ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

私の幼児期から小中学当時の経験ですが、寄り合いの状況を子供ころに見聞した記憶では、夜7〜8時頃に一家の主人?お父さんたちが、10畳前後の座敷に集まり//寄り合いとはよく言ったもので薄暗い電球の下で皆膝を突き合わせて肩寄せ合っての会話状態で、会議というより、うなづきあったりするイメージです。
弁護士会の委員会でもそうですが、参加人数が10人を超えると主催者と誰かのやりとりを周りが聞いているだけになりみんなが発言する暇がなくなります。
一つの問題に疑問や質問を2〜3回繰り返すことを皆が順次発言して回していくと時間がかかりすぎるので無理があります。
自民税調のインナーが有名ですが、何事も4〜5人の協議を繰り返すのが内容が深まるものです。
そういう意味では私の住んでいた集落の規模・運用は意思疎通に適したものだったイメージです。
小さな集落ごとに子供の頃から男女別に年齢相応の社会共同作業や合議で決めていく政治経験を積んできたのが我が国の社会で、これが現在のボトムアップ型・成熟社会を形作ってきたようです。
村八分などは忌まわしい人権侵害行為の代表のように教育されてきましたが、実は刑罰権を持たない自治組織としては、合理的理由なく共同作業に参加しないルール破りに対する(暴力行為を嫌忌する現在日本社会に連なる優しい組織としては)間接的制裁が必須であったこともわかります。
(積み立てをしないずるい人を一定の祝いルール・祝儀対象から外すなど・・お伊勢参りにつれていかないなど当然の制裁でしょう)
法學だったか政治学で習ったか忘れましたが、いわゆる社会的制裁サンクションの一種です。
集落の世話人?庄屋などのが決まっていくシステムが以下の通り紹介されます。
https://k-okabe.xyz/home/ronbun/asiajichi.html
東アジアの地方自治・試論
に戻ります。

名主を村人(ムラ人・稲垣注)が選ぶということは要するに選挙である。選挙制度は近代になって欧米から移入されたのではなく、日本の江戸時代の村で始められていた。これを「入れ札」という。例えば、大阪府羽曳野市に含まれる古市村では、1808年に行われた庄屋選挙で、200軒以上あった百姓家に対し入り札が実施され、その札が今も残されている51)。こうした諸研究に基づき、水谷三公は「江戸の遺産 ―民主主義」52)について簡潔にまとめている。それによると「江戸も少なくとも後期に入ると、近畿地方や関東地方など、社会・経済的「先進地域」のかなり広い範囲の村々で、村人一般による入れ札、つまり投票が実施されるように」なった。それを幕府も黙認していたようで、例えば、1848年、常陸の幕府代官・新井清兵衛が村々にまわした「申渡」で、後任が入れ札で決まっても退任を渋る名主が居るが、速やかに対応をすべきであると指示している53)。この入れ札制度は遺産として明治にも受け継がれたとして水谷は次のようにも言う。
「公式の幕府文書や村方史料に記録される以上に、入り札、つまり多数決で、人選や各種決定をする慣行が庶民の間にあったのではないかと想像する。そうでなければ、維新後まもなく導入された県会議員や町村会議員の選挙が、あれほど円滑に機能したのか、理解が難しい。」54)
江戸時代の村政は、こうした(時に)選挙される名主(庄屋)と、組頭(年寄)、百姓代(村目付)による「村方三役」の合議で運営された。重要事項は、各戸長の集まる「寄合」で「多分の儀」(多数決)により決められた。「村の民主主義」について説得的にまとめた田中優子は、次のように言う。
「村の重要事の議論と決定は、<寄合>で行われた。いわば議会である。寄合は全員加盟が原則だったが、この場合の一人というのは、一家に一人のことをいう。入れ札の票も、一家に一票である。家族単位のところが、現代と大きく違っている。寄合でものごとを決めるときは、多分(多数決)が基本であるが、時には満場一致が求められることもあった。このようなものごとの決定と運営は、生活の村の仕事であり、制度上の村=村方三役の仕事ではなかった。」55)
入れ札も多分の儀も、必ずしも江戸期に初めて現れるのではなく、それ以前からの長い歴史があるようだ。例えば水谷は、中世から戦国時代にかけて「多数決が重要な政治・軍事的決定の際のやり方として公認されていた」として次のように言っている。
「寺院僧侶の間で、領主相互に、あるいは村の内部やその連合体で、ほとんど社会のあらゆるレベルで「多分の儀」が強調されていた。当時の文書を見ればしばしば「多分の儀につくべし」といった類いの表現に出会うが、これを現代風に言い換えれば、多数決で決めたことには従うべきだと言うに外ならない。このような多数決の強調には、中世から戦国時代の社会に特有の事情も働いていたから、これだけで日本の強固な伝統と言い切るわけにはいかないとしても、<多数決が>伝統とは無縁な外来制度と言うのが誤りなことは分かる。」56)
村の自治は、ある意味で明治になってこそ根本的に蹂躙され、徹底した中央集権国家化が推し進められたとも言える。

引用が長くなったので今日はこれで終わり明日に続けます。

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