評→郡への表示変更

私の憶測では、日本の「さと」は中国の里より規模が大きかったので、中国の郷に変えるべきと言う意見が優ってきたのでしょう。
中国の郷の制度を取り入れると中国の郷にしては規模が小さすぎるので里(さと)という単位が復活したところもあり、複雑な関係が残ってきたように見えます。
一般的理解では、何とかの「さと」は生家近くの「うさぎ追いしかの山・・」という範囲・・せいぜい現市町村内の大字レベルですし、郷の方は故郷という場合の用法・一つの市町村よりも大きい一望できる限界までの地域・・大きな流域の場合、上中下流域の全部というか、上記白川郷のような一定の生き方・生活様式が決まるほどの規模の地域です。
このシリーズを書くまでは、郡という漢字の普及と中国から律令制が入った時期との前後関係が私には不明でしたが、(新井白石時代の論争を知りませんでしたが、無意識にそのレベルで止まっていた?)以上見てきたところでは大宝律令までの漢字表記では「評」(こおり)しかないのに律令制定後一挙に郡の文字記載に変わったということらしいので、以下想像ですが、律令制の分国体制が敷かれるとその下部単位として中国の郡県制の名を借りた郡、郷里制に統一され・・従来の評や「むら」を一挙に消し去ったようです。
評に関するウイキペデイア引用です

中国正史には、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方行政組織があったことが記されており、『日本書紀』継体天皇24年(530年)条にも任那に「背評(せこおり)」という地名が登場することから、新井白石[7]・本居宣長[8]・白鳥庫吉[9]らは、「評」という字や「こほり(こおり)」という呼び方は古代朝鮮語に由来するという説を唱えていた。また金沢庄三郎は日本語と朝鮮語が同系であると考えて「こおり」を「大きな村」という意味の古代日本語という説を唱えている[10]。
発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。

どこかで橿原考古学研究所の発掘成果として見た記憶ですので、ネットで探しましたがこれしか見つかりませんでした。
評に関するウイキペデイア記事中参考文献の紹介です

昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。これにより、それまでの郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』を編纂した奈良時代に書き替えられたことが明白になった。「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」木下正史著『藤原京』中央公論新社 2003年 64ページ

新井白石らの論争が1967年にようやく決着したにすぎないものです。
ただし評→郡と漢字が変わっても和語ではそのまま「こおり」と読み、里(さと)→郷を同じくサトと読むようにしてしぶとく現在に至っています。
明治政府が地方行政区最小単位を「村」という漢字に変えても国民には同じ「むら」と読ませて来たのと同じでしょうか?
100年以上経過すると「むら」の漢字は「村」しかない・・「邑」を「むら」とも読むのか?ように多くの人が思い込んでしまうようになっています。
吉川英治の小説「宮本武蔵」では「美作の国、宮本村の武蔵」だから宮本武蔵というというような書き出しの記憶ですが、宮本村は正しいとしても、漢字の「村で表現するのが正しいかどうかの検証なしに作家が、漢字の「村」を書いたように思います。
あるいは作家の原稿では「むら」と書いていたのを印刷屋が勝手に漢字に変換してしまったのか?
(この記憶は小学生の頃に学校の図書室にあった子供向きのカバヤ文庫などの本を手あたり次第に読んでいて、子供向けの本を読み尽くした5年生の時に漢字だらけの宮本武蔵の本を読みだした時の記憶ですので、正確な記憶かどうかは保証の限りではありませんが・・)
このころの作家は今に比べると時代考証が甘かった面もありますので、有名作家の作品だからといって史実とあっているかも不明ですし、まして戦国時代に村(ムラ)という集落名があったかも不明です。
あちこちの展覧会等で時々展示される大名に対する知行加増文書原本などを見ると何々郡何々の庄宮前何町何反何畝などの書き方だった記憶です。(記憶なので印象程度です)
例えば大岡越前や田沼意次その他出世に伴い、数千石づつ加増されるのですが戦国大名のような一円領地ではなくあちこちの1〜2町歩程度の小刻みな知行地加増の集計で千石単位になる仕組みでした。
水野忠邦が1円支配復活を目指し領地替えを改革の柱にしたのですが、反対が多くて失敗したことを紹介したことがあります。
(ひとつの田んぼに数人以上の領主がある事例が頻発していたようです。)
これが幕末徳川譜代の戦力低下と経済力低下(特産品産出努力が不可能です)に結びついていきます。
公式文書にどうやって表示していたか、ネット検索してみると江戸時代の往来手形〜人別送り状には村の表示が結構見つかりました。
例えば以下の資料です。
https://komonjyo.net/okuriiisatu01.html
転載禁止なので、関心のある方は上記に入ってご覧ください。
江戸幕府は吉宗以降6年に1回の割合(子午の年)で定期的に全国(全大名に対して)人口や石高調査報告を命じていますが、その布達書に村等の記載があります。
江戸時代の人口調査に関するウイキペデイアです。

全国の人口調査は享保の改革の一環として、享保6年(1721年)に始まった。享保6年旧暦6月21日付の布達には、「諸国領知之村々、田畑之町歩、郡切に書記、並百姓町人社人男女僧尼等其外之者に至る迄、人数都合領分限に書付、可被差出候。奉公人又者は不及書出候。惣而拝領高之外新田高は不及記、町歩計可被書出候。但無高に而反別計之新田も可為同前候云々。」

また、元禄郷帳の石高(天保11年以降は天保郷帳の石高)が併せて記載された。幕府での実際の集計作業は調査年の翌年にずれ込むことも多かったらしく、諸国人数帳に記載の年月が翌年となっている場合もある。

「こおり」(評→郡)1

日本古来の「評(こおり」がいつから郡の文字に変わったかの新井白石らの論争は出土木簡によって勝負ついたようですが、これによれば律令制定後一斉に「評」(こおり)がなくなり「郡」(これも和音では「こおり」)表記しか無くなっていることが分かっているようですから、律令制徹底のために郡に限らず里(さと)など土着用語が全て中国伝来制度表記圧力が働いた様子がうかがわれます。
と言うより廃藩置県を起点に日本の地方制度が抜本的に変わり今の都道府県制度ができたのと同様の地方制度・統治形態の大規模変化があって、廃藩置県で小さな国が(伊豆、駿河、三河の国が静岡県に)一つの県になり、小さな集落がいくつかよって小字(アザ)になり、さらに大字(あざ)の集まりが村になり、村が成長して町になり市が生まれ、市が大きくなってその中に中央区江東区のような区制ができたように、後漢書に言う百余国が大宝律令制定で六十余国に統合されて地方単位が大きくなった時代でした。
それまでの豪族の支配地・・後漢書に言う百余国・・私のイメージでは、現在の郡の地域がいくつか集まって国に昇格したので、元の地元豪族支配地が郡になったということでしょう。
大宝律令で郡になる前には「評」(こおり)が使われていたとしても和語としてはいずれも「こおり」であったことは明らかですから、「こおり」とは何かこそ重要でしょう。
「こおり」とは、水がに凝る(ニコゴル)状態・・固まった状態を表す和語らしいですが、(私の思いつきですが、物事が滞ると言う時の「とどこおる」も同じ用例でしょうか?)物が塊になっている状態を和語で「ひ」とも言いますので、固まった状態の「こおり」を「ヒ」とも言い表していた時代があり・今でも氷川(ひかわ)とか表現することが多いのは周知の通りです。
律令制前に入っていた漢字の用法として?こおり・「ひ」に該当する万葉仮名として「評」をヒ・万葉カナ分類で言えば、略音仮名様式での利用だったのではないか?
当時の漢字利用は音を利用しただけで、漢字の意味と関係はなかったという想像です。
https://japanknowledge.com/image/intro/dic/manyougana2.jpg
には万葉カナの詳しい説明がありますが、
その中の

略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)

の一種でないかな?と素人的想像するものの、上記に掲載されている表にも「評」は出てこないし、万葉仮名と言っても漢字はある日一斉に大量輸入されたのでなく、人の交流等を通じて大陸から4〜5百年以上かけて順次に伝わった歴史があるでしょう。
紀元前の前漢時代のことを書いている後漢書に倭の百余国の記載があることからして、当時から人の往来があったことが確かですし、紀元後701年の大宝律令制定前の700年間の交流によって、じわじわと漢字が流入していたことが明らかです。
表音と言っても古くは南方系の呉音が入り、その後漢音が主流になって行ったようですから漢字に接する時代によって発音自体が違う上に「評」はもともと朝鮮半島由来とどこかで読んだ記憶です。
万葉仮名といえば日本独特の工夫かというとそうではなく、これをひらがなやカタカナにまで仕上げたのがすごいのであって音を当てるだけならばどこでもやっていることでしょう。
漢字のご本家中国自体が仏教伝来に当たって、サンスクリットの音をそのまま漢字の表音に当てはめた漢字の仏教典を作っていることから見ても、(お経の中にはいろんな梵語を漢字の音で書いた音写がいっぱいありますが、例えば仏教と言っているブッダという漢字自体、サンスクリット語の音に似た発音の漢字を当てたものです。
ブッダに関するウイキペデイアの記事です。

仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。
また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。

現在フランスを仏蘭西→仏というのと同じで、本来ほとけ様の意味がありません。
日本で盧舎那「仏」とか「〇〇仏」」というのは単なる音訳であり、和語の「ほとけ」という意味は日本人がつけた意味です。
和語でいう「ほとけ」様とはどういう意味でしょうか?
仏教思想が入った頃には当然同じ思想が日本列島になかったので、覚者を意味する語彙自体がなかったでしょう。
どのようにして仏を「ほとけ」と訓で読むようになったのか今の私にはわかりません。
すぐに思いつくのは古事記の「ほと」の記述ですが、そこからなぜ覚者の意味が出てくるか不明ですので、「ほとけ」自体も漢字の音から出た可能性がありそうです。
http://www.daianzi.com/howa/datadata/howa0133.htm
によれば「ほとけ」というようになった語源をいくつか紹介されていますが、以下が私にはしっくりきます。

第三に、中国では古い時代、「ブッダ」のことを、「浮屠」「浮図」(ふと)と音写することがありました。
なにか陰惨な感じのする文字ですが、これは中華意識のなせるワザのようです。
そこで、仏教徒のことも、それに応じて、「浮屠家」(ふとけ)、やがて、ブッダその人も「浮屠家」と呼ぶようになりました。
これが我が国でなまって「ほとけ」となった説。

当時日本には高度な哲理が未発達で悟るなどの内面をあらわす和語自体なかったので(勝手な想像です)音をそのまま採用したと見るのが落ち着きが良そうです。
現在社会でコロナ型ウイルスやロケット、テレビ、パソコンなど従来の日本語にない単語が入ってくると無理に日本語化せずにその音をそのままカタカナで使うのと同じだったでしょうか?

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC