評→郡への表示変更

私の憶測では、日本の「さと」は中国の里より規模が大きかったので、中国の郷に変えるべきと言う意見が優ってきたのでしょう。
中国の郷の制度を取り入れると中国の郷にしては規模が小さすぎるので里(さと)という単位が復活したところもあり、複雑な関係が残ってきたように見えます。
一般的理解では、何とかの「さと」は生家近くの「うさぎ追いしかの山・・」という範囲・・せいぜい現市町村内の大字レベルですし、郷の方は故郷という場合の用法・一つの市町村よりも大きい一望できる限界までの地域・・大きな流域の場合、上中下流域の全部というか、上記白川郷のような一定の生き方・生活様式が決まるほどの規模の地域です。
このシリーズを書くまでは、郡という漢字の普及と中国から律令制が入った時期との前後関係が私には不明でしたが、(新井白石時代の論争を知りませんでしたが、無意識にそのレベルで止まっていた?)以上見てきたところでは大宝律令までの漢字表記では「評」(こおり)しかないのに律令制定後一挙に郡の文字記載に変わったということらしいので、以下想像ですが、律令制の分国体制が敷かれるとその下部単位として中国の郡県制の名を借りた郡、郷里制に統一され・・従来の評や「むら」を一挙に消し去ったようです。
評に関するウイキペデイア引用です

中国正史には、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこおり)」という地名が登場することから、新井白石[7]・本居宣長[8]・白鳥庫吉[9]らは、「評」という字や「こほり(こおり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するという説を唱えていた。また金沢庄三郎は日本語と朝鮮語が同系であると考えて「こおり」を「大きな村」という意味の古代日本語という説を唱えている[10]。
発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。

どこかで橿原考古学研究所の発掘成果として見た記憶ですので、ネットで探しましたがこれしか見つかりませんでした。
評に関するウイキペデイア記事中参考文献の紹介です

昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。これにより、それまでの郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』を編纂した奈良時代に書き替えられたことが明白になった。「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」木下正史著『藤原京』中央公論新社 2003年 64ページ

新井白石らの論争が1967年にようやく決着したにすぎないものです。
ただし評→郡と漢字が変わっても和語ではそのまま「こおり」と読み、里(さと)→郷を同じくサトと読むようにしてしぶとく現在に至っています。
明治政府が地方行政区最小単位を「村」という漢字に変えても国民には同じ「むら」と読ませて来たのと同じでしょうか?
100年以上経過すると「むら」の漢字は「村」しかない・・「邑」を「むら」とも読むのか?ように多くの人が思い込んでしまうようになっています。
吉川英治の小説「宮本武蔵」では「美作の国、宮本村の武蔵」だから宮本武蔵というというような書き出しの記憶ですが、宮本村は正しいとしても、漢字の「村で表現するのが正しいかどうかの検証なしに作家が、漢字の「村」を書いたように思います。
あるいは作家の原稿では「むら」と書いていたのを印刷屋が勝手に漢字に変換してしまったのか?
(この記憶は小学生の頃に学校の図書室にあった子供向きのカバヤ文庫などの本を手あたり次第に読んでいて、子供向けの本を読み尽くした5年生の時に漢字だらけの宮本武蔵の本を読みだした時の記憶ですので、正確な記憶かどうかは保証の限りではありませんが・・)
このころの作家は今に比べると時代考証が甘かった面もありますので、有名作家の作品だからといって史実とあっているかも不明ですし、まして戦国時代に村(ムラ)という集落名があったかも不明です。
あちこちの展覧会等で時々展示される大名に対する知行加増文書原本などを見ると何々郡何々の庄宮前何町何反何畝などの書き方だった記憶です。(記憶なので印象程度です)
例えば大岡越前や田沼意次その他出世に伴い、数千石づつ加増されるのですが戦国大名のような一円領地ではなくあちこちの1〜2町歩程度の小刻みな知行地加増の集計で千石単位になる仕組みでした。
水野忠邦が1円支配復活を目指し領地替えを改革の柱にしたのですが、反対が多くて失敗したことを紹介したことがあります。
(ひとつの田んぼに数人以上の領主がある事例が頻発していたようです。)
これが幕末徳川譜代の戦力低下と経済力低下(特産品産出努力が不可能です)に結びついていきます。
公式文書にどうやって表示していたか、ネット検索してみると江戸時代の往来手形〜人別送り状には村の表示が結構見つかりました。
例えば以下の資料です。
https://komonjyo.net/okuriiisatu01.html
転載禁止なので、関心のある方は上記に入ってご覧ください。
江戸幕府は吉宗以降6年に1回の割合(子午の年)で定期的に全国(全大名に対して)人口や石高調査報告を命じていますが、その布達書に村等の記載があります。
江戸時代の人口調査に関するウイキペデイアです。

全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」

また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。

ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

日本社会は武士の台頭とともに歴史に出てくる政治の主役が地下人・・武士層に移りましたが、国や郡単位の政治だけでなく、そのもっともっと小さな・・十数戸の小さな集団・・足元からボトムアップ型の組織運営技術が育まれてきたことをさらに書いていきます。
地方の民主化は鎌倉期以降着実に経験を積んで成熟してきた制度だったことが分かります。
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東アジアの地方自治・試論

引用続きです。
前述の通り、幕藩体制下の農村は間接支配を受けたが、明治以降の近代政府は直接支配をめざした。明治政府は1871年に廃藩置県を断行すると、翌年、末端の地方制度として「大区小区制」を実施した。当時8万あった江戸期の村は無視し、府県下に906の大区、7699の小区(1878年段階の数)を設置した。
1区ほぼ10町村の計算である。旧来の名主、庄屋を廃し、区長、戸長などを任命した63)。人々はこれに抵抗した。1874年以降繰り広げられる自由民権運動は、国会開設などとともに、地方自治の確立を求めた運動であったことを想起する必要がある。特権を失いつつある不平士族の他、村役の出身基盤でもあった豪農層、地租改正や入会地没収などに抗議する一般農民たちもこの抵抗運動に加わっている。
当時つくられつつあった地方民会を拠点に地方民会の地方議会への制度化、議員公選制などの要求が出されている。
租税の徴収は大区小区制のもとでの区長、戸長の仕事でもあった。特に木戸孝允・大久保利通らは、急激な中央集権化が地方の不満を高めていることを強く憂慮し、これが1878年の大区小区制廃止(郡区町村編成法)をもたらす要因だったと言われる64)。これで、かつての小規模な町村が一旦は復権されるとともに、同年の内務省乙第54号が、町村の長(戸長)を公選にする方針も明らかにした。
明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。
1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。
明治の集権国家の中にも江戸の村の民主主義は根強く存続していった。その原理は、町内会、部落会などで(再び支配原理に動員されながら)近代史を生き延び、戦後GHQに解散を命じられたにもかかわらず、再び町内会や自治会として今日の時代にも引き継がれる66)。現在の「平成の大合併」に抵抗する人々を突き動すのも、自由民権運動の、さらには江戸民主主義のDNAかも知れない。

どこかで読みましたが、古代の邑が大きくなっていったので隋や唐では村が地方最末端単位になっていたらしいですが、中央派遣役人支配の村組織が日本では実態に合わないから律令制導入時に採用されずに来たものと思われます。
明治日本になって中央集権制制度完成に村制度を取りいれるのが好都合となって「村」制度を創設しこれを学校教育で、自然発生的ムラと同じ読み方のムラの発音を強制していますが、寄り合い民主主義のムラ組織とは本来異質のものです。
千葉県市原市の人と事件で話したときには(私が千葉県に来た時には、市原郡は全部合併して一つの市原市になっていましたが、)隣接地区のことを、隣の何々「ソン」の人は・とか〇〇ソンの場合と言う人に多く出会いました。
地元の人は行政単位の村はソンであって自分たちの「ムラ」とは思っていない様子でした。
吉田松陰の開いた塾を松下村(ソン)塾というように、歴史学者は集落共同体の説明するのに、中世や江戸時代の村落共同体などと、「村」が自明の言語のように書いていますが、そもそも明治政権が地方制度の採取単位を村と言う「漢字」表現するまで末端集落を「〇〇の庄」とか言っても、集落名に村という漢字を使っていなかったし村をムラと訓読みしていなかったのでないかの疑いを持っています。
以下「さと」里とセットの郷について見ていきます。
ところで里と郷は和語ではどちらも「さと」と読み区別境界が曖昧ですので、この機会になぜ現在に至るまで曖昧なままになっているのかを見ていきます。
郷に関するウイキペデイアの解説です。

日本の郷
日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に 里 (り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷(ごう、さと)に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く郷里制に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。
平安時代中期の辞書である『和名抄』は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しており、例えば平安京が置かれた山城国葛野郡には12郷が存在していたことがわかる(右表参照)。
中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。合掌造りで知られる白川郷などはその例である。
中国における郷[編集]
中国において郷(簡体字:乡,繁体字:鄉)は秦・漢の時代から存在しており(→郷里制、漢代の地方制度を参照)、現在も行政区画として存続している。

大宝律令制定当時は最小単位の「さと」を中国の制度にある里にしていたのに715年に里を郷に改めたようです。

ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

私の幼児期から小中学当時の経験ですが、寄り合いの状況を子供ころに見聞した記憶では、夜7〜8時頃に一家の主人?お父さんたちが、10畳前後の座敷に集まり//寄り合いとはよく言ったもので薄暗い電球の下で皆膝を突き合わせて肩寄せ合っての会話状態で、会議というより、うなづきあったりするイメージです。
弁護士会の委員会でもそうですが、参加人数が10人を超えると主催者と誰かのやりとりを周りが聞いているだけになりみんなが発言する暇がなくなります。
一つの問題に疑問や質問を2〜3回繰り返すことを皆が順次発言して回していくと時間がかかりすぎるので無理があります。
自民税調のインナーが有名ですが、何事も4〜5人の協議を繰り返すのが内容が深まるものです。
そういう意味では私の住んでいた集落の規模・運用は意思疎通に適したものだったイメージです。
小さな集落ごとに子供の頃から男女別に年齢相応の社会共同作業や合議で決めていく政治経験を積んできたのが我が国の社会で、これが現在のボトムアップ型・成熟社会を形作ってきたようです。
村八分などは忌まわしい人権侵害行為の代表のように教育されてきましたが、実は刑罰権を持たない自治組織としては、合理的理由なく共同作業に参加しないルール破りに対する(暴力行為を嫌忌する現在日本社会に連なる優しい組織としては)間接的制裁が必須であったこともわかります。
(積み立てをしないずるい人を一定の祝いルール・祝儀対象から外すなど・・お伊勢参りにつれていかないなど当然の制裁でしょう)
法學だったか政治学で習ったか忘れましたが、いわゆる社会的制裁サンクションの一種です。
集落の世話人?庄屋などのが決まっていくシステムが以下の通り紹介されます。
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東アジアの地方自治・試論
に戻ります。

名主を村人(ムラ人・稲垣注)が選ぶということは要するに選挙である。選挙制度は近代になって欧米から移入されたのではなく、日本の江戸時代の村で始められていた。これを「入れ札」という。例えば、大阪府羽曳野市に含まれる古市村では、1808年に行われた庄屋選挙で、200軒以上あった百姓家に対し入り札が実施され、その札が今も残されている51)。こうした諸研究に基づき、水谷三公は「江戸の遺産 ―民主主義」52)について簡潔にまとめている。それによると「江戸も少なくとも後期に入ると、近畿地方や関東地方など、社会・経済的「先進地域」のかなり広い範囲の村々で、村人一般による入れ札、つまり投票が実施されるように」なった。それを幕府も黙認していたようで、例えば、1848年、常陸の幕府代官・新井清兵衛が村々にまわした「申渡」で、後任が入れ札で決まっても退任を渋る名主が居るが、速やかに対応をすべきであると指示している53)。この入れ札制度は遺産として明治にも受け継がれたとして水谷は次のようにも言う。
「公式の幕府文書や村方史料に記録される以上に、入り札、つまり多数決で、人選や各種決定をする慣行が庶民の間にあったのではないかと想像する。そうでなければ、維新後まもなく導入された県会議員や町村会議員の選挙が、あれほど円滑に機能したのか、理解が難しい。」54)
江戸時代の村政は、こうした(時に)選挙される名主(庄屋)と、組頭(年寄)、百姓代(村目付)による「村方三役」の合議で運営された。重要事項は、各戸長の集まる「寄合」で「多分の儀」(多数決)により決められた。「村の民主主義」について説得的にまとめた田中優子は、次のように言う。
「村の重要事の議論と決定は、<寄合>で行われた。いわば議会である。寄合は全員加盟が原則だったが、この場合の一人というのは、一家に一人のことをいう。入れ札の票も、一家に一票である。家族単位のところが、現代と大きく違っている。寄合でものごとを決めるときは、多分(多数決)が基本であるが、時には満場一致が求められることもあった。このようなものごとの決定と運営は、生活の村の仕事であり、制度上の村=村方三役の仕事ではなかった。」55)
入れ札も多分の儀も、必ずしも江戸期に初めて現れるのではなく、それ以前からの長い歴史があるようだ。例えば水谷は、中世から戦国時代にかけて「多数決が重要な政治・軍事的決定の際のやり方として公認されていた」として次のように言っている。
「寺院僧侶の間で、領主相互に、あるいは村の内部やその連合体で、ほとんど社会のあらゆるレベルで「多分の儀」が強調されていた。当時の文書を見ればしばしば「多分の儀につくべし」といった類いの表現に出会うが、これを現代風に言い換えれば、多数決で決めたことには従うべきだと言うに外ならない。このような多数決の強調には、中世から戦国時代の社会に特有の事情も働いていたから、これだけで日本の強固な伝統と言い切るわけにはいかないとしても、<多数決が>伝統とは無縁な外来制度と言うのが誤りなことは分かる。」56)
村の自治は、ある意味で明治になってこそ根本的に蹂躙され、徹底した中央集権国家化が推し進められたとも言える。

引用が長くなったので今日はこれで終わり明日に続けます。

江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2

入会に関するウイキペデイアの続きです。

入会団体の構成員を入会権者と言い、入会権者の収益権を入会収益権という。判例によると、入会収益権が侵害された場合、入会権者は妨害排除請求の訴えを起こすことができる。入会地の実質的所有者は入会団体であるから、代表者の定めの無い入会団体の場合、民事訴訟法の規定を素直に解釈すれば、妨害排除請求には入会権者全員の同意が必要という結論に至る。

村人の誰か一人が、どこかの悪徳業者に入会地に何か施設を作って良いとか、伐採して良いとそそのかした場合、集落の一人でも裁判すノンジ反対すると何もできない・政府の工事に一人でも賛成者がいるとどうにもならないという変なパターンです。
ウイキペデイアの続きです。

この問題の解決方法は2つの説がある。
一つは、民事訴訟法にある「代表者」の解釈を広げて、「訴訟物の処分に関する権限を持つ代表者」を示すと解釈する説である。各入会権者は、入会地の所有権を処分する権限は持たないが、自己の入会収益権について妨害排除請求をすることに関しては、各入会権者は、入会団体から妨害排除請求をする権限を「代表者」として与えられていると解釈するのである。
もう一つの説は、入会収益権の侵害を不法行為としての面から捉え、既に成された不法行為から生じた不法行為債権に基づく賠償請求の一環として、妨害排除請求を解釈するものである。

※ ここで前もって書いておきますが、当時から本当に惣「村」という呼称が流通していたのか?当時は単に「惣」とか、「結い」と言っていただけでないのかの疑問を抱いていますが、已む無くそのまま「村」落共同体などのまま引用して書いていますが、学者らしい人のネット意見を見るとすべてと言って良いほど、「惣村」とか「村落」という書き方・・明治政府が創設したはずの漢字の「村」があたかも昔から漢字の「村」制度があるかのような書き方に疑問を抱いていることを断っておきます。
ただし、村落をウイキペデイアで見ると

学術用語として村が確定しているからこれを学者が使っているようです。
村落(そんらく、英語: village, hamlet)とは、人口や家屋の密度が小さく、第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語。一般的には農村などの呼称が用いられることが多い。対義語は都市。
地理学的概念である集落に対して、村落は、人間関係の社会的・文化的な統合状態に基づく社会学的概念である。

以上によれば、歴史上古代から「村落」という用語があったかどうかではなく、「第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語」というのですから、「村」という漢字を使っていなかった縄文〜古墳時代(には一次産業しかないでしょうから)を表現するにも村落と書くわけです。
特定時代に置かれた制度でしかない呼称を、全時代共通の学術用語にしてしまう学界のセンスが疑われます。
しかも明治の市町村制は、縄文時代以降数千年の歴史を通底する本質を有するどころか、逆に最末端単位の慣習法上の制度(最末端組織は概ねボトムアップ型・寄り合い合議制だったと素人的推測ですが・・)を全面的に断ち切った極めて異質な制度です。
いわば民俗学的に?見れば、異質な行政目的単位です。
自然村と行政村の区別がある訳です。
行政効率の視点で見れば、単位を大きする方が合理的ですので、明治政府の地方制度発足以来合併に次ぐ合併の繰り返しで今や各県に残っている「村」は一つか二つしかない有様です。
明治政府が中央の威令が行き渡るように村「長」を置いて末端集落を支配するようになって以降の「村」を古代から連綿と村制度があったかのように誤解させてしまう魔術?学術用語にした点がどこか不思議です。
以下を見ると日本のムラ社会は鎌倉期の惣村の流れを汲み基本が自治組織でムラの乙名江戸時代以降頻繁に出てくるオトナ・長老の語源のようです)らを中心に運営していたのが、江戸時代には原則として輪番制になり、そのうち寄り合いで多数の支持を得たものになりますが、これでも3年以上続けると幕府(領主)から手当をゼロにするなどの制裁があったようです。
その他相互扶助→臨時に人手のいる家の建て替えや、道や灌漑施設の修理等の普請共同で地域を守る作業には・相応の資金が入ります。
この財源は集落有農地あるいは共同農地/入会地等の共同経費に充てる収入源・・・神社の場合神田などで知られえるように・・ありました。
中央集権化を図る明治政府が、地方制度創設により最末端基礎集落まで村として政府任命役人が支配する体制を整備すると同時に基礎集落の独自財源も奪う政策をしていきました。
病人の世話、葬式などの共済事業目的の場合、今の保険制度同様に積立金制で一定期間ごとに順に旅行するなど(お伊勢参りその他の謂わゆる講)があるほか、若者、西国では若衆組織があって自警団や、火消し等主役になるあるほか、お祭りの準備その他多角的活躍の場があったようです。
明治になってから何もかも政府の仕事になっていき、現在でも若者参加型で残っているのはお祭り程度です。
中央政府がいかに権力を持って地元の共同作業を奪っていき、財政基盤を奪っても奪いきれないのが土地神を祀るお祭りだったのでしょうか?
(その程度の費用は地元民の浄財でなんとかなりますので)
現在でも岸和田市などの激しいダンジリの動きは軍役の名残を想起したくなる・・岸和田城は、観応の擾乱の頃から軍事的重要拠点でしたし大坂の陣攻防戦の前哨戦になる地域でもありました。
防衛の必要性のない一般集落の経験しかない地域のお祭りは、激しくない単純神事の中枢的行事に細ってきました。
集落の真髄はまさにこれであり、これだけは行政によっては変えられないということでしょうか?

江戸時代までのムラと明治の村の違い1(入会地)

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東アジアの地方自治・試論
岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

従来の自治組織を破壊した町村制がうまくいかないので、現地人望家を何の権限もない名誉職的区長に任命して地元民との潤滑油を期待したものでした。
飛鳥時代の律令制定時に郡とその下位単位の里までは権力的整備したものの、自然発生的集落まで手をつけらなかったのですが、明治の地方制度改革は郡(こおり)以下の原始的共同体破壊まで目指したものでした。
律令性による全国への国司派遣が地元豪族を無視出来ず郡司を置いたのと同じパターンでやむなく「区長」(それまでの同輩の輪番制を否定して上下をはっきりさせる「区長」と名称を改めさせて)というものを並存せざるを得なかったのでしょう。
ただ、律令制の時は国家権力が弱かったので地元豪族の経済基盤を奪うことまでできなかったのですが、明治政府は各地集落運営の経済基盤である里山等の管理運営権の接収に向かいました。
これが我々法律家で有名な戒能通孝氏の研究・・入会権論争です。
中近世の集落は入会地の収益を通じて基礎集落・自治組織の運営経費を賄ってきたのですが、明治政府は、明治民法制定により「個人所有でないものは国有である」という論理でドンドン国有化して自治集団の息の根を止める政策に出たようです。
下記民法294条の適用をめぐる争いでした。
民法

第二節 所有権の取得
(無主物の帰属)
第二百三十九条 所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2 所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。
第七章 留置権

入会権に関するウイキペデイア解説です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された。)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。

これが現在の町内会に繋がるようで、町内会独自の資金がない・・任意の会費支払いによる状態です。
ウイキペデイア引用続きです

入会収益権は登記することができない。また、一般の権利能力なき社団の所有地の場合と同様に、入会団体の名によって登記することもできない。
しかし、薪拾いや耕作等の入会活動が行われている場合は、信義則の働きによって、登記がなくても第三者に対抗できる。第三者が登記の不備を理由に権利を主張するためには、善意無過失である必要があり、土地を実際に見れば入会権が存在する可能性が予見できる場合は、第三者の善意又は無過失を否定できるのである(登記の欠陥の主張は、悪意者であっても理論上は認められ得るが、悪意者が登記の欠陥を主張することは、原則として信義に反すると判断されるため、信義則に照らして保護されるべき理由がない限り、悪意者は登記の欠陥を主張できる正当な権利者とは判断されない。)。

せっかく判例で認められても法制度上の鬼っ子ですから、国有地として所有権登記されるとその登記抹消も認められない・上記条文の通り地役権でしかないので使っても良いという程度です。
政府は関連法令を整備しないで放置したまま現在にいたり、この数十年では里山に経済価値がないので地元民も薪をとり薪炭を焼く経済効用もないし荒れるに任せている状態です。
登記制度もないので登記できないし、裁判するにしても部落民権利者全員でないと出来ない?
村から出ていった人の権利はどうなる・次男以下の新宅がある場合長男の家だけ一票なのかなど調査も複雑で(鉄道用地買収の相手方として弁護士実務でやったことがありますが、被告としてどこまで把握すべきかもはっきりしない)、誰の名で裁判できるかもはっきりしないなど、権利行使阻害要因がいっぱいありました。

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