江戸時代までのムラと明治の村制度の違い(入会地)2

入会に関するウイキペデイアの続きです。

入会団体の構成員を入会権者と言い、入会権者の収益権を入会収益権という。判例によると、入会収益権が侵害された場合、入会権者は妨害排除請求の訴えを起こすことができる。入会地の実質的所有者は入会団体であるから、代表者の定めの無い入会団体の場合、民事訴訟法の規定を素直に解釈すれば、妨害排除請求には入会権者全員の同意が必要という結論に至る。

村人の誰か一人が、どこかの悪徳業者に入会地に何か施設を作って良いとか、伐採して良いとそそのかした場合、集落の一人でも裁判すノンジ反対すると何もできない・政府の工事に一人でも賛成者がいるとどうにもならないという変なパターンです。
ウイキペデイアの続きです。

この問題の解決方法は2つの説がある。
一つは、民事訴訟法にある「代表者」の解釈を広げて、「訴訟物の処分に関する権限を持つ代表者」を示すと解釈する説である。各入会権者は、入会地の所有権を処分する権限は持たないが、自己の入会収益権について妨害排除請求をすることに関しては、各入会権者は、入会団体から妨害排除請求をする権限を「代表者」として与えられていると解釈するのである。
もう一つの説は、入会収益権の侵害を不法行為としての面から捉え、既に成された不法行為から生じた不法行為債権に基づく賠償請求の一環として、妨害排除請求を解釈するものである。

※ ここで前もって書いておきますが、当時から本当に惣「村」という呼称が流通していたのか?当時は単に「惣」とか、「結い」と言っていただけでないのかの疑問を抱いていますが、已む無くそのまま「村」落共同体などのまま引用して書いていますが、学者らしい人のネット意見を見るとすべてと言って良いほど、「惣村」とか「村落」という書き方・・明治政府が創設したはずの漢字の「村」があたかも昔から漢字の「村」制度があるかのような書き方に疑問を抱いていることを断っておきます。
ただし、村落をウイキペデイアで見ると

学術用語として村が確定しているからこれを学者が使っているようです。
村落(そんらく、英語: village, hamlet)とは、人口や家屋の密度が小さく、第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語。一般的には農村などの呼称が用いられることが多い。対義語は都市。
地理学的概念である集落に対して、村落は、人間関係の社会的・文化的な統合状態に基づく社会学的概念である。

以上によれば、歴史上古代から「村落」という用語があったかどうかではなく、「第一次産業に従事する人の割合が高い集落を指す学術用語」というのですから、「村」という漢字を使っていなかった縄文〜古墳時代(には一次産業しかないでしょうから)を表現するにも村落と書くわけです。
特定時代に置かれた制度でしかない呼称を、全時代共通の学術用語にしてしまう学界のセンスが疑われます。
しかも明治の市町村制は、縄文時代以降数千年の歴史を通底する本質を有するどころか、逆に最末端単位の慣習法上の制度(最末端組織は概ねボトムアップ型・寄り合い合議制だったと素人的推測ですが・・)を全面的に断ち切った極めて異質な制度です。
いわば民俗学的に?見れば、異質な行政目的単位です。
自然村と行政村の区別がある訳です。
行政効率の視点で見れば、単位を大きする方が合理的ですので、明治政府の地方制度発足以来合併に次ぐ合併の繰り返しで今や各県に残っている「村」は一つか二つしかない有様です。
明治政府が中央の威令が行き渡るように村「長」を置いて末端集落を支配するようになって以降の「村」を古代から連綿と村制度があったかのように誤解させてしまう魔術?学術用語にした点がどこか不思議です。
以下を見ると日本のムラ社会は鎌倉期の惣村の流れを汲み基本が自治組織でムラの乙名江戸時代以降頻繁に出てくるオトナ・長老の語源のようです)らを中心に運営していたのが、江戸時代には原則として輪番制になり、そのうち寄り合いで多数の支持を得たものになりますが、これでも3年以上続けると幕府(領主)から手当をゼロにするなどの制裁があったようです。
その他相互扶助→臨時に人手のいる家の建て替えや、道や灌漑施設の修理等の普請共同で地域を守る作業には・相応の資金が入ります。
この財源は集落有農地あるいは共同農地/入会地等の共同経費に充てる収入源・・・神社の場合神田などで知られえるように・・ありました。
中央集権化を図る明治政府が、地方制度創設により最末端基礎集落まで村として政府任命役人が支配する体制を整備すると同時に基礎集落の独自財源も奪う政策をしていきました。
病人の世話、葬式などの共済事業目的の場合、今の保険制度同様に積立金制で一定期間ごとに順に旅行するなど(お伊勢参りその他の謂わゆる講)があるほか、若者、西国では若衆組織があって自警団や、火消し等主役になるあるほか、お祭りの準備その他多角的活躍の場があったようです。
明治になってから何もかも政府の仕事になっていき、現在でも若者参加型で残っているのはお祭り程度です。
中央政府がいかに権力を持って地元の共同作業を奪っていき、財政基盤を奪っても奪いきれないのが土地神を祀るお祭りだったのでしょうか?
(その程度の費用は地元民の浄財でなんとかなりますので)
現在でも岸和田市などの激しいダンジリの動きは軍役の名残を想起したくなる・・岸和田城は、観応の擾乱の頃から軍事的重要拠点でしたし大坂の陣攻防戦の前哨戦になる地域でもありました。
防衛の必要性のない一般集落の経験しかない地域のお祭りは、激しくない単純神事の中枢的行事に細ってきました。
集落の真髄はまさにこれであり、これだけは行政によっては変えられないということでしょうか?

江戸時代までのムラと明治の村の違い1(入会地)

https://k-okabe.xyz/home/ronbun/asiajichi.html

東アジアの地方自治・試論
岡部一明 『東邦学誌』第34巻第2号(2005年12月)

明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。

従来の自治組織を破壊した町村制がうまくいかないので、現地人望家を何の権限もない名誉職的区長に任命して地元民との潤滑油を期待したものでした。
飛鳥時代の律令制定時に郡とその下位単位の里までは権力的整備したものの、自然発生的集落まで手をつけらなかったのですが、明治の地方制度改革は郡(こおり)以下の原始的共同体破壊まで目指したものでした。
律令性による全国への国司派遣が地元豪族を無視出来ず郡司を置いたのと同じパターンでやむなく「区長」(それまでの同輩の輪番制を否定して上下をはっきりさせる「区長」と名称を改めさせて)というものを並存せざるを得なかったのでしょう。
ただ、律令制の時は国家権力が弱かったので地元豪族の経済基盤を奪うことまでできなかったのですが、明治政府は各地集落運営の経済基盤である里山等の管理運営権の接収に向かいました。
これが我々法律家で有名な戒能通孝氏の研究・・入会権論争です。
中近世の集落は入会地の収益を通じて基礎集落・自治組織の運営経費を賄ってきたのですが、明治政府は、明治民法制定により「個人所有でないものは国有である」という論理でドンドン国有化して自治集団の息の根を止める政策に出たようです。
下記民法294条の適用をめぐる争いでした。
民法

第二節 所有権の取得
(無主物の帰属)
第二百三十九条 所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
2 所有者のない不動産は、国庫に帰属する。
第二百九十四条 共有の性質を有しない入会権については、各地方の慣習に従うほか、この章の規定を準用する。
第七章 留置権

入会権に関するウイキペデイア解説です。

歴史的には、明治に近代法が確立する以前から、村有地や藩有地である山林の薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉等を村民が伐採・利用していた慣習に由来し、その利用及び管理に関する規律は各々の村落において成立していた。明治期にいたり、近代所有権概念の下、山林等の所有者が明確に区分され登録された(藩有地の多くは国有地として登録された。)。一方、その上に存在していた入会の取り扱いに関し、民法上の物権「入会権」として認めた。なお、このとき国有地として登録された土地における入会権については、政府は戦前より一貫してその存在を否定していたが、判例はこれを認めるに至っている。

これが現在の町内会に繋がるようで、町内会独自の資金がない・・任意の会費支払いによる状態です。
ウイキペデイア引用続きです

入会収益権は登記することができない。また、一般の権利能力なき社団の所有地の場合と同様に、入会団体の名によって登記することもできない。
しかし、薪拾いや耕作等の入会活動が行われている場合は、信義則の働きによって、登記がなくても第三者に対抗できる。第三者が登記の不備を理由に権利を主張するためには、善意無過失である必要があり、土地を実際に見れば入会権が存在する可能性が予見できる場合は、第三者の善意又は無過失を否定できるのである(登記の欠陥の主張は、悪意者であっても理論上は認められ得るが、悪意者が登記の欠陥を主張することは、原則として信義に反すると判断されるため、信義則に照らして保護されるべき理由がない限り、悪意者は登記の欠陥を主張できる正当な権利者とは判断されない。)。

せっかく判例で認められても法制度上の鬼っ子ですから、国有地として所有権登記されるとその登記抹消も認められない・上記条文の通り地役権でしかないので使っても良いという程度です。
政府は関連法令を整備しないで放置したまま現在にいたり、この数十年では里山に経済価値がないので地元民も薪をとり薪炭を焼く経済効用もないし荒れるに任せている状態です。
登記制度もないので登記できないし、裁判するにしても部落民権利者全員でないと出来ない?
村から出ていった人の権利はどうなる・次男以下の新宅がある場合長男の家だけ一票なのかなど調査も複雑で(鉄道用地買収の相手方として弁護士実務でやったことがありますが、被告としてどこまで把握すべきかもはっきりしない)、誰の名で裁判できるかもはっきりしないなど、権利行使阻害要因がいっぱいありました。

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