メデイアと学者の煽り5(日露戦争と帝大7博士意見書2)

ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

影響
「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。
しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[20]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。
しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである
条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][20]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[19]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。
この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[21]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[22]
上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。

上記最後の3行は突然の結論記事ですが、重要な指摘です。
文献の引用もあるので相応の論説を背景にしていると思われますが、紙媒体の引用文献自体にこのコラムでは入れない(このために引用されている本を買って読む暇はない)ので直接確認できません。
しかし幕末から、明治維新以降、欧米列強の植民地にされてしまわないかの恐怖心で凝り固まっていた国民意識・その恐怖心をバネに富国強兵に邁進していた当面の目標喪失はよくわかりそうな気がします。
幕末〜開国後西欧列強の餌食にならないように「頑張ろう」と言う暗黙合意で日本人民が必死に頑張ってきた・・いわば強迫神経症に陥っていたのが明治初年から日露戦争までの日本人でしたし、その代表的心情を表していたのが、夏目漱石ではないかというのが私の個人感想です。
その最後に最凶暴国ロシアとの対決になったのですから、国民あげて立ち向かったのですが、ようやく危機をしのいで世界の強国の一角を占めるようになると目標がなくなったことを言うのでしょうか?
目標喪失と一緒に戦費負担のマイナス(巨額戦費を賄うために国際金融資本からの借款取り付けに成功したことが勝因の一つとして知られています・この返済負担をどうするか)や使い切った武器弾薬.人員の補填に始まり、戦死者遺族や傷病兵の生活保障資金不足など国内経済矛盾を抱え込むようになりました。
ロシアに勝って満洲地域の利権を手に入れたと言っても目先の経済効果では、すぐに経済メリットがあったどころか中期的に見れば先行投資が必要になる関係です。
当面の効果は脅威を追い払っただけですから蒙古襲来後の北条政権崩壊原因を彷彿とさせる状態でした。
蒙古軍と戦った御家人に恩賞を与えられなかったと習いますが、恩賞というよりは防壁を築くためのコスト負担・・兵を集めて出陣すること自体で膨大なコストを負担させていました。
今風に言えば、大手ゼネコンの下請けで地元工務店が大規模受注用に機械設備を購入し人も増やしたが、施工後ゼネコン・幕府が代金を払ってくれないので地元工務店が下請けや大工職人・設備等納入業者に払えないという事態です。
モンゴル襲来時も多くの死傷者が出る=兵士=働き盛りの喪失=地域内生産力が下がる・・税収減の中での遺族や傷病兵の生活保障等がのしかかってきます。
個人間の喧嘩で言えば小競り合いの喧嘩でも怪我した方はその後全治何ヶ月かの治療で痛い思いをし、治療費がかかりその間思うように仕事ができず収入が減ります。
双方死力を尽くしての喧嘩の場合、そこへ受傷前の自分より半分以下の闘争能力しかない相手にも負けてしまう弱い立場になります。
だからこそ野生動物は滅多に喧嘩しないし、リーダーを決めるために勝負する必要がある時にもお互いに怪我しない程度で勝敗を決めて負けた方はスゴスゴと引き下がるルールになっています。
ライオンで言えば、相手を倒して勝ったとしても、ビッコになったのでは、うさぎ一匹も捕まえられませんので、10日もすれば空腹でフラフラでしょうし、他の猛獣の餌食になってしまいます。
だから猛獣といっても、死闘を挑んでくる相手と戦ったりちょっと自分より弱い程度の動物相手に日常的狩りの対象にすることができないのです。
平和を維持するには、無防備なウサギになるよりも適度な抵抗力が必要という軍事的常識はここから生まれてきます。
日本としては日清戦争の時のように領土と賠償金を欲しかったし必要だったのは確かですが、本来ヤクザの恐喝や強盗のように金を取るのを目的に戦争をするのはそもそも邪道です。
7博士の煽っていた講和条約論は「日清戦争と比べてその何倍を取るべき」という道義も何もあったものじゃない・・バナナの叩き売りのような道義を弁えないものでした。
そもそも、日本はこれ以上の継戦能力がなかったという能力限界があったかどうかよりも、(そんなことを知らないアメリカ国民が)ロシア大使ウイッテが、日本が金目的の戦争を仕掛けているかのようにアメリカ世論に訴えると、アメリカ国民の同情引きつけに成功していた経緯も出ています。

二項対立社会観5→軍部責任説1

メデイアや野党政治家や文化人が、戦前の言論弾圧批判・・軍国主義批判・・自分らは被害者であるかのような主張を臆面もなく何故繰り返すのでしょうか?
自己批判することなく治安維持法や軍部の責任にしてしまえば気楽でしょうが、その代わり厳しい自己批判をしないから、戦前の過ち・政策論争よりは政敵攻撃しかしない体質をそのままを繰り返しているように見えます。
「軍部が悪い・国民に責任がない」占領軍の民族分断政策にまんまと乗った・狡いのが左翼文化人・メデイア界です。
ドイツのように「ナチスだけに責任を負わせて国民は知らん顔」しているだけでは、民族の歴史・・将来に禍根を残す筈ですが、それだけでは気が済まなかったのか?
後ろめたさを隠すためか?
「毒を食らわば皿まで」と言う言葉がありますが、左翼文化人は米軍に協力するだけでは満足せずに中韓にもっと日本軍部の責任を追及するようにそそのかしてきたように見えます。
二項対立社会観については、17年2月23日「単純政治の限界・・2項対立4」まで書いてその後3月末〜4月にかけて表題にしていませんが、関係意見を書いていますのでその続きです。
軍部の発言力強化に力を貸してきのが、その時々の野党政治家でありメデイアであったことをこれまで書いてきました。
戦後軍部だけが悪かったという変な切り分け虚構に酔いしれた結果、政府攻撃材料に靖国参拝を問題視するようになったので、日本の左翼文化人・・メデイアが軍国主義復活反対と騒いでいるのに被害者の中国政府が黙っていると「政府は何をしているのだ」という国内突き上げに呼応するしかなくなった面が知られています。
慰安婦騒動も当初韓国政府はあまり信じていなかった・問題にしていなかったのですが、日本国内で盛り上がっているのに「政府が黙っているとは何事だ」という突き上げによって、韓国政府も腰をあげた経緯です。
http://ksmworld.blog.jp/archives/1067111984.html

1986年に当時の中曽根康弘首相は靖国神社参拝を取りやめるが、それまでは過去10回にわたり中曽根氏は靖国参拝をしていた。しかも、1985年8月15日には、現職首相として初めて靖国神社に公式参拝していた。
ところが、1986年に朝日新聞などのメディアが1978年に合祀されたA級戦犯のことを取り上げ、公式参拝を問題視した。中国側も朝日新聞から「この問題をどう思うか」と取材を受ければ「公式参拝はアジア各国人民の感情を傷つける」と言わざるを得ない。かくして、中曽根首相は1986年に一転して靖国参拝を取りやめる。
このときの後藤田正晴官房長官が残した「内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝に関する官房長官談話」(官房長官談話)は次のような内容だった。
《A級戦犯に礼拝したという批判があり、近隣諸国の国民感情に配慮するために、首相の公式参拝を差し控える》
この官房長談話は、『河野談話』、『村山談話』同様に罪深い。A級戦犯が合祀されたのは1978年(新聞が報じたのは1979年)で、その後も大平正芳首相や鈴木善幸首相は靖国を参拝しているが、中韓両国からは批判されていない。

慰安婦騒動については周知の通り、以下の朝日新聞報道に始まり韓国も対応する事態になりました。
http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2013/12/1992.html
朝日新聞の奇襲

一九九二年一月十一日、朝日新聞の朝刊を手にとった人は、第一面トップに躍る慰安婦のキャンペーン記事に目を見はったことであろう。今にして思えば、この「スクープ報道」こそ、それから数年わが国ばかりでなくアジア諸国まで巻きこむ一大狂騒曲の発火点となるものだった。第一面ばかりでなく社会面まで潰したこの大報道を紹介すると長くなるので、とりあえずは主な見出しだけを次に羅列しておこう。

「慰安所 軍関与示す資料」「防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」
「部隊に設置指示 募集含め統制・監督参謀長名で、次官印も」「〈民間任せ〉政府見解揺らぐ」
「〈謝罪を〉〈補償を〉の声さらに」
「募集など派遣軍において統制、すみやかに性的慰安の設備を」

さらに防衛庁資料を「発見」した吉見義明中央大教授の「軍関与は明白 謝罪と補償を」の談話、「不十分な調査示す」との女性史研究家鈴木裕子さん、「軍の関与は明らか」とする元日本軍慰安係長山田清吉少尉のコメント、「多くは朝鮮人女性」と見出しをつけた「従軍慰安婦」の解説コラムもつく構成になっている。
しかし「見出し」だけでは、なぜこんな大報道になったのか理解しかねる人もあると思うので、朝日新聞の意図を一面のリードから引用する。

日中戦争や太平洋戦争中、日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが十日、明らかになった。
朝鮮人慰安婦について、日本政府はこれまで国会答弁の中で「民間業者が連れて歩いていた」として、国としての関与を認めてこなかった。昨年十二月には、朝鮮人元慰安婦らが日本政府に補償を求める訴訟を起こし、韓国政府も真相究明を要求している。国の関与を示す資料が防衛庁にあったことで、これまでの日本政府の見解は大きく揺らぐことになる。政府として新たな対応を迫られるとともに、宮沢首相の十六日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる。

このリード文を読めば、キャンペーン報道の意図が首相訪韓のタイミングに合わせて、それまで「国の関与」を否定していた日本政府に「偽証」の証拠をつきつける劇的な演出だったらしいことが読みとれる。

一月十一日といえば、訪韓の五日前にあたる。今さら予定の変更もできず、かといって予想される韓国側の猛反発への対応策を立てる余裕もない。私はタイミングの良さと、「関与」という曖昧な概念を持ち出して、争点に絞った朝日新聞の手法に、「やるもんだなあ」と感嘆した。
防研図書館の「陸支密大日記」は三十年前から公開されていて、慰安婦関係の書類が含まれていることも、軍が関与していたことも、研究者の間では周知の事実だった。慰安所を利用した軍人の手記や映画やテレビドラマのたぐいも数多く、この種の見聞者をふくめれば、軍が関与していないと思う人の方が珍らしかっただろう。それをやや舌足らずの国会答弁(後述)に結びつけて、「国としての関与を認めてこなかった」とこじつけたのは、トリックとしか言いようがない。

ところが軍部といっても外国人傭兵ではなく皆国民の父親です・・都合よく切り分けて自分に関係がないという誤魔化しが良心のある人ならばいつまでも通用するはずがありません。
そこで、軍部とは職業軍人のみで徴兵で駆り出された方は被害者だと言う分類が一般的です。

南原繁氏の超国家・普遍思想5→福音派・米政府との人脈

ちょっとのつもりでだいぶ横にそれましたが、南原元東大総長の全面講和論に戻ります。
February 23, 2018,「超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)」の続きです。
実務というものは、100%思う通りに行かないネクスト〜サードの妥協で成り立っているのが普通ですが、思うように行かないからと完全反対していた場合、その結果どうなるかの視点が必要です。
全面講的には現実政治的には無理・・いつまででも米軍に占領されている方が良いのか?となります。
(南原氏にとっては異民族占領支配が続いた方が居心地がよかったのでしょうか?)
日本民族の独立が正しい選択とした場合・・当時の国際状況を客観的に見れば全面講和以外の講和条反対・・結果的に米軍占領政治がその後約40年以上も続いた方が良いと言う主張は、無い物ねだりの主張・現実無視論でした。
南原氏や革新系野党の全面講和論者の言う通りしていたら、日本は米ソ対立が続く限り独立できず、国連にも加入できず日本に利害のある各種の国際政治に独立の当事者としての参加資格がないまま・・自己主張する権利もないままに据え置かれていたことになります。
李承晩ライン設定や竹島占領と言う白昼公然の強盗行為にだって独立していなかったからなんら有効な対応できなかったのです。
歴史は後世の人が裁くものですが、ソ連崩壊時ですぐ独立できたとしても戦後約50年経過ですから、それまで日本は何をされても何らの当事者能力もないまま戦後50年間やられ放題で放置されていたことになります。
現在に至っても日露平和条約を結べないことから明らかなように、ソ連崩壊した時に(独立するためにはかなりの見返りを要求される)無償で全面講和できたと思う人はいないでしょう。
日中国交回復だって、日本が独立国として日本が中国を承認する方でしたが、これがもしも逆であれば大変な代償を要求されていた可能性が高かったでしょう。
日韓国交交渉も同様です。
これが「曲学阿世の徒」という批判を受けた原因でしょうか。
この機会に南原氏の9条論を紹介しておきます。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51954443.html
憲法制定議会で野坂参三と並んで2人だけ第9条に反対した南原繁の証言は貴重だ。彼は当時をこう回想している。
戦争放棄はもちろん当然なさるべきことですけれども、一兵ももたない完全な武装放棄ということは日本が本当に考えたことか、ということを私は質問したわけです。つまり私の考えでは、国家としては自衛権をもたなければならない。ことに国際連合に入った場合のことを考えるならば、加入国の義務として必ずある程度の武力を寄与する義務が将来、生じるのではないか(p.350)。
つまり南原は一国平和主義をとなえたのではなく、国連中心主義の立場で第9条に反対したのだ。したがって彼は、吉田茂がなし崩しに進めた再軍備には、強硬に反対した。それには憲法の改正が不可欠だと考えたからだ。
南原が理想としたのは、カントの提唱した常備軍の廃止だった。
彼はその代わり、国際機関による警察機能を考えた。将来も戦争が起こることは変わらないが、今のような主権国家の枠組ではなく、それを超える国連の警察機能で国際秩序を守ろうと考えたのだ。
南原氏の戦後教育に与えた影響力の強さに今更ながら驚きますが、私自身そういう教育方針にどっぷり浸かって感化されて育ったように思えます。
国連第一主義を教え込まれて育ちましたが、いつまでたっても国連が日本国内の警察のような役割を果たせない現実があります。
国際司法裁判所があっても独立国でないと訴える資格もないでしょうし、フィリッピンのように中国を訴えてせっかく完勝しても中国から「そんなのは紙切れだ」とと豪語されて逆に中国のごきげん伺いするしかない現実があります。
尖閣諸島に石油資源があるとなれば、いきなり自国領土と言い始め、実力行使に出てくる国があります。
そうなると日本も自衛手段が必要ではないかという現実論が起きてきます。
自衛が必要となれば、1国だけでは無理なので友好国が必要となり友好国であればいざという時には助け合いましょうとなるのが普通・・安保条約・集団自衛行動の必要性に繋がっていきます。
非武装論者は軍備より相手から攻撃されないようにする外交が重要というのですが、それは周辺諸国との友好善隣構築が基本です。
友好国に災害があったり、不当な攻撃を受けているときに黙って見ているのでは友好関係になり得ません。
ここでのテーマとズレますが、戦後思想教育の翁影響を与えた南原氏の論文はネットに出てこないので、ネットであんちょこ・直接読めませんが、南原氏の論文に対する研究論文がネットに出るようになったので、批判と擁護両面の論文を読むと当時の南原氏の思想・立ち位置が浮き彫りになる面があります。
南原氏はプロテスタントとは言っても福音派ですが、たまたま22日の日経新聞夕刊3pには、福音派が今でも政治中枢に絶大な影響力を持っている記事が出ていましたので紹介しておきます。
ネットでも大々的ニュースになっていたので以下引用しておきます。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018022200006&g=int
米国のキリスト教福音派伝道師で、保守派を中心に政界にも強い影響力を持ったビリー・グラハム師が21日、ノースカロライナ州モントリートの自宅で死去した。99歳だった
1949年にロサンゼルスで催した伝道集会に多数の信者が集結したことで、その影響力が注目を浴び、50年にBGEAを設立。同協会によれば、185以上の国・地域の計2億1500万人近くに福音を伝えた。
トルーマン政権(45~53年)以降、歴代大統領の多くと親交を持ち、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)、クリントンの各大統領の就任式で祈とうを行うなど「精神的導師」を務めた。米メディアによれば、冷戦期に当時のソ連や東欧諸国にも足を運んだほか、92年と94年には北朝鮮を訪れ、金日成主席とも会った。
トランプ大統領は声明で「(グラハム師は)その人生と指導力で真の『神の大使』の称号を手にした米国の英雄だ」と追悼。同師の埋葬の日には、ホワイトハウスなど国内外の連邦施設に半旗を掲げるよう命じた。オバマ前大統領、ブッシュ元大統領親子、カーター元大統領らも、それぞれ声明などで死を悼んだ。(2018/02/22-10:17)
過去の指導層からはみ出たイメージの強いトランプ氏までこのメンバーになっているのには驚きました。(日経夕刊にはトランプ氏との写真も出ています)
敗戦特需(を受けた人々?)という言葉がありますが、一般的に知られているキリスト教系人材が特需を受けただけでなく、キリスト教徒の中でも南原氏など敗戦時の日本の福音派思想家がいかに米政府からの恩恵を受けていたかが分かろうというものです。
南原氏らが恩師と仰ぐ新渡戸稲造氏(熱心なクエーカー教徒?)が特大的評価を受けて従来の5000円札・聖徳太子像に変わる表紙になった理由もわかります。
彼がアメリカで発行した「武士道」の本はアメリカで人気を博してから日本語版が出た程度であって、日本国内の国民的人気としてはマイナーな彼がいきなり昭和58年に紙幣の表紙になるのは唐突な印象です。
アメリカ人にとっては武士道精神は衝撃でも、日本人にとっては何の目新しさもありません。
国民文化の向上に何の役割があったかという視点では、評価がほぼゼロではないでしょうか。
ミスユニバースになっても、日本国内でほとんど評価も受けないのと同じです。
ミスユニバースやアメリカ受けの良い芸人を外交に利用するようなものでしょうか。

原理論と時代不適合5(テロ対策3)

昨日まで見てきたところによると、違法収集証拠の証拠能力排除と言っても、違法レベル次第、または重要事件かも考慮されるし緊急性次第によるようです。
GPS捜査の最判事件では緊急性もなければ、窃盗被害でしかない点では重大性も低いということでしょうか?
その代わりプライバシー侵害といっても程度が低過ぎないか?(「お前はプライバシー意識が低すぎる」と言われればそれまでですが)の疑問です。
GPS判例は大法廷判例・しかも全員一致ですので中長期的には確定的ですが、それにしても・・・という論理的根拠のない主観的な疑問のみっbで書いてきました。
テロ対策に戻りますと、
政権側としては佐倉惣五郎事件のような大規模騒動が起きると政治責任になる上に、歴史に残る不祥事ですから、事前抑制に熱心になります。
悪い方を考えれば事前抑制=犯罪を冒していないのに個人情報を収集するのは今の「建前?」では違法・人権侵害ですが、そう言ってられない時代が来ています。
「収集した情報はテロ対策/もしくは限定した犯罪予防以外に使わない」という逆転の発想で許すべきではないかの意見を書いています。
店舗や公道の防犯カメラや一般利用目的のトイレやエレベーター内のカメラ等も皆そうですが、プライバシー侵害のために盗み見る目的で設置されているものではありません。
事件発生等があった時に関与者特定目的その他のあらかじめ決めておいた要件合致の資格者(フランスでは紹介したように資格者だけになっているようです)だけ見れば足りるものですし、実際に日本のスーパー等でもみだりに防犯カメラを関係ない人に開示していないでしょう。
2018-2-26「民主主義ルール3と違法収集証拠排除論2」前後で紹介したGPS捜査が問題になっている事件では、(ラブ)ホテルに駐車したことまでGPSでわかるのが許せないような判決理由になっていたように記憶しますが、ここで正確を期すために最判全文を見直してもそこまで書いていません。
もしかしたら間違って記憶していた可能性もありますし、判決が出た当時高裁判決の詳細事実認定を読んだり、あるいは関連紹介記事を読んだ記憶かもしれません。
※ 今日事務所に出て「自由と正義」2017年10月号を見直してみると上記事件の弁護団で中心的役割を果たした弁護士の事案経過説明が出ていて、これによると、犯人が一度だけ乗車したことのある事件に関係のない女性の車にもgpsが装着されていたり、塀に囲まれて外部からラブホテルに駐車したことが分からない駐車も特定されていたことが説明されています。
何れにしても警察は窃盗被害との関係で移動履歴を知るために設置しているのであって、調査対象者がたまたまラブホテルに行ったかどうかなど犯罪に関係のないプライバシーに関心のないことです。
実際に事件に関係がないので検察側は証拠請求していなかったものを弁護側の開示請求によって明らかになったものです。
最判の論法で言えば、防犯カメラに犯人と別人がたまたま立ち小便しているのが写っているあるいは恋人と抱き合った場面や痰を吐くところが写っていた場合、それを咎めてプライバシー侵害・・路上強盗の写真を証拠に出来ないというのでしょうか?
その部分だけすみ塗りして証拠提出すれば足りるように思われます・同様に窃盗事件の立証にラブホテルへ行ったことまで証拠にする必要のないことですし実際検察官が窃盗に無関係なプライバシー移動経路まで証拠請求していなかったことは上記の通りです。
いろんな論文を見ていると犯罪に関係ない網羅的捜索が許されないのが原則のようですが、(例えば家宅捜索などで、もしかしたらは犯人仲間か?と言う疑いで根拠ない当てずっぽうで気楽にしょっちゅうやられたら溜まったものではないですが・・・)資金では通信防除その他の議論の前提で、GPSに関する令状発布が原則として許されないと言う議論に出てきます。
自宅にズカズカ踏み込めんだり身体検査などはプライバシー侵害の程度が大きいからであって、車の移動経路わかる程度ではプライバシー侵害のレベルが違いすぎます。
物事は侵害される権利との程度問題ではないかと言うのがこのシリーズの関心です。
民間の万引き防止のための防犯カメラ等よりも公的目的の情報蒐集に限って情報収集を厳しくするのが一般的風潮であり、おかしいと書いてきましたが、この蒸し返し・補充論です。
日頃から無断(令状事前提示不要)で収集してもいいが、事件発生後の犯罪捜査にしか使わないあるいは、フランスのように犯罪発生前にも事前に特定資格者に限って情報提供を求められる制度・その要件を厳重にするのを認めたらどうでしょうか?
今のテロは犯行着手やその準備段階(日本でいえば凶器準備集合罪)を待っていて、それから検挙するパターンあるいは兇徒が徒党を組んで出撃するような段階で行進を阻止するような悠長な手順を踏んでいては、(ベルギーのテロでは瞬時に約300人の被害)間に合わなくなっている時代になっています。
事件が起きてからの捜査を前提にする近代法の原理はそれなりに人権擁護に果たした役割は否定できませんが、今では航空機搭乗前の所持品検査が必要になるなど事前情報蒐集や検査が必須の時代です
こうした変化を認めずに一旦何か原則を決めると「例外を一切許さない」という硬直姿勢を取るかどうかの問題です。
労働法制も工場労働発達時に制定したものであって、(この時代にも柔軟勤務を前提に管理職には不適用でした)時に合理的であったにすぎません。
管理職でなくとも柔軟な働き方が増えて来た以上、それに見あった法制度が必要です。
それをどうすべきかは、未経験のことなので模索中であることも事実であり、今から完全な正解はまだ誰もわかりません。
国を挙げて叡智を絞り何とか対応しなくてはならない・出来ることから試行錯誤して行くべきテーマにケチだけつけて野党が満足しているのは不思議です。
講和条約に始まって60年安保以降反米中ソ支持グループは対案提示をやめてしまい、明確な反政府勢力になって現在に至っているように見えます。
過去に成立した原理原則にこだわる運動形式は、世界情勢を無視した幕末攘夷思想と同じです。
政治分野の議事妨害だけではなく・法律家の世界で始まった違法収集証拠排除ルールの強化は、軽微な違法?捜査で証拠排除する方向に突っ走る?ようになったのは、アメリカで発達したルールを信奉しているように見せかける点で、一見西側価値観に足場を置いたようなスタンスですが、結果的に政府の政策になんでも反対し妨害する政治運動に利用している方法論の一つのように見えます。

憲法と国家6(南原繁氏の超国家・普遍思想3)

教育勅語廃止に関する昨日紹介した記事によれば、南原繁氏の言う世界市民への参加資格・普遍的価値→「古今東西に通用するもの」「日本国憲法の人類普遍の原理に則り・」と言うことで、すべて普遍原理=国家や民族を超越した上位の価値観を基本とする前提です。
民族や地域ごとの価値観・意識をローカルなものとして否定し、上位のグローバル価値観(南原氏にとってはプロテスタント的価値観)を子供の頃から脳に植え付けていく戦略がそのまま出ています。
ドイツ宗教戦争のコラムで紹介しましたが、西洋では戦争に勝って地域領主さえカトリックに変えれば、その地域住民はカトリックになったり、新教になったりする仕組みです。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家の韓国でも戦後キリスト教徒が急激に増えた原因です。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家(私の個人的印象です)の韓国でもキリスト教徒が急激に増えた原因です。
以下は、「韓国のキリスト教徒」で見た本日現在のウイキペデイアの記事からです。

韓国統計庁が2005年発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。プロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となっていて仏教より信者の数が多い。キリスト教信者数は約1376万人となり、韓国は東アジアおよび東南アジアでの信者絶対数では中華人民共和国、フィリピン、インド、インドネシアに次ぎ5位である。国民全体に占めるキリスト教信者の割合ではフィリピンと東ティモールに次ぐ東アジアおよび東南アジア第3のキリスト教国である・・・
海外に対する宣教活動が活発なことも韓国キリスト教の特徴で、2000年にはプロテスタントだけでも10,646人の宣教師が156カ国で活動していた
福音派は極めて積極的な布教活動をする為、近年では世界各地(特にイスラム教諸国)においてトラブルに巻込まれている。アフガニスタンにおける布教活動ではモスクの前でキリスト教の賛美歌を歌うなど、過激な布教活動が見られたと報道されている。2007年ターリバーン韓国人拉致事件のような事件が発生した背景には、こういった刺激的かつ攻撃的な布教活動があったのではないかとの指摘もある。
韓国国内では1970年代から80年代の民主化運動の原動力となる一方、同じ時期には仏教寺院や仏像に対する破壊活動を行う牧師や信徒が出るなど、他宗教への攻撃も積極的に行った。

福音協会といえば南原氏の無教会的福音主義に似た名称ですが・・米軍政の韓国キリスト教に対する影響についてのウイキペデイアの記述は以下の通りです。

司令官のダグラス・マッカーサーは太平洋米国陸軍最高司令部布告第1号で「占領目的が日本の降伏文書の条項の移行と朝鮮人の人権及び宗教上の権利を保証する事にある」と布告し、韓国人に対して信教の自由を認めた。また、連合軍法令第11号により「神社法」を廃止して皇民化政策の残滓となる神道を排斥し、また、朝鮮伝統の巫俗信仰等の宗教に対しても規制政策を行った。これに対して、キリスト教は、ソウル放送で福音放送を流すことや刑務所に牧師を置くことが認められるなど優遇された。この厚遇について、柳東植は「キリスト教は仏教と違って日本帝国主義の強圧の対象であり、それゆえ日本帝国主義からの解放はすなわちキリスト教の解放と同じように感じていた。そして、解放を招いたのは西欧勢力であり、彼らの背後にはキリスト教が控えていた。さらに、指導層が直接キリスト教を庇護していた」と説明している

日本は文字通り民草の力が強いので戦国大名が何宗であろうと庶民に関係のない社会構造ですので、アメリカはキリスト教の浸透作戦に慎重でさしあたり「信教の自由」を謳って確固たる日本古来から信仰心の解体から入っていった・目立たないように日本人シンパを利用したということでしょう。
教育勅語排除に関するhttp://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html引用の続きです。

社会学者の清水幾太郎は、「戦後の教育について」と題した論文の中で、勅語は二つの部分からなっている。
一つが最初と最後で修飾的・形式的な部分で、もう一つが道徳的行為規則のシステムを記述した中間の部分である。
「額縁」と「絵」の関係で、「両親に対する孝行、兄弟姉妹の愛、夫婦の調和、忠実な友情、節約、博愛、学問や技術のための努力、知的練磨、道徳的完成、公益や産業のための献身、憲法及び法律の遵守、勇敢。これらの徳目は、『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』とあります通り、すべての時代のすべての社会に通用する一般的なルールなのです。私たちがどんな徳目を挙げても、恐らく、それは既に教育勅語に含まれているでしょう」
(1974)と述べ、戦後日本は額縁といっしょに絵そのものまで全面否定したのだから、いかなる道徳も成り立ちようがないとあきれている。
たしかに、人格の完成を教育の目的に掲げながらその道筋を示さず、一方教育勅語に示していた徳目を捨てたのだから、教育が崩壊していくのは当然であった。

上記最後の数行は南原氏が肝腎の価値そのものを西洋価値観(プロテスタント)に丸投げしていたのではないかという18日から紹介している西田氏の以下の批判に通じます。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no97_05.pdf

研究ノート〉立命館大学人文科学研究所紀要(97号)

宗教ナショナリズムと南原繁
西 田 彰 一
一体化の代償
南原は、国民共同体にかえて内部としての象徴天皇制を民族共同体としての日本の本質とみなすことで、外部としての西洋世界と世界観を統一することができるようになった。
・・・・・日本の普遍史への参与が説かれる当時物議を醸した両面講和論を説いたのも、 「国際連合の本来の理想にかなったもの」という、 西洋の普遍的価値への参与という前提が存在したからである。
南原にとって国家の問題は「本来のヨーロッパ精神から離反の方向を指し示して」いたナチスドイツが崩壊したことや日本の超国家主義論が失敗したことを受けて、 「わが国にはルネッサンスと同時に宗教改革が必至である」と単にヨーロッパ文化に追いつくことだけが目的とされ理想として西洋が説かれ、日本はただ改変される主体となるばかりであった5。
南原が東大総長として活躍した戦後の議論からは、現実問題と対峙することによって戦前期には維持していた緊張感が失われてしまったのである。
戦後の南原の政治哲学の問題点とは、国民共同体を維持するために、理想として目指されるべき秩序のあり方が、常に国民共同体や民族共同体の「外部」から移入されなければならないにも拘らず、共同体の「外部」=絶対的理想の性質が問われることなく、つねに共同体の秩序の枠組みの維持と、共同体の理想実現に向けた永続的運動のみが目的とされたことに問題があると言えるのではないだろうか。

南原氏の論文紹介は、民族と国民共同体に関する南原氏の変遷批判など哲学用語が多く素人には分かりにくいですが、教育勅語排除に関する清水幾太郎氏の上記意見をここに当てはめると何となく明らかになります。
「曲学阿世の徒」の名指し非難を受けたことで有名なサンフランシスコ講和条約・・全面講和か片面講和の論争では、南原氏が全面講和論をとった経緯も出ていますが、戦後現実国家と理想社会の峻別をしなくなったという上記研究の一断面かもしれません。

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