突入したが、軍事境界線から約10メートル手前の地点で脱輪し、兵士は走って韓国側に逃走した。北朝鮮軍兵士4人が計四十数発を発射し、一部の銃弾は軍事境界線を越えた。追跡した北朝鮮軍兵士の1人は数秒間、軍事境界線を越えて韓国側に入っていた。

2〜3日前にも似たような事が起きています。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9174.php

また北朝鮮兵士が亡命 軍事境界線に接近した捜索隊に韓国軍が射撃
2017年12月21日(木)13時31分

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