プロの判断と司法審査3

決定理由を不明にしたままですと、専門家の意見があれば「それで決まり!」と思う方が多いし、地震や火山噴火の素人の裁判官が、専門家集団の規制委の判断を覆せるのか?という素人向けの政治論が幅を効かせます。
紹介した産経の批判論も同根です。
産経引用続きです。

阿蘇山からの火砕流については、ゼロリスクを理由に伊方原発を立地不適とするのは社会通念に反する、と良識を示したものの、火山灰などの降下量に関して規制委にかみついた。
四国電力の想定は過小で、それを認めた「規制委の判断も不合理である」としたのだ。
高度に専門的な理学、工学知識が求められる原発訴訟での大胆極まる「決定」だ。審尋は、たったの1回だったからである。

ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
本案訴訟と異なり、口頭弁論手続きがないので民事訴訟法の準用がないのですが、民訴では複雑事件では準備手続きが先行するのが原則で、準備手続き終結後新たな主張が原則として許されない運用です。

民事訴訟法(書面による準備手続終結後の攻撃防御方法の提出)
第百七十八条 書面による準備手続を終結した事件について、口頭弁論の期日において、第百七十六条第四項において準用する第百六十五条第二項の書面に記載した事項の陳述がされ、又は前条の規定による確認がされた後に攻撃又は防御の方法を提出した当事者は、相手方の求めがあるときは、相手方に対し、その陳述又は確認前にこれを提出することができなかった理由を説明しなければならない。
民事保全法
第三十一条 裁判所は、審理を終結するには、相当の猶予期間を置いて、審理を終結する日を決定しなければならない。ただし、口頭弁論又は当事者双方が立ち会うことができる審尋の期日においては、直ちに審理を終結する旨を宣言することができる。

最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
ほとんどの民事事件は膨大な資料のチェック作業ですので、双方準備過程で攻撃防御を尽くし、これ以上の主張や提出証拠ないですか?と確認後決定日は追って指定となるのが普通です。
ちょっとした遺産分割審判でも数ヶ月以上の期間をおいて決定になることが多いので、原発事件のように膨大な資料を読み込み文書化するには、相当の期間を要するのが普通です。
最後の儀式的審尋が一回かどうかは決定の不合理性判断に全く関係ないし、退官前かも本来関係ない憶測です。
昨日比喩的に想定される具体的危険判定の分類例を書きましたが、その例で境界値の場合で画一区分け困難な時に主査委員が問題点を整理して委員会にかけて委員会議決で決めることがあります。
主査委員の整理や意見は基本的に委員会承認事項ですが、承認事項として議題に上がるのとたたき台段階でみんなの議論を求めて具体的に甲論乙駁して結果が決まるのとでは議論の深みが違います。
形式論理で決めようがない最後のギリギリのところのプロ集団の総合判断を門外漢である司法権が覆すのは問題ですが、客観的当てはめが学会の通説に反していた場合、司法が不合理な決定として否定したのであれば、プロの判断を無視したのではなく逆にプロの総合値を尊重した判断となります。
つい最近の弁護士経験で言えばある関係者の「過失で死亡したかどうか」が問題になっている事件で死亡診断書には単純な「〇〇病で死亡」としか書いていないので当社に責任がないのではないか(専門家の判断なので、鬼の首を取ったかのように意気揚々とと保険会社が言っている)と相談されたことがあります。
チェックしてみると、その病名が現在の争点と両立しない概念でない・・その病名の場合なりやすい危険としてABCD等が列挙されていて、その事件は上記Bの事故があったかどうかが争点になっていたので、医師の診断はその可能性を排除するものでないことがすぐにわかったことがあります。
(その病気中でなければC事故があっても大事に至らないのが普通なのでその病気がなければ死亡しなかった=死亡とその病気との条件的因果関係があったことが明らかで医師の診断としてセーフの範囲でしょうか?)
例えば交通事故の結果、骨折→寝たきり→肺炎→死亡の場合、何を死因と書くかの問題と同じで、死亡原因を肺炎と書いていることと交通事故の有無とは直接の関係がありません。
条件的因果系列の中で、医師が死因としてどの部分を書いたかの偶然にすぎず、途中の事故を書いていなくとも途中の因果行為がなかった証拠にはなりません。
交通事故のように事故があったこと自体争いがない場合と違い、途中の事故の有無を当事者が争っていて救急車で運ばれた時点で既に死亡していると、生存中の処置は何もしていないので、付き添ってきた家族から病気中であったことと介護者に対する不満を聞いただけでは、医師はその不満が事実かどうか不明のためにかかっていた医師に紹介して、既往歴に間違いなければ客観性のある病名のみを死因と書いたと推定されました。
専門家の判断の場合でもその判断が争点に関係ある部分を直接チェックして論じた意見かどうかの吟味が必要です・上記例では死亡前の経緯を詳しく聞いた上なのか、既往症をカルテで見てあんちょこに?(状況不明のまま)この病気で死亡したという診断書を書いたのか不明なので、医師の状況把握時資料次第だからその点を詰めないうちに主張できないと説明をしたことがあります。
専門家意見の尊重とは、医療で言えば、その当時の学問レベルである事実(情報)しかわからない時にはそれ以上の精密検査技術が開発されておらずそれ以上正確な病態把握が不可能な場合、ABCの施術、投薬のうちどれが必要か不明という場合には経験豊富な医師の直感でどの選択をしたかで責任を問われないにすぎません。
病態解明が進んで、従来肝臓病としかわからなかったのがABC型に分類できるようになれば、肝臓病と判断して終わりにしないでさらにABCのどれかの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによって、救急外来でその時点では肝臓病までしかわからず翌朝にならないと精密検査できないような状態であれば、その時点での応急処置として何をすべきだったかの次のテーマに移りますが、その時点でたまたま薬が切れていたら、あるいは救急治療室できる範囲の手術しかできない場合、次善の投薬や治療するしかないでしょう。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がない場合に限って、高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。

プロの判断と司法審査(伊方原発)2

NHKニュースに戻りますと、ニュースの関連資料として、ワンクリックで見られる原発運転基準を決めているルールを資料としてつけてくれると分かり良いので、こういうサービスが欲しいものです。
その上で、

この規則第○条○項に「具体的危険があれば停止すべし」という規制基準が設定されていて、具体的危険に当たるかどうかの規定に・・
(1)①〜⑤の場合は即該当
(2)⑥〜⑩の場合は多数意見で決める
などの要件があるなどの類型的説明があって、本件では、(1)③にあたるかどうかが争点であった。
(1)③とは、半径Xキロ以内に活断層がある場合のことであり、本決定ではX㎞内にあると認定され、規制委員会がXキロ以上距離があるとした測定がABCDEの各データと矛盾することを理由に否定されました。

という論理構造であればスッキリします。
そうすれば、その次のレベル・・活断層の定義分類規則がどうなっているか、活断層にはABCDEの〜の10種類があり、その種類に応じて原発までの距離が決まっている場合、数十のデータの組み合わせでABCD〜の種類を決めるのが、学会の通説となっていればそのデータの正確性・当てはめが合理的に説明されているか次第となり、そこに関心のある人だけさらにそのデータを読み込めば良いことです。
例えばAB分類境界値付近の場合には、プロ集団の委員会の決議による場合があるでしょう。
規則詳細やデータは公開されているとしても、一般人には容易にアクセスできないのでこういう報道の際にはその報道に関連している関連規則や事前公開されていたデータをワンクリックで見たい人は見られるサービスをすべきでしょう。
ところで、関連法令や規則はワンクリックで閲覧できるようなサービスが可能でしょうが、科学関連事件(医療関連事件でも)はデータの信用性や読み方で勝敗が分かれるのが普通ですので、報道機関がデータそのものを閲覧可能にしない限り事件当事者以外は厳密な理解は不可能です。
裁判手続きはIT化に向けて準備中(千葉県弁護士会でも2月7日総会前の研修?でIT化訴訟手続きの実演してくれる段階)ですが、今はまだ紙媒体なので決定要旨が配布されても各種科学的な検査や実験の生データは配布されません。
(そもそも決定書あるいは本案判決書全文を入手しても証拠の配布はありません)
訴訟手続きはまだIT化されていないとしても科学者段階のデータはほぼIT化されているはずですので、双方弁護団の手元資料はほぼ全て電子化されたもののはずです。
私の現在進行形の事件で、経理事務所から約17年に及ぶ膨大データを元にした表をもらっていますが、この表が事態正しくを把握できるよう表になっているか、自分で生の会計資料を拾い出して検証作業するための試行錯誤で色々な表に作り直すには、データそのものをネットでもらわないと作業ができませんので、会計事務所の作ってくれた表自体を紙媒体だけでなくデータでもらっています。その表で説明するのが妥当としても、(訴訟では原証拠提出が原則必要です)生の会計資料から間違いなく作成したという説明だけで訴訟提起するのは心許ないので、この引当用の表を作るなど色々な作業が必要です。
このように訴訟外の準備段階では私のような高齢者でさえもIT化作業が進んでいますので、報道機関はやる気があれば、予告された決定前に入手した実験データをもとに決定と同時に双方提出証拠(本当に訴訟提出済み証拠かの確認は相手方に確認すれば簡単にできます)のネット配信可能です。
このように予めの準備があれば、裁判所の手続き進行指揮等からどの点に焦点が当たっていたかの予測がついているので、決定要旨入手直後の検討でどの実験記録や過去データがどのデータと矛盾するとして採用されなかったかも短時間で解説可能です。
原発訴訟は個人が原告になっているものの争点の多くは個人情報を除けば(活断層かの判定に必要なデータや火山噴火データ)客観的データの解析である以上、これを国民に秘匿する必要性がほとんどないはずです。
訴訟当事者双方に提出済み証拠の提供を求めれば、双方がこれを拒否する必要もない・自陣営の主張を理解してもらうために積極的に協力してくれるし、懇切に説明もしてくれるので簡単作業です。
こういうサービスなしに裁判の結果「具体的危険があると認定されました」という報道は、停止決定があった以上裁判所が具体的危険を認定したに決まっているイコールの関係であり、同義反復・・実は根拠説明になっていません。
国民が知りたいのは、規制委員会が具体的危険がないとしていたのが、裁判所がどういう根拠で具体的危険があると覆したかの説明でしょう。
NHKは根拠の結論を書いているかのようですが、実際には結果として同義反復に過ぎず「当面原発は停止になるらしい」としかわかりません。
庶民は「結果だけ知れば良い」と言うならば見出しだけで十分です。

「また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。」

とも書いていますが、過小評価しているという結論だけの記載でどちらが正しいのか、さっぱり分からない報道です。
規制委と裁判所の判断が違った前提事実のどこが違っているのかの説明がないので、どちらが合理的判断なのか、司法の政治的偏りなのかそれぞれの立場で憶測に基づく非難合戦をすることになります。
https://www.sankei.com/column/news/200118/clm2001180003-n1.html

【主張】伊方原発停止 高裁の迷走が止まらない
2020.1.18 05:00コラム主張

引用省略しますが、上記主張は否定的批判論ですが、NHK以上の決定理由の掘り下げがないままのイメージ主張です。
報道機関であれば、決定書要旨が手に入っているはずですし大手新聞の掲載する批判論である以上は、決定論理のどこに問題があるかの具体的指摘が欲しいものです。
担当裁判官はこの春だったかに定年退官というニュースも断片的に駆け巡り、「良心に従った公正な判断が定年前でないと書けない」あるいは「定年前で政治的立場を露骨に出した」かのような憶測も広がります。
こういう次元の低い議論が広がるのは後進国みたいで恥ずかしいことですが、決定内容要旨自体の報道がないから根拠不要の言いたい放題の応酬になります。

国民総意1と神威

大震災の猛威を見て、当時国民投票こそしていないものの、原子力発電は「やめてしまうしかないほど危険なものである・科学技術で100%安全確保できない」という国民認識が一般化していました。
いわゆる「総意」ですが、本当に重要なことは形式的な多数決ではなく総意によるのが正義というべきでしょうか?
弁護士会内や公共団体の各種委員会で議長または委員長がいろんな意見交換後議論の流れ・空気を読んで「ではこのような答申・議決でよろしいでしょうか?」などと取りまとめるのが99%以上といっても過言ではありません。
千葉県弁護士会の総会ではこの10数年以上前から政治的立場による意見対立が激しくなってきた結果か?議長により「この方向でいいですか?」的な取りまとめ方が通用しなくなって、対立の激しい総会決議等では毎回(賛成反対棄権何票等きっちり数えて)厳密な決を取っています。
日本国憲法制定は「国民総意」によるというのですが、どうやって「総意」を確認するのかしたのかが法的に問題になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八月革命説#大日本帝国憲法の改正と憲法改正限界説

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日(以下略)」

私は、上記8月革命説を提起した宮沢憲法で勉強した世代ですが、その頃読んだ記憶ではルソーの意見を引用しながら、それでもないというような私の能力では理解困難な議論を書いていた記憶ですが、理解できなかったという記憶だけ残っています。
ちなみにルソーの「総意」とはウイキペデイアによれば以下の通りらしいです。

ルソー社会契約論において意思の総和だけでない正しい理念と言う意味(一般意思)で用いた(これをヴォロンテ・ジェネラールともいう)

上記を読み直しても多数決の程度ではない・国民投票で決めるべきでもない・意味不明ですが、私流の直感的理解では、民族意思を超能力的直感で実現する行為でしょうか?
日本国憲法制定時の国会の議論では、時間的条件として制定時の国民意思ではなく、民族の過去現在未来を通じた民族意思と言うようです。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai1/sannkou4.pdf

【内閣法制局長官 真田秀夫君(昭和 54 年4月 19 日 衆・内閣委員会)】 天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくと書いてございます場合のその総意 というのは、一億何千万の国民の一人一人の、具体的な国民一人一人の意思というよう な意味ではなくて、いわゆる総意、いわゆる総体としての国民の意思ということでござ いますので、特定の人がその中に入っているとか入ってないとかいうようなことを実は 問題にしておる条文ではないというふうに考えられます。…先ほど申しましたように、 ここに言う総意というのは、いわゆる総体的な意思、一般的な国民の意思という意味で ございますので、証明しろとおっしゃっても、それはなかなか困難であろうと思います。 …いまの憲法ができますときに、これは帝国憲法の改正の形をとりましたけれども、当 時の帝国議会で衆知を集めていろいろ御検討になって、そして国民の総意はここにある のだというふうに制憲議会において御判断になった、それがこの条文の規定にあらわれ ておると、こういうふうに言わざるを得ないのだろうと思います。

総意」とは過去現在未来の民族意思と言うのですから、投票によって数字で(単純多数か、特別多数か、全国民一致か、成人だけに限定するかなどの議論以前の概念です。

公務員任命制3(下野=謀反から在野活動へ)

公務員の任命に戻ります。
ある政権の役人に任命されてもこれに応じないのは、その政権不支持→小田原征伐になったのですが、この逆コース・・脱藩の場合もおなじ意味ですので幕末までは原則として(中期以降は建前だけ)死罪扱いでした。
脱藩に関するウイキペデイアの引用です。
戦国時代では、主君を変える行為は一般的に発生していたが、江戸時代に入ると、臣下の身で主を見限るものとして、許されない風潮が高まり、追手が放たれることもあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動などが表沙汰になり、藩(藩主:大名)にとっては致命的な改易が頻繁に生じたことも一因であった。
しかし、江戸時代中期以降、泰平の時代に入ると軍事機密の意味はなくなり、慢性的な財政難のため、家臣が禄を離れることは枢要な人物でない限り事実上自由になっていた。もっとも、その場合にも法的な手続をとることが要件となっており、これに反して無断で脱藩した場合には欠落の罪として扱われて、家名は断絶・闕所、本人が捕らえられれば場合によっては死刑にされた。
明治に入っても、6年ころまでの有力者の下野は江戸時代の続き・反抗・危険勢力と見なされる社会だったようです。
下野すると各地の不平士族を糾合し反乱の旗印になることが多かったので・・西郷隆盛の場合は、国に帰ってしまうこと自体が事実上謀反準備行為的評価を受けて政府の圧迫誘導によって蜂起せざるを得なくなった・本当は賊軍ではないかのように歴史漫画等では描かれます。
ただし板垣だけは地元不平士族に取り込まれなかった・・いわゆる武断派だったのに反乱軍に担がれる方向に行かず、言論の自由・・民主化運動に特化していったのを見れば、個性人格面が重要ですが、それだけではなくバック・出身母体土佐藩の軍事力・士族勢力が強かった程度差だったかもしれません。
以上は直感的想像ですが小説家は私のような推論をしているようです。
板垣に関するウイキペデイア記載の人物評の一部です。

尾崎咢堂 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」
谷流水 「子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあると飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね」
小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]。

不平士族の乱に関するウイキペデイアの引用です。

明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。
1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった

こういう不平士族の乱が頻発する中で、板垣や後藤象二郎、副島らのグループは、明治7年民選議院設立建白書を提出します。

いわゆる有司専制(大久保独裁批判)批判に対して、政府は意見対立の都度下野させて反政府運動に追い込むのでは政権が安定しませんので,知恵を絞って?明治 8 年(1875)1月の大阪会議(大久保や木戸と下野した板垣との会議・・板垣は参議に復帰)によって下野組の一人である板垣との協議開催に成功します。
この会議で、木戸孝允の構想する立憲政体案が内定し、(板垣も同意)同年4月に「立憲政体樹立の詔」が発せられました。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

朕 即 位 ノ 初 首 ト シ テ 群 臣 ヲ 會 シ 五 事 ヲ 以 テ 神 明 ニ 誓 ヒ 國 是 ヲ 定 メ 萬 民 保 全 ノ 道 ヲ 求 ム 幸 ニ 祖 宗 ノ 靈 ト 群 臣 ノ 力 ト ニ 賴 リ 以 テ 今 日 ノ 小 康 ヲ 得 タ リ 顧 ニ 中 興 日 淺 ク 内 治 ノ 事 當 ニ 振 作 更 張 ス ヘ キ 者 少 ナ シ ト セ ス 朕 今 誓 文 ノ 意 ヲ 擴 充 シ 茲 ニ 元 老 院 ヲ 設 ケ 以 テ 立 法 ノ 源 ヲ 廣 メ 大 審 院 ヲ 置 キ 以 テ 審 判 ノ 權 力 ヲ 鞏 ク シ 又 地 方 官 ヲ 召 集 シ 以 テ 民 情 ヲ 通 シ 公 益 ヲ 圖 リ 漸 次 ニ 國 家 立 憲 ノ 政 體 ヲ 立 テ 汝 衆 民 ト 倶 ニ 其 慶 ニ 賴 ラ ン ト 欲 ス 汝 衆 庶 或 ハ 舊 ニ 泥 ミ 故 ニ 慣 ル ヽコ ト 莫 ク 又 或 ハ 進 ム ニ 輕 ク 爲 ス ニ 急 ナ ル コ ト 莫 ク 其 レ 能 ク 朕 ガ 旨 ヲ 體 シ テ 翼 贊 ス ル 所 アレ
明 治 八 年 四 月 御璽

板垣は征韓論にやぶれて西郷らと一緒に下野したものの、実力行使運動に加担せず、大阪会議を以降参議に復帰して政府に一見取り込まれますが、すぐに辞職して在野での自由民権論で言論戦を展開することになります。

上記引用続きです。

元老院における「國憲編纂」の作業は、明治 9 年(1876)9 月、元老院議 長・ たる 熾 ひと 仁親王(有栖川宮)に対し、憲法草案の起草を命ずる勅語が発せられた  ことによって始められた。
【立憲政体樹立の詔】
熾仁親王に対する勅語
「朕爰ニ我建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ以テ國憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之 ガ草按ヲ起創シ以テ聞セヨ朕將ニ擇ハントス」

豪族連合体日本の官と臣1

ついでに「事務員」という場合の意味を考えてみますと、経団連や〇〇協会の会員企業の代表者の会議体構成員と、業界団体で雇用されている事務局員とは出身母体が違い文字通り格が違います。
事務局が肥大化し官僚機構化・専門化してきて事務局見解が事実上幅を利かすことがあっても、あくまで「過去の議事録ではこういう議論が行われています」と紹介するだけであって会員の会議自体に口を挟む余地がありません。
裁判所や検察庁も事務官と裁判官や検察官とは確然たる区別があり事務局トップの事務局長になっても、平の裁判官・検察官よりも格式が低く、一般的に敬語で接するのが原則です。
ただし最高裁では事務総長だけでなく中間管理職まで裁判官を補職する事になっているので、事務部門事実上優位の逆転現象をなくすようにしています。
日弁連では事務総長・事務次長までは弁護士からの政治?任用です。
朝廷は豪族連合ですから合議体構成員になれるのは会員である豪族代表者・貴族のみであり、事務部門はその補助業務でしかありません。
国民主権国家に変身した戦後憲法においては、国民の選挙による洗礼を受けた政治家のみが政治決定できる各省大臣となり、あるいは政治的決断で決めていくのが不都合な分野では逆に民意の洗礼を受けないままで、すなわち政治的独立性を保持できるような工夫をした特別な資格による裁判官と検察官等の中間的な専門職を官といい、それ以外は事務局員でしかないという区分けをしたようです。
雇用面で言えば各省大臣任命により大臣の指揮監督を受けるものは官ではないが、次官のみは内閣の関与を受けるようにして「官」名に合わせたようです。
ちなみに最高裁判事は内閣が任命しますが、政治的思惑で任命すると中立性に問題が生じるので、実質は最高裁内で決めた推薦によって形式上内閣の任命する運用になっています。
その代わり国民審査を受けることにして間接的に民意を担保しています。

憲法

第七十九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
第八十条 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。

因みに官(天皇の直接の部下)を任命するのは天皇の権能そのものでしょうが、親任官と認証制度の始まりを以下の通り(あくまで根拠ない想像ですが、)想像して見ました。
大和朝廷の始まりは中国や中東〜欧州のように専制的権力を持つ仕組みではなく周辺豪族・漢書にいういわゆる「百余国」間でヘゲモニーで勝ち残った程度の覇者でしかなかったと思われます。
大和朝廷草創期とその前については神話レベルしか記録がないので、紀元前約1世紀頃の文字記録では上記の通り日本列島には「百余国」があったとしか分かりませんが、朝廷秩序の亜流である武家政権秩序が大崩壊した戦国時代をその再現として想定してみます。
ただし以下の記述は学問的意見に基づくのではなく、素人の私の直感想像によるものです。
戦国大名草創期から、織豊政権を経て徳川政権樹立〜幕末期までを見ても日本ではいつも豪族の連合体的性質を維持してきました。
例えば上杉謙信や織田信長の例で見ると、まずそれぞれの一族内闘争を勝ち抜き、(現在での地方制度で言えば1〜2郡程度の地域支配権確立後)尾張や越後国内での諸豪族の支持集めに勝ってヘゲモニー争いを勝ち抜いていき(スポーツで言えば県大会)国内統一に成功すると今度は周辺隣国への侵略開始していき、戦国時代後期には数カ国レベルの支配者・地域大国が全国規模で発生して最後の全国大会・制覇になります。
このように初期戦国大名は、地元豪族・国人層の支持取り付けによってなりたっているので(今の代議士が地元後援会支持でなりたっているのと同様)いつも気を使う存在です。
戦国大名=戦闘集団である以上戦闘状態では指揮命令が必須ですが、日常業務的には連合体・業界団体のような関係です。
この様にしてあちこちで地域大国が出現し最後に信長の天下が、始まるかに見えた時にも、家康の支持その他国内諸大名とのやりとりがあって権力を維持できていたし、光秀は天下諸大名の支持取り付けに失敗したので三日天下に終わったものです。
後継の秀吉政権も最大のカウンター勢力家康との小牧長久手の戦いで、決定的勝利を収めることができず、朝日姫を人質として送ることでようやく出仕して貰えるようになったものです。
このように日本では権力者はいつも配下に入った武将への気配りを欠かせない状態で幕末まで来ました。
有力武将上がりの連合体で政権ができるので運営参加権者は同業者組合の役員会や総会は事業主の集まりのように豪族代表でしょうが、事務を担当するのは事務局です。
朝廷あるいは織豊政権・徳川将軍家でも実務処理作業が増えてくるので、内部事務官僚が必要になり事務官僚に相応の職務=権限付与が必要になります。
豊臣政権では家康や前田利家などの大老の他に実務官僚.五奉行などの官僚組織が出来上がり、そこで頭角を現した実務官僚の石田三成らと、戦国時代を生き抜いた武断派との確執が起きました。
しかし秀吉以後乱世の兆しが起きると豪族連合の本質が表面化し、三成ら事務官僚の影響力は背景に退くので本来のプレーヤーではなくなったのです。
三成がそのまま引き下がれば家康による豊臣政権乗っ取りはスムースだったでしょうが、それでは政権の名分がなく鎌倉幕府の北条執権家みたいな黒子役しかできないので、むしろ決戦による政権交代を求めるために必要な標的として家康が三成を匿い、三成の旗揚げを誘導してので関ヶ原の決戦に引きずり込めたのですが、その点は話題がそれるのでこの程度にします。

徳川体制も連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制下で連合の本質が隠され、一見主君と臣下の関係貸していましたが、黒船来航に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に外様大名を中心に対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行きました。
有力諸侯の協議江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、清掃の舞台が京都の映ったこと自体が象徴しているように、京都での協議結果が帰趨を決するようになると幕府もこれを無視できず一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なもので上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。

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