メデイアと学者の煽り5(日露戦争と帝大7博士意見書2)

ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

影響
「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。
しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[20]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。
しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである
条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][20]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[19]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。
この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[21]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[22]
上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。

上記最後の3行は突然の結論記事ですが、重要な指摘です。
文献の引用もあるので相応の論説を背景にしていると思われますが、紙媒体の引用文献自体にこのコラムでは入れない(このために引用されている本を買って読む暇はない)ので直接確認できません。
しかし幕末から、明治維新以降、欧米列強の植民地にされてしまわないかの恐怖心で凝り固まっていた国民意識・その恐怖心をバネに富国強兵に邁進していた当面の目標喪失はよくわかりそうな気がします。
幕末〜開国後西欧列強の餌食にならないように「頑張ろう」と言う暗黙合意で日本人民が必死に頑張ってきた・・いわば強迫神経症に陥っていたのが明治初年から日露戦争までの日本人でしたし、その代表的心情を表していたのが、夏目漱石ではないかというのが私の個人感想です。
その最後に最凶暴国ロシアとの対決になったのですから、国民あげて立ち向かったのですが、ようやく危機をしのいで世界の強国の一角を占めるようになると目標がなくなったことを言うのでしょうか?
目標喪失と一緒に戦費負担のマイナス(巨額戦費を賄うために国際金融資本からの借款取り付けに成功したことが勝因の一つとして知られています・この返済負担をどうするか)や使い切った武器弾薬.人員の補填に始まり、戦死者遺族や傷病兵の生活保障資金不足など国内経済矛盾を抱え込むようになりました。
ロシアに勝って満洲地域の利権を手に入れたと言っても目先の経済効果では、すぐに経済メリットがあったどころか中期的に見れば先行投資が必要になる関係です。
当面の効果は脅威を追い払っただけですから蒙古襲来後の北条政権崩壊原因を彷彿とさせる状態でした。
蒙古軍と戦った御家人に恩賞を与えられなかったと習いますが、恩賞というよりは防壁を築くためのコスト負担・・兵を集めて出陣すること自体で膨大なコストを負担させていました。
今風に言えば、大手ゼネコンの下請けで地元工務店が大規模受注用に機械設備を購入し人も増やしたが、施工後ゼネコン・幕府が代金を払ってくれないので地元工務店が下請けや大工職人・設備等納入業者に払えないという事態です。
モンゴル襲来時も多くの死傷者が出る=兵士=働き盛りの喪失=地域内生産力が下がる・・税収減の中での遺族や傷病兵の生活保障等がのしかかってきます。
個人間の喧嘩で言えば小競り合いの喧嘩でも怪我した方はその後全治何ヶ月かの治療で痛い思いをし、治療費がかかりその間思うように仕事ができず収入が減ります。
双方死力を尽くしての喧嘩の場合、そこへ受傷前の自分より半分以下の闘争能力しかない相手にも負けてしまう弱い立場になります。
だからこそ野生動物は滅多に喧嘩しないし、リーダーを決めるために勝負する必要がある時にもお互いに怪我しない程度で勝敗を決めて負けた方はスゴスゴと引き下がるルールになっています。
ライオンで言えば、相手を倒して勝ったとしても、ビッコになったのでは、うさぎ一匹も捕まえられませんので、10日もすれば空腹でフラフラでしょうし、他の猛獣の餌食になってしまいます。
だから猛獣といっても、死闘を挑んでくる相手と戦ったりちょっと自分より弱い程度の動物相手に日常的狩りの対象にすることができないのです。
平和を維持するには、無防備なウサギになるよりも適度な抵抗力が必要という軍事的常識はここから生まれてきます。
日本としては日清戦争の時のように領土と賠償金を欲しかったし必要だったのは確かですが、本来ヤクザの恐喝や強盗のように金を取るのを目的に戦争をするのはそもそも邪道です。
7博士の煽っていた講和条約論は「日清戦争と比べてその何倍を取るべき」という道義も何もあったものじゃない・・バナナの叩き売りのような道義を弁えないものでした。
そもそも、日本はこれ以上の継戦能力がなかったという能力限界があったかどうかよりも、(そんなことを知らないアメリカ国民が)ロシア大使ウイッテが、日本が金目的の戦争を仕掛けているかのようにアメリカ世論に訴えると、アメリカ国民の同情引きつけに成功していた経緯も出ています。

メデイアと学者の煽り4(日露戦争と帝大7博士意見書)

帝大7博士意見書に関するウイキペデイアの意見は著者不明ですが、上記7博士意見書に対する3月31に日現在では以下の通りです。

「七博士意見書」は戸水が主導した跳ね返り大学教授が、せいぜい新聞情報程度で書き上げたとしか思えない。その証拠として、次のような政府関係者ではまずしない誤りを犯している。
遼東還付条約について?であるが、日本は干渉と下関条約批准を分離したことを忘れてはならない。すなわち、三国干渉があった段階で下関条約で認められた割地を取り下げる約束を三国にしていたのである。この段階で、新たに遼東半島不割譲を清国に認めさせることは、下関条約を否定することであって、日本の行動としては自家撞着なのである。
ドイツが膠州湾を租借したとき、その弱小な海軍力に乗じ?開戦しろとの意見である。これは空論であろう。というのは、まだ2年ほどしか経過しておらず、ロシアがドイツに共同して参戦する可能性について否定できないのである。そのうえ当時、ジョセフ・チェンバレンがドイツと英独同盟をめぐり交渉中であり、イギリスの助力を得られたか疑わしい。
北清事変北京議定書評定の段階では、中国と和平について条件をつめていた。ロシア兵も北京の保障占領を実行して圧力をかけており、日本とロシアは同じ地平にたっていたのである。この段階で、ロシア兵の北京撤退を要求できない以上、満州撤兵?について圧力をかけるなどできる話ではない。
軍事力において日本が有利との指摘?であるが、間違いないことはロシア人はそうはみていなかったことである。さもなければ、開戦までの交渉においてロシアがいかなる譲歩もしなかったことについて説明がつかない。さらに、日本有利とする根拠は極東だけの比較であって、陸にせよ海にせよ、ヨーロッパからの援兵が即時あれば、不利は免れない。すなわち日本有利とするには、援兵の時間を考慮せねばならず、これは多年の研究をもってしても学徒に出来ることではない。
日英同盟条約第1条で、条約発動用件は列国の朝鮮への侵略的行動と中国における騒乱と限定しており、七博士のいうように、?単純にロシアに攻めかかっては、イギリスは局外中立を守る必要は生じない。軍事同盟は締結することによって戦争の抑止を図るが、それには日英同盟は失敗しているのである。
?はロシアの満州進出阻止を戦争の目的とせよというが、日英同盟はそれを許していなかった。さらに日本政府要路は、満韓交換論で日露が妥協できるとみていた。七博士は、そのときの外交交渉についてまったく無知であり、こういった議論するにあたっての十分な情報を欠いていたのである。
?清国の法は未だかつて露国兵の鉄道を保護することを認めず、というが、清国はロシア兵の鉄道保護のための駐兵を、李鴻章・カシニー密約で認めており、条約が国内法に優先するのは当然である。李鴻章・カシニー密約について知らないことはともかく、現状でロシア兵がいることをもって、想像をつけねばならないことと思われる。

七博士は十分な情報がなく、また日本政府の妥協案「満韓交換論」をロシアは拒否し、あくまでも朝鮮半島全域にこだわったことについて無知であった。そのうえ当時の学問レベルでも法理を十分に理解していたとはいえない。
ジャーナリストも同様であるが、学者が基本的情報を与えられずに外交方針を論じることは危険なのである。

政治外交を論じるのは勝手としても、それは聞きかじりを前提とするに過ぎない以上は、素人の憶測と変わらないものであって「学問発表とは言えない」し、帝大教授の権威を誇ると世論を間違った方向へ誘導する危険があるということです。
まして学問研究の成果発表ではないのですから、「学問の自由」とはなんらの関係もありません。
ここで学問の自由を標榜したこと自体、その後の学問おかちおを知恵む方向の始まりになっていったでしょうし、現在もメデイアが自己主張を通すために学者意見や声明を動員するる悪習に結びついています。
信長秀吉以来宗教界が政治に口出しする悪習を完全に断ち切って来た(徳川に入って最後の事件として紫衣事件を紹介しました)のですが、今は「学問の自由」を錦の御旗にして政治に介入する悪習を断ち切る必要のある時代に入っているように見えます。
信教の自由・宗教弾圧が起きるのは宗教が政治に介入するから起きることであり、日本では「宗教家は宗教そのものしかりやれ」という信長以来その心配がなくなっています。
・・・・ここで、再び客観事実紹介に戻ります。
ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

ロシア全権大使ウィッテは、7月19日、サンクト・ペテルブルクを出発し、8月2日にニューヨークに到着した。
ただちに記者会見を試み、ジャーナリストに対しては愛想良く対応して、洗練された話術とユーモアにより、米国の世論を巧みに味方につけていった[10][11]。ウィッテは、当初から日本の講和条件が賠償金・領土割譲を要求するきびしいものであることを想定して、そこを強調すれば米国民がロシアに対して同情心をもつようになるだろうと考えたのである[10]。実際に「日本は多額の賠償金を得るためには、戦争を続けることも辞さないらしい」という日本批判の報道もなされ、一部では、日本は金銭のために戦争をしているのかという好ましからざる風評も現れた[10]。
それに対して小村は、外国の新聞記者にコメントを求められた際「われわれはポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判をするために来たのである」とそっけなく答え、なかには激怒した記者もいたという[10]。小村はまた、マスメディアに対し秘密主義を採ったため、現地の新聞にはロシア側が提供した情報のみが掲載されることとなった[10][注釈 7]。明らかに小村はマスメディアの重要性を認識していなかった
講和会議
8月26日午前の秘密会議も午後の第9回本会議も成果なく終わった[11]。 交渉が難航し、これ以上の譲歩は不可能と判断した小村は、談判打ち切りの意を日本政府に打電した。政府は緊急に元老および閣僚による会議を開き、8月28日の御前会議を経て、領土・償金の要求を両方を放棄してでも講和を成立させるべし、と応答した。
全権事務所にいた随員も日本から派遣された特派記者もこれには一同衝撃を受けたという[1
8月29日午前の秘密会議、午後の第10回本会議では交渉が進展し、南樺太割譲にロシア側が同意することで講和が事実上成立した。
これに先だち、ウィッテはすでに南樺太の割譲で合意することを決心していた[19]。第10回会議場から別室に戻ったウィッテは「平和だ、日本は全部譲歩した」とささやき、随員の抱擁と接吻を喜んで受けたといわれている[11]。アメリカやヨーロッパの新聞は、さかんに日本が「人道国家」であることを賞賛し、日本政府は開戦の目的を達したとの記事を掲載した[18]。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの報告を聞いて合意の成立した翌日の日記に「一日中頭がくらくらした」とその落胆ぶりを書き記しているが、結局のところ、ウィッテの決断を受け入れるほかなかった[19]。9月1日、両国のあいだで休戦条約が結ばれた。
1905年9月5日(露暦8月23日)、ポーツマス海軍工廠内で日露講和条約の調印がなされた。ロシア軍部には強い不満が残り、ロシアの勝利を期待していた大韓帝国の皇帝高宗は絶望した

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