国債無制限発行3(ロンバート型融資システム2)

ロンバート型融資による国債引き受けの場合、4月2日に書いたように既発行債引き受け資金の必要性は事実上一旦ゼロになったようなものですが、既発債が担保ですのでその担保掛け目範囲しか融資出来ませんので、追加発行分の引き受けがどうなるかが気になります。
例えばロンバート型融資を始めたときに国債発行残高が1000兆円あった場合を例に考えると、以後満期が小刻みに来る都度全部を日銀融資で引き受けさせて行くと、既発行分が全部償還されたときには既発行分の1000兆円が全部日銀融資と入れ替わってしまい、民間の引き受け資金分はゼロ・・即ちその分全部民間に回収済みとなります。
同額の資金分だけ、国内にはなお国債引き受け余力が民間に残ります。
元々預金の使い道がないことから銀行救済目的も兼ねて(本来の目的は国内需要不足の穴埋めですが・・・)国債が発行され続けているとすれば、1000兆円もの使い道がなくなるのでは銀行その他金融機関が参ってしまうので、実際にはそんな極端なことは出来ません。
バブル崩壊前から銀行その他金融機関は集まった資金の融資先あるいは有効利用方法がなくて、今でも困っている状態がずっと続いています。
(銀行は国債を買えなくなると融資先のない預金を無駄に仕入れたままになります・・国内個人金融資産は銀行に限らず生保・年金・郵貯などもありますが、これらは運用難のために今事件になっているAIJ詐欺などに引っかかり易い状態です)
資金余剰国では銀行の融資機能が衰退するのは当然ですから、銀行の存在意義自体を見直すだと言う意見を以前から書いています。
実際にはロンバート型融資による金融機関の引き受けは、金融機関等の引き受け能力(投融資先不足であまった資金で引き受けられる額)を越えた資金不足分だけ日銀が融資すれば足りるので銀行等の引き受け業務を圧迫することはありません。
イザというときのためにロンバート型融資に道をを開いたというだけで実際には極く僅かな金額分だけ・・緊急避難的に行うことになっているので、実際にどれだけ発動されているか分りません。
担保価値の範囲内しかロンバート型融資が出来ないとしても、例えば発行残高1000兆円全部の国債が同時に満期が来ない・・例えば、年1回ではなく小刻みに償還期限が来るので、個別に期限の来る国債ごとではホンの少しずつの償還資金ですみます。
(ネットで見ると平成16年6月時点での長短合わせた発行額が出ていますが、当時月間平均10兆円平均の発行だったようです)
仮に借換債100億円分の内資金不足分10億円だけ融資を受けて100億の国債を購入すれば、直ぐ後で額面100億円の国債が償還されるので、その借金は即時に全部返済出来ます。
その数日後に入札があっても同じ繰り返しですから、超短期間内の10億の融資と返済の繰り返しでいくらでも回転する仕組みになります。
こうして見れば全体で1割の書き換え用資金不足としても、1000兆の1割が一時に必要ではなく小刻みに発行される発行額の1割の不足・融資の繰り返しで足りることが分ります。
償還額と同額の書き換え用資金がロンバート型で賄えるとしても、プラス増発分の資金が不足する場合はどうなるでしょうか?
書き換え用には3億円の新規発行で足りるが、赤字予算のための追加発行分2億円との合計5億の発行をする場合、5億満額を借りれば(満額不足はあり得ないでしょうが・・・仮定の計算です)直ぐに満期償還されるのは3億しかないので2億分は直ぐには返せなくなります。
(担保に入れる国債は直ぐに満期が来る物ばかりではなく、その先に満期が来る物も合わせても良いでしょうから5億まで借りることは可能です)
数ヶ月先に来る国債を担保にしているとそのときに返せますが、その代わり数ヶ月先に担保にするべき国債を先取りして担保使用してしまってることになりその分更に不足して行きます。
次の償還期日である数ヶ月先までに民間資金余剰(貿易黒字ないし経常収支黒字)が生じていれば良いですが、同じように不足しているとした場合の話です。
ロンバート型融資に頼る場合、同額の書き換えなら問題がないですが、追加型増発を繰り返した場合に上記のとおり資金不足が顕在化してきます。
しかし、上記は発行額満額の資金不足で満額を借りる場合のことで、一般的には1割とか5%足りないだけでしょうから、書き換え用国債3億の内1割の3000万円と追加用2億円分をそっくり借りても、そのときに償還される国債が3億あれば十分返せます。
その次に満期が来たときには、合計5億が日銀融資の担保国債なので融資枠が大きくなります。
利払い費あるいは新たな復興資金用などのために国債を増発する一方になった結果、もしも個人金融資産を越えて発行残高が2000兆円〜3000兆円になっても、書き換え債の引き受け資金の不足は上記の例で分るように小刻みに償還して行くので個人金融資産を越えた分と同じではありません。
仮に個人金融資産1500兆で国債発行残高が3000兆の時に、(個人金融資産だけが引き当てではない点は後に書きますが、ここでは仮の話です・・)引き当て不足するのは1500兆ですが、実際には満期・書き換えが一度に来ないのでその数%に過ぎません。

日銀の国債引き受けとインフレ3

先進国ではお金の量に比例して消費が増えるのは(まだお金さえあれば何でも買いたい人が多い)低所得層が中心ですから、バブル崩壊後消費の下支えのために子供手当や社会保障の充実・・最低賃金のアップなどバラマキが進んだのは経済合理性がありました。
中流以上の階層にとっては、収入が1割増えてもその殆どが貯蓄に回ってしまい消費があまり増えません。
ですから増税は景気を冷やすどころか、収入の何割を貯蓄してしまいお金を使わない階層から税でむしり取って政府が全部使い切る方が消費刺激になるという意見をSeptember30 ,2011「増税と景気効果2」前後で書きました。
景気対策・・と言っても、上記の通り底辺層に対する社会保障の底上げ程度では、供給能力過剰下での生産維持・下支え程度でしかなりませんので、企業は金利が安いからと言って借金してまで設備投資をしません。
ですから、金融緩和や紙幣の大量発行よりは底辺層に対する紙幣バラまき・・生活保護水準等福祉水準の引き上げやサラ金の金利引き下げの方が消費下支え効果があります。
(これがバブル崩壊後サラ金に対する高金利を違法とする判例・不当利得関連の債務者保護判例が進んだ政治・経済的背景でしょう)
農産物と違って仮に生産が足りなければ工業製品は増産が簡単ですし、それどころか我が国はバブル崩壊以降供給能力過剰で苦しんでいるのですから、仮にコーヒーを2倍飲んでもコーラや酒を多めに飲んでも業者は生産設備をフル稼働に近づけるだけで値上がりまではしません。
デフレ現象の原因はこれまで書いているとおり、賃金・生活水準で10倍格差のある中国その他新興国からの低価格品の流入にあるのであって、我が国の場合金利や紙幣量をいじってもどうなるものでもありません。
企業の方も国内投資しても儲けられないのが分っているので、いくら金利を安く・・ゼロ金利にしても、あるいは量的緩和をしても借金して投資する気持ちがありません。
3月23日の日経新聞朝刊社説には企業の手元流動性が60兆円と出ていましたが、企業は儲けるタネがないので資金があっても使い切れないで困っている状態です。
銀行も預金ばかり集まっても貸す相手がいない・・借りたい人が少ない状態ですから、金融機能が縮小して国債を買っている状態になっています。
銀行が本来の金融機能を果たせなくなっていることから国債に活路を見出している状態・・銀行は最早存在意義をなくしているのではないかという意見を09/19/08「銀行の存在意義6(融資機能の衰退3)」 前後で連載しました。
例えば、ゼロ金利どころかマイナス金利にしても車やテレビの販売が増える見込みがなければ・・あるいは鉄鋼需要がないのに製鉄の増産、車やテレビ製造の増産投資しません。
家賃を無料にしてくれても店員の給料分も売れないようなときには、店舗を借りる人がいないし、無利息で貸してくれても採算が取れる見込みがなければ、デパートも進出投資しないでしょう。
現在の我が国では供給能力過剰社会・・言い換えれば(長期にわたる貿易収支・経常収支黒字の蓄積の結果)資金余剰社会になっているので、従来の経済学理論とは異なり紙幣を濫発しても今更インフレにはなりません。
ではその紙幣がどこへ行くのかと言うと、円キャリー取引で海外流出して行きます。
ゼロ金利でも借りないほど資金余剰の国もあれば・・だぶついた資金を借りたい国・・まだ供給不足社会は世界中にいくらでもあります。
我が国の底辺層同様に新興国あるいは貧困国では、需要はいくらでもあるのに購買力が足りない国が圧倒的に多いので、そこへ資金が流れて行くのは自然であり、理にかなったことです。
旧来または現在の経済学者は、供給不足下の国内完結経済を前提に紙幣が増えればインフレになるとバカの一つ覚えのように主張するのですが、先進国では供給・生産力過剰社会ですので、紙幣垂れ流しが国内だけでのだぶつきから需要のある海外への垂れ流しになって、これを受けた海外でインフレが進みます。
日本の紙幣垂れ流しがアメリカや中国のインフレ、あるいは国際的資源高騰の遠因になっていることを03/20/08「サブプライム問題と世界経済5(低金利競争1)」以下のコラムで書きました。

税の歴史6(商業税3)

安心・安全社会でありながら商人から税を取ろうとすると特許料的・・・特別なコネで独占権を買うような袖の下・不正なお金が動くような意識・理解が強くなります。
我が国には商人からお金をとるのは賄賂に近い・・不正と結びついた伝統的意識があるので、商人からお金をとる仕組みを切り捨てた楽市楽座制は画期的な制度として今でも賞賛されているのです。
他方田沼意次のように商業を活性化して、そこから金をとって財政資金にしようとすると賄賂政治として非難囂々となります。
本来「商人からも税を取るべき」という側面から見れば、楽市楽座制は徴税方法の萌芽を摘み取ってしまった政策だったとマイナス評価すべき面があります。
(こんなとんでもない意見を書いているのは私くらいでしょうが・・・素人のコラムは気楽です。)
徳川政権は、日宋貿易や日明貿易あるいは倭冦を通じて貿易は儲かると言う歴史認識が成立していた貿易からでさえ、関税を取っていたかどうかさえ分らないくらい・・金儲けには及び腰でした。
幕府に儲ける意識があればもっと貿易が活発化していたでしょうが、これを制限する方向・・鎖国に向かったのですから、・・・・・手数料をとっても実費程度でしかなかったのではないでしょうか。
何故か政府公的機関が金儲けに精出すのは、はしたないこととする風潮がこの頃に成立してしまったようです。
(だから日野富子の行状を如何にもサモシイように言いふらすのでしょう)
ソニーのトランジスタだったかを欧州で売り込んだ池田総理を、エコノミックアニマルとバカにし、総理ではなく商人のようだとバカにしたマスコミが多かったものです。
楽市楽座制以降商人からの徴税する意識がなくなったので、(国民は上記のとおりの我が国特有の安全な歴史から税を払う気がないので無理です・・)已むなく幕府が時おり豪商から召し上げて来た冥加金などの一時金に頼るしかありませんでした。
各大名家ではそんなことも出来ないので国債みたいな機能の藩札の発行・豪商からの借金などのいろんな名目の回収方法・・今の国債が発達したことになります。
鎌倉時代末期に発動された徳政令は、ご家人が借金に頼った結果でした。
政権側・領主・御家人が借金出来るということは、(当時は外国から借りることはなかったので)今の日本経済同様に領民の個人金融資産は豊富なのに、政権側で取る方法がなかったことの現れだったと言えるでしょう。
徳川時代の徳川家や諸大名や旗本ご家人も同じで豪商や町人からの借財で首が回らない状態でしたが、徴税方法がなかったに過ぎません。
明治の廃藩置県・・・版籍奉還政策は、当時の巨額債務切り捨て策でした。
最近で言えばGMが法的整理で過去に約束した年金債務等を切り捨てて立ち直ったのと同じやり方です。
各大名家では「これで借金の重圧から逃れられる」とホッとしていたので版籍奉還がスムースに行ったことについては、07/20/05「藩の消滅3(版籍奉還と知藩事)」で、大名は知事となり、収入の1割が保障されたことを紹介し、(オーナーからサラリーマンになったので藩の借金の責任を負いません)さらに08/15/09「武士の失業4と華族制の創設」のコラムで働かない無役武士を切り捨てるなどの大リストラに成功したことを紹介しました。
このやり方を真似たのが国鉄の清算事業団化で、新しいJRは働きの悪い従業員(労組員中心?)を切り捨てて(再雇用せずに)、借金のない新事業になったので身軽になれたのです。
この廃藩置県の結果、幕末動乱期に大名家の出費を支えた豪商からの借財が全部踏み倒されたので、(新しく出来た県は当然のことながら借金支払責任はありません)多くが没落し、明治以降新興の三菱などに入れ替わってしまいました。
徳政令に限らず政治に関係するといつもこうしたリスクがあるので「大名貸し」を絶対にしないという家訓を定めている商人もいましたが、幕末動乱期に、義に感じて「男気」から出してしまった商人が多くいたようです。
幕末には黒船来航以降、江戸湾の防備に駆り出されたり・・お台場建設その他の出費が嵩んだだけではなく、(これまで書いているように役務提供は大名の自腹で行うべきものでしたから・・持ち出しが増えます)各藩競争して洋風の軍備増強・新兵器購入に励まざるを得なかった外、京都などでの政治混乱に対応するための情報収集経費、その後の戊辰戦戦争への参加経費など経常収入ではとても賄えないほどの出費が続きました。
長岡藩でもガットリング砲をオランダから購入していますし、長州や薩摩ではもの凄い軍備増強ですから、従来の米の年貢その他の特産品販売による経常的収入だけ(・・元々大名家の財政は火の車でした)ではとても賄えません。
鳥羽伏見の役を制したのは薩長の最新式兵器であり、これを支えたのは、白石家などの領内豪商の存在でした。
会津の松平家は内陸であって豪商が育っていなかったことが、新兵器調達力に差がついてしまったのです。
この辺は長篠の合戦で信長の大量の鉄砲に対して武田家の少数の鉄砲・・火力差が勝敗の明暗を分けたのと同じです。
(世上騎馬軍団が鉄砲に負けたと言いますが、信玄も謙信も勿論新兵器導入に熱心だったのですが、経済力の差で信長ほど大量に買えなかったので、勝頼は騎馬軍団との併用しか出来なかったに過ぎません・・同じことは幕末の各大名家にも言えてそれぞれ財力に応じて新兵器調達に力を注いでいたのです。)
薩長ほどではないまでもどこの各大名家でも新兵器購入努力をしていましたので、これらの経費は危急存亡のときとして臨時に領内豪商(と言っても小さな藩では商人の経済規模が小さいのです)からの借金で賄っていました。
政府にとっては税でとらなくとも借金でとっても預金でとっても同じことです。
息子に生活費を入れさせるか毎月5〜10万ずつ借りたことにしておくかは、言葉の遊びででしかないと以前書きましたが、国内資金で賄っている限り親子の貸し借りと同じです。
息子は親にお金を貸したことになっていても将来親が払ってくれなければ、生活費(国でいえば税金)を入れていたと思うしかないのですが、国民の保有する国債とはそう言うものです。
1400兆円あまりの個人金融資産があって、1000兆円の国債があるということは現在個人金融資産が正味400兆あまりに減っていることになります。
個々人で見れば1400万の定期預金があっても国債がデフォルトすればその内1000万円が紙くずになって400万円しか残らないということです。
400万円残れば良いかと思いますが、この金融資産には生保や年金の積み立て分も含まれているので老後は大変です。
韓国や中国では年金制度が出来てから日が浅いので積み立てが貧弱で直ぐに高齢化社会に突入すると大変だが、日本は長期間経過しているので大丈夫と思っている方が多いと思いますが、実は日本も年金を含めた総預金が実質400万しかないとすれば、とても老後何十年も生きて行けません。
年金財政の赤字問題が喧しいですが、年金とは関係のない別建ての借金で食いつぶしてしまう方が早いかもしれないのです。
企業年金で言えば、新入社員が少なくて赤字になるとこぼしているうちに企業本体が借金だらけになったようなものです。
そこで国内個人金融資産だけが国債の担保になるのか・個人金融資産残高だけを国債発行残高が越えるかどうかだけが危機の基準かが問題です。
09/14/08「国債の無制限引き受けと紙幣発行権2」でも書きましたが、国債は円建てなので誰も買わなくなっても日銀が無制限に引き受ける限りデフォルトはおきません。
結局は日銀による無制限国債引き受けが可能かどうかになります。
(紙幣乱発とインフレや円安等の関係・・中央銀行独立の意味など現在社会の根幹に関わりますので、9/15/08「国債の無制限引き受けとインフレ1」February 22, 2012「為替相場と物価変動2(金融政策の限界2)」前後で少し書きましたが、この点は別に書きます)
通貨発行権のないギリシャとはこの点で本質的な違いがあります。

税の歴史3(商業税1)

足利氏も平家同様に直轄領地を殆ど持っていない・・(一族の領地が全国的に散らばってありましたが本拠地の足利の莊自体は小さなものです)源氏の棟梁的(担がれていただけで自前の軍事力=資金源なし)役割だったので、資金的に最初から困っていて幕府自体の財政資金の出所は微々たるものでした。
南北朝の争いが終息した3代目の足利義満の時代になると権力的には頂点になりますが、その代わり領地を取ったり取られたりがなくなりますので、安定収入源としての直轄領地が殆どないマイナスが目立ってきます。
朝鮮征伐に活路を求めた秀吉同様で、義満も天下統一が終わると恩賞として与える新規占領地がなくなり行き詰まってしまいます。
そこで、資金源を清盛同様に日明貿易に求めましたが、貿易で儲けると言っても貿易商人の上前をはねるだけですから、個人収入としてはウマい方法だとしても、国家権力維持の資金としては基本的に多寡が知れています。
今のように貿易の盛んな時代でも関税収入は国家収入のホンの1部でしかないでしょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、国内統一がなると恩賞を与えるべき新規領地獲得がないので大名が命令に従うメリットがなくなってきて威令が利かなくなります。
将軍家の統治能力の低下に伴い倭冦による密貿易が普通になって、政府の統制が利かなくなると貿易による収入源もなくなってしまいます。
幕府財政は手数料収入に頼るしかないので、義政の妻日野富子による関所・・通行税などに徴収に頼るようになります。
(貿易の上前をはねる方法の小型版です)
これが怨嗟の的となって彼女は歴史上守銭奴・悪女とされていますが、(資金源に困った結果でしょう)これは京の出入り口(7口らしいです)だけであって全国の通行税を取れる訳ではない・・どこの大名も関所を設けて真似する程度のことであって、中央政権独自に必要とする巨額資金源にはなりません。
日野富子死亡後ころから、資金面から中央(足利幕府)の実力が維持出来なくなって行きます。
(義政は富子との関係が冷えていたこともあって早くから竹林の7賢のように権力争い・政治から離れて行きます)
戦国時代に入ると各領国ごとに勝手に税を取る仕組みですから、中央政府・・足利政権の経済基盤がなくなってしまうと、足利氏は直轄領が殆どなかったので戦国時代の朝廷同様に悲惨です。
室町時代から商業活動が活発になり、(そもそも鎌倉政権を倒した原動力が、河内の馬借など新興産業の担い手であったことを、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。)
室町期にはさらに商業が発達して来たので、各地領主はこれを保護する代わりに特権・独占的権利を認める形で一種の特許料を取るようになっていました。
業者は同業者間の組合である「座」を結成していましたので、言わばこうした団体を通じて統制して税・冥加金を取る仕組みでした。
今のように売上を正確に把握する帳簿もないので、多分話し合いでまとまったお金を上納してもらっていたのでしょう。
これが次第に(独占の見返りではなく市場の維持費や参加料として行くなど)合理化して行けば、今のように商売自体から税を取る方向に発達出来た可能性がありました。
上記のとおり戦国時代に入った頃には地代だけではなく、商業活動に対しても現在の税の萌芽である所場代を取るようになっていたので、このまま発展していれば、日本でも商業活動に対する税の徴収方法が発展していたと思われます。
ところが、戦国末期には信長がいわゆる「楽市楽座」制を支配下大名に布告したので、各領国・大名も競争上真似せざるを得なかったので瞬く間に全国的に「楽市楽座」になってしまい所場代の徴収方法の根がなくなってしまいました。
教科書的には、閉鎖的特権組合的権利(今で言うとギルド的特権)をなくし商業活動を自由化・活発化させた画期的な制度だと教えられますが、地代以外に税を取るシステムの萌芽だったとして見れば、楽市・楽座制は徴税方法が進歩するべき根っこをなくしてしまったことになります。

税の歴史2

大名や旗本が町奉行や作事奉行に任ぜられると自分の家臣団を動員し市中取り締まりや工事(薩摩島津家で言えば長良川の堤防工事)をする必要がありました・・。
このやり方では徳川家で言えば大身旗本しか役につけないので、足し高の制・・役料制度が発達したことを03/01/04「足高の制4と新井白石の正徳の治(家禄・家臣団の不要性)」前後で連載しました。
中央政府は巨大な領地・圧倒的領地収入を前提に政権を獲得するので、その後も自腹で全国的な運営を担当するのが我が国古来からのやり方でした。
同好会その他弱小組織の場合、会長がかなりの事務量を自腹で賄う・・町内会・商店会・小さな同業組合などでもその中の比較的大きな会社が組合事務局を自社内において組合会費からではなく、自社の事務員に組合の事務を兼務させて間に合わせることが多いものです。
(勿論家賃・パソコン・コピー電話利用料など取りません)
政治家は井戸塀政治家というように、人の上に立つ以上は自腹を切り続けて損ばかりしているうちに井戸と塀しか残らないのが我が国政治の有り様です。
この点パレスチナ解放戦線議長だったアラファト議長とか、リビアのカダフィ大佐あるいは共産主義政権の崩壊したときのルーマニア大統領など世界の政治家は蓄財が得意なのには驚きます。
イザとなれば彼らが海外に何兆円と国民のために?隠し財産を溜め込んでくれているので国民は安心してまかせておけるでしょう。
日本の菅前総理や野田現総理が失脚しても何も貯めてくれていない(と思われる)ので、国民は大して期待(あてに)出来ません。
国民は、増税に反対して自分でせっせと溜め込んでおくしかないでしょう。
自腹で公務を運営する方式に戻りますと、このやり方・世話役方式では政権を取ったばかりは何とかなりますが、政府・公益的仕事が増えて来ると自分の領地からの上がりの持ち出しだけでは中央政府は維持費が賄えなくなって来ます。
同好会や自治会や組合で言えば、事務量が増えて来ると自社の事務員を何人もかかりきりにしていられなくなって、事務局を持ち回りにしようとか、会や組合の費用で事務所を借りよう・専属の事務員を雇おうとなるのが普通です。
政治の場合、単なるサービス精神による世話役ではなく自分の支配欲を満たすための政権取りですから、そのまま自腹で経費を持ち続けることが多いので経済的に参ってしまいます。
中国のように政権を取れば、中間豪族の存在を一切認めずに人民を直接支配する仕組みの国(・・皇太子以外の子供などに一部王国を認めますがそれは例外です)なら却って私腹を肥やせるので、政権は税の取り過ぎで人民が蜂起しない限り盤石です。
(異民族に滅ぼされる以外はいつも農民の流民化で政権の最後が始まるのはこうした結果です)
日本の場合、大和朝廷の始まりから諸候連合ですから、中央政府は自分の直轄領地からの上がりだけで全国支配をしなけれならないので、割が悪い仕組みでした。
日本の政府・指導者はいつも質素倹約で簡素な役所しか持てないのは、こうした違いによるものです。
神社も権威を強調するだけで、建物自体はどんな大社で質素なものです。
中央政府の経済基盤を強化するために、随・唐の律令制導入が(大化の改新)この面で必須だったでしょうが、逆から言えば豪族にとっては自己の地位が危うくなることですから、骨抜きに必死になったのは当然です。
律令制=国家全面所有・人民直接管理制は、わが国には根付かず失敗に終わったので、以来国家直接管理思想は無理がある(トラウマ)となって明治維新まで来たことになります。
律令制失敗後は全国的に荘園制となり荘園制のうえに武士団が誕生してきます。
武士団の最初に天下をとった清盛が政権維持のためには(湯水の用に資金を使ったでしょうから・・)娘盛子の夫藤原基実死亡時に子供が小さかったので、基実の弟が後見になると平家にとって大変な事態になるので、必死のがんばりで何とか摂関家の荘園財産の殆どの管理権を入手します。
清盛は(摂関家資産を多分食いつぶしたでしょう)た上で、その後は資金源を求めて安芸の守以来の瀬戸内の交易による利益だけでは足りなく日宋貿易に頼るようになりました。
(資金源がなくなったことが、平家没落の主たる原因です)
鎌倉政権・頼朝は自前の領地・収入源がなかったのが当然ですが、北条家に実権が移った後は、北条各家は経済基盤確保のために領地拡大に精出して、各自の領地を最大にしていて、執権家構成一族としての経済力が高かったので長く続いたのです。
(蒙古襲来がなければ経済基盤がしっかりしていたので、もっと続けられたかも知れません)
襲来時の北条一族の支配地が大きくなっていたことについては、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。
徳川家もこの歴史を知っていたので直轄領地(公称800万石)にこだわっていたので、幕府財政は苦しいながらも約300年近くも続けられたことになります。
(黒船来航さえなければもっと続いたかも・・・)

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