「さと」(郷と里)3

律令制では日本の自然発生的集落を漢字の村にする・・中国の邑の制度を取り入れなかったようですが、邑は訓読みでムラとなりますが、元々は原始的氏族共同体だったようですが、次第に家父長的支配関係〜専制支配構造を有するものになっていったので、700年頃の邑は日本の原始的ムラ社会(原始共同体)と実態が合わないので採用しなかったのでしょう。
この辺は郡県制のうち官僚支配の明確な「県」の制度を採用しなかったのと同様でしょう。
中国戦国時代の改革派商鞅(公孫鞅)の故事では彼が賜った領地を商邑と読んだ記憶です。
商鞅に関するウイキペデイアの記事からです

公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
漢字邑に関するウイキペデイアです

漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。 [1] [2]
やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。
戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1] 領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。

まさに日本列島の原始的集落発展段階の中国版ですが、古代集落の原型が漢字の作りからして「膝まずく」上下関係から始まっているのには驚かされます。
日本の縄文時代集落のあり方から見ると支配者がいてそれに膝まづく上下関係から始まったとは到底想像できません。
東京大空襲後に母方実家/郷里で私が育った集落は「字〇〇」という地名でしたが、まさに明治新政府が合成した村の中に取り込まれた里でした。
その字では「東」と「西」」という2集落(各8〜10戸前後)に分かれていてその境目に幅1メートル足らずの小川がありその水源地付近にお寺が一つありました。
江戸時代に各集落に戸籍役場代わり(宗門人別帳)や、埋葬管理(衛生感の発達)のお寺が各地に設けられ(集落の寄り合い場所になるなど公的機能を果たしてきました)たのに合わせて、維持可能なように集落の統合が行われたようです。
現在、いくつかの市町村共同上下水道事業や共同消防組合等の走りです。
わたしが幼児〜学童期に育った集落「字」では東西2集落が、お寺を村の寄り合いの場として、10人程度の大人が集まり入会地の管理や道路普請〜水路の石垣の手入れ等の手はずを決めていましたし、女性は女性で観音講という夫人の集まり..茶話会の場葬儀やお寺の年中行事その他の共同化事業により、江戸200年余りでだいぶ一体化が進んでいたようですが、それでも「東ら」と「西ら」という区別意識が(幼心に残るほど)濃厚でした。
こういう「字」が数十個集まっているのが、明治以降に出来上がった「村」のイメージで、私の育った村は水田地帯の真ん中にあって正方形に近かったので子供心の記憶(自転車で走り回った記憶)では村の端から端まで3〜4キロ前後でしたので、1里四方→まさに日本古代の「さと」の規模でした。
近隣の村や町も皆似たような広がりのある地形でした
それぞれの村や町に一つの小学校、中学校があり、明治の学校制度創設に合わせてこれを維持するに必要な経済力・いわば学区ごとに最小単位を設けた(江戸時代の集落のままでは小学校すら作れません)イメージです。
小中学校では運動会等の行事が行われるので、自然に纏まり・共同体意識が仕上がる仕組みでした。
私は中学卒業と同時にその村を出たのですが、直後に昭和30年代の町村合併があり、近隣が一つの町になりました。
このように日本の行政上の地方単位は古代から大きくなる一方で、その代わり内部に旧単位が大字小字などとして残っていきます・・昨年秋香取神宮に詣でましたが、平成の大合併で佐原市と香取町が合併して由緒正しい?香取市になっていました。
平成以降の大合併では大字というより明治にできた村の元単位を残す何々地区という呼称が多いようです。
20年ほど前に仙台の泉区役所に行ったことがありますが、元は泉市か泉町で合併により区になったようでした。
政令指定都市では正規に区制を布けますが、その他の市では〇〇地区と称するようです。
弁護士になったばかりの頃の境界争い事件では当時、区長さんの家には古い地図があるという主張が多かったのですが、当時区長ってなんだろう?と思いながら聴いたものでしたが、明治の中央集権化政策で問答無用的に行政単位として江戸時代までの小さなむら( 〇〇の庄?)を統合して村を設置して事実上従来からのムラ組織が破壊されても自治組織として「区」を名乗ることが多かった・・今の町内会や自治会の始まり?という論文が出ています。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

「こおり」(評→郡)1

日本古来の「評(こおり」がいつから郡の文字に変わったかの新井白石らの論争は出土木簡によって勝負ついたようですが、これによれば律令制定後一斉に「評」(こおり)がなくなり「郡」(これも和音では「こおり」)表記しか無くなっていることが分かっているようですから、律令制徹底のために郡に限らず里(さと)など土着用語が全て中国伝来制度表記圧力が働いた様子がうかがわれます。
と言うより廃藩置県を起点に日本の地方制度が抜本的に変わり今の都道府県制度ができたのと同様の地方制度・統治形態の大規模変化があって、廃藩置県で小さな国が(伊豆、駿河、三河の国が静岡県に)一つの県になり、小さな集落がいくつかよって小字(アザ)になり、さらに大字(あざ)の集まりが村になり、村が成長して町になり市が生まれ、市が大きくなってその中に中央区江東区のような区制ができたように、後漢書に言う百余国が大宝律令制定で六十余国に統合されて地方単位が大きくなった時代でした。
それまでの豪族の支配地・・後漢書に言う百余国・・私のイメージでは、現在の郡の地域がいくつか集まって国に昇格したので、元の地元豪族支配地が郡になったということでしょう。
大宝律令で郡になる前には「評」(こおり)が使われていたとしても和語としてはいずれも「こおり」であったことは明らかですから、「こおり」とは何かこそ重要でしょう。
「こおり」とは、水がに凝る(ニコゴル)状態・・固まった状態を表す和語らしいですが、(私の思いつきですが、物事が滞ると言う時の「とどこおる」も同じ用例でしょうか?)物が塊になっている状態を和語で「ひ」とも言いますので、固まった状態の「こおり」を「ヒ」とも言い表していた時代があり・今でも氷川(ひかわ)とか表現することが多いのは周知の通りです。
律令制前に入っていた漢字の用法として?こおり・「ひ」に該当する万葉仮名として「評」をヒ・万葉カナ分類で言えば、略音仮名様式での利用だったのではないか?
当時の漢字利用は音を利用しただけで、漢字の意味と関係はなかったという想像です。
https://japanknowledge.com/image/intro/dic/manyougana2.jpg
には万葉カナの詳しい説明がありますが、
その中の

略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)

の一種でないかな?と素人的想像するものの、上記に掲載されている表にも「評」は出てこないし、万葉仮名と言っても漢字はある日一斉に大量輸入されたのでなく、人の交流等を通じて大陸から4〜5百年以上かけて順次に伝わった歴史があるでしょう。
紀元前の前漢時代のことを書いている後漢書に倭の百余国の記載があることからして、当時から人の往来があったことが確かですし、紀元後701年の大宝律令制定前の700年間の交流によって、じわじわと漢字が流入していたことが明らかです。
表音と言っても古くは南方系の呉音が入り、その後漢音が主流になって行ったようですから漢字に接する時代によって発音自体が違う上に「評」はもともと朝鮮半島由来とどこかで読んだ記憶です。
万葉仮名といえば日本独特の工夫かというとそうではなく、これをひらがなやカタカナにまで仕上げたのがすごいのであって音を当てるだけならばどこでもやっていることでしょう。
漢字のご本家中国自体が仏教伝来に当たって、サンスクリットの音をそのまま漢字の表音に当てはめた漢字の仏教典を作っていることから見ても、(お経の中にはいろんな梵語を漢字の音で書いた音写がいっぱいありますが、例えば仏教と言っているブッダという漢字自体、サンスクリット語の音に似た発音の漢字を当てたものです。
ブッダに関するウイキペデイアの記事です。

仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。
また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。

現在フランスを仏蘭西→仏というのと同じで、本来ほとけ様の意味がありません。
日本で盧舎那「仏」とか「〇〇仏」」というのは単なる音訳であり、和語の「ほとけ」という意味は日本人がつけた意味です。
和語でいう「ほとけ」様とはどういう意味でしょうか?
仏教思想が入った頃には当然同じ思想が日本列島になかったので、覚者を意味する語彙自体がなかったでしょう。
どのようにして仏を「ほとけ」と訓で読むようになったのか今の私にはわかりません。
すぐに思いつくのは古事記の「ほと」の記述ですが、そこからなぜ覚者の意味が出てくるか不明ですので、「ほとけ」自体も漢字の音から出た可能性がありそうです。
http://www.daianzi.com/howa/datadata/howa0133.htm
によれば「ほとけ」というようになった語源をいくつか紹介されていますが、以下が私にはしっくりきます。

第三に、中国では古い時代、「ブッダ」のことを、「浮屠」「浮図」(ふと)と音写することがありました。
なにか陰惨な感じのする文字ですが、これは中華意識のなせるワザのようです。
そこで、仏教徒のことも、それに応じて、「浮屠家」(ふとけ)、やがて、ブッダその人も「浮屠家」と呼ぶようになりました。
これが我が国でなまって「ほとけ」となった説。

当時日本には高度な哲理が未発達で悟るなどの内面をあらわす和語自体なかったので(勝手な想像です)音をそのまま採用したと見るのが落ち着きが良そうです。
現在社会でコロナ型ウイルスやロケット、テレビ、パソコンなど従来の日本語にない単語が入ってくると無理に日本語化せずにその音をそのままカタカナで使うのと同じだったでしょうか?

国(くに)(郡)とは?2

郡とは何かですが、大宝律令制定前の木簡には全て評(こおり)の表示しかないということですから、日本ではそれまでは評(こおり)と書いていたようです。
そうすると「評」(こおり)とは何かに戻りますが、評に関するウイキペデイアの説明では、

奈良県明日香村石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 – 評 – 五十戸(五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。

とあり評里性という語も見えるので今の郡市町村制同様に、評(こおり)の下に里(50戸単位)がいくつか所属する形であったようです。
ちなみに50戸単位は今でも実務上重要指標です。
高度成長に伴う大都市人口集中→首都圏で宅地造成華やかなりし頃・・都市計画法が制定されて無秩序な宅地開発の規制が始まりました。
都市計画区域のうち市街化調整区域では原則として(農家住宅等の各種例外を除き)住宅建設が許可されない仕組みですが、50戸連坦(たん)といって現状として約50戸の連たんする地域であれば新築住宅許可になる制度が利用されていました。
連たんをネット検索するとすぐ出ますが、例えば佐賀市の説明です。
https://www.city.saga.lg.jp/main/51905.html

佐賀市では、既存集落の維持・活性化等を目的に平成20年7月1日より、市街化調整区域内の開発行為等の許可基準に50戸連たん制度を追加しております。(川副町、東与賀町及び久保田町は平成22年10月1日から適用)

話題が逸れますが、千葉市周辺では無秩序市域の広がりを防ぐ目的の都市計画法施行(昭和44年頃)直後から例外に当たる「50戸連たん」の運用を利用して雑木林や畑地等の宅地化が行われてきましたので「50戸連たん」しているかどうかが実務上重要でした。
佐賀市ではバブル崩壊後約20年経過後の平成20年になって、この制度利用が始まったと言うのですから時間差と利用目的の逆方向性に驚くばかりです。

都市計画法 (昭和四十三年六月十五日) (法律第百号)
(都市計画の基本理念)
第二条 都市計画は、農林漁業との健全な調和を図りつつ、健康で文化的な都市生活及び 機能的な都市活動を確保すべきこと並びにこのためには適正な制限のもとに土地の合理的 な利用が図られるべきことを基本理念として定めるものとする。
(区域区分)
第七条 都市計画区域について無秩序な市街化を防止し、計画的な市街化を図るため必要があるときは、都市計画に、市街化区域と市街化調整区域との区分(以下「区域区分」とい う。)を定めることができる。
第三十四条 前条の規定にかかわらず、市街化調整区域に係る開発行為(主として第二種特
定工作物の建設の用に供する目的で行う開発行為を除く。)については、当該申請に係る開
発行為及びその申請の手続が同条に定める要件に該当するほか、当該申請に係る開発行為
が次の各号のいずれかに該当すると認める場合でなければ、都道府県知事は、開発許可を
してはならない
1〜10略
十一 市街化区域に隣接し、又は近接し、かつ、自然的社会的諸条件から市街化区域と一
体的な日常生活圏を構成していると認められる地域であつておおむね五十以上の建築物(市
街化区域内に存するものを含む。)が連たんしている地域のうち、政令で定める基準に従い・・・以下省略

上記34条11号が50戸連たんの例外規定です。
都市計画法が昭和43年にできたのは急激な都市人口増加→無秩序に市街化が広がる圧力・需要が多かったからその規制が必要になったからですが、その分千葉県等の東京郊外型需要地では抜け穴探しの競争も熾烈だったので50戸練炭の例外申請が多かった・・我々弁護士にくる相談事例が多かったということでしょうし、急激な市街地拡大がなかった佐賀市の場合昭和40年代どころかバブル期の影響もなく平成20年頃になって放置していると市域縮小一方?になってきたので逆に50戸連たんを利用して住宅建設需要を取り込もうという時代になったのでしょうか。
しかし住宅需要の前提たる人口増がないのに、「郊外に家を建ててもいいよ!」というだけではユーターン需要が起きるわけがない・せっかくUターンする気になった人の新築妨害をしない程度でしょうか?
大宝律令以前においても我が国では集落単位として50戸が一つの目安になっていたことがわかります。
現代的産物と思われる都市計画制度の基礎として、古代の集落単位である50戸連たんを採用している・・物事には古い歴史があって決まっていくことが分かります。
どんどんテーマがそれますが、里の関係でいえば「郷里」「故郷」という熟語があります。
郷と里の関係はどういうものでしょうか?

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