近代産業革命とIT革命の違い1

近代産業革命前に100人必要だった生産や輸送が産業革命による効率化で10人で生産し輸送できるようになれば、90人の職場が失われるはずが、余剰生産分を国外輸出によって失業しないで済めば、生産その他すべてが10倍になれば、国力10倍となり民生も10倍豊かになります。
その輸出を受け入れる国は受けれた分元々の生産従事人口が失業します。
いわゆる「失業の輸出」ですから、一旦受け入れ国になると失業が増える一方・・貧しくなる一方で先進国と後進国の格差が開く一方になっていた・・この市場構造固定化・・相手に生産力をつけさせない半永久的市場支配の権力構造が植民地支配体制です。
英国の紡績業発達がインドの綿産業を壊滅的に滅ぼし「白骨街道」になったことを以前紹介しました。
ラッダイト運動で主張していた矛盾を海外に押しつけることで自国内矛盾を回避し、先進国の優位性の固定化装置だったことになります。
それまでの植民地とは文字通り「植民する」ことだったのですが、産業革命以降は市場支配の枠組み固定化装置に変わったのです。
この枠組み変更に異議を唱えたのがアメリカ独立でした。
西欧諸国は植民地現地人台頭(・・・人種差別して威張るのが目的ではなく現地生産が始まると市場を失うの)を阻止するために人種の違いを強調し「アジア人は劣っているので何をしてもかなわない」という諦め精神を植え付ける人種差別政策に邁進することになります。
オリンピックも欧米人が身体能力がいかにすぐれているかの宣伝目的で始めたというのが私の偏見です。
フランスなどの西欧文化芸術宣伝もアメリカの好きなミスワールドなども同じです。
日本人はミスワールドなどハナから相手にしていませんし、文化芸術分野でも日本画に始まり独自文化を主張できたので自立できてきました。
販路である植民地で自前の産業育成・挑戦意欲を持たせないよう自信喪失政治をしていたのですが、同族出身者で構成されている北米では人種の優越論理が通じなかったから単なる市場扱い・搾取されるままでは納得しなくなり独立革命が起きたのです。
この支配構造に唯一の穴を開けたのが日本で、その日本が逆に工場生産品の輸出国になってアジアの市場を荒らされるどころかアメリカ市場に逆輸出が始まり、坐視できなくなった始まりが米国の排日差別法の成立であり市場争奪(欧米植民地に輸出させないブロック経済化→決定戦が第二次世界大戦です。
日本軍のシンガポール占領時に目の前で英軍が追い散らされ捕虜になっていくの見たシンガポールのリークアンユー氏が「絶対叶わないと思っていたアジア人が勝てる」と自信を持ったという原体験につながったのです。
戦争でこそ欧米は勝ちましたが、その後現地人の自信回復によって次々と独立運動が始まり戦後秩序が始まります。
日植民地民族もやればできるという自信がうまれた下地の上で、プラザ合意以降の日本叩き→日本企業の韓国台湾〜アジア諸国への工場移転による迂回輸出の成功→中国参入以降の低賃金国の攻勢です。
賃金格差が市品競争力低下になり、市場経済的に修正されていく・賃金の低い方に生産地が動いていくべきですが、市場経済的反映を上記の通り植民地支配により力づくでダムのように堰き止めてきた分、巨大な賃金格差・欧米とアジア・アフリカ諸国との途方もない生活水準・教育格差が生じていたのです。
旧植民地諸国・・低賃金国が生産に参入するとダム決壊による怒涛のごとき低賃金国からの工場製品の流入が始まると先進国(国内生産縮小→低賃金サービス業への転換)労賃がつられて下がらざる得ません。
(賃金平準化作用が終わるまで恒常的デフレ発生です)
世界の工場の地位が中国から東南アジア諸国等へ順次伝播していき、最後は世界の人件費の平準化が始まる・本来人皆平等論でいえば、公平な世界になる動きであると「世界平準化」というテーマで10年ほど前に書いたとおりです。
アメリカは、戦前排日法で日本人を鉄条網の収容所に収容して対日開戦を急いだように、今次の挑戦者中国に牙をむいたところですが、戦前の日本はいじめられているのをアジア人が内心で応援していても力がなかったので孤立したのですが、いまの中国は戦前日本よりはもっと乱暴ですが、その代わり周辺アジア諸国の地位があがっている点が大きな違いです。
話題が逸れましたが、今回のホームレス化の動きは英国産業革命後の囲い込み運動で、小作人を農地から追い出した運動の焼き直しのように見えます。
第二次産業革命?の寵児IT覇者も、世界規模で市場を席巻できる点は19世紀の産業革命と同じとしても、覇権国で新たに生み出すIT関連者数は微々たるものです。
この結果・・富分配に参加できる人はごく少数=格差が広がる宿命です。
IT産業で覇権国になっても、アップルの生産が中国で行われているように世界の工場として大量の中間層を生み出せません。
近代産業革命の恩恵を受ける国と受けない国が国単位(一定の社会規模・結局は民族単位)で分かれていたのが、IT革命では国単位〜民族単位ではなくITに適した能力の有無によって、砂粒的に分化し始めたと言うことでしょう。
今後民族出身地域差→奥深い文化力能力差は問題にならない時代が来ると言えば、現実の目の前の若手弁護士層を見ていると民族精神の精華である文化に関心のない人が増えてきた印象です。
IT化・デジタル化で気がつくことは、・・実務世界ではデジタル的処理能力が目先重要な印象・・これが文化の比重低下=出身民族差が背景に退く時代の予兆を感じるのは私だけでしょうか。
シリコンバレーでの活躍者は噂によれば出身民族差にこだわらないような印象を受けます。
今回は領主様が地域からまとめて小作人を追い出すのではなく、家賃引き上げに対応できない個別の住人をアパートから追い出すので、(地震による液状化現象のように)水が地面から染み出すようにあちこちに滲み出てきた印象です。
これが先端産業で成功している都市に限って一流ホテルやマンション周辺にホームレスが大量発生し群がり住み着いて?いる状況になっている原因と思われます。

近代立憲主義7と政治活動

政治運動論と学問のすり替えについては、以下の通りです。
https://ameblo.jp/fall1970/entry-12277529472.html
2017-05-24 21:14:37

首相改憲発言は「憲法を軽んじる言辞」 学者らが批判
5月3日の安倍首相の憲法改正に関するメッセージをめぐり、法学等の専門家らから成る「立憲デモクラシーの会」が記者会見を開き、安倍発言を批判する見解を発表したそうである。
会見の場で青井未帆氏が「自衛隊を憲法に書き込むと、武力行使の限界がなくなり、9条2項が無効化する」と指摘し、石川健治氏が「(憲法に自衛隊が書かれていないことで)軍隊を持てるのかということが常に問われ続け、予算などの面でブレーキになってきた。その機能が一気に消えてしまう」と述べたとのことである。
これらは「九条歯止論」といわれるものであるが、昨年2月9日の記事で述べたようにそもそも法律論の体をなしておらず(青井氏も石川氏も憲法学者)、会見に同席した長谷部恭男氏でさえ「[法の]解釈論」とは「峻別」されるべき「運動論」(長谷部「表立っていえない憲法解釈論」『法学教室』301号所収)と切って捨てているシロモノなのである
・・「立憲デモクラシーの会」の見解なるものを見ると、まず、「自衛隊はすでに国民に広く受け入れられた存在で、それを憲法に明記すること自体に意味はない。不必要な改正である」とのことであるが、・・・安倍首相を難詰していて、安倍首相の主導による「改憲」を何としても阻止したいようであるが、そのためには自衛隊違憲論の旗をも下ろすというのであれば、ご都合主義との謗りを免れないであろう。
前記見解は「自衛隊[が]すでに国民に広く受け入れられた」という事実の規範力を承認して憲法変遷を肯定するものとしか考えられないが、「安倍改憲」を阻止するためにはもはや手段を択ばないということか。この点、長谷部氏は「主権者たる国民の行動をあらかじめ拘束することに憲法9条の存在意義がある以上、国民の意思を根拠として同条の意味の『変遷』を語る議論も背理だということになる」(長谷部『憲法の理性』東京大学出版会)と述べているのだが。
・・「立憲デモクラシーの会」の見解に戻ると、「安倍首相は北朝鮮情勢の『緊迫』を奇貨として9条の『改正』を提案したのであろうが」との前提のもとに、「たとえ日本が9条を廃止して平和主義をかなぐり捨てようとも、体制の維持そのものを目的とする北朝鮮が核兵器やミサイルの開発を放棄することは期待できない」と主張しているが、安倍首相はビデオメッセージにおいて北朝鮮情勢には一切言及していない(そもそもそんなことは百も承知であろう)。
この主張はその前提が臆断にすぎない以上、コメントする価値もないが、北朝鮮が核兵器とミサイルの開発を止めないばかりか、中国が軍拡路線をひた走っている現在、日本を取り巻く安全保障の環境は厳しさを増すばかりであるから、政治家としてはこれに対する備えを講ずべきことは当然で、そのためには憲法9条の改正が必要であればそれを国民に訴えることはむしろ義務ですらあるというべきであろう。
それを「奇禍」などと見当違いの議論を持ち出して矮小化するのはいかがなものか。
さらに、「憲法による拘束を緩めれば、軍拡競争を推し進め、情勢をさらに悪化させるおそれさえある」とのことであるが、わが国が憲法9条によって自らの手足を縛っているにもかかわらず、中国も北朝鮮もそんなことにはお構いなしに着々と軍備を増強していることをどのようにお考えなのであろうか(そんなことには関心がなく、とにかく9条によって自衛隊を抑え込むことができればそれでよいのであろう)。いかにも責任のない立場からのお気楽な発言としか評しようがない。
憲法学者はなぜこれほどまでに9条「護持」に固執するのか理解に苦しむところであるが、この点について、井上氏は、「要するに、立憲主義と平和主義が予定調和の関係にあって、それを守るのがおれたちの使命だ、みたいな。べつに学問としての憲法学とは関係ない、ある種のカルト的な使命感をもっちゃったんでしょうね、日本の憲法学は。[改行削除]自分たちは九条を守ることで日本の平和に貢献してきた、という自己欺瞞。いや、今はもう、はっきり言って自分たちでもそれが嘘だ、日本の平和は九条違反の自衛隊と安保のおかげだと気づいていると思うから、ただの欺瞞だな。ただ、立場上、旗を下ろせない、というね」と診断しておられる(井上前掲書)
・・・・愚かな国民が道を踏み外すことのないように自分たちが教導しなければならないという度し難い思い上がりが根本にあることを指摘しておく。

私の従来書いてきた(共産主義者による「国民を指導するべき前衛→エリート意識」論の思い上がりその他)意見を簡潔に書いているので大方を引用させていただきました。
公明党は今秋の総選挙での公約(だったかその頃に)で(この原稿は昨年総選挙前後に書いていたものです)
「自衛隊はすでに多くの国民から憲法違反の存在でないとの信認を得ているので、憲法に明記する必要がない」
という意見を発表して自衛隊明記反対の立場を明白にしていたような報道を見た記憶です。

近代立憲主義6と憲法改正5(内心の自由と規制の必要性)

慰安婦報道でも報道機関は要所要所に「〇〇が事実とすれば・・」などの逃げ道を要所要所に用意していたのでしょうが、それを視聴者や読者は「書きっぷり」で判断しているのです。
「実務法曹にとっての近代立憲主義」その他の主張は、本気でそのように思いこんで欲しいかのようなトーン・ぼやーっと読むとそういう方向へ引きずり込まれそうであり、実際にそのように思い込んでいる人がいること・成功していることが上記引用文でわかります。
人権は崇高である→生命侵害は人権侵害の最たるものであり許されない=死刑廃止論・・このような単純論理が成立すれば、一般的刑罰ならば何故許されるかの説明がつきません。
生命を奪うのも自由を奪うのも人権侵害に相違ないのですから、何故生命侵害だけゆるされないか意味不明の論旨です。
彼らは生命だけは特別扱いすべきというのでしょうが、憲法のどこにも書いていません。
都合の良いところは憲法に書いていなくとも重視するし、都合の悪いところは書いていても無視するという非合理な価値基準です。
もしも刑罰一般が人権侵害で許されないならば、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」の原始・自然状態になり、近代社会・刑法や刑事訴訟法が成り立ちません。
(実は、人間の原始社会どころか、動物界でも(狼でも魚類でも猿でも馬や鹿のグループでも同種同士ではそんな闘争世界はありませんから「リヴァイアサン」の前提は、実際にそういう社会があるというのではなく、観念的に「そういう段階があり得る」というだけでしょうか?)
思想信条の自由があっても、国家転覆罪はまだ内乱行為をしていない陰謀段階でも処罰されるのが世界標準です。

刑法
第七十八条 内乱の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の禁錮に処する。

共謀罪法案の時に近代法の原理に反するという意見が流布されましたが、世界標準がどうなっているかという説明が一切ありません。
政府の説明は以下の通りです。
http://www.moj.go.jp/content/000003507.pdf

共謀罪等の創設を求めている国際組織犯罪防止条約は,既に120か国によって締結されており,欧米先進国でも既に共謀罪等が設けられています。
我が国も,法案の「組織的な犯罪の共謀罪」を設けることによって,これらの国々と足並みを揃え,国際社会と協調して重大な組織犯罪から国民をより良く守ることができることになります。
国民の方々が不安に思うようなことは全くありません。

   アメリカ  ○ 共謀罪  (連邦法第18 編第371 条)

二人以上の者が犯罪を犯すこと等を共謀し,何らかの ある者が,他の者と犯罪行
そのうちの一人以上の者が共謀の目的を果たすために何らかの行為を行ったとき

  イギリス  ○共謀罪 1977年刑事法第1 条第3条

ある者が,他の者と犯罪行為を遂行することにつき合意したとき

  ドイツ  ○犯罪団体の結成の罪  (刑法第129 条)

犯罪行為の遂行を目的・活動とする団体を設立した者,このような団体に構成員とし して関与した者,支援者を募り又はこれを支援 した者,

  フランス  ○凶徒の結社罪 刑法第450ー 1条

重罪等の準備のために結成された集団又はなされた謀議参加したとき (準備のため、客観的行為がなされることをする 。)
日本の共謀罪

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS14H4D_U7A610C1M11000/
2017/6/15 18:56

15日に成立した改正組織犯罪処罰法のうち「共謀罪」を規定する条文は次の通り。
(テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画)
第六条の二 次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。

上記を比較しても先進諸外国と比べて日本の法律だけが、近代法理に反するとは到底思えませんが・・。
近代法の法理違反の運動をする勢力がどの部分が違反になるかの主張責任があるのではないでしょうか?
諸外国の法制度の要点は、内心の自由も絶対ではない・・テロ目的などの内容によって幅する方向性であり、処罰の要件・なんらかの外形に現れた時に処罰する・・無辜を誤って罰しないように足並みを揃えていることが分かります。
「内心の自由が絶対ではない」というのが現代的法理であり、左翼系の主張は文字どおり現代以前の過ぎ去った近代法の法理から進化しない超保守論理です。
マスメデイアが諸外国事例を一切報道しないで反対論ばかり大きく報道しているように見える(私が見落としているだけかもしれませんが・・)ことじたい中立性違反の疑い濃厚です。
思想表現の自由があっても他人の名誉毀損や詐欺行為は許されませんし、わいせつ表現の場合、・・違法の評価を受けます。
基本的人権といっても公共の利益に反しない限度で許されているにすぎませんし、これに反する場合には、刑罰を受けたり損害賠償を命じられることで社会秩序が保たれているのです。

憲法
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

最近の立憲主義の強調は、学問というよりも人権は、(運動体の本命ターゲットは死刑廃止よりは平和主義→人命尊重でしょうが・・)憲法以前の(天賦不可譲の)権利だから憲法改正でも許されない・・社会にそのような誤ったイメージを定着させるための政治運動論としていきなり声が大きくなってきた印象です。
人命=人権の最たるもので最尊重されるべき→戦争状態は人権侵害の最大 被害行為→平和主義は憲法以前の人権原理である。
「憲法改正対象にすること自体が許されない」という飛躍論法のようですが、流石にプロたるものそこまではっきりと言えないものの、思わせぶり表現で素人・大衆がそのように飛躍して思い込むように期待し、仕向けているように見えます。
憲法以前の権利ならば、憲法がどうなろうと守るべき規範である・改正の影響を受けないはず・・関係ないのになぜ反対するのか不思議ですが、こういう論理矛盾など一切気にしません。
・・学者としては「そこまで私は言っていないよ、『平和主義は日本を守るための方便でなく、人権を守ることと同じ』と言っているだけなのに素人が誤解しているだけだ」という世論誤導が目的の政治運動でしょうか?

憲法とは?(近代立憲主義の限界2)

慰安婦問題を際限なく仕掛けてくる韓国や北朝鮮のように自分の依って立つ意見が絶対とする態度を見るとこういう思考形式の人とは、まともな議論が成り立たないように見えますが・・。
憲法を左翼的理解・・「権力抑制のために定めた根本ルールのみ」と自分の気に入った方向で定義してその定義に従わない人をバカ扱いする人たちは、どこか北の人たちと似ています。
皇室典範や、17条憲法は権力抑制目的ではないので、実質的意味の憲法にも入らないでしょうが、国家民族のあり方の基本ルールを実質的憲法と見れば、上記も入るでしょう。
ところで権力監視抑制のみを憲法の要件とすれば、左翼的立場では絶大な信奉の対象になっている「憲法の平和主義」論は、憲法に入るのでしょうか?
そもそも、左翼思想と平和主義がどういう関係があるのか理解不能です。
今世界で軍事力を前面に押し出している国々は中国やロシア北朝鮮・皆もともと共産系国家であり、中国の軍事脅威に真正面から晒されている日本で、非武装平和論をいうのが軍事力で迫ってくる国々と親和性のある左翼系文化人ばかりというのが不思議な関係です。
いかにも「中国の軍事圧力に屈服するのが最善」と言わんかのようなスタンスに見えてしまうので、信用性がなくなります。
もともと公害反対は人権救済問題であるのは当然ですが、公害など全く問題にしていなかったソ連や中国の実態を知る立場では、共産党の弁護士がこれを中心になって推進することに違和感を持っていたことを繰り返し書いてきました。
共産党と関係ない人の公害反対や各種の人権運動であれば信用し易かったのですが・・。
そういう視点で見れば、米ソどちらかの核の傘に入って「非武装平和」を唱えるかだけの選択の時代には、米ソどちらをかの庇護の元での非武装または軽武装平和論が合理的な時代でした。
60年の安保反対闘争は、戦争反対闘争ではなく米国の傘に入るのに対する闘争だったのです。
集団自衛権・軍事同盟をするとアメリカの戦争に巻きまれると主張しますが、中ソ陣営ならばば巻き込まれないと言うのでしょうか?
「同盟していざとなって自分を守ってもらう」ためには、「自分も相手が困ったときに助けに行く」というのが同盟の基本です。
「自分が攻められていないときには知らん顔しています」という同盟など成り立つはずがありません。
自衛が必要だが「軍事同盟禁止」が成り立つのは、超超大国だけの論理であって、それ以外の中小国は大国との同盟(相互協力関係)がないと自衛することは不可能です。
超大国といえども孤立していると、2〜3〜4位連合に負けるので、多数派(分断)工作に余念がないのが現実です。
社内や政党内の派閥でも「寄らば大樹の陰」で派閥に属すれば、その分自己の主張が制限される・・ボスの言い分に従うしかないのは仕方のないことです。
中ソどちらに属した方が、「自由度が高いか、待遇が良いか」「将来性があるか」の選択の問題なのに「平和憲法を守れ!というだけでは、現実生活者は「私どもには、難しいことはわかりませんので・・」と相手にしなかったでしょう。
上記の通り、双方の方向性が一致していた時代には非武装平和論も意味が(一定の支持)あったのですが、米国の圧倒的地位が低下して「尖閣諸島が守てくれる」かどうかになってくると、米軍のにらみだけでは解決できない・実戦闘勃発可能性が近づいてくると同盟さえあれば軽武装で十分ではなくなりました。
比喩的にいえば「警察力・巡視艇(スピーカーで退去要請だけで、解決するのか、軍事力・海軍力はいらないのか?」ですが、自力撃退しない限り引き下がらない相手には相応の軍事力が必要です。
軍事同盟とは自力防衛が主体であって「応援部隊は応援(後方支援中心)でしかない(野球の応援団?」ないという軍事同盟のセオリーに戻る・・応援が来るまでの初期自力防衛力の備えが必須になってきます。
戦国時代に国境沿いの小豪族が攻められた時に織田や武田の主力軍勢が来るまで自力で小さな城を守り抜く戦力が必須だったのと同じです。
現在で言えば、尖閣や沖縄が奇襲攻撃で中国に占領された時に、米軍は日本が自力で奪還作戦を行うための後ろ巻をしてくれても、米軍が先頭切って攻め込んでくれるようなことは、はほぼ100%ありえない状態です。
この段階で、「侵略されれば無抵抗で受け入れれば良い」という非武装平和論と、米軍に頼るから軽武装で良いという非武装論とは水と油の関係であったことが分かってきました。
平和論と日米安保条約が矛盾どころか補完すると考える勢力との基本認識の違いが、60年安保騒動になったのです。
その後の政治過程を見れば、アメリカの核の傘を選ぶ国民の方が圧倒的多数であり、中ソの各事件や公害垂れ流し、あるいはスターリン粛清や文化大革命等の悲惨な弾圧実態を賞賛する勢力は国民支持を失っていき、旧社会党が消滅し、後継の社民党支持率が今では0%台になっている現状です。
非武装論支持激減は戦後の熱狂が冷めてきたからではなく、中ソに占領させたい勢力と米国寄りの双方が支持していた平和論だったので、国際環境変化によって、元々の目的相違が明白になったにすぎません。
同じく軍事強国として理不尽に実力行使している中国やロシアの軍事力の圧迫に直面している我が国で、共産系に親和性を持っている勢力が非武装平和論を言っても、国民の多くが信用できない気持ちになるのが仕方がないでしょう。
憲法論に戻りますと、平和を守るためには権力→軍事力抑制が必要といえば、立憲主義的理解でも「憲法の平和主義」が憲法に入るのでしょうか?
共産主義国が軒並み軍事独裁国家になっている上に、「軍事独裁や人権侵害が問題になって米国援助が削減されるとすぐに中露になびく政権が普通ですが、このような国際政治における長年の結果からみると中露は道義無視の山賊、海賊の逃げ場・・巣窟のような立ち位置と認識されていることになりませんか?
これらを理想の国として崇め、中露の軍事支配下に入ることを推進しようとする左翼思想家の不思議さです。
その運動として日本国国内の人権侵害や公害、閣僚の揚げ足取り、原子力被害など批判していますが、彼らが理想化し非武装のママ中露の支配下に一刻も早く入ることを目的にしている中露が行っている少数民族への大弾圧や各種情報統制・巨額割路政治による巨大な格差社会を全く問題にしません。
こういう国の支配下に入れば原発・放射能被害も秘密にしてもいいし、人種差別や弾圧思想改造収容や臓器摘出もやりたい放題にすべきというのでしょうか?
そこまで行くと中露の現実を前提にすると、左翼文化人らの各種主張は日本をよりよくしたいという正義の観念が全く見えない・日本の政治を撹乱して世界の進展について行くのを少しの時間でも妨害する・・周辺諸国よりも遅れた劣等国にすることが目的のように見えますが・・。
左翼的・憲法学会的多数説・・「権力抑制こそが憲法である」という主張のおかしさは、イスラム法を基本とする諸国家に当てはめれば、明瞭になります。
イスラムの諸原理は権力抑止機能以外の生活規範がほとんどでしょうから、これらは実質的意味の憲法ではないという意見・・普通の法律以下の扱いになりますが、イスラム諸国でこのような実態無視の意見が主流でありうるとは到底考えられません。
彼らはイスラムの諸原理に従うことは成文憲法に従う以上に重要なルールと考えているでしょう。
ただし、イスラム原理に反する憲法を作ること自体できないから、日常的に矛盾が起きることはないでしょうが・・・。
日本や西欧の基準でイスラム国で男女平等・金融その他のルールを強制すれ大きな葛藤が生じます。
いわゆるハラル認証も同じですが、イスラム諸国においては、イスラムの諸原理は成文憲法以上の効力があることは確かです。

憲法とは?(近代立憲主義の限界1)

いわゆる「近代立憲主義」を主張する勢力にとっては、皇室典範は(天皇家の「私事」に矮小化して理解するために)実質的意味の憲法に入らないようにしたいかのように見えます。
法理論的には以下のような構成になります。
簡単に言うといわゆる近代立憲主義運動家の論理です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1によると以下の通りです。2010-05-03(内容レベルから見て専門家の意見のようです)

憲法の機能をめぐる認識のズレ
左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。
もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の本義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。

上記によれば、皇室典範は権力抑制のための制度ではないので、そもそも憲法に入らないことになります。
これによればいわゆる「浮利を追わず」などのいろんな家訓は対象外でしょうし、イスラム諸国でのイスラム原理の多くも意味のないことになるのでしょう。
しかし、「憲法は権力抑止のためにある・・それ以外は憲法でない」とする解釈も、一つの学説にすぎません。
この種の進んだ?学者(信奉者)の多くが、他の意見を認めない傾向が強いのが難点です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。

・・そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって、憲法の意味や理解がこの立場に限定されるわけでは、本来ありません。
芦部信喜『憲法』(第4版、高橋和之補訂、岩波書店、2007年)の冒頭では、憲法の意味が大きく2つに分けられています。大略は次の通りです。

(1)形式的意味の憲法…「憲法」という名で呼ばれる成文の法典(憲法典)。「日本国憲法」がこれにあたる。英国のような不文憲法の国には無い。
(2)実質的意味の憲法…成文・不文にかかわらず、ある特定の内容によって国家の基礎を定める法。
(2)の実質的意味の憲法に含まれる法文は、憲法典だけには限られません。例えば皇室典範や国会法、教育基本法などのように、果たしている役割によって「国家の基礎」を規定していると解釈されるものは(2)の意味で「憲法」と見做し得るのです。
(2)実質的意味の憲法
①固有の意味の憲法…時代・地域にかかわりなく普遍的に存在するような、政治権力の組織や行使の仕方を規律することによって、国家の統治の基本を定めた法。――(b)
②近代的意味の憲法…専制的な権力を制限して広く国民の権利を保障しようとする自由主義≒立憲主義の思想に基づき、政治権力の組織化そのものよりも権力の制限と人権の保障を重視する。――(c)
既におわかりでしょうが、先に挙げた立場において語られている「憲法」とは、②の意味を指しています。
この意味の憲法が成立するのは一般的に「マグナ・カルタ」からであるとされており、憲法学が形成されていくのもそれ以降です。
①には例えば、「十七条の憲法」などが含まれます。憲法学の対象が主として②であり、憲法学の議論で「十七条の憲法」が普通扱われないのは、憲法学の成り立ちそのものを支えたのが②の意味の憲法とともに発展してきた自由主義≒立憲主義の考え方だからです。

樋口氏や長谷部氏などがこの分類を知らないわけではありません。
天皇機関説に反対した狂信的グループを紹介しましたが、現在でも何かというと訴訟を起こし、自己の主張が通らないと「不当判決」といい、自己の表現の自由にはうるさい敵対者の批判には訴訟を仕掛ける傾向(具体的内容不明ですのですが、相手が権力や大手ならばいいということで訴訟を連発する傾向がある点は間違いないでしょう)が多いことから見て、「近代立憲主義」論者は偏狭な人の集まりでしょうか。
もともと極右も極左もたまたま時代風潮に合わせて、狂信的になる点で思考回路は同じと一般に言われますが・・・。
以下によると、いろんな意見がありうるという学問の基本・・「この点に思いが至らないようです」と書いていますが、これが問題の本質でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。

・・・しかし、彼らの著書を読んでとにかく「憲法=国家権力を制約するもの」と覚えた人の中には、「憲法」という語の多義性を意識しない人も多そうです。
もちろん、日本国憲法のみならず大日本帝国憲法も②に含まれますが、それはこれらの法典が基本的に②としての機能を果たしているからそう解されているだけであって、別に①と解そうとすることが不可能なわけではありません。つまり、今の憲法は社会的な「事実」として②ですが、それを①の方へと変えていくべきだという「主張」そのものは有り得るわけです。
こうした主張をしていると思われる論者は少なくありません。「憲法」なる語をこのような意味で使うとか、こういう理解で使うべき、などと明示的に述べている人はあまりいませんが、例えば近代主義への反発を軸に議論を構成している西部邁氏などは、明らかに「憲法」という語を非近代的な意味で使っていると思います(私は西部氏の良い読者ではありませんが、数年前に大学院の授業で『ナショナリズムの仁・義』(PHP研究所、2000年)を読んだときにこのことを思いました)。
自由主義≒立憲主義的な意味に限定して「憲法」を考えている人々は、なかなかこの点に思いが至らないようです。憲法に「国民の義務」をもっと盛り込もう、などといった動きとの(「論争」ではなく)「すれ違い」は、ここから生じている部分が大きいと思います。
左派的な立場の人々は、「憲法とはそもそも国家を縛るためのものだから」、そういった主張はそもそも憲法とは何かを理解していない、と考えてしまいがちです。
けれども、そこで異なる立場を採る側は憲法の意味を理解していないのではなく、実はそもそも別の意味で「憲法」なる語を使用しているのだとしたらどうでしょう。
そもそも憲法学の対象が(c)であるからといって、一つの法典(a)としての日本国憲法の条文についての論争が(c)の意味の憲法理解に縛られる必然性はありません。
逆に言えば、(c)の意味の「憲法」を問題にしたいのであれば、必ずしも(a)の意味の「憲法」に拘泥する理由は無いわけです。憲法典以外の法規・方針やそれらについての解釈、及びその他の政治慣行を含む全体としての“constitution”を重視すべきではないか、といった議論は杉田敦先生が提示しているところです(『政治への想像力』(岩波書店、2009年)などの他に、長谷部氏との対談『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)も政治学者による憲法への独特なアプローチが刺激的です)。
相手は憲法の意味も理解していないと考えてしまうと、一方が「馬鹿」だから問題外という話になって生産的な議論には発展しようがありません。
それゆえ、憲法についての有意義な論争を望むのであれば、どちらかが「事実」を理解していない「馬鹿」なのではなくて、日本国憲法が果たすべき主たる機能についての異なる「主張」が対立していると考えるべきでしょう。そろそろ、憲法論争が「ネクスト・ステージ」に進むことを期待したいものです。

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