原発コスト23(安全基準3)

関係者が本気で原発の安全性に思いを致していたならば、自分の持ち場である各部各部ごとに「この部分が壊れたらどうなるか」この部分は大地震でどうなるかという具体的な検討をしていたはずです。
海水の汲み上げ装置のような遠く離れた装置でさえも壊れてしまえば、循環用のエンジンが動いていても原子炉から出て来た高熱の水?を冷やすことが出来なくなります。
大津波でなくとも海水取水口付近はちょっとした津波でもその影響を受けるのですから、それぞれの部署でそれなりの研究や代替品の用意をしておくべきです。
地道で具体的な心配や準備を一切しないで、象徴的な原子炉に限定した耐震性等の安全性だけ強調して40年間以上も済ましていたことが分ります。
こうした結果を見ると関係者には本当に安全性を検討する姿勢・気持ちがなく、うるさい国民をうるさい限度で安心させ、黙らせれば良い・・素人相手には象徴的な原子炉の安全性だけやってれば充分だという逆転した発想だったのではないかの疑問が生じます。
事故後の放射性物質暫定基準の設定の仕方や検査方法も消費者の健康を守るための目的に出たというよりは、(検査対象の野菜だけは良く洗ってから検査する指導など・・)業者がやれる程度の基準を決めて政府が検査しないと売れなくなるので仕方なしにやる・・業者保護が先ず目的にあることが見え見えなので、国民は信用しないのです。
埋め立て地の液状化現象で、千葉県浦安市のマンホールが、地表から数メートルも突き出している写真が出ていてご覧になった方が多いと思いますが、数メートル単位で上下左右ににガタガタと動いたら、どんなに頑丈にパイプラインが出来ていても大抵の継ぎ目でガタが来るでしょう。
原子炉格納容器のようにずんぐりしたものは、単体としてみれば鉄の塊のように頑丈に造れば震度10でも20でも耐えられるように造る気になれば造れますが、格納容器がガタガタ動いても内部は一緒に揺れれば良いのですが、それにくっついている・・外部から差し込んでいるパイプ類は他の建物や設備に固定されて繋がっているので、これらパイプ類は支持基盤ごとに別の動きをします。
支持基盤ごとの揺れのひずみ・誤差によってパイプ等の差し込み口でズレてしまうリスクが大きいのは目に見えた道理です。

原発コスト17(問答無用3)

原発は怖いがだからと言って感情的に全面的にやめるとまでは言えない・・・フグは食いたし命は惜しし・・と同じ心境です。
全面禁止か資格のある調理師の調理によるフグを食べるのかと似ていて、どのくらい高くなるのかの程度問題を先ず知りたい・その上でどうするかを考えたいのが、普通の国民の心理でしょう。
この関心は正当なものだと思いますが、これには正面から応えないまま、事故直後に(頼みもしないのに・・)東京電力の試算で、原発をやめると1家庭平均で月1000円上がるという発表が逸早く(こういうことには素早いのもおかしな会社です)ありました。
その前提になる元の原発コストは事故処理コスト等を計上していないときのコストですから、これと比較するかのような土俵設定をする事自体、論理法則違反です。
こんな論理法則・ルール違反の子供騙しのテーマ設定は・・当面の値上がりに庶民は間違って反応するだろう式の発想によるものでしょうが、国民をバカにしているし論点をすり替えようとする意図がアリアリです。
まして、投資済みの原発施設の投資回収をしないまま・中断してここで新たに火力発電所の新設をして行けば、二重の設備で半分しか稼働しないので、コストが従来よりも上がるのは、あたり前です。
(これでは原発の方が安いか火力の方が安いかの比較にはなりません)
原発から火力に切り替えるのではなく出来上がって数年の火力発電所の事故があって、新たに火力発電所を新設する場合だって、減価償却しない内に廃棄するコスト負担や事故処理と並行して新設火力となれば、料金を上げないとやって行けないのは同じです。
伝統的支配勢力は、稼働期間約40年しかないとすれば、後1年でも2年でも多く稼働させて1年分でも2年分でもよけい回収したいということで頑張りたい気持ちもあるでしょう。
しかしこんな議論をして廃炉を引き延ばしている間にも何時次の大地震がないとも限らないのですから、一日も早く廃炉準備をして行くべきでしょう。
同一業種でA企業は火災保険や交通事故保険料を火災事故による避難訓練などをコストに加えていて、B企業は避難訓練もせずに火災保険・事故賠償保険にも加入していない・・事故が起きたら倒産処理する無責任形式とすれば、何の備えもないB社の方が事故がない限りコストが安いのは当たり前であってコスト比較になりません。
今後これら費用をコストに加えるとどうなるかの議論がいま必要なのに、これに答えることなく先ず値上げから入って行こうとするのは、国民に対する威嚇戦法でしかありません。
マトモなコスト計算を公開しないまま、問答無用式に値上がりした結果だけを示して「こんなに高くなるんだぞ!」と脅して行く現在の方式は、如何に原発のときの方が安かったかの印象だけを刷り込んで行く作戦のように見えます。

損害賠償支援法3

原発事故以降の市場の動きや経済界の動きとこれを受けた賠償支援法の成立は、少なくとも東電自体には十分な事故賠償能力がないことを前提にしていることになります。
一旦原子力事故が起きたときに業界あげても賠償資金を捻出出来ないような業界が、それでも原発の方がコストが安いと何故言えるのか不思議です。
原発賠償支援法では、東電自体に十分な支払能力がないことを前提に業界一丸となった機構を設立しますが、その機構も賠償に足りるだけの基金を集められず、自己資金では支払能力がないことを前提に機構が新たに社債を発行してその借金で支払う仕組みです。
しかし機構自体は何も生み出さない単なるトンネル会社ですから、東電から返済を受けない限りその借金を返すめどはありません。
結局は東電の支払能力にかかっているのですが、東電は巨額賠償能力がないことを市場は見越して東電株や社債の大暴落になっているのですから、東電から元利がきちんと帰って来て利息を付けて払えるから大丈夫ということでは新機構の社債は売れません。
そこで発行社債に対する政府保証をすることによって社債の発行をスムースにしようとするのがその中心的仕組みですが、1年後には原子力損害賠償法を改正して国の責任を引き上げて行く方針・・すなわち東電自体の責任を一部国が肩代わりすることかな?も付則に決まっているとマスコミで報じられていました。
前回紹介した条文によると「賠償法を改正する」検討課題になっているだけで、責任限定する方向性まで書いていませんし、一年とも書いていませんが、法案作成段階の議論ではそう言う含みだったのでしょうか?
賠償責任の限定をする付帯決議に反対する日弁連意見書が出てますので、条文ではない付帯決議にあるのかも知れません。
1年くらいでは、国民の怒りが収まるとは思えませんが、マスコミに騒がれなくなればこっそりと東電の責任を限定する方向へ改正するつもりなのでしょうか。
政府としては、全部東電・原子力発電業者の責任のままにしておいて、保証だけしている方が外形的には、政府支出が抑えられて、赤字国債の外形も増えなくて済むので本当は有り難いのですが、付則で(1年経過後に)事業者の責任限定する法の改正を予定しているのは、今回の東電の責任を免責するためでだけではなく、将来の原発事故による損害賠償リスクを見据えたもの・・・と言うことは再発がかなりの確度で予想されてるということでしょうか?
このまま無限責任・・加害者が発生した損害を100%賠償するのは当然だと言う当たり前のことを決めたままでは、今後事故があるたびに倒産の危機・・(関西電力中部電力その他すべてが)機構のお世話になり、政府管理される会社のようになってしまうのですから、どこの会社でもそれはいやでしょう。
国民には「事故など起きる筈がない・絶対安全だ」と宣伝しているものの、自分の会社が事故を起こす場合が一応想定されるので、その場合、全面的な損害賠償責任を負う・国の管理になってしまうのがイヤだと言うことでしょうか?
国債の場合は行く行くはデフォルトになるだろうとは言っても大分先であることは間違いないのですが、原子力発電の場合「いつか事故が起きるがずっと先のことだから・・」と言っている場合ではありません。
この原稿を書いている瞬間にも再び大地震・・事故が起きないとは限りません。
このままにしておくと、そんなリスクの大きい原子力事業から撤退したくなる業者が出かねないし、市場から見れば原子力業界の株式を持っていると東電の株みたいにある日突然数%まで下落するリスクがあるのですから、今から東電に限らず電力業界の株式や債券を誰も買う人がいない・・売りたい人ばかりで総崩れになってしまいます。
これを宥めて何とか原子力業界を存続させるためには、国民の怒り・・不安のホトボリがさめたら責任限定の法改正をするからという暗黙の了解ですが・・そこまで行かないと市場不安が収まらないから、付則(あるいは付帯決議で)に賠償法の改正と明記して成立したものと思われます。

国債破綻シナリオ3

ところで何故赤字国債がはびこり易いかと言えば、個人の震災等による被害の場合、比喩的に言えば「貯蓄1億円の一部・・数千万円で間に合う被害」の場合、先ず貯蓄の一部を取り崩して家の改築・改修などするのが普通で、貯蓄をそのままにして借金を先にしようとする人は滅多にいないでしょう。
これが組織になると無責任体質(共産主義国家で何事も親方日の丸体質になってソ連が駄目になったのと本質が似ています)になり易いからです。
収支トントンで運営している組織で会員百人、会員平均一人当たり1億円の個人資産がある組織(無限責任・・民法の組合形式を想定して下さい)で、その組織が災害で10億円の出費を必要としたときに、会費として1000万円ずつの特別徴収をすれば間に合うのに、これをしないで借金で賄う図式です。
収支トントンの組織ですから、いつまでたっても借金を返せないばかりか金利負担分が累積して行くので、いつかは会員が自己負担して借金を減らすしかありません。
ところが、その内元金を減らしていくどころかまた別の特別出費が必要になって更に借金を追加して行き、ついには借金総額が各人の資産総額に迫って来た状態です。
目先の自己資金を拠出するのがいやなので先送りしたくなるのでしょうが、増税・自分の懐から出すのを渋り赤字国債で賄うここ20〜30年以上の我が国経済はこの大型版です。
日本の個人金融資産が1400兆円と言われてましたが、現在の国債総額が仮に7〜800兆円だとすれば、国民が出す気になれば出せるお金があるのに、税・会費として拠出するのを嫌がって国債増発に頼って来た結果と見ることが出来ます。
本当に拠出するお金がなくて借金しているなら仕方がないですが、我が国の場合衆愚政治と言うか国民の我がまま度合の合計が国債の残高と言えるでしょう。
あるいは建前社会が進み過ぎたと言うか、エイズ被害あるいは何とか被害があるたびに政治家はその救済を約束するし、運動家は成果を誇るのですが、運動家自体あるいは関係政治家自身、自腹を切って救済資金を作る気持ちがありません。
乞食に何も恵まないで通り過ぎる人を「可哀想じゃないか」冷酷だと非難しながら、自分は一銭も出さないような傾向です。
総論賛成各論反対とよく言われますが、高度成長期には、「道路陥没」、「手すりがないので崖から落っこちた」、「公園の遊具がさびていて怪我をした」等々何でも政府の責任にして自分ではないみんなの責任=税負担にして薄める習慣が身に付きました。
高度成長期には自然税収増があったので支出項目を足して行く方法でも間に合っていましたが、自然税収増が停まると、建前としての救済拡大は結構なことですが、これが広がり過ぎるとこれに対応する税収増・・増税しないと計算が合わなくなってきます。
民主党は政権公約で無駄を削減してこうした大判振る舞いの資金を捻出するとしていましたが、大々的な事業仕分けをしても結局大した結果になりませんでした。
少なくとも民主党政権では公約通り無駄の削減をして収支均衡予算を組めなかったのですから、本来赤字分は支出を削減するか増税しかなかったことになります。
ましてやその後に新たな補償約束をするときにはどの支出を削ってその資金を出すのかを詰めてから、(政権党である以上、野党時代のように政府の冗費非難だけでは済みません)約束すべき責任があります。
政治家は、薬害補償その他の約束をするときには、どの支出を減らして保障するのか、あるいはその分増税して保障するのかを明示して約束すべきです。
薬害その他国に責任ある分は国で責任を持つべきは当然ですから、私はこうした救済・傾向に反対しているのではありませんが、道徳論ではなく「支出するには対応する収入がなければならない・・増税出来ないならばその分をどこかの支出を減らす覚悟がいる」という当たり前のことをここ20年以上無視する傾向が続いていることに異議を唱えているのです。
どこかの支出を減らして、その分を補償に充ててこそ痛みをかち合うことになる筈です。
何時払うか分らない・借り換えで先送りばかりして行って将来は踏み倒すしかない国債で賄うのでは、痛みを分ち合うことにはなりません。

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