近代法理の変容7

共謀罪法案反対論者は、近代刑法の原理・法理違反と主張していることを紹介しましたが、現在は近代ではなく現在の法理に変容しつつあると書いている内に話題が横へそれていましたが、元に戻します。
2014/12/04「近代法理の変容6(故意・過失から業界標準へ)」の続きになります。
現在進行中の民法改正の方向性では、過失責任主義から行為時の標準取引基準に変容する予定になっています。
即ち意思責任主義が変容しつつあって民法もこれにあわせて改正しようとする動きになっています。
これは法律が変わることによって社会意識が変わるのではなく、社会意識変化にあわせて法も変わって行くべきことを表しています。
例えば医療事故で言えば、当時の医学水準でどうだったかが問われるのが前世紀以来普通になっていて、担当医の内心を探求して過失や故意を議論しても始まりません・・。
民法改正の動きは、こうした前世紀以来続いて来た社会変化の実態追認・・現在化のための改正でしかありません。
既存法理が社会を規定するのではなく、社会がその社会に応じた法理を生み育てて行くものです。
既存法理に当てはめて考え、固執する人は社会の変化を無視したい勢力となります。
刑法分野でも重大結果を引き起こしたのに意思責任を問えない場合でも、結果が重大な事件に限って医療観察法が制定されていることは09/08/06「保安処分13と心神喪失者等医療観察法8(入院通プログラムの重要性)」等で連載して紹介しました。
この法律によって医療とは言うものの、行為者・危険な人に対する事実上の社会隔離が進んでいます。
この医療観察法による強制医療は医療とは言うものの、重大結果に限るところが、結果責任を問うような仕組みになっていることや再犯の恐れの条項もあるので、本質的に医療と相容れないと言う批判・・、弁護士会や法学者からこの法律制定時に(・・近代刑法の確立した原理に反すると言う)厳しい批判が出ていました。
当時医療観察法は社会防衛思想・保安処分の焼き直しだと言う批判だったと思いますし、私も当時同じ懸念を持っていましたが、いま考えると社会防衛思想の行き過ぎで人権侵害になるかどうかこそが問題であって、人権侵害にさえならなければ良いのであって、その兼ね合いを考えながらの社会防衛自体は必要です。
車は危険ですが、ブレーキ等安全装置や運転の仕方次第で有用な道具になっているのと同じです。
共謀罪制定反対論・・文化人の拠りどころにする近代刑法の法理によれば、殺人事件を次々と起こしても精神疾患等で行為時に意思能力がない以上は無罪だからとして、その都度釈放・・野放しで良いのか?と言う社会の現実がありました。
犬は人間同様の能力がないから咬んでも仕方がないと言わないで、咬まないように躾したり放し飼いにしないなどの相応のルールが生まれています。
意思責任主義を近代法の基本と言う意見が多いですが、我が国では忠臣蔵で有名な浅野内匠頭による松の廊下の刃傷事件が元禄14年3月14日(1701年4月21日)ですから、フランス革命よりも約100年近く前でも、取り調べに際して「乱心致したのだな!」と助けるために問いただす場面が有名です。
吉祥寺の放火事件・・八百屋お七の場面も同じです。
ただし我が国では以前から繰り返し書いているように、庶民の実情からいろんな制度が発達して来た社会ですから、西欧のようにペルシャやローマから文字や言葉までラテン語を輸入して成り立っていた・・観念論から発達したものではありません。
昨日紹介したような社会実態を無視した観念論・反日暴動を引き起こした石原氏が悪い・・テロ行為より総理発言の方が悪いと言う・・観念論を振り回して有り難がっているのは、社会実態をみる脳力のない左翼・文化人だけではないでしょうか?

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