税の歴史4(楽市楽座)

楽市楽座制の宣伝は現在で言えば租税回避地であるタックスヘイブンの先がけあるいはシンガポールのような法人税低減化で企業誘致の競争を始めたようなものです。
こういう競争が一旦始まれば、対抗上諸国は際限なく法人税を下げて行くしかなくなるので、(アメリカでもオバマ政権は大幅な法人税の引き下げを宣言しています)将来的には法人税がなくなってしまうのでしょうか?
楽市楽座制の普及の結果、政権は町衆からの合理的な徴税方法がなくなったまま、明治まで来たことになります。
ただし信長は、堺の町衆から矢銭を徴収しています。
(この時点ではまだ軍資金目的税で一般経費向けではありません。)
こんな程度で膨大な戦費を賄えたのは、織田、豊臣から徳川初期までは、金銀の豊富な採掘があって、(当時世界採掘量の何割という量であったことを November 9, 2011「鉱物資源で生活する社会3(ナウル共和国)」のコラムで書いたことがあります)政府資金は間に合っていたので無税でも、政権が成り立っていたからです。
今の湾岸諸国や、ブルネイが豊富な石油収入(・・採掘権の直轄収入)の御陰で、税を取るどころか国民にお金を配れるような状態になっているのと同じで、織田・豊臣政権時代には、政権維持費用を主として豊富な金産出に頼っていたことになります。
戦国時代の強国ないし勝ち残りは、おおむね金銀の取れた地域または商業利権の大きかった大名でした。
ちなみに信長〜秀吉は商業利権で伸びた大名ですから、商業に関心をおいていました。
上杉謙信も、越後ですので佐渡の金山を連想しますが、当時は越後の布・青苧などが主要商品で、この経済力で戦費を賄っていたので彼の二度にわたる上洛もそのルート維持に精出していた面があると言えるようです。
ちなみに、佐渡金山は、1601年(慶長6年)鶴子銀山の山師3人によって発見されたとされるもので徳川政権になってからのことですから、謙信の頃には関係がありませんでした。
農業系は鉱物資源に頼ることになるので、武田家の衰亡は領内の金採掘量の減少と比例しています。
徳川は農民系ですから政権を取ると生野銀山や佐渡金山など直轄支配していました。
またオランダ・中国貿易など独占していましたが、これは権力者が握るものと言う過去の歴史経験によるだけで、これを幕府財政の大きな資金にするつもりはなかったでしょう・・。
金銀の採掘量が減って来て徳川政権も経済的に参ってきますが、信長以来の楽市楽座制のままで・・日本国民は商売と言うものは自由に出来るものと思い込んでしまって・・既得権になっているので、商業活動に対する徴税方法がうまく機能しないままでした。
この辺は商人から税を取ることから始まった中国の政府・王権と自然発生的な我が国社会の世話役としての政府との大きな違いです。
中国(中国という国家は周知のとおり辛亥革命高成立した国家でそれ以前の王朝とは違います)と言うか、その土地で権力が発生したのは異民族・異境の地に出かけて行く商人の護衛をしたり、行った先での交易・市場の秩序を守る役割があって成立して来たものです。
現在の中国地域での王権の成立に関しては、08/30/05「都市の成り立ち9(異民族支配)」で用心棒・秩序維持役として始まったことを紹介しました。
商業・交易にはルールが必須ですし、ルールあるところにはそれを守らせるに足る武力・権力が必須です。
商業活動と権力の親和性・随伴性については09/18/05「唯一神信仰の土壌(商業の発達と画一化・・・信教の自由2)」を嚆矢として03/27/06「デザイン盗用と電気窃盗4(刑法44)」その他で連載しました。
異民族との交易のために出かけると市を開いた場所で一定期間駐在するための砦を作って(中国人は今でも世界中どこでも似たような中国人街を作るのはこうした歴史があるからです)商人を夜間護衛することも当然しました。これが中国や西洋の寿の始まりですから、どこでも城壁を持っているのですが我が国ではそのような歴史がありません。
・・砦では夜間門を閉めて朝鶏が啼いてから門を開ける(鶏鳴狗盗の故事)習わしでした・・。

税の歴史3(商業税1)

足利氏も平家同様に直轄領地を殆ど持っていない・・(一族の領地が全国的に散らばってありましたが本拠地の足利の莊自体は小さなものです)源氏の棟梁的(担がれていただけで自前の軍事力=資金源なし)役割だったので、資金的に最初から困っていて幕府自体の財政資金の出所は微々たるものでした。
南北朝の争いが終息した3代目の足利義満の時代になると権力的には頂点になりますが、その代わり領地を取ったり取られたりがなくなりますので、安定収入源としての直轄領地が殆どないマイナスが目立ってきます。
朝鮮征伐に活路を求めた秀吉同様で、義満も天下統一が終わると恩賞として与える新規占領地がなくなり行き詰まってしまいます。
そこで、資金源を清盛同様に日明貿易に求めましたが、貿易で儲けると言っても貿易商人の上前をはねるだけですから、個人収入としてはウマい方法だとしても、国家権力維持の資金としては基本的に多寡が知れています。
今のように貿易の盛んな時代でも関税収入は国家収入のホンの1部でしかないでしょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」と言いますが、国内統一がなると恩賞を与えるべき新規領地獲得がないので大名が命令に従うメリットがなくなってきて威令が利かなくなります。
将軍家の統治能力の低下に伴い倭冦による密貿易が普通になって、政府の統制が利かなくなると貿易による収入源もなくなってしまいます。
幕府財政は手数料収入に頼るしかないので、義政の妻日野富子による関所・・通行税などに徴収に頼るようになります。
(貿易の上前をはねる方法の小型版です)
これが怨嗟の的となって彼女は歴史上守銭奴・悪女とされていますが、(資金源に困った結果でしょう)これは京の出入り口(7口らしいです)だけであって全国の通行税を取れる訳ではない・・どこの大名も関所を設けて真似する程度のことであって、中央政権独自に必要とする巨額資金源にはなりません。
日野富子死亡後ころから、資金面から中央(足利幕府)の実力が維持出来なくなって行きます。
(義政は富子との関係が冷えていたこともあって早くから竹林の7賢のように権力争い・政治から離れて行きます)
戦国時代に入ると各領国ごとに勝手に税を取る仕組みですから、中央政府・・足利政権の経済基盤がなくなってしまうと、足利氏は直轄領が殆どなかったので戦国時代の朝廷同様に悲惨です。
室町時代から商業活動が活発になり、(そもそも鎌倉政権を倒した原動力が、河内の馬借など新興産業の担い手であったことを、01/24/04「中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4」で少し触れました。)
室町期にはさらに商業が発達して来たので、各地領主はこれを保護する代わりに特権・独占的権利を認める形で一種の特許料を取るようになっていました。
業者は同業者間の組合である「座」を結成していましたので、言わばこうした団体を通じて統制して税・冥加金を取る仕組みでした。
今のように売上を正確に把握する帳簿もないので、多分話し合いでまとまったお金を上納してもらっていたのでしょう。
これが次第に(独占の見返りではなく市場の維持費や参加料として行くなど)合理化して行けば、今のように商売自体から税を取る方向に発達出来た可能性がありました。
上記のとおり戦国時代に入った頃には地代だけではなく、商業活動に対しても現在の税の萌芽である所場代を取るようになっていたので、このまま発展していれば、日本でも商業活動に対する税の徴収方法が発展していたと思われます。
ところが、戦国末期には信長がいわゆる「楽市楽座」制を支配下大名に布告したので、各領国・大名も競争上真似せざるを得なかったので瞬く間に全国的に「楽市楽座」になってしまい所場代の徴収方法の根がなくなってしまいました。
教科書的には、閉鎖的特権組合的権利(今で言うとギルド的特権)をなくし商業活動を自由化・活発化させた画期的な制度だと教えられますが、地代以外に税を取るシステムの萌芽だったとして見れば、楽市・楽座制は徴税方法が進歩するべき根っこをなくしてしまったことになります。

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