ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

日本社会は武士の台頭とともに歴史に出てくる政治の主役が地下人・・武士層に移りましたが、国や郡単位の政治だけでなく、そのもっともっと小さな・・十数戸の小さな集団・・足元からボトムアップ型の組織運営技術が育まれてきたことをさらに書いていきます。
地方の民主化は鎌倉期以降着実に経験を積んで成熟してきた制度だったことが分かります。
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東アジアの地方自治・試論

引用続きです。
前述の通り、幕藩体制下の農村は間接支配を受けたが、明治以降の近代政府は直接支配をめざした。明治政府は1871年に廃藩置県を断行すると、翌年、末端の地方制度として「大区小区制」を実施した。当時8万あった江戸期の村は無視し、府県下に906の大区、7699の小区(1878年段階の数)を設置した。
1区ほぼ10町村の計算である。旧来の名主、庄屋を廃し、区長、戸長などを任命した63)。人々はこれに抵抗した。1874年以降繰り広げられる自由民権運動は、国会開設などとともに、地方自治の確立を求めた運動であったことを想起する必要がある。特権を失いつつある不平士族の他、村役の出身基盤でもあった豪農層、地租改正や入会地没収などに抗議する一般農民たちもこの抵抗運動に加わっている。
当時つくられつつあった地方民会を拠点に地方民会の地方議会への制度化、議員公選制などの要求が出されている。
租税の徴収は大区小区制のもとでの区長、戸長の仕事でもあった。特に木戸孝允・大久保利通らは、急激な中央集権化が地方の不満を高めていることを強く憂慮し、これが1878年の大区小区制廃止(郡区町村編成法)をもたらす要因だったと言われる64)。これで、かつての小規模な町村が一旦は復権されるとともに、同年の内務省乙第54号が、町村の長(戸長)を公選にする方針も明らかにした。
明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。
1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。
明治の集権国家の中にも江戸の村の民主主義は根強く存続していった。その原理は、町内会、部落会などで(再び支配原理に動員されながら)近代史を生き延び、戦後GHQに解散を命じられたにもかかわらず、再び町内会や自治会として今日の時代にも引き継がれる66)。現在の「平成の大合併」に抵抗する人々を突き動すのも、自由民権運動の、さらには江戸民主主義のDNAかも知れない。

どこかで読みましたが、古代の邑が大きくなっていったので隋や唐では村が地方最末端単位になっていたらしいですが、中央派遣役人支配の村組織が日本では実態に合わないから律令制導入時に採用されずに来たものと思われます。
明治日本になって中央集権制制度完成に村制度を取りいれるのが好都合となって「村」制度を創設しこれを学校教育で、自然発生的ムラと同じ読み方のムラの発音を強制していますが、寄り合い民主主義のムラ組織とは本来異質のものです。
千葉県市原市の人と事件で話したときには(私が千葉県に来た時には、市原郡は全部合併して一つの市原市になっていましたが、)隣接地区のことを、隣の何々「ソン」の人は・とか〇〇ソンの場合と言う人に多く出会いました。
地元の人は行政単位の村はソンであって自分たちの「ムラ」とは思っていない様子でした。
吉田松陰の開いた塾を松下村(ソン)塾というように、歴史学者は集落共同体の説明するのに、中世や江戸時代の村落共同体などと、「村」が自明の言語のように書いていますが、そもそも明治政権が地方制度の採取単位を村と言う「漢字」表現するまで末端集落を「〇〇の庄」とか言っても、集落名に村という漢字を使っていなかったし村をムラと訓読みしていなかったのでないかの疑いを持っています。
以下「さと」里とセットの郷について見ていきます。
ところで里と郷は和語ではどちらも「さと」と読み区別境界が曖昧ですので、この機会になぜ現在に至るまで曖昧なままになっているのかを見ていきます。
郷に関するウイキペデイアの解説です。

日本の郷
日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に 里 (り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷(ごう、さと)に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く郷里制に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。
平安時代中期の辞書である『和名抄』は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しており、例えば平安京が置かれた山城国葛野郡には12郷が存在していたことがわかる(右表参照)。
中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。合掌造りで知られる白川郷などはその例である。
中国における郷[編集]
中国において郷(簡体字:乡,繁体字:鄉)は秦・漢の時代から存在しており(→郷里制、漢代の地方制度を参照)、現在も行政区画として存続している。

大宝律令制定当時は最小単位の「さと」を中国の制度にある里にしていたのに715年に里を郷に改めたようです。

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