マスコミの情報操作8と「知る権利」の矛盾3

吉田調書事件は虚偽性の問題に焦点を当てれば、・・これは朝日新聞だけの問題かもしれません。
こで重要なのは、朝日新聞が国民に伝えるために、非公開情報をルールを犯して?まで吉田調書を取得したにも拘らず、この情報を国民に開示しないで抱え込んだままで、噓か本当かの検証を許さない発表をしていた・・不当な権威・政治力(第4の権力?)を保とうとしていたことです。
吉田調書事件では、マスコミ界はこぞって政府による特定秘密指定が許されないと主張しながら、朝日による情報秘匿自体を全く問題にしていないことが重要です。
マスコミが政府秘密を(国民のために?)取得したときに、これを取捨選択・情報操作することが許される前提で朝日の報道が虚偽か否かだけを議論していたことになります。
マスコミも民間であって国民個々人と同じ立場だから、得た情報を取捨選択するのは勝手だと言う意見があるかも知れませんが、そう言うならば、報道の自由とか情報取得源秘匿の権利性の主張、消費税の特別扱いその他在特会批判に曝されているのと同様の各種特権主張を返上すべきです。
この後で職業選択の自由その他の自由権があることと、これらを「業」とするには相応の規制(各種業法や各種資格制限)が世界的に許容されている問題を書いて行きますが、個人が偶発的に得た情報を思いつきで何かの話題のついでに知り合い等に言うのとマスコミが「業」として計画的に大量拡散する場合と同様に考えることは出来ません。
吉田調書事件では、虚偽報道か否かばかりにマスコミが焦点を当てていますが、国民のためにと称して政府秘密を取得しておきながら、取得した情報を全面開示しないこと・・マスコミ界が取捨選択する権利があるかのような運用がマスコミ界全体で許容されて来たことが、どうなの?と言うことが「知る権利」の関係では重要であり、この点は朝日に限らず全マスコミ界共通の問題です。
ここで書いているのは、朝日が虚偽報道したか否かだけはなく、仮に虚偽でなくとも1つの事件・現象があれば、ABCD〜X等何種類かの解釈余地のある場合が大多数です。
これまでの問題の取り上げ方によれば、もしも吉田調書の報道が虚偽性がなく数種類の解釈を許す余地があってその内の1つであれば、裁量の範囲内であって社会問題にならなかったことになります。
解釈が分かれる場合だけではなく、はっきりしている事実でもマスコミが報道しない方が良いと考えれば報道しないことも許される・・でっち上げでさえなければ、取捨選択する行為が当然のように認められていたことが前提になります。
虚偽でさえなければ報道しようとしまいとどんな脚色でも許されていたのが、(第三者委員会個人意見で紹介されているように、朝日新聞だけが林彪の死亡事実を報道しなかった)これまでのマスコミ界であり、だからこそ第4の権力と言われていたのです。
こレマでのマスコミ界の慣行によれば、国民がナマの事実・資料を知るチャンスもないまま、マスコミ界だけが資料を握ってが国民を好きな方へ解釈して世論誘導していても、何らの問題がなかったことになります。
こうした身勝手な行動・・日常が行き着いた結果、誰も検証出来ないことを良いことにして、虚偽報道にまで枠をはみ出したとみるべきでしょう。
国民は原資料の公開を受けて、自分でABCDどの解釈〜あるいはXYZ等の独自解釈が正しいか判断したい・・これこそが「知る権利」の保障であり、マスコミによる好き勝手な解釈や取捨選択した結果の一方的に流される情報を「知る権利」ではありません。
マスコミや文化人が「国民の知る権利」を守れと言いながら、マスコミだけの「知る権利」にすり替えていないかをここでは問題にしています。
政府は国民の信託を受けていますが、マスコミは国民の信託を受けていません。
マスコミやマスコミから応援されている文化人?がこぞって、政府が秘密指定するのは許さない・・マスコミは「全てを知る権利がある」と言いながら、マスコミが得た情報について取捨選択して公開しないことを前提にするのでは、国民の信託を全く受けていないマスコミが、政府に代わって情報操作権があると言う主張をしていることになります。
これでは民主主義の原理に反していませんか?
「マスコミの知る権利」ではなく「国民の知る権利」を主張する以上は、入手した情報全てそのまま・・加工しないで且つ(政治的思惑で発表時期をずらさずに)即時に公開すべきです。
国民の信託を受けている政府には取捨選択権がないが、マスコミには取捨選択権があるとするならば、その根拠を明らかにすべきでしょう。
国家交渉に臨むにあたっての事前の内部決断等の機密を、どの段階で国民公開=交渉相手に筒抜けになってしまって良いかは、交渉関係者の判断の方が合理的ですが、(まして政府は国民の信託を受けています)信託を受けていないマスコミの方が国益に関してより合理的判断が出来ると言うならば根拠を示すべきでしょう。
「国民には公開しないがマスコミだけ知る権利がある」と言うのでは、国民が知らされない機密情報をNHKや朝日新聞等に駐在していると言われる中韓等の駐在員、またはそのシンパに先に知らせる権利を保障するようなことになりませんか?

マスコミの情報操作7と「知る権利」の矛盾2

元々虚偽解釈か否かは、調書自体を公開すれば国民がそれを自分で読んで判断し、簡単に勝負がつくことです。
我々司法界では、判例を引用するときには、自己の解釈が正しいことを裏付けるために、その判例の原文を読めるように出典を明示するのが基本ルールです。
肝腎の吉田調書を公開しないで、自己解釈の正当性を主張していた朝日のやり方は、科学発表で言えば実験経過を公開しないで、自己主張が正しいと主張しているようなもの(天下の秀才を採用している筈の)でした。
国民に公開しても国民は無知蒙昧で文書の理解力がない・知らしむべからず式思想を前提とする・・自分が超越した高みにあると言う図式展開でした。
あまりの独善性・・開き直りに業を煮やした政府が公開決定して討論材料にしたに過ぎませんから、政府の調書公開決定に追い込んだのは、「怪我の功名」と言えば言えます。
「見解」が皮肉を利かして書いたのかも知れませんが、朝日の功績として賞讃するようなものではありません。
吉田調書事件については既に連載しましたので、それの蒸し返しではなく、ここでは「国民の知る権利」に関心があって既に紹介した事例を利用するのが便利なのでこれを参考にして書いています。
この虚偽性の問題が生じた結果、朝日が最後まで公開しなかった理由・・国民が知る必要があると思ってルールを破ってまで取得したにも拘らず、「何故国民に公開しなかったのか?」自分は知る権利があるが、「国民に知らしむべからず」と言うマスコミの独善性・・根源の問題性が明らかになってしまいました。
誰もまだ言っていないと思いますが、私はそう言う関心で昨日からこのコラムを書いています。
マスコミ・文化人左翼の言う政府の秘密指定は許せない・・「知る権利」があると言う主張の結果するところは、「政府には情報の取捨選択権を認めるべきではなく、(国民」とは言うものの国民はヒマがないので結果的に)マスコミが「国民の代表?として全部知る権利がある」と言う前提になります。
吉田調書事件で問題になっていたのは、虚偽か否かだけであって、取捨選択行為の是非ではありません。
取捨選択の是非だけでならば、社会問題にならずに終わっていたことになります。
政府が情報の取捨選択することが許されず全部出した場合、マスコミが取得した情報を国民に自動的に全部公開するならば、「国民の知る権利を守れ」と言う主張は一貫します。
※・・国民が全て知る権利があるかの議論とは別ですが、主張としては一貫すると言うだけでの意見です。
マスコミが情報を出す際に、虚偽以外は自由裁量でスキなように取捨選択して要約する権利・自社主張に合致しない情報を秘匿する権利・マスコミが選択した時期に選択した情報だけ国民に教えるのが正しいと言うとすれば、「マスコミが政府の取捨選択権を取り上げてマスコミが代わってこれを果たすべきだ」と言う主張とほぼ同じ効果を狙っていることになります。
マスコミの主張する「国民の知る権利」とは、マスコミだけが知る権利があって国民には取捨選択した結果だけを教えてあげると言うことになりますが、これでは政府が取捨選択して都合のいい結果を発表している役割を、自分に権限委譲しろと言っているのと同じです。
官僚機構の権威・支配力の源泉は情報を握っていることにあると言う意見が大方(支配的意見)ですが、マスコミも情報アクセスが一般国民よりも有利であって、これを自社の誘導したい方向へ自由に操作していたから第4の権力などと言われる(・・政治学者によってはこれを素晴らしいことのように書いてます・・)ようになって行ったのです。
国民から何らの信託をも受けていないマスコミが、第4でも第5でも権力を実質的に保有し、(中国歴史で言えば宦官が権力を握ったような関係です)僭称すること自体国民主権に反することだと言う自覚がないように見えます。
国民の知る権利とマスコミの知る権利をイコールにするためには、マスコミが取得した情報は一切の加工しないで即時に発信する必要があります。
マスコミの判断で取捨選択したり加工し政治的効果を狙って発表時期を操作することを許すのでは、政府が取捨選択する権限をマスコミが代わって独占する権限があると主張していることになってしまいます。
国民の信託を受けている政府が秘密にするか否かの取捨選択するのがいけない・反民主的であり、国民の信託を受けていないマスコミが取捨選択する方が何故民主的だと言えるかの説明がほしいところです。

マスコミの情報操作6と「知る権利」の矛盾1

マスコミの使命を考えて見ると「いろんな統計速報があったなどの事実さえ知らせてくれれば、意見まで言ってもらう必要がない・・国民がデータを基に自分で考えますので・・」と言う人が普通ではないでしょうか?
マスメデイアとしても、統計そのものを全部書き切れないのも分りますから、こういう統計が出ましたと言うアナウンスを中心にして「こう言う統計が公表されているので自分で見てください」と言う紹介記事程度でいいでしょう。
私のような高齢者(ネット弱者)だけかも知れませんが、仕事の合間に・・自宅に帰ってちょっとニュースを見る程度の時間しかない人にとっては、厚労省その他機関の正面から入って行って特定の統計までたどり着くのは何回もクリックが必要で面倒ですから、ついおっくうになります。
自分の関係している弁護士会や日弁連等の委員会の特定メーリングリストから入るのなら別ですが、一般人として忙しい合間に日弁連ホームページ正面から何かにたどり着くのは至難と言うか面倒です。
こちらも忙しいし、マスコミは「こう言う統計が発表されたよ」と言う程度のアナウンスで良いので、その代わり全体.詳細情報を見たい人が簡単に見られるようなサービス・・簡単にクリック出来るように出典を併記してくれれば便利です。
標準家庭などと言う訳の分らないデータ紹介よりは、データ自体を自分の家族構成にあわせてスキなように組み替え出来るようにすべき..情報サ-ビス業になって行くべきです。
政府情報あるいは国際情報に接することが限定されていた特権的地位の時代には、情報を入手したこと自体に価値があったので、新聞等が「社会の木鐸」など言う表現も妥当したでしょうが、そう言う時代はとっくに終わっていることを自覚すべきです。
(何かある都度留学経験者がテレビに出て、「海外では・・」と留学経験をひけらかしていた文化人も基礎データを開示しないで自分だけが知っていると言う根拠ない意見を開陳をしていたのも同じで、みんなが海外に出る時代になるとこれらの意見は欧米社会の一部の現象であって社会全体像とは違っていたこと・・言わば虚偽紹介であったことが分ってきました)
朝日新聞は飽くまで情報アクセスに関する特権的地位を維持したいために、非公開ルールを犯して折角入手した原発吉田調書を公開しないで秘匿したまま「自社だけが知っている」と言う立場で調書自体の公開をせずに自社の誘導したい方向へ要約して新聞記事にしたのが、原発吉田調書事件です。
もしも虚偽性さえ問題にならなければ、従来型「報道機関による取捨選択権がある」と言う謝った姿勢・・特権的地位維持の問題・・どこのマスコミもして来たことに過ぎなかったのですが、第三者がアクセス出来ないことを奇貨として内容と大幅に違うねじ曲げて報道してしまったことで、社会問題になったものです。
朝日新聞の「報道と人権委員会」見解では、非公開だった吉田調書を公開に導いた功績を高く評価していますが、これを読んで違和感を持ったのは私だけでしょうか?

「福島原発事故・吉田調書」報道に関する見解
2014年11月12日 朝日新聞社報道と人権委員会 委員 長谷部恭男 委員 宮川 光治 委員 今井 義典
2 見解の要旨 (1)政府が福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎(まさお)氏(2 013年死去)の調書をはじめ772人の聴取結果書を一切公開しないという 状況の中で、吉田調書を入手し、その内容を記事とし、政府に公開を迫るとい う報道は高く評価できるものであった。」

朝日新聞はそもそも「国民のためになる」と言う大義の元でルール違反してまで調書を取得したものであるにも拘らず、これを自社だけが持っていて産経も取得したと言われても公開しないで秘匿したまま自社見解が正しいと言う主張を維持していたので、(不正報道している朝日を追いつめるために)政府に公開決定をされてしまい・・遂に発表予定当日か直前になって急いで謝罪発表したものです。
政府に発表させた功績があるかのように見解で言われても、朝日は発表されると困る立場でしたから、「実態のすり替え見解じゃない?」と思う人が多くないでしょうか?

平成27年元旦(天命を知る)

あけましておめでとう御座います。
皆様つつがなく新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年の日本は午(うま)年のイメージどおりに、日本経済にとって勢いのあった良き一年であったように思います。
今年の干支は未(ひつじ)年と言うことで、周辺国と争いのないほんわりとした平和な一年であることを期待したいものです。
かと言って、周りがオオカミばかりで日本だけが羊のように大人しくて食い荒されるばかりでは困りますので、羊の群れをオオカミから守る仕組みが必要と言うことでしょうか?
私の方も、一家と言うか子供らもそれぞれ、一定の歳になり、将来の方向も定まり精神上安定的な状態で新年を迎えることが出来ました。
将来の方向と言っても、特別に目出たい方向が決まったと言う意味ではなく、持って生まれた運勢・能力に従ってそれ相応の人生で生きて行けば良い・・変化のありそうな子供はまだまだ変化があるだろうしと言う程度の達観?諦観程度です。
人生は、じたばたしてもどうなるものではありません。
自分自身の人生を振り替えると、ある程度のところで方向が決まって安定していましたが、小人の悲しさ?そうなると子供らの将来が心配になり、煩悩がつきません。
高齢化して来ると多くの人は自分のことに関しては既に勝負あり・・と言うことで、今度は子供や孫の将来を心配したくなるようです。
次々と心配していてもキリがない・・子供がいなければ心配もいらないのですが、子供がいればその数だけ心配の種になってきます。
私の人生を振り返ると特別立派な目標があった訳ではなく、運勢のマニマニ漂っているうちに、この歳になって来た実感です。
子供らの人生が決まったのではなく、ここ数年で私自身の覚悟が決まったと言うことです。
私の考えは成り行き任せの傾向がありますので、どちらかと言えば妻の覚悟が決まったと言うことでしょう。
ご承知のことと思いますが、孔子様の以下のとおりの文言があります。
「子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」
自分のコトだけかと思っていて、自分のような凡人でも、不思議と40になると事件処理に迷うようなことがなくなり、50になれば自分の人生・行く末が大方こんなものだと納得出来るようになるのだナア!と納得していました。
高齢化してみて、子供を含めての煩悩を意味するとすれば、(孔子様の時代には寿命が短かったので子供の行く末まで心配する人は滅多にいなかったでしょう)ここ4〜5年で漸く子世代を含めて天命を知ったと言うところでしょうか?
天命と言うと大げさ・意味不明のブランドですが、俗世の競争社会と言う意味で見れば、50前後で大方の勝敗・・人生が決まる時期と言えないこともありません。
その後は、競争社会から脱却して生きて行けるとすれば、その後の人生は極楽です。
最近相続税問題が連日紙面を賑わしていますが、このようなことが社会問題になることこそが、自分中心から次世代に対する親世代の最大心配事になっていることの証(あかし)です。
増税論者が「次世代に負債を残すのか?」と言いますが、マイナスなら気になりませんから、逆に残す遺産の方が多くなった事実があるからこそ、大問題になっているのです。
ところで、このトシになって「天命を知る」のでは遅過ぎますが、戦前の寿命に引き直すと7割がけの時代と言われていましたので、気が付くのが少し遅かった程度と言えないこともありません。
「人生僅か50年・・・」と言う信長の幸若舞が有名ですが、これでは古過ぎますので、ここ100年くらいの寿命がどうなっていたかが気になります。
日経新聞12月28日朝刊14p「ガンを知る」欄には、平均寿命が「明治元年(1868)で35歳程度、大正元年(1912)で40歳程度」と書かれています。
実際に正岡子規や芥川龍之介など高名な人が早くに亡くなっています。
この記事が(根拠不明ですが・・)正しいとすれば、今の寿命は約2倍になっているのですから、従来から言われている7がけどころではありません。
もしも運悪く?100歳まで生きると今後何十年もあるのですから、その頃には孫の天命まで気になるかも知れません。
今頃「天命を知った」程度のペースで、ゆっくり生きて行く方が退屈しなくていいのかも知れません。
急いで人より早く年をとっても仕方がないと言う訳で、今年はゆっくりと、しかし、退屈しない程度に好奇心を持って生きて行きたいと思っています。
プロから見れば誤った意見が多いかも知れませんが、素人の目線・疑問でこのコラムを続けて行きますので、今年もどうかよろしくお願いします。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC