マスコミの情報操作7と「知る権利」の矛盾2

元々虚偽解釈か否かは、調書自体を公開すれば国民がそれを自分で読んで判断し、簡単に勝負がつくことです。
我々司法界では、判例を引用するときには、自己の解釈が正しいことを裏付けるために、その判例の原文を読めるように出典を明示するのが基本ルールです。
肝腎の吉田調書を公開しないで、自己解釈の正当性を主張していた朝日のやり方は、科学発表で言えば実験経過を公開しないで、自己主張が正しいと主張しているようなもの(天下の秀才を採用している筈の)でした。
国民に公開しても国民は無知蒙昧で文書の理解力がない・知らしむべからず式思想を前提とする・・自分が超越した高みにあると言う図式展開でした。
あまりの独善性・・開き直りに業を煮やした政府が公開決定して討論材料にしたに過ぎませんから、政府の調書公開決定に追い込んだのは、「怪我の功名」と言えば言えます。
「見解」が皮肉を利かして書いたのかも知れませんが、朝日の功績として賞讃するようなものではありません。
吉田調書事件については既に連載しましたので、それの蒸し返しではなく、ここでは「国民の知る権利」に関心があって既に紹介した事例を利用するのが便利なのでこれを参考にして書いています。
この虚偽性の問題が生じた結果、朝日が最後まで公開しなかった理由・・国民が知る必要があると思ってルールを破ってまで取得したにも拘らず、「何故国民に公開しなかったのか?」自分は知る権利があるが、「国民に知らしむべからず」と言うマスコミの独善性・・根源の問題性が明らかになってしまいました。
誰もまだ言っていないと思いますが、私はそう言う関心で昨日からこのコラムを書いています。
マスコミ・文化人左翼の言う政府の秘密指定は許せない・・「知る権利」があると言う主張の結果するところは、「政府には情報の取捨選択権を認めるべきではなく、(国民」とは言うものの国民はヒマがないので結果的に)マスコミが「国民の代表?として全部知る権利がある」と言う前提になります。
吉田調書事件で問題になっていたのは、虚偽か否かだけであって、取捨選択行為の是非ではありません。
取捨選択の是非だけでならば、社会問題にならずに終わっていたことになります。
政府が情報の取捨選択することが許されず全部出した場合、マスコミが取得した情報を国民に自動的に全部公開するならば、「国民の知る権利を守れ」と言う主張は一貫します。
※・・国民が全て知る権利があるかの議論とは別ですが、主張としては一貫すると言うだけでの意見です。
マスコミが情報を出す際に、虚偽以外は自由裁量でスキなように取捨選択して要約する権利・自社主張に合致しない情報を秘匿する権利・マスコミが選択した時期に選択した情報だけ国民に教えるのが正しいと言うとすれば、「マスコミが政府の取捨選択権を取り上げてマスコミが代わってこれを果たすべきだ」と言う主張とほぼ同じ効果を狙っていることになります。
マスコミの主張する「国民の知る権利」とは、マスコミだけが知る権利があって国民には取捨選択した結果だけを教えてあげると言うことになりますが、これでは政府が取捨選択して都合のいい結果を発表している役割を、自分に権限委譲しろと言っているのと同じです。
官僚機構の権威・支配力の源泉は情報を握っていることにあると言う意見が大方(支配的意見)ですが、マスコミも情報アクセスが一般国民よりも有利であって、これを自社の誘導したい方向へ自由に操作していたから第4の権力などと言われる(・・政治学者によってはこれを素晴らしいことのように書いてます・・)ようになって行ったのです。
国民から何らの信託をも受けていないマスコミが、第4でも第5でも権力を実質的に保有し、(中国歴史で言えば宦官が権力を握ったような関係です)僭称すること自体国民主権に反することだと言う自覚がないように見えます。
国民の知る権利とマスコミの知る権利をイコールにするためには、マスコミが取得した情報は一切の加工しないで即時に発信する必要があります。
マスコミの判断で取捨選択したり加工し政治的効果を狙って発表時期を操作することを許すのでは、政府が取捨選択する権限をマスコミが代わって独占する権限があると主張していることになってしまいます。
国民の信託を受けている政府が秘密にするか否かの取捨選択するのがいけない・反民主的であり、国民の信託を受けていないマスコミが取捨選択する方が何故民主的だと言えるかの説明がほしいところです。

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