農業改革と競争否定論

平和を守るには自主防衛が必要か非武装かと言う論争は、平和を守るための手段論争であるのに、平和主義=非武装論しかない・・対中防衛準備論は直ちに戦争論者・反平和主義者のようなレッテル張りが革新系の論理ですが、思考回路が単純過ぎて国民大方の支持を受けられなくなっています。
法律相談に来た人に状況不利を説明すると「私に死ねと言うのか」と飛躍した反応をする人がいます。
あなたのやって来たことは間違いであり、状況は不利だがその対策が何種類もあると説明していると、勝手に何段階も飛ばした結論を決めつけて興奮してしまい、相談にならない人がいますが、革新系論者はそのたぐいです。   
輸入規制を緩めると「農業をやめろ」「食糧自給不要」と言うのか!と息巻く人は、論理が乱暴過ぎます。
農業を守るにはどの程度の競争状態に置くと自発的努力がどの程度可能か、などが争点であって、農業を産業として守るには輸入禁止しかないとは、限りません。
今のように守りの姿勢だけでは、ジリ貧が進行するばかりで却って食糧自給を守れません。
食糧自給率向上のためにも競争力を磨いて欲しいものです。
繊維→炭素繊維、電化製品→電子部品等、全ての産業が時流にあわせて変化してこそ生き残って来たのです。
テレビ等の輸入制限をして保護していたら業界が壊滅していたでしょう。
国民等しく競争社会=能力主義で生きているのに、農業だけ競争から超然として補助金や輸入禁止に頼っていることに、殆どの人が理解を示さなくなっているのではないでしょうか?
農家自身が従来の競争阻害政策を支持していない事は・・将来性がないとして、農業従事人口の長期的大幅減少(自分の子供に後を継がせない・・後継者不足・他産業への脱出)に現れています。
農協は目先の政治闘争にうつつを抜かしていて、農家の長期的展望・利益を代弁していないことになります。
共産・社会主義系は生産増よりは結果の分配に力点をく思想ですから、発展に対する意欲が弱くなります。
自分が発展競争に負ける引け目があるからか、革新系・進歩的文化人の主張・行動は、何かの新技術が出て来るとその普及に対する批判から出発しています。
反日運動目的で凝り固まっているので、日本の発展しそうな芽が出ると先ず叩いて妨害する目的があると言う意見もありますが、それは穿ち過ぎでしょう。
反日目的も少しあるかも知れませんが、思想的体質が変化反対に親和性があるからではないではないでしょうか?
新技術には必ず何かの副作用があるのは当然ですから、警鐘を鳴らし、用心するのはある程度必要ですが・・反対運動ばかりに先ず目が行く繰り返しの結果、社会の進行変化に対する抵抗勢力としか見られなくなって来ました。
テレビが出て来た時には目が悪くなる、子供が外に遊びに行かなくなる、自分で考える習慣がなくなり受け身になると批判し、マンションが普及し始めたときに外で遊ばない子が増えると頻りに批判されていました。
最近では、中韓や米国の手先として日本の発展を阻害し、世界の歩みから如何に遅らせるかに熱を上げて来たのではないかとさえ言われるようになってきました。
ここ10〜20年ばかりは、新技術導入反対ばかりでは国民が相手にしなくなったことから、自然保護(開発反対運動の裏返し)や競争結果による格差発生に対する批判、弱者救済→競争から落ちこぼれた人に対する優しさの主張に転換しています。
新技術の開発奨励・競争社会を認める以上は、一方で競争に敗れた人や自然破壊をどうするかを考える必要がありますから、それはそれで良いことです・・。
競争を認める以上は勝者・最新技術開発に成功した人が相応の恩賞を受けるべきですから、敗者に対するケアーの必要性を越えて結果による差が出ること・そのものを否定的に主張することは、結果的に新技術開発競争否定論の焼き直しになります。
言わば、最近の左翼系文化人の主張は、競争反対の前線から一歩下がった体制(城外に討って出て戦う体制から、外堀〜内堀に戦線を)後退しているに過ぎず、競争反対を基礎的前提としていることになります。
鄧小平が「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ」と言ったとかで、先ず稼ぐことを奨励したことから、中国の発展が始まりました。

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